大岡という男がいる。
作品内では準モブ、弁当に付いてくる緑のギザギザのような立場で読者からは童貞風見鶏などと揶揄されることも多いが、トップカーストに属している以上、実際にはそれほど酷い立ち位置ではない。
総武高校、2年F組。
野球部に所属し、それなりに活躍もして多少は人望もある。
しかし、彼にとっての最大のステータスは『葉山隼人の友人である』ということだろう。
最高という言葉は『最も高い』と書く。それはそのまま頂点を意味する言葉だ。
しかし現実で最高という言葉が使われる場合、頂点そのものではなく、その周辺一帯を指すことがほとんどだ。
つまり何かの順位付けを行った場合、その中で『最高の成績』を持つ者は複数存在することになるのだ。
総武高校において最高の知名度を持つ人間は、もちろん複数いる。
例えば比類無き支配力を以て女帝として君臨する三浦優美子であったり。
例えばワガママボディと距離を感じさせない振る舞いで、多くの男の心を掴んで放さない由比ヶ浜結衣であったり。
例えば恵まれた家柄と絶世の美貌、そして圧倒的な実力で一切の余人を寄せ付けない雪ノ下雪乃であったり。
あるいは文化祭での事件を皮切りに、瞬く間にその悪名を轟かせた比企谷八幡であったり。
彼ら彼女らは、さまざまな理由からこの総武校の有名人となった。まさに最高の知名度を持つ人々であろう。
しかし葉山隼人、彼だけは違う。何故なら彼を指す場合に限り、最高という言葉は本来の頂点そのものという意味を持つからだ。
葉山隼人は総武校における最大最高の有名人である。
文武に優れ、他者からの信頼も厚く、一身に期待を集め、そしてそれに応え続ける。
誰もが彼を羨み、誰もが彼に近付こうとする。彼の知り合いというだけで周囲の羨望を集める。ましてや彼の友人ともなれば、その恩恵は計り知れないだろう。
そして大岡は、その『葉山隼人の友人』という立場を最大限に利用していた。
実際彼は大した人間ではない。
大きく劣ったところがあるわけではないが、特別に目を惹く部分も無い、つまるところ、ありふれたごく普通の少年である。
彼単体であったなら、おそらくその名前が読者の目に触れることも無かっただろう。しかし彼は、葉山隼人の勇名に乗っかる形で、多くの読者の記憶に自分の名を刻み込んだ。いわゆる虎の威を借る狐というやつである。
全ての混乱は、そんな彼の何気無い一言から始まった。
ごくありふれた放課後。
特に何事もなく授業が終り、生徒達が一斉に緊張から解放され、友人と寄り道の相談を始める。
そんななんでもない、ごく普通の一日の終りに、大岡少年はふと告げた。
「彼女ができました」
瞬間、時間が停まった。
前触れなく壁掛け時計が落ちた。
クラスメイトとお喋りに興じていた相模南が泡を吹いて椅子ごと倒れた。
先ほどまで快晴だったはずの空に雷雲が立ち込めた。
意味も無く窓が割れた。
グラウンドで大量のカラスと黒猫が戦争を始めた。
滅多に人の来ない教室で、ある人物の湯呑みが人知れず縦に割れた。
ピンポンパンポーン
馴染みの音がスピーカーから吐き出され、ノイズの混じった校内放送が始まる。
『…ザ……めだ!……う終……ザッ………みん…逃げ……ザザッ………いそ…で!……』
ブツッ!
そんな音を最後に放送が切れる。
それらの惨劇を見送った後、大岡は感情のこもらない声で呟いた。
「……なんでだ」
意味がわからん。自分は恋人が出来たことを友人に報告しただけだというのに。
「なあ、隼……」
「歯を食いしばれ大岡ァ!」
「ぶべらっ!?」
突如頬を襲った魂のこもった一撃に、大岡はきりもみに回転して吹き飛びいくつかの机を薙ぎ倒した。
「大岡……見損なったぞ、馬鹿野郎!」
そのふざけた幻想をぶち殺す略してそげぶとばかりに右拳を振り抜いた葉山隼人は、熱い涙を流しながら吠える。
「なんでだよ……なんでこんな事になっちまったんだよ!?」
「え……何が?て言うか今なんでぶっ飛ばされたの俺?」
「俺は、俺達は友達じゃなかったのかよ!?なんでこうなる前に一言相談してくれなかったんだよ!」
「だから隼人くんなんの話してんの!?」
混乱して助けを求めるように周りを見回す。するとその視界に、彼らとも親交の深い三人の女子が入り込んだ。
「えっ……ヒック……うえっ……!」
その三人のリーダー格たる三浦優美子が、床に尻餅を着いて泣いていた。完全にしゃくりあげて言葉にならない彼女を、二人の友人が慰めている。
「ちょ……!どしたんよ、優美子!?」
殴られた痛みも忘れて慌てて駆け寄る。女帝などとも呼ばれるこの強気な少女が泣くなど尋常ではない。
「……して」
彼女の様子を除き込む大岡の耳に、小さな呟きが届く。
その呟きは、三浦優美子を慰める友人、由比ヶ浜結衣のものだった。彼女は涙を溜めた瞳でキッ!と大岡を睨み付け、今度はハッキリと言葉にする。
「どうして大岡くん!?なんでこんなヒドイことすんの!?」
「ええええ!?俺ぇぇっ!?」
身に覚えの無いことで責め立てられ、大岡は思わず仰け反る。そんな彼らに構わずマイペースに三浦優美子の背を撫でていた眼鏡の女子、海老名姫菜が不意に立ち上がり、他人事のように告げた。
「……ああ、もういいや」
「姫菜……?」
「ゴメンね、結衣。私もう行くから。後で優美子に謝っておいて」
「そんな……!待ってよ姫菜!あたしが悪いんだったら