それはさる二月十三日、つまりはバレンタインデーの前日の出来事だった。
その日は市民ホールにてある小さなイベントが開かれていた。総武高校の生徒会主催による料理教室である。
すでに想像は着いているだろうが、この時期に料理教室となると当然の如くチョコ作りである。
総武高校主催とは言っても参加者は総武校生徒のみには留まらなかった。
クリスマス以降何かと縁のある海浜総合学園や近所の小学生などから、意中の男子にチョコを贈りたい乙女や単なる興味本意の女子。そして、それらの女子達からあわよくばと期待する男子などそこそこの人数が集まり、イベントは小規模ながら中々の盛り上がりを見せた。
そうして参加者達が良い気分で時を過ごし、成功のままにお開きとなるかと思われた頃、事件は起きた。
「あれ?」
イベントに参加していた大岡少年がそんな声を上げたのは、鞄を開いた時だった。
大岡は友人である戸部が「どしたん?」と声をかけてくるのを尻目に己の鞄をまさぐり、見覚えのない包みを取り出す。
ギンガムチェックの包装紙。それが袋状に丸められ、ピンク色のリボンで手に納まる程度の大きさにまとめられている。
もしかして。
そんな期待に大岡の鼓動が高まるーー前に、
「おお!それもしかしてチョコじゃね?」
「そんなバカなーーーー‼‼????」
こちらの手元を覗き込んでいた戸部が自分と同じ予想を口に出し、それを聞いた大和があり得ないと絶叫した。
「そんなバカな……?」
「あ、いや」
大岡がこめかみに青筋を浮かべて睨み付けると、大和は誤魔化すように視線を逸らした。それはともかくとして、大和の大声に誘われて人が集まってくる。
「なになに?」
「どうかしましたか?」
イベントの主催者である生徒会長一色いろはと、特別講師として招かれた雪ノ下陽乃である。その後ろにはイベントの手伝いを依頼された奉仕部の面々や、前生徒会メンバーの姿もあった。
大岡にとってほとんど接点の無い面子である。しかし特に隠すようなことでもないと、普通に答えた。
「いや、なんか俺の鞄にチョコが入ってて……」
「! めぐり、出入口を封鎖!全員逃がさないで!」
「
「どういう意味だ!?」
常識ではあり得ない事態に迅速に対応した陽乃、及びいろはに対し、大岡はたまらず声を荒げた。そんな大岡に、いろはは完全に真顔で説明する。
「こんなことする女子はキチンと見つけ出して指導しなきゃダメじゃないですか」
「非行みたいに言うな!?」
「雪乃ちゃん、別室で一人ずつ事情聴取してくれる?私の指示に従うのはシャクかもしれないけど……」
「バカにしないで。非常時に私情で規律を乱すような人間だと思っているの?」
「いや非常時ってなんだよ」
「
「なんか事件つーか災害扱いになってませんか?」
「比企谷くんは私の助手を。現場検証するからどんな些細な異常も見逃さないように。それじゃみんな、散開!」
「聞けよ!?」
陽乃の的確な指示に全員が迷いなく動き出す。
大岡少年の声を聞く者は、誰もいなかった。
「それでは情報をまとめます。まずは事件の発生状況を」
「だから事件ってなんだよ」
「大岡くん、邪魔しないで」
「……」
全員への事情聴取が終わり、雪乃が切り出す。少々疲れを見せながらもその瞳は精力的で、その内には悪に対する怒りの焔をたぎらせている。
陽乃はそんな妹と対称的に冷たい声で語り始めた。
「事の発端は本日17時前、今回のイベント終了の直前。大岡少年(以降、甲)の鞄(以降、乙)からチョコレートらしき物品(以降、丙)が発見されました。
乙を含む個人の手荷物は、数が多く作業の障害になると思われたため、ロッカールームにまとめて預けられていました。
主催者である生徒会メンバーが手荷物をこの部屋に運びこんだのは、イベント終了時刻の直前。それから甲が丙を発見するまでほとんど時間はなかったものと思われます」
「なるほど……。つまり、犯行はイベント中にロッカールームで行われたということね」
「ちょい待てやオイ。犯行ってなどういう意味だ」
姉の言葉を受けての雪乃の呟きに、大岡がたまらずツッコミを入れる。もちろん誰も聞いてない。
陽乃は妹の言葉に重々しく頷いて続けた。
「犯人は……」
「だから犯人ってなんだぁ!?」
「犯人は我々がイベントを楽しんでいる最中、人知れずロッカールームに侵入し凶行に及んだものと思われます。
内部犯、つまりイベント参加者による犯行であれば、周りに見つからないようにこの部屋を抜け出す必要がありました。もし部外者の仕業なら話は違いますが……」
