【凍結】ドラゴンクエスト 勇者アベルともうひとつの伝説   作:しましま猫

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さて、ルナとトビーの今後はどうなるのか、そして、原作とはやや異なった動きを見せていく歴史……、邪悪なる者たちの影は、徐々に世界に迫りつつある……!


第27話 動き出す歯車 変わりゆく運命

 シャグニイル邸の朝は早い。朝日が昇りはじめる頃には、使用人達が食事の準備などを始めるためだ。あと1時間もすれば、この館の主達も起きて行動を開始するだろう。そうなる前に、彼ら夫婦がスムーズに身支度を調え、食事を取り、それぞれの職場へ赴けるように、数少ない使用人達は大忙しである。エルフ姉妹の姉である彼女は、そんな使用人達をまとめ、この館の炊事選択掃除などの家事仕事、資産管理や主人のスケジュール管理に至るまで、ほぼすべてを一任されていた。貴族社会は男社会であり、こうした仕事は普通なら執事の業務だが、この館では女性である彼女がそれを任されている。妹の方は主に、来客の接待、交渉ごとなどを任されており、姉妹はこの国の貴族達の間ではちょっとした有名人だ。人間達にとって、エルフの印象は気位が高く、人間を見下しているというものが大半だ。それは決して間違いではなく、自然を愛し、物事の本質を見抜く力に優れるエルフ達にとって、人間達、いわゆるヒューマンといわれる種族は目に見えるものだけを重視し、生き急ぎ、物事の本質が見えていないと想われていることが多く、それが領主族の間に浅からぬ溝を作っているのは確かだ。シャグニイル邸に使えるメイドのエルフ姉妹は人間に対しても基本的に友好的であり、見下すような態度を取ることはない。そのことは最初、貴族達にとって相当の驚きを持って受け止められ、人間よりも強い力を持っている彼女たちを服従させていることで、主人であるヒカルに対して注目が集まることにもなった。彼女たちがそこまで計算をして普段から行動しているのかどうか、本人達以外には判るはずもないが、少なくとも彼女たちのおかげで、ヒカルが新参者だからといって侮られるようなことはなく、彼がそういった面で苦労することはなかったから、結果的に良かったのだろう。

 

「あら、おはようトビー、ルナ、もう少し寝ていても良いですよ?」

「おはようモモさん、いや、そういうわけにもいかないですよ、俺たち居候ですし。」

「私も朝食のお手伝いします。」

「うふ、2人とも真面目ねえ。旦那様も奥様もまだ寝室にいるから、一緒に寝てきたら?」

 

 モモのそんな言葉に、トビーは慌てて近くの男性使用人に交ざって荷物を運び出し、ルナはその場でうつむいて真っ赤になっている。2人がヒカルとアンの2人と寝床を共にしていたのはつい数ヶ月前までで、大きなベッドで寄り添って眠る4人は本当の親子のようだと、使用人達は皆、微笑ましく見ていたのだった。そんな2人がある日、それぞれ1人で寝ると言い出して、急な変化にヒカルとアンも戸惑った。しかし、これも2人が成長した、自立心の表れだろうと納得し、床を分けたのだ。

 ヒカルたちは知らないことだが、元々、住んでいた村で、この兄妹は早いうちから両親と床を別にしていた。それが、あの人買いの事件から助けられた後、大人と一緒に眠っていたというのは、それだけ、彼らが負った心の傷が大きかったということなのだろう。トビーの方は最初は1人で眠っていたが、そのうちにルナと一緒にいた方が彼女が安心するからという理由で、アンに促されて一緒に眠るようになった。1人で寝ている間、毎晩のように悪夢にうなされて夜中に飛び起きる彼を心配したミミが、ヒカルたちにそれを報告した結果、近くで見守っていた方が良いだろうと判断されたのだ。

 そんな彼らも日が経つにつれて落ち着きを取り戻していき、2人とも夜はぐっすり眠れるようになった。そして、こうやって自立心を芽生えさせているわけだが、そんな2人が可愛くて、モモはつい少しだけ意地悪を言ってみたくなるのだった。

 

