深い深い水底から浮くような感覚と同時に、目が覚める。頭が少し痛み、全身には倦怠感があった。目を開けるのすら億劫だが、倒れる寸前の記憶を思い出して瞼を持ち上げる。
目に映ったのは、白い天井とカーテン。消毒液の独特な匂いが鼻孔を刺激する。
予想通り、ここは保健室だ。多分フェオが運んでくれたのだろう。学校案内の時に来ただけで使用はしていなかったのだが、今回初めての運送になる。
服は半袖短パンのままで、白い布団に寝ていた。自分の体調が悪い事以外に怪我は無いようだ。怠い体の動きを少し確認してから、手を伸ばしてカーテンを開ける。先生は居るだろうか。そう思ってカーテンを開けた先には、
「……あ、起きたな。おはよう、セベット」
「おはよー」
フェオと梓が居た。二人して椅子に座り、梓は本を、フェオは教科書を読んでいた。
勉強の為だろうか。フェオが教科書を読むなんて、珍しい事もある物だ。……そうか、中間試験か。
「おはよう。……えっと、今何時間目?」
「昼休み。因みにずっと付き添いしてたぜ」
「サボりかよ」
「私もだけどね。ま、何時も通りでした」
ぐっとサムズアップをするフェオと、にこやかに話す梓。どうやら、一時間目からずっとここに居てくれたらしい。
「そうか……ありがとうな」
「気にすんな。ロキもお前の事を心配してたけど、俺が授業に行かせといた。リノさんも少し気にしてた気がするけど……うん、見間違いだな」
「どっちだよ」
「ロキ君もさっきまで居たんだけどね。少し前に帰ったよ」
そこまで話してから、梓とフェオは立ち上がった。時計を見ると、もう昼休みは残り少ない。申し訳ないと思いながら口を開こうとすると、二人は入口の方に固めて置いてあったバッグの中から何かを取り出した。
「じゃーん! 食堂のおかずー!」
「そして、サンドイッチでーす!」
フェオと梓が取り出したのは、お昼ご飯だった。
三人分あるそれを持って、椅子に座る。梓が魔法を使用すると、盾魔法を応用した机が宙に生成された。ベッドの上で座る態勢の俺に二人が近づいて、机の上に食べ物を並べる。お昼ご飯を食べるのさえも我慢してくれていたのだろうか。だとすれば、本当に嬉しいのだが……。
「さて食おう。さて食おう」
「二回も言わないで良い。……これ、ありがとう。本当にありがとう」
「いやいや、お礼は私とフェオ君じゃなくて、リノさんに言っておきな?」
「……え?」
「このサンドイッチ、リノさんが作ったんだって」
何て事の無いように梓は言った。フェオの方を見ると、複雑そうな表情で彼は頷く。どうやらそれは本当の事らしい。
「あのな、すっげえ暗かったぞ。口数も少ないし、お前の姿を見たら直ぐに帰って行ったし」
……この前の事を、少し悪く思っている……?