陽乃のセリフの途中で出入口のドアが開いた。
入ってきたのは前生徒会役員を引き連れた城廻めぐりだ。
「ハルさん、鑑識の結果が出ました」
「マジで鑑識してんじゃねえよ!?」
「めぐり、それで?」
「中身はやはりチョコレート。手作りの造形とわずかに荒熱が残っていたこと、それと包み紙の購入先から、このイベントで作られた物で間違いないだろうとのことです」
「そう……」
「姉さん、やっぱり……」
「ええ」
報告に陽乃は無念そうに首を振った。
覚悟はしていたとはいえ、やはり現実に事実として突き付けられるのは重みが違うのだ。
しかしそこは雪ノ下陽乃。すぐさま意識を切り替え、毅然とした態度で断ずる。
「犯人は、この中にいる」
「……なあ、もう帰っていい?」
場の一同が恐ろしい事実に戦慄する中、大岡は独り黄昏ていた。
場の一同が、揃ってわずかに身を退いた気がした。互いが互いを疑い合い、それが物理的な距離にも現れたのだ。
「容疑者を絞りましょう」
そんな重苦しい空気を切り裂いたのは、やはり陽乃だった。
ちなみに大岡(というかむしろ風見鶏)がなにかブツブツ呟いていたが、勿論誰も気にしない。
「でも、容疑者を絞るって言ってもどうやって……」
「そのための事情聴取だろ。雪ノ下」
陽乃を不安気に振り仰いだ結衣に、八幡は事も無げに告げて雪乃を促す。雪乃は部員二人に頷き話し始めた。
「まず、事情聴取によると、他の人の鞄からはチョコレートは発見されませんでした。このことから犯人は単独犯である可能性が高いと思われます」
「二人で行ったんなら『一緒にやろ♪』ってなるもんね」
結衣の言葉に雪乃は頷く。二人とは限らないが結衣の言う通りなのである。
犯行が複数人で行われる場合、それぞれが背負うリスクは均等でなければならない。特定の誰かのリスクが極端に軽い、あるいは重いと、それが内輪揉めの種になってしまう。
今回の場合、仕込まれたブツは1つ。
複数の女子が共同で1人の相手にブツを渡すのなら、隠れて渡すことはないだろう。つまり実行犯は1人ということになる。
仮に複数犯の仕業だった場合、主犯がブツを仕込んで共犯者が見張りに立つという形になるだろうが、それだと主犯にデメリットしかない。
そもそも他人に知られたくないから隠れてブツを仕込んだのだろうに、他人に協力を求める意味がわからない。
そんなわけで雪乃の言う通り、単独犯であることはほぼ確実だろう。
「あの、ちょっと待ってください。それって難しいと思うんですけど」
しかしそこで否定的な声をあげる者がいた。
今回のイベントの主催者である一色いろはだ。
「どういうこと?」
雪乃が怪訝そうに尋ねると、いろはは顎に指を当て、計算され尽くしたあざとい仕草で語りだした。
「ロッカールームの鞄にチョコを入れるって、この部屋から1人で出ないと無理ですよね?」
「ええ、当然ね。だからこれまでに出た情報を照らし合わせて犯行可能な人物を……」
「えっとですね、こういうイベントの場合、女子って他の娘を牽制するものなんですよ。怪しい動きがないか監視してるんです。抜け駆けされないように。だから1人で部屋を抜け出した娘がいたら、誰かが絶対気付いてると思うんですけど」
「私はそんなことしてないけれど」
「じゃあ結衣先輩がチョコ持って1人で部屋出ようとしたらどうします?」
「それは……」
雪乃は思わず言い淀んだ。ほとんど反射的に動いた視線が結衣のものとぶつかり、お互い気まずげに目を逸らす。
監視などしていない。それは断言できる。
そもそもそうした、いわゆる『女子特有』とされる感性が欠如している雪乃には、他の女子を出し抜くという発想自体が浮かばなかった。
しかしである。
それでも尚、結衣がそのような行動をとったのであれば、自分は確実に気付くと確信してしまっていた。そして気付いた自分がそれをどうにかして阻止するであろうことも。
きっと自分は部屋を出ようとする結衣についていくか、もしくは何らかの理由をでっち上げてでも部屋に留めようとするだろうと容易に想像できてしまう。
無論、逆もまた然りである。自分が1人で部屋を出ようとしたなら、結衣はきっと同じ行動に出るだろう。
「……なあ、もう良いじゃん。解散にしようぜ?」
「雪乃ちゃんの恋の鞘当てはまた今度にするとして」
なんか聞こえた風見鶏(というかむしろ大岡)の鳴き声を掻き消し陽乃が声をあげる。
「いろはちゃんの言う通り、女子が1人でこの部屋を出れば、他の誰かが絶対に気付く。むしろ捜査の助けにしかならないわ。
雪乃ちゃん、聞き込みでそういう話はなかった?」