」ルナ、それじゃあ朝ご飯の支度を詩に行きましょうか。」

「は、はい!」

 

 口角が緩みそうになるのをぐっとこらえて、メイドの顔になったモモは、うつむいて手をもじもじさせているルナに声をかける。はっとした彼女は少し慌てながら、しかし元気よく返事を返す。2人は足早に、調理場の方へと歩を進めるのだった。

 

 

***

 

 中央大陸の中心部にほど近いところに、アリアハンと呼ばれる小国があった。人口は千認定度しかおらず、万に届こうかというドランと比較すれば、実に10文の一ほどである。かつては世界の中心だったともいわれるほどに歴史の古い国だが、もはや伝統と格式以外に、この国の存在を世界に示すすべはなかった。それほどに、アリアハンは力の弱い国なのである。

 さて、そのアリアハン領内に、国と同じ名前を持つ小さな村があった。通常は国と同じ名前を冠す集落など、城下町以外にはあり得ないのだが、この村はとある理由から「アリアハンの村」と称することを許されていた。この村には伝説の竜に関する数多くの伝承が残されているという美しく広大な湖、竜神湖(りゅうじんこ)があり、それはこの国だけでなく世界各国から神聖な場所として重要視されていた。もっとも、この湖にまつわる伝承を記した古文書はアリアハン王家にしか存在せず、どういう内容であるかを知っている者はごくわずかである。村人はそんな伝説とは無縁であるかの如く、狩猟や農業などの自給自足で生計を立てていた。端から見れば、どこにでもあるような牧歌的な風景が広がるだけの、何の特徴もない貧しい村に映っただろう。

 少年は、そんな村で、ある夫妻の間に生まれた。父は狩猟を生業とし、母は機織りなどをして生計を立てていたが、母は産後の肥立ちが悪く、息子が生まれて間もなく他界した。それから、彼はずっと、父親に育てられ、優しい村人たちに見守られながらすくすくと成長していった。まだ、己に課せられた運命など、何も知らないままに。

 今年10歳になる少年は、名をアベルといった。

 

「今日も大漁、大漁っと。」

 

 肩に担いだ魚籠(びく)の中に溢れんばかりの獲物を詰め込んで、機嫌良く鼻歌などを歌いながら川沿いの道を下っていく。眼下には大きな竜神湖と、その(ほとり)に小さな集落が見えている。太陽は多分今が一番高い位置にあるだろう。もうすぐ昼時だ。アベルが村への帰りを急ごうと、歩く速度を速めようとしたときだった。

 

「待ちな小僧、そのカゴの中身を全部おいてけ、死にたくなかったらな!」

「げっ、山賊?! なんでこんなとこに!」

「うっせえ、よその国から来た二番なんだかっていう騎士連中が、このあたりを根こそぎ掃除して回ってんだよ! おかげでこちとら商売あがったり……って、んなこたあてめえにゃあ関係ねえ!とっととそのカゴの中身をよこしやがれ!!」

 

 いつの間にかアベルの回りには、血走った目をした柄の悪い大人たちが数名、彼を取り囲むように布陣し、じりじりと方位を狭めてきている。アベルは子供としては強い方で、村の格闘大会で力自慢の幼なじみを倒すくらいの実力はあった。しかし、所詮は子供だ。大の大人複数人に逃げ場もなく取り囲まれてはどうすることもできず、彼らの言うとおりにカゴの中身を差し出して命乞いをする以外には、助かる方法などないだろう。

 

「嫌だね! この肴は村の人たちに食べて貰うために捕ってきたんだ! 誰がお前らみたいな悪者にくれてやるかよ!」

 

 よせば良いものを、少年は断固として、今日の収穫物を渡すことを拒否する。これは普段からお世話になっている村の人たちにと、朝早く起きて山奥まで入り、モンスターを避けながら苦労してここまで運んできたのだ。いつも夕飯を作ってくれる幼なじみのお母さんの好物だという珍しい肴も手に入れたのだ。彼としてはこんな訳の分からない連中に渡すわけにはいかないのだろう。その気持ちはよく分かる。しかし、いかんせん状況が悪すぎる。アベルの答えを聞いた賊たちは、悪い人相をさらに凶悪にして、一斉に襲いかかってきた。