いや、そんな事はない筈だ。何故なら彼女は逆転魔法が掛けられている『惚れ魔法』に精神をコントロールされている。本来惚れるべき魔法が、悪魔落ちが俺に掛けた魔法によって嫌いになる魔法になっているのだ。
だとするならば、彼女の俺に対する好感度は最早取り返しのつかない域に行ってしまっているだろう。
それに、万が一も逆転魔法が解けることは無い。
魔法解除魔法『ディスペル』。それが当たったにも関わらず、逆転魔法の掛かった『惚れ魔法』の魔法陣は消えなかった。かなりの魔力を込めたのに、だ。
悪魔落ちの使う魔法は、人間が使う物とは一線を画す。人外と人間では、絶対に越えられない壁が真ん中にあるのだ。だから、悪魔落ちの呪文を解くにはかなりの魔力と力が必要になる。
俺の全魔力『ディスペル』でも、果たして何百、何千、何万回すれば良いのか分からない。寧ろ、数えれる回数なのかさえも分からない。
悪魔落ちとは、それくらいに強力なのだ。
禁忌と呼ばれる物は、それなりに理由がある。寿命半分を代償に悪魔の力と叶えられる限りの願いを受け取れるのだから。
正し、悪魔落ちで契約出来る悪魔にも強弱はある。
……弱いといっても、国一つと互角に戦えるだろう。
人間の対抗策と言えば、国に数人は居る魔法戦闘での絶対強者か、古代魔法くらい。
古代魔法は12個の内、持てたとして一つ。果たして、それが対抗できる魔法なのかにもよるだろう。
悪魔落ちの魔法を直ぐに解けるのは、恐らく悪魔落ちのみ。
そしてリノの逆転魔法を解除しても利は無いだろう。そうするとあいつが何故サンドイッチを届けに来たのかは分からないが、それは余り気にならなかった。
空腹で、倒れそうだ。体が栄養を求めているのも分かる。
だが俺は、サンドイッチに手を伸ばす気にはなれなかった。どうしても、倦怠感と疲労、虚無感で動くと言う命令が脳から発されない。
悪魔落ちが近くに居る。
リノがサンドイッチを届けてくれた。
……それは本来、俺が最も気にすべき事だった。過去の贖罪に繋がる道だ。
でも、興味も何も沸かない。意欲、やる気。全てが、根本から消え去っていた。
「どうしたの?」
サンドイッチを手に取らずに俯いている俺を宇真に思ったのか、梓が小首を傾げながら尋ねてくる。能天気に食べまくっているフェオとは違って、周りを良く見ているらしい。
「いや……魔力が足りなくて、怠くて。食欲も余りわかなああああああっっっ!!」
お腹は空いているんだけど。
そう言おうとした瞬間に、梓は俺の右手に自分の両手を被せて、全力で魔力を放出した。放たれた魔力は体へと流れ込み、血液の流れを伝って体内を循環。
魔力が満たされていくとともに、倦怠感と貧血の症状が段々と消えていく。
数秒後、手を離す梓。その時にはもう、大分楽になっていた。眠気と食欲が、やけに強く内にある。
「……ふう。これで足りるかな? いやはや、大分魔力が必要だったね」
梓が笑みを零す。
その表情に疲れは微塵も無い。他人への魔力の譲渡、しかも空っぽに並々注ぎこんだというにも関わらず、だ。
「凄い楽になった。もう本当に、ありがとう。頂きます!」
満たされた俺は、直ぐに手を伸ばす。サンドイッチを掴んで口に入れると、成程。
確かに、ずっと食べてきた味だった。
それを咀嚼する度に、あの日の墓場での事が思い出される。曇天の中、光が消えた空の下での会話。
何も守れないと言われ。あの日の事を思い出し。贖罪は出来ていないと告げられる。
信じていたものが、一斉に崩れ去った日だった。
だからこそ、そこから再スタート出来たのでは無いだろうか。……このままで、良いのだろうか?
良くないだろう。そうだ。今までの積み重ねは、無駄だったとしても確実にあるじゃないか。消えたわけでは、無い。
……何が出来る? 今の俺に、今から何が出来る?
二つ目のサンドイッチを手に取り、口に入れる。昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り、三つ目を手に取った。
(……そうだ。リノに、会いに行こう。どうしてサンドイッチを渡してくれたのか。それだけでも、聞きに行こう)
まずは、一歩。
ここら踏み出す――――。
そうやって決めて、四個目に手を伸ばした瞬間だった。
ドゴォオンンン………!!!
何の前触れもなく。どこからか、地面の底から鳴り響くような轟音が轟いた。
保健室に居た三人は、手を止めて周囲を見渡す。梓がいち早く窓へと行き、カーテンを開けた。
「……何で……?」
呆然と出た疑問。梓の向こうに見える外には、学校が結果に覆われていた。