「それが……」
雪乃が沈鬱な表情で首を振る。
雪乃の話によると、単独で部屋を出た女子は1人もいなかったらしい。人の出入りについては特に詳しく聞いていたので間違いないそうだ。
「雪ノ下、本当に全員か?」
「正確には小学生に1人だけいたらしいわね」
「んじゃその子じゃねえの?あの小学生の子たちって、千葉村の時のだろ?」
「あの時は大岡くんはいなかったじゃない。葉山くんか戸部くんならともかく、面識の無い大岡くんにチョコを渡すとは思えないわ」
「んー……まぁそれもそうか」
八幡と雪乃が会話してる横ではいろはと結衣が額を突き合わせていた。
「誰か嘘ついてるんじゃないですか?」
「でも嘘吐く意味無くない?共犯でもないのに隠す必要ないじゃん」
「ハルさん……」
停滞しかけた事態に、めぐりが不安気に漏らした。
それ自体には意味など無かったのであろうが、己を呼ぶ声を聞いて瞑目していた陽乃が目を見開いた。
「ん。大体分かった」
「え、マジで?」
陽乃の口からごくごく自然に出てきたセリフに、大岡が思わず頓狂な声を返す。陽乃はそれに頷いて肯定する。
「犯人は男よ!」
「ふざけんな!?」
「キマシタワー!」
「海老名!?」
陽乃のとんでもな言葉に大岡が思わず怒鳴る。どっかで赤い噴水が上がったが気にしてられない。
しかし陽乃は、そんな大岡に対し至極真剣な表情で返した。
「ふざけてないわ。女子には全員にアリバイがある。ならば消去法で男の犯行と考えるのが自然よ」
「いやそれはそうかもしれないけど!?」
堪らないのは大岡である。
ただでさえ女っ気の少ない学校生活だというのに、こんな話が広まってはますます彼女のできる可能性が遠のいてしまう。
というかそれ以前に男どもが鬱陶しい。現に今も、戸部や大和や海浜の生徒会どもが「やーい、男にチョコ貰ったー!」「エンガチョー!」と囃し立ててきている。
「チクショー!どこの誰だ!?悪質ないたずらしやがって!」
大岡は思わず涙目で喚き散らす。が、陽乃はそれを否定した。
「いいえ、いたずらじゃないわ。いたずらならチョコが発見された直後にネタばらしをしているはず。だってそれが一番美味しくてリスクも少ないタイミングだから。にもかかわらず、犯人は未だに名乗り出ていない。つまり彼は本気だったのよ!」
「ぶふぅっ!?」
「我が生涯に……一片の悔い無し……!ガク」
「海老名ー!?」
「衛生兵!衛生兵ー!」
陽乃のシャレにならない推理に大岡が吹き出す。それを聞いて、それまで大岡をからかっていた男子たちも血の気が引いていた。
結衣は隣に立つ八幡を涙目で見上げる。
「ヒ……ヒッキー……?」
「おい、なんで真っ先に俺を疑う。俺は一度も部屋から出てねえよ」
「そ、そっか。良かった……」
無論、八幡はジト目で否定した。その後ろでは雪乃が胸を撫で下ろしていたが。
その雪乃にいろはが訪ねる。
「それで、1人で部屋を出た男子って、誰がいます?」
「え?あ、そうね。
比企谷くんは除外するとして、海浜の生徒会メンバーは常にまとまって行動していたからこれも犯行は不可能。
あとは大和くんも部屋から出ていなかったから、残るは葉山くんと、戸部くん……?」
ざわり、と人の波が動き、2人を中心に残して空白ができる。
全員が2人をおののくような目で見ていた。
「お……お前ら……?」
「いやいやいやいや!?あり得ないから!」
大岡の怯えたような呟きに、葉山が慌ててブンブンと手を振る。普段の柔らかい物腰とは比較にならない必死の形相を浮かべ、全力で否定してきた。
「冷静に考えろよ大岡!俺がそんなことするわけないだろ!?ここはみんな落ち着いてもう一度……」
「隼人くんの仕業だー!!」
「何ィ!?」
誤魔化すようなひきつった笑顔で言い訳する葉山に指を突き付け、そのセリフを遮るように絶叫する者がいた。戸部だ。
「戸部!?どういうつもりだ!?」
「どうもこうもないっしょ!俺は海老名さん一筋だもん!男にチョコやるとか有り得ねーもん!だったら隼人くんが犯人に決まってるっしょ!」
「戸部、貴様友達を売る気かっ!?」
「先にやったのは隼人くんっしょ!?さっき『俺達』じゃなくて『俺』って言ったの聞き逃してないかんな!」
戸部はほとんど錯乱気味に喚きたてる。しかしそれも無理はないだろう。
男にバレンタインチョコを渡した男。
そんな十字架を背負う恐怖に迫られては、冷静でなどいられるはずがない。
無論、葉山とてそんな罪業を背負うのはまっぴら御免である。こうなってしまっては己を守る為に戦わねばならない。
「俺にはアリバイがある!
