「ごめんなさい。」
雪乃の一言に八幡は困惑を隠せなかった。あの雪ノ下雪乃が謝罪したのである。それも自分という人間に頭を下げている。なぜ、なんのために。何か裏があるんじゃないか。そんな風に考えてしまう。
「……何に対して謝っているのか分からないって顔をしてるわね。私が謝っているのはあの日のことよ。私が貴方に酷い言葉の数々をぶつけてしまったあの日のことよ……」
「待て。あれに関してはお前はわるくないだろ。俺が由比ヶ浜を振って、それに激高したお前が俺を罵倒した。友達としていたたまれなくなったお前ならそうすると思ってた……」
「それでもよ。そうするべきではなかったの。というよりもそんな権利私にはなかったのよ。貴方を罵倒する権利なんて。」
八幡を遮るように話す雪乃であったが、ますます八幡の疑問は深まる一方であった。
「あの頃の私は未熟だったのよ。大人になれてすらいないのに大人ぶって。由比ヶ浜さんが告白したって聞いた時、私はなんだか私はうらやましかった。しっかりと自分を持っている彼女のその強さが。だからこそ貴方は由比ヶ浜さんとつきあってほしいと心から願ってたわ。いままでの流れからして関係は本物だと感じてたから必ず付き合うものだとも思っていた。勝手に貴方に期待していたの。」
だが、八幡は告白を断った。それもきっぱりと。
「私は泣いている由比ヶ浜さんを見て、勝手に憤りを感じてしまったわ。感情に己を任せて、貴方に当たった。私は当事者ではなかったのに、ずけずけと入っていってしまった。本当に自分勝手だったわ。醜いぐらいにね。だから謝るわ。ごめんなさい。私が未熟だった。」
「止めてくれ、そんなの……そんなの見たくない。」
雪ノ下雪乃が謝罪する。そんなところ八幡は見たくなかった。彼の中では雪ノ下雪乃という女性は決して自分を曲げない人であった。だからこそ、憧れだったのだ。
「いえ、これが今の私なの。すべて正直に話す。これこそが本物に近づく一番の方法なのよ。」
「変わったな……」
「変えてくれたのよ、由比ヶ浜さんが。」
すっかり紅茶は冷めてしまった。それでも雪乃はおかまいなく啜る。
「わかった。もう止めよう。お前の謝罪を受け入れる。」
「……ありがとう。」
先ほどまでのピンと張り詰めていた緊張の糸がほどける。それは和解の瞬間だった。
「…まったく由比ヶ浜はどうかしてるよ。俺なんかに好意を持つなんて。おかげでそのせいでこんなややこしいことになったじゃねえか」
「そんなこと言わないで。貴方は相変わらず自己評価が低いのね。だから自分を犠牲にするような解決ができる。そういう不器用な優しさに惚れたのよ。きっと貴方は信じないかもしれないけれど。」
「………」
「それに由比ヶ浜さんだけじゃないわ。貴方に好意を持っているのは。」
「え?」
素っ頓狂な声をだす八幡。そんな八幡を呆れるような目で見る雪乃。
「川崎沙希さんのことよ。同棲してるんでしょ。」
「だれからそのことを……あ!小町か……」
「情報なんて案外近い人から漏れるものよ。それで川崎さんとはどうなのかしら。付き合っているの?もちろんこれは明らかにプライバシーに立ち入ってるわけだから話さなくても別に文句は言わないわ。」
「そんな威圧感を出しながらそんなこと言うのやめてくれませんかね。」
その空気に八幡は懐かしさを感じた。そう、不思議なことにあの頃の奉仕部のあの空気感に二人は戻っていたのだ。
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八幡は話した。沙希との半同棲のこと、自分の小説のこと。そしてここ数日に起きた一連のわだかまりを。
雪乃は少し考えるようなそぶりをした後、飲んでいたティーカップをソーサーに置く。すでにカップの中は空っぽだった。
「まあ、貴方が悪いわね。全面的に。ただの八つ当たりじゃない。」
「俺もそう思う。俺が悪い。でも今更どんな顔で会えばいいかわかんねんだよ。」
「ふふふ。貴方も変わったわね。」
ほくそ笑む雪乃。その表情を見て少し八幡はムッとした。
「変わってねえよ。」
「いや、変わったわ。昔の貴方ならリセットとか訳のわからないこといって関係そのものをなかったことにしようとしたと思うわ。今は関係修復に勤しんでるじゃない。」
雪乃からすれば八幡が悩んでいることの解決策はごく簡単なことだった。八幡が沙希と会い、謝る。たったそれだけのこと。これを困難にしているのは八幡のアホ程捻くれたその思考である。