 

「く、そうっ、負ける、もんかっ……!」

 

 判っていたのだ。勝ち目のないことくらい、アベルには判っていたのだ。しかし、どうしてもこの思いだけは譲れない、父が旅立ってから数年、いつか帰ってくるその日のため、強く立派な男になろうと、小さなその旨に秘められた決意は、少年に逃げるという選択肢を選ばせなかった。しかし、いかに強い意思を持っていようとも、迫り来る脅威は10歳の子供にとってはあまりにも強大であり、何か対処しようにも足がすくんで動かない。つぶやかれたささやかな抵抗の意思は、悪しき欲望に頭を支配された大人たちに届くことはない。迫り来る暴力の嵐に、少年は反射的に身を縮めた。

 

「が、はっ。」

「な、何だてめ、ぐふっ!」

 

 固く目を閉じた少年は、やがて来るだろう痛みに備えて歯を食いしばる。しかし、どうしたことかいつまでたってもその時は訪れず、それどころか大人のうめき声と共にドサドサと何かが地面に落ちる音がして、やがて何の声も、物音も聞こえなくなった。

 アベルは恐る恐る目を開け、あたりを見渡して驚いた。そこには地面に倒れ服す賊たちの姿と、悠然と構える1人の人物の姿があったから。その人物は戦士らしく、腰に一振りの剣を下げているが、それを使った形跡はない。倒れ服している者たちには目視できるような切り傷がなく、戦士のまとっている革の鎧にも返り血らしきものは付着していない。

 

「この野郎!!」

 

 不意に、森の茂みの中から別の者たちが飛び出し、騎士に躍りかかった。手には伐採用と思われる斧、古びた剣、鎌などを持ち、今にも振り下ろそうとしている。しかし、騎士はとくに驚いた様子もなく、腰の剣を引き抜くと、振り向きざまに一回転して振り抜いた。次の瞬間には、あろうことか振りかぶられた獲物はすべて地面にたたき落とされ、いつの間にか剣を鞘に収めた騎士は呆然とする一段の間を縫うように駆け抜けた。次の瞬間、彼女の通った後には数名の、倒れ服すものの姿があるだけだった。

 

「無事か? 少年。」

「あ、れ、女の、人?」

 

 髪を短く切りそろえ、整った顔立ちから美形の男性かと思ったのだが、発せられる声から、どうやらこの人物は女性であるようだ。驚いた顔をしているアベルに、騎士は苦笑しながら歩み寄ってくる。よく見れば、鎧は女性用で、胸の部分の膨らみがはっきりと判る。慌ててそこから視線をそらし、アベルはとりあえず、彼女の顔をしっかりと見据えて言った。

 

「助けてくれてありがとう、お姉さん!」

 

 騎士がアベルの頭を撫で、彼が少し照れくさそうに頬を書いたとき、何者かがこちらに駆けてくる足音と、目の前の女性を呼んでいるのだろう大きな声が、アベルの耳に入ってきた。

 

「隊長! こちらでしたか!」

「遅いぞ。」

「も、申し訳ありません。こ、こいつらは……。」

「おおよそ風貌は手配書の通りだ。副長、こいつらを縛り上げてその辺に転がしておけ、捕獲部隊が追いついたら引き渡すぞ。」

 

 副長と呼ばれた男の騎士は一礼すると、部下たちと共に倒れている者たちを手早く縄で縛り上げ、近くの道の脇にあった切り株の回りに、それこそ何か荷物でも整理するように手早く並べていく。呆然とその様子を眺めているアベルの肩をポンポンとたたき、隊長と呼ばれた女性はおかしそうに笑った。

 

「そんなに珍しいか?」

「あ、いや、うん。でもこいつら何? この辺じゃあ山賊なんてめったに出ないんだけど。」

「ああ、それはな……。」

 