俺は確かにコーヒーを買いに1人で部屋を出たが、すぐに優美子といろはが追いかけてきた!
2人の監視を掻い潜って大岡の鞄にチョコを仕込むのは不可能だ!」
「うっせー!そんなの隼人くんならなんとかしたに決まってるっしょ!とにかく犯人は隼人くんだ!」
そんな元友人同士の醜い争いを見ていたギャラリーたちは、2人の言葉に頭を悩ませる。
「確かに戸部っちだと動機がイマイチ……」
「だけど葉山くんにはアリバイが……」
そう。ここにきてまたしても新たな謎が立ちはだかったのだ。
このままでは事件は迷宮入り、というのはさすがに大袈裟だろうが、長時間拘束されて精神的に参った者たちの気分は似たようなものだった。
そして、そうした空気を打ち砕くのは、やはりこの人だった。
「いいえ、もう1人だけいるわ。全ての条件を満たす人物が」
その、雪ノ下陽乃の堂々とした宣言に、いがみ合っていた葉山と戸部を含めた全ての者が静まり返る。
瞬時に静寂に包まれた空間で、全ての視線をその身に集めながら、陽乃は右腕を真っ直ぐ上に伸ばす。そして人差し指をピンと立て、そのままある人物へと向けて降り下ろした。
「犯人は、あなたよ。大岡くん!」
「ハイィィィィィィィィィィ‼??」
完全に虚を突かれた体の大岡に、陽乃は会心の笑みで推理を披露する。
「あなたが自分でやったとすれば全てに説明が付くわ。
例え1人で部屋を出ようと被害者を装えばそもそも疑われない。いえ、そもそもロッカールームに行くまでもなく、隠し持っていたチョコをさも鞄から発見したかのように演じれば良い。
ことあるごとにもうやめようとか言ってたのは捜査の妨害ね。バレたら困るから。
動機は見栄をはりたかったからよね?」
「ふざけんなおいマジふざけんな聞こえてたんじゃねーかよ!?いやそうじゃない俺がんなことするわけ……はっ!?」
進退窮まった様子の大岡が、背後からとてつもなくイヤな気配を感じて振り返る。
そこに在ったのは無数の同情の眼と哀れみの涙。
第一の獣が顕現しかねない、圧倒的な憐憫だった。
「大岡……お前……」
「そこまで追い詰められてたの……?」
「ちっがーう!ちげーって!確かにチョコは欲しいけど!だからってんな惨めなことしねーって!」
大岡は慌てて弁明する。しかしもはや流れは変わることはなかった。
「ゴメンな……あーし、気付いてやれなくて……」
「義理で良かったら私がチョコあげるから、ね……?」
「だから俺じゃねーよ!?つーか海老名お前さっきまで鼻血吹いてくたばってただろ!いつ生き返ったんだよ!?」
「良かったなぁ、大岡……今年は女子からチョコ貰えるってよ……」
「そうだ。俺達も友チョコ用意しようか……?」
「戸部お前は嫉妬しろよ!海老名からのチョコだぞ!?隼人くんもなんで一瞬で戸部と仲直りしてんの!?大和テメエ無言で泣きながらサムズアップしてんな!」
次々に投げ掛けられる優しさという名の暴力。
その致命的なまでに心を抉る温もりに、大岡は涙目でーーどころか完全に泣きながら訴える。
「違う!俺じゃない!本当にやってないんだ!見るな……そんな眼で俺を見るな!」
「哀しい、事件だったわね……」
半狂乱で泣き叫ぶ大岡に、そんなことを呟きながらポンと肩を叩く者がいた。陽乃だ。
「でも、もう良いのよ大岡くん。ここにはあなたを傷付ける人なんていない。みんなあなたの味方なのよ。だから、安心なさい……」
彼女は慈愛の微笑みを浮かべ、大岡にどこまでも優しく語りかける。その女神のようなーー皮肉ではなく、本当に心からの思い遣りに満ちた慈母のごとき笑顔に、大岡はついに膝から崩れ落ちた。
「俺じゃない……俺はやってない……!