「大体、貴方は川崎さんに対してどれだけ残酷なことをしているのか分かっているのかしら。」
「残酷なこと‥‥?」
「彼女は貴方に対して好意をひた隠しにせず、一直線に貴方に届けているはずよ。それなのに貴方はそれに対して何も返せていない。でも川崎さんとは半同棲して縛り付けてる。これを残酷と呼ばずにいられないと思うのだけれど。比企谷君、好意を受けている人はそれに対して何かしらのレスポンスをするのが義務だと思うわ。貴方はどうしたいの?」
自分が川崎沙希を縛り付けてる。そう考えたことは今の今まで全く考えていなかった。
(やっぱり俺は自分勝手な奴だな‥‥)
しかし、雪乃は落ち込ませる隙を与えない。
雪乃の手には携帯が握られており、すでに発信している。相手は彼女の親友。
「ああ、由比ヶ浜さん。ええ‥‥今比企谷君と一緒に‥‥たまたまよ。ええ、今から変わるわ。」
そういって、雪乃は八幡に携帯を渡す。無論、八幡は拒否する。今更何を話していいのか分からないからだ。それでも無言で渡してくる雪乃に根負けし、携帯に耳を付ける。
「‥‥‥もしもし。えっと、あの、比企谷だ。」
『うん、久しぶりだね。ヒッキー。』
携帯の向こうからは明るいあの子の声が聞こえる。
「おう。由比ヶ浜。あのさ‥‥」
『謝らないで。』
由比ヶ浜は謝って欲しくなかった。謝られれば、自分が告白したことが間違いであったようになってしまう。そんなのは惨めである他ないからだ。
『謝らないで。もういいから。その話は水に流そうよ。ヒッキー。』
「‥‥そうだな。てか、由比ヶ浜も水に流すなんて言葉使えるようになったんだな。」
『ちょっと!どういうことだし!私大学生だよ!』
あの頃に戻ったようだった。由比ヶ浜も、雪乃も、八幡も、この雰囲気が好きだった。
『もう‥ヒッキー変わらないな‥‥あっ、そう言えばさ。さっき、サキサキに会ったよ。』
「え‥‥‥どこで。」
『合コンで会ったんだ。』
目の前が真っ暗になる。少なくとも八幡が沙希と半同棲している時には合コンに行った素振りは見せていなかった。
なんだか、心が痛くなっている自分がいる。別に付き合ってる訳じゃないのに何故なのか。それが嫉妬に近い感情であることは今の現時点では分からなかった。
「それで川崎は?」
『う〜んとね、えっと。その合コンで出会った男の子と一緒に出て行ったよ。二次会するんだって、サキサキの家で。』
信じられない。川崎沙希という人間はそんなに軽い女ではなかったはずだ。でも現状は違う。沙希が遠く感じる。数日前まで一番近くにいた気がするのに。
『ヒッキー。』
由比ヶ浜の八幡を呼ぶ声には妙な真剣さがあった。
『昔さ、ヒッキーは本物が欲しいって言ったでしょ。言わなくても分かり合えてしまうようなそんな本物が。でもさ、やっぱり言葉は使わないと分かんないんだよ。きっとそれがコミュニーケーションってやつなんだよ。だから、ヒッキーはちゃんとサキサキに言葉で伝えなきゃダメ。今なら間に合うよ。』
今なら間に合う。思わずイスから立ち上がる八幡。
「由比ヶ浜、その、なんだ、ありがとな‥ちょっと用事が出来たから行くわ。」
『うん、頑張ってね、ヒッキー。』
雪乃に携帯を返し、八幡は支度を始める。
「すまん。雪ノ下。行かなきゃならない用事が出来た。」
「分かってるわ。ねえ、最後に聞いていいかしら。私たちまたあの頃みたいに戻れるかしら。」
「‥‥一度割れたらガラスは元にはもどらん。でもまた溶かせばいいんじゃないか。」
「なんだか、少し文学的ね。比企谷先生。」
「‥‥‥うるせえ。じゃあな。」
そう言い残し、走って行く八幡を眺めながら雪乃は携帯に耳を当てる。
「由比ヶ浜さん。行ってしまったわ。」
『うん。行っちゃったね。これでヒッキーとサキサキ仲良くなればいいけど。』
「ところで由比ヶ浜さん。どうしてあんな嘘ついたの。」
『え‥‥ゆきのん聞いてたの?』
「いえ。でも川崎さんの性格や比企谷君の焦り方を見ていれば何となく分かった、と言うだけの話よ。」
『ゆきのんには敵わないなあ‥‥ところでゆきのんは伝えられたの?好きだったこと。』
「言えなかったわ。そんな気分じゃなかったの。もしかしたらずっと言えないかもしれないわ。」
『そっか〜しょうがないね。ねえ、今度さ、一緒にディスティニーランドに行こ!失恋祝いにさ!』