 女性棋士が話してくれたことには、この連中は、アリアハンの国で人身売買……人間を金で売り買いしている悪い奴らで、最近取り締まりが厳しくなったために稼ぎがなくなり、山賊になって道行く人々を襲い、金品や食料などを強奪していたそうだ。そんなことを説明されているうちに、村の方から馬に乗った一団が現れ、縛り上げた者たちは引き渡されていった。

 

「さて、少年、君はあの村の子かな」

「あ、うん、オイラアベルっていうんだ。」

「そうか、私はアン、アリアハンとは別の、ドランという国から来た騎士だ。」

 

 アンに手を引かれ、アベルは山道を下る。けっこうな重さがある魚籠を女性は軽々と片手でぶら下げ、速度を落とすこともなく悠々と歩いている。アベルと手をつないでいるため、先ほどまで装備されていたガントレットは外されており、細くてしなやかな、柔らかくて温かいぬくもりが、少年になんともいえない安心感のようなものを与えてくれる。遠い日に同じようなぬくもりに包まれていたような気がして、彼は無意識にその手をぎゅっとつよく握った。女性棋士はちらりと振り向き、彼の手を握り返してくれる。

 ほどなくして、無事に村にたどり着いたアベルは、事の顛末を知らされた村の大人たちからお説教を食らうことになった。普段は温和な神父様に張り倒されそうになり、幼なじみの母親には泣き崩れられ、彼はここに至って、ようやく自分がどれだけ無謀なことをしたのか気がついた。そして、どれだけ村の人たちから大切にされているのかと言うことも。

 

「オイラ、弱いなあ。」

 

 西に傾きはじめた太陽は黄金職に変わりはじめ、褐色の少年の肌を明るく照らす。まぶしいその光が、自分には届かない何かのような気がして、アベルは目を閉じた。あの時、アンが助けに入らなければ、自分は悪い大人たちに打ちのめされ、ひょっとしたら死んでいたかもしれない。子供が多人数の大人に叶うはずなどないのだが、それでもアベルは、何も出来なかった自分の弱さを呪わずにはいられなかった。

 

「こんなところで何をたそがれているんだ? 少年。」

「あ、アンさん。」

「昼間のことを気にしているのか? あれはまあ、仕方がないだろう。多勢に無勢という奴だ。」

「うん、わかってるよ、でも、でもさ……。」

「強く、なりたいか?」

 

 うつむいていた顔を上げ、少年は女性棋士の顔をじっと見つめる。陽光に照らされた、彼女の短く切りそろえられた金髪が風に揺れた。少年はそんなアンの姿に、伝説にうたわれる勇者とはこんな人なのかなと、ぼんやりと考える。そして発せられた問いに、素直に首を縦に振った。アンはふっと笑うと、アベルの隣に腰掛け彼の手に自分の手を重ねた。

 

「そうか、ならば逃げる勇気を持て。」

「え?」

「今日のような場合、まず自分の安全を確保することを優先するんだ。」

「でも、それじゃあ強くなんて……。」

「いいかアベル、戦いにおける強さとは、己の……自分の力を知り、敵の力を知ることだ。そして、その時に応じた正しい行動を取れること。」

 

 アンは言う、立ち向かう勇気は必要なものだが、無謀は勇気ではないと。生き残ってさえいれば、今でもできることはあるはずだと。そして、今は弱くても、強くなろうと努力し続けていれば、必ず強くなれる、とも言った。

 

「それにな、アベル。」

 

 アンはアベルの手を自分の両手で優しく包み込み、自分の胸元へ寄せる。鎧を脱いだ旅人の服の分厚い布ごしに、彼女の柔らかさと、トクトクという心臓の鼓動がわずかに伝わってくる。その行為に顔を赤らめる少年は、それでも騎士の顔をじっと見つめ、続く言葉を待っている。」

 

「本当の強さとは、決して戦う力のことじゃない。何の力もなければ力の強いものには叶わないかもしれない。しかし、知恵が力を凌駕することもある。同程度の実力であれば、最後に勝つのは……、ここが強い方だ。」

 

 アベルがはっとして、気がついたときにはアンは彼に背を向けて、村の入り口から手を振っている騎士たちのもとへ歩き始めていた。その背を見つめる彼に一度だけ振り返った彼女は男の子が見ても格好良いと心から思える、そんな勇ましい表情をしていた。