俺は、俺は無実だぁ~~~~‼‼」
彼の叫びは誰にも届くことはなく、みんなはただ大岡の味方であり続けた。
イベントのあった市民ホール前の横断歩道。
日がすっかり暮れて暗くなったそこで、鶴見留美は、信号が青になっても歩き出すことなくたたずんでいた。
「まだ残ってたのか?」
「……八幡こそ」
そんな留美に後ろから気配も無く声をかけてきた八幡に、留美は視線だけで振り返り不機嫌に応えた。
留美はフン、と鼻を鳴らすと視線を前に戻す。八幡はその留美の横に並び、顔を前に固定したまま口を開いた。
「あんま気にしなくて良いぞ。あんなでもリア充だからな。明日にはケロッとしてるさ」
「……でも、悪いことしちゃった」
「間違えちまったもんはしょうがねえだろ。鞄に名前書いとく高校生なんかそうそういないしな」
落ち込むようにに少しだけうつむいた留美に、八幡はあくまでも変わらぬ態度で答える。
実際仕方ないことだったのだろう。大岡の鞄はごくありふれた市販の量産品だった。同じデザイン、同じカラーリングの鞄だけで3つはあったのだから。
だから留美が落ち込んでいるのは間違えたことについてだけではないのだろう。その他に、罪悪感と、もう1つ。
罪悪感については、八幡は大した助言はできない。だからもう1つについてフォローを入れることにする。
「……まあ、チョコ渡せなかったのは残念だったな」
「うん…………」
八幡の言葉に留美は少しだけうつむきを深くする。そんな留美の様子に八幡は苦い顔をすると、誤魔化すようにそっぽを向き、頭をガリガリ掻きながら努めて軽い調子でーー本人だけはそう思ってるーー言い放った。
「まあ、あれだ。適当になんか贈ってみれば?男なんざチョロいからな。女子から貰ったらチョコじゃなくてもそれだけで喜ぶもんだ」
「……そうなの?」
「おう。可愛い女の子からならシャー芯貰うだけで好きになるまである。ルミルミなら100パー惚れるね」
「ルミルミっていうな。……八幡でも?」
「当たり前だろ。実体験に裏打ちされた確かな情報だぞ。俺なら求婚まであり得る」
「……そうなんだ」
留美は先程からうつむいたままだ。そのため八幡からは表情が伺いしれず、自分の励ましに効果があるのか判断できずにいた。
故に八幡は、留美の行動の意味を理解できなかった。
「じゃあ八幡、これ」
「…………ナニコレ?」
「受け取って」
そう言って差し出されたのは1羽の折り鶴。それを両手にちょこんと乗せ、留美は頬を真っ赤に染めて八幡を見上げていた。
その真剣な眼差しにたじろぎながら、八幡はどうにか問を返す。
「いやだから何よこれ?」
「折り鶴。余った包装紙を貰って折った」
「いやそうじゃなくて」
「いいから受け取って」
留美は八幡に鶴を強引に押し付けると踵を返し、タタタッと走って信号が点滅を始めた横断歩道を渡ってしまう。
「お、おい」
「八幡、信号」
八幡は慌てて追いかけようとしたが、信号はすでに赤に変わっていた。車もないのだから気にすることはないかもしれないが、小学生に注意されては信号無視するわけにもいかない。
留美は戸惑い立ち尽くす八幡に背を向ける。そして首だけを回して八幡に顔を向け、しかし慌てたように目を逸らして口を開く。
「……プロポーズ、待ってるから」
八幡と目を合わせぬまま、真っ赤な顔でそれだけ言い残し、鶴見留美は走り去った。
八幡はしばし呆然と立ち尽くしていたが、ふと我に帰り、受け取った折り鶴を鞄にーー大岡のものとまったく同じデザインの鞄にしまいこみ、家路に着いた。