「私は別に失恋では‥‥‥」
それは八幡が欲しがっていた本物そのものであったが、あえてそのことを話すことはない。話さなくても二人には分かっているのだから。
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笹塚駅改札を抜け、八幡は走る。全力で走る。
会いたい。会って謝りたい。いろんなことを話したい。だだそれだけの感情が彼の足を動かしている。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
走って行くうち、肺に空気が入らなくなる。辛い。でもこのまま伝えずにいるのはもっと辛い。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
あと100メートル。この角を曲がればアパートだ。そうすれば彼女に会える。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
あと50メートル。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
あと15メートル。
あと5メートル。
ドンッ、ドンッ、ドンッ
その酷く乱暴なノックに驚く沙希。もしかしたら不審者かもしれない。少し警戒をしながらドアスコープを覗くとそこにいたのは疲れきった様子の八幡だった。
「どうしたの!大丈夫!?」
沙希は急いでドアを開ける。八幡だと分かると少し安心したが、なぜゆえそこまで疲れ切っているのかはわからなかった。
「川崎、男は!?」
「へ?」
「だから男は!?」
「へ?」
「由比ヶ浜に騙された。あいつ許さん。」
「まあまあ、由比ヶ浜も何か魂胆があってそんなこと言ったんだと思うよ。」
由比ヶ浜の嘘が明らかになり、ようやく落ち着きを取り戻した八幡は沙希の部屋で正座していた。
「川崎。」
そう言って、沙希に対し頭を下げる。土下座である。
「何突然!やめてよっ。」
「いや、これは俺のケジメだ。変なこと言ってお前を傷つけた。だから‥‥すまなかった。」
実際土下座は沙希が嫌がるだろうと思ったが、八幡にはこうするしか思いつかなかった。
「比企谷、顔上げて。今すぐ。」
八幡が顔を上げると柔らかい感触に包み込まれた。それは沙希の体であり、抱きしめられていることに気づいくのに時間はあまり掛からなかった。
「か、川崎!お、お前!?」
「ちょっと!暴れないで!」
すっかり八幡がおとなしくなった後、沙希は八幡の頭を撫でながら優しく囁く。
「比企谷は自分を卑下してるけどさ、私は凄い頑張ったの知ってるよ。昼間に図書館に閉じこもって調べ物して、夜遅くまで小説書いて。確かにその小説は認められないかもしれない。でも私はそんな結果だけじゃなくってあんたがそれまで頑張っていた過程まで認めてあげる。」
「‥‥‥なあ、川崎。俺お前のこと好きになっちゃうかもしれないぞ。」
「うん。いいよ。私はあんたが好きだもの。」
それはとても静かな告白であり、かつ優しい告白だった。
八幡は沙希を説得し、抱きしめられている今の状態を改善し、きちんと沙希の見えるように再び座り直す。
「‥‥‥‥なあ、一度しか言わないからちゃんと聞いてくれ。川崎は俺のことを認めてくれるって言ったけど、やっぱり俺は自分を認められないかもしれない。こんなダメな俺だし、また傷つけるかもしれない。それでもいいなら、俺と‥‥俺と付き合ってください。」
「っ!‥‥‥‥‥‥はいっ!」
それは何も咲いていなかった不毛な地に一輪の愛という花が咲き誇った瞬間であった。
二人は少しずつ顔の距離を縮める。そして愛を確かめ合うようにその唇を‥‥‥
ぐぅ〜〜〜〜〜〜
部屋に響き渡る空腹音。ロマンチックをぶち壊すその酷くて音は八幡の腹から聞こえた。
「‥‥‥‥‥比企谷、あのさ。」
「悪かったって。でも生理現象だし、仕方ないじゃん。走ったら腹減っちゃったんだよ。」
「はぁ‥‥ちょっと待ってて。この前作った牛すじカレーの冷凍があるから。」
そういって立ち上がり、カレーを解凍しにキッチンへ向かう沙希。その表情がにやけていたことは八幡はもちろん、沙希本人も気づいていない。
その日の夕食はいつもより幸せの味がした。
これが本編最終話です。エピローグを後日のせたいと思っています。