 

「アベル、大丈夫、君は強いさ。無謀なのはよくないが、理不尽に屈しないその心を持ち続けていれば、いつか本当の強さを、手に入れられる。私のようなまがい物じゃない、本当の強さを。」

 

 いつか縁があったらまた会おう、そう言い残して、女性棋士はいつの間にかあかね色に染まった夕日を浴びながら、今度こそ仲間たちと共に小さな村を後にした。

 異世界から来た勇者と、竜伝説に選ばれた勇者、彼らは互いの素性を知ることなく、それぞれの運命を進んでゆく。彼らがこの先の道で再び出会うことがあるのか、それは誰にも判らない。

 

***

 

 シャグニイル邸の大きさは、貴族の邸宅としては中の下くらいの規模であるが、それでもヒカルの元いた世界のちょっとしたホテルくらいの大きさはある。この世界に住まう一般的な貴族であれば、たくさんの使用人を雇い、普段から使いもしない部屋に豪華な調度品を飾り、自らの力を誇示するところだが、この館はそんなこともなく、使用人と言えばエルフの姉妹のほかに十数名が雇われているだけだ。屋敷内の部屋も、使われているのはごく一部だけで、来客なども多くなかったから、その生活ぶりは与えられた身分を考えれば質素すぎるものだった。

 財力がないのかと言えばそういうわけでもない。爵位と共に与えられた領地は、この国では辺境と言って良かったが、国内でも一二を争う広大なオアシスと、その恩恵を受けた肥沃な土地に恵まれ、領地収入は貴族たちの中でも上位に入っていた。もともと王家の直轄領だったこの土地には、王が選んだ優秀な政務官が配属されており、ヒカルの領地となった後も引き続いて内政を代行してくれている。そんなわけで、シャグニイル家には十分な収入があったから、多少散在したところで経済的に苦しくなる訳ではなかった。ヒカルやアンが贅沢な生活にあまり魅力を感じなかったことと、魔王の脅威に対抗するという目的の達成に力を注いでいたため、直接関係のないことについてはおざなりになっていた、というのが大きな理由だ。貴族としての外面を保ちながら、魔王への「嫌がらせ」の準備をするなどという器用なことは、ヒカルにもアンにもできなかったのである。

 そんな、シャグニイル邸の2階に、この屋敷にしては珍しく金をかけた部屋がある。それは書斎だ。作りもそうだが、世界中からかき集められた膨大な量の書物が収められており、書斎の他に書庫となっている部屋がいくつもある。魔王や竜伝説、呪文書、兵法書など、目的の本を探すだけでも苦労しそうな程だ。ヒカルはこの部屋で、時間があるときには様々な本を読みあさって知識を蓄えていた。元の世界では分厚い本など、昼寝の時の枕代わりにもならない扱いだったが、この世界には書物や口伝以外に情報を得る手段がなかったので、必要に駆られて仕方なく読書をするようになったのである。

 さて、今この書斎で本を読んでいる人物は館の主ではない。書斎の脇に設けられた、大人用よりはいくぶん低めの机に本を積み上げ、そのうちの一冊を広げ、手元ではペンを走らせている。涼やかな印象を受ける水色のワンピースは派手なデザインではないが、素材は見ただけで一級品と判る。この地方では珍しい白い肌と、美しい黒髪につぶらな黒い瞳の愛らしい少女は、外見から予想するに10歳には満たないくらいの年齢だろうか。小さな手が動くたび、ものすごい速さで文字が書き記されていき、白紙だった紙1枚はあっという間に埋め尽くされた。少女はそれを脇机の神束の上に置き、新しい紙に向かってまた同じように何事か書込はじめる。何かにとりつかれたように作業を続けていた彼女が、手を止めたのはそんなことが30階以上も繰り返された後だった。

 

「あら、またここにいたのですか? ルナはお勉強熱心ですわね。」

「あ、モモさん、えへへ、本を読んでいると、ついつい夢中になっちゃって。」

「好きなことがあるのは良いことですわ。最近は教会にも出入りして、人ともよく話すようになったみたいですし、もう安心ですわね。」

「はい、その……いろいろ迷惑をかけて、ごめんなさい。」

 

 申し訳なさそうにうつむくルナの小さな体を、モモは優しく抱きしめた。窓のない部屋で、机の上のランプの光だけが、彼女たちを温かく見守っている。最初は少し恥ずかしそうにして、逃げるように身をよじっていたルナだったが、そのうちに力が抜け、モモの豊満な体に身を預ける格好となった。モモは愛おしそうに、ルナの黒髪を優しく撫でている。

 

「謝ることなんて何もありませんわ。私は旦那様のご命令に従っただけです。あなたはあなた自身の力で、自分の心を取り戻したわ。この館の皆が、それを心から喜んでいるんですのよ。だから、もっと自信を持ちなさいな。」

 

 そんなことを言いつつも、まあ無理かもしれないなと、モモはなんとなく想っていた。彼女の心の傷が完全に消えることはないだろう。自分と妹がそうであるように、深く心に刻まれた傷、トラウマというのは完全になくすのはかなり難しい。ルナの場合は人買いに受けた仕打ち事態もそうだが、自分がいることで兄に負担をかけてしまったという自責の念が強く、それによって過度に自分を押さえ込んでいる節がある。彼女の謝罪の言葉は、自分が皆の重荷になっているのではないかという思いが、常に心のどこかから消えないために発せられるものなのだろう。今はただ、ゆっくりと時間をかけて、彼女が自分に自信を持てるように支えていくしかない。これでも2年前に比べたら見違えるほどの改善なのだ。結果を焦っても、良いことなど何もない。

 

「さ、もう晩ご飯の時間ですわ。皆が待っていますから行きましょうか。」

「はい。」

 

 ルナは読みかけの本にしおりを挟み、丁寧に閉じると、机の上のランプを持って、開いている入り口の方へと歩み出す。やや遅れて、その後ろ姿を見守るように、モモが歩き始め、ほどなくして書斎の扉は閉じられ、2人は夕食を捕るため食堂へと向かうのだった。

 

***

 

 草木も眠る丑三つ時……にはまだ早いが、電気などないこの世界では、夜は意外と早くやってくる。酒場と呼ばれる場所でさえ、日をまたいで営業しているところなど希だ。当然24時間営業の商店、コンビニエンスストアのようなものなどあるはずもなく、夜の闇に包まれた街は静かに眠りに落ちてゆく。それは身分の高いものも低いものも、富める者も貧しい者も等しく同じである。

 月明かりに照らされた大きなベッドの上で、一組の男女が窓から空を見上げている。満月の青白い光と、無数の星たちのきらめきが、2人をうっすらと照らし、ある種幻想的な光景を作りだしている。女は男に寄り添い、2人は一糸まとわぬ姿をさらし、時々なんとも悩ましいため息をこぼしている。身体はうっすらと汗ばみ、灯りが十分にあればその上気した肌の色を拝むことができたのだろうが、月と星の光量では世界はほとんどの色を失い、モノトーンの光景が広がるばかりである。

 

「なあ、ヒカル。」

「ん? 何だ?」

「私は幸せだよ。」

 

 女は自分の下腹部をさすりながら、何かをかみしめるようにそうつぶやいた。部屋の窓はこの世界では希少品であるガラスがはめ込まれ、外の空気が直接入ってくるようなことはないが、それでも部屋の小さな暖炉に火をくべていても、この時間はそれなりに冷え込む。しかし、今はそんな室温の冷たささえも心地よいと感じられる。きっと目の前の彼女もそうなのだろうと、男、ヒカルはなんとなく考えていた。

 

「ああ、しかし、無い物ねだりはいけないのだろうが、やはり、女としてなんともやりきれないこともある。」

 

 アンはヒカルの背に手を回し、彼の存在を確かめるように抱きしめた。まだ熱を持った身体が重なり合い、先ほどまでの激しさの余韻を伝えてくる。ヒカルはアンの髪を撫でながら、黙って彼女の話を聞いていた。

 

「今、私の中は君でいっぱいだ。……でも、私は君との子供を、この腹に宿すことができない。それがどうしても、悲しくなることがあるんだ。」

 

 モンスターであるアンの人間のような身体は、本来なら存在しないものだ。幸いにというか、その身体は感触的にも人間のそれと遜色なく、あらゆる器官が人間であったときのままで遺されていた。だから彼女は人間のように飲食もするし、排泄もする。切られれば血も流すし、五感もちゃんとある。しかし、現実にはそれはもはや人間のものではないのは確かで、その証拠に人間がかかるような病気にはいっさいかからないし、傷の回復も軽いものならその日のうちに、動けないほどの重傷でも2~3日あれば自然と回復してしまう。そんな彼女が人間の男性を伴侶とし、他の夫婦が行うようにこうして肌を重ねることができること自体、奇跡に近いようなものだった。

 だからアンには理解はできている。こうやって普通の夫婦のようにお互いを感じていられること自体がとても幸せなことで、本来なら望むことすらできないというのを、ちゃんと頭では判っているのだ。しかし、感情的にはそんな簡単に割り切れるようなものでないこともまた、動かしようのない事実であった。、だからといって何か解決法があるわけでもなく、2人はこうしてしばしの間、無言で、次第に覚めていくお互いの熱を惜しむように、その感触を感じていることしかできなかった。

 

「なあ、ヒカル、ずっと考えていたことがあるんだ。」

「ん? 何だ?」

 

 ヒカルに身を寄せたまま、彼を見上げるアンの言葉に、彼は先を促すように応える。彼女が何を考えているか、出会って間もない頃は本当によく分からなかった。けれど今はなんとなく判る。それでも彼女の想っていることは自分の口から言った方が良いだろうと、ヒカルはアンの言葉を待つ。

 

「養子縁組、というやつをしてみないか?」

「そうだな、子供ができないんだし、それも良いかもな。」

「……驚かないんだな。」

「まあ、なんとなくいつか、言われるような気がしていた。誰を養子にしたいのかも、見当はついてる。でも……。」

「ああ、判っているさ。」

 

 アンはヒカルをじっと見つめ、やがて決意が固まったのか軽く頷いた。そして、窓の方へ視線をやり、ふうと短いため息を吐いた。そんな仕草の一つ一つに、ヒカルはどきりとさせられてしまう。彼女の瞳には、高く昇った月が映り込んでいる。夜空には雲一つなく、月明かりの他にはどこまでも深い闇が広がるのみだ。

 

「彼らは、死ぬはず、だったのだろう? 君の知っている物語の中では。」

「ああ、俺は歴史を買えてしまったのかもしれない。」

「なに、物語は所詮は物語だ。現実ではないさ。君は君の想うまま、助けたいと想う者に、手を伸ばせばいい。」

 

 ヒカルが異世界から召喚されたことを知るのは、彼女で3人目だ。やはり夫婦で隠し事は良くないだろうと、結婚式の直前にヒカルがアンに話している。そのときの彼女は、多少驚いた顔はしたが、それだけだった。彼女だって、記憶がないから自分はどこの誰だか判らないし、この世界に明確な出所がないという意味ではお互い似たようなものだろう、ともいった。

 

「さて、そろそろ冷えてきたな、寝るとしようか。」

「ああ、そうだな。」

「ほらほら、私が体を拭いてやるから、ちょっと待っていろ。」

「いや、自分で……。」

「こういうのも愛情表現という奴だ、それとも、触られるとまた興奮するのか?」

「いや、さすがにそんな余力もうないッス。」

 

 アンは小さく笑って、ベッドの傍らに置いてある濡れた手ぬぐいで手早く自分の体を拭き、同じ所にある乾いた布で水気を拭き取る。そして慣れた手つきで、ヒカルの体も同じように拭いてやって、2人はようやく眠りにつく。いつもより少し遅い就寝となってしまったから、休日である明日は遅くまで寝ていよう。桃色の髪の使用人がニヤニヤしながら「ゆうべはお楽しみで……。」などと言ってくるかもしれないが、いつものことだしもうなれた。それより、養子縁組の話をしたら、相手はどんな顔をするのだろう。驚く? それは驚くだろう。受け入れてくれるか、そうでないか、それはわからない。最後に決断するのは自分たちではないのだから。これは彼らの人生を左右する問題だ。

 まどろみに墜ちてゆく中で、アンは自分に寄り添って眠っていたあの日の兄妹を思い起こしていた。彼らの立場も中途半端なままで、そろそろ決断をしなければいけないとは判っていた。でも、言い出せなかった。彼らの心が不安定になるから? いや、多分そうではない。彼女自身が恐れていたのだ、兄妹が自分から離れていってしまうことを。

 人買いから、トビーとルナの兄妹を助け、一つ屋根の下で暮らし始めてから、すでに2年の歳月が流れていた。

 

***

 

 シャグニイル邸の庭の片隅で、2名の者が木刀を打ち合っている。周囲には誰も折らず、木と木が打ち付け合う乾いた音だけが響いている。しばらくそんなことが続いた後、やがて2人のうちの1人、少年は膝をついてうずくまってしまった。

 

「よし、今日はここまでだ。昨日よりも長く打ち込めるようになっているぞ。急がず、ゆっくり、確実に力をつけていくんだ、焦ってはいけないぞ。」

「あ、りがとう、ございました!」

 

 少年はふらふらと起き上がり、力の入らない脚に活を入れ、直立不動で礼をする。……礼に始まり礼に終わる。時には殺し合いに繋がる技術であるからこそ、常に礼節を重んじ、自らを律しなければならないのである。

 少年と相対していた女性は表情を緩め、ふらつく彼を優しく抱き留め、支えてやる。その表情は我が子を見つめる母親のようにも見えた。

 

「トビー、決意は変わらないか?」

「……はい。」

剣を振るうだけが、強くなることではないんだぞ?」

「判って……ます。けど、俺は皆を守れる力が欲しい。強くて理不尽な相手から、あの時の俺たちを守ってくれた、伯爵様やアン様のように……!」

 

 少年の変わらぬ決意と、まっすぐな瞳に、アンは自分の中にはない強さを見たような気がした。彼女の強さは記憶と引き換えに手に入れたものだ。厳密にはそうではないが、少なくとも彼女はそう思っている。失った思い出がなんだったのかわからない彼女には、それを後悔する気持ちなどはない。しかし、なんとなく漠然とだが、自分の力が恐ろしく強大であるにもかかわらず、どこか不完全で、何か大切なものが欠けているのではないかと、ぼんやりとだが感じていた。

 本当は、せっかく助かった命を戦いに投じ、わざわざ再び命の危険に自分から飛び込んでいくような真似は、できることならさせたくはないとも想う。しかし、トビーの意思は固く、簡単にはあきらめないだろうし、そもそも彼の決めた道をどうこう言う視覚など、自分にはないのだと、アンは自嘲した。

 これより数年、トビーはアンに師事し、厳しい訓練に耐え、自らの才能を開花させてゆくことになる。形は違えども、彼が原作と呼ばれる物語と同じように剣の道を歩んだことを、今のアンは知らない。

 

to be continued




さて、また年月が飛びましたが、こうでもしないと永遠に終わりそうもないですので(苦笑)。
ちょっと迷っていることがありまして、よろしければご意見をお聞かせください。
トビーとルナの国内での立場をどうするか、ということです。
1.アンの提案を受け入れ、シャグニイル家の養子になる。
2.養子にはならず、ヒカルが後見人になる。
※どのルートを通っても、2人が最終的に不幸になるようなことはありません。多少の試練はあるかもしれませんが。また、物語の大筋がこの選択によって変化することはありません。
もし、よろしければ、この後活動報告にスレッドを立てますので、そこへの返信という形でお答え戴けると嬉しいです。また、メッセージが使える方はそちらでもかまいません。
くれぐれも、感想欄には書き込まないでください。規約違反になります。私が運営に怒られちゃいますので。
意見がまとまらないときはダイス振って決めます(笑)。

……解説コーナーがないぞ今回(ぼそ)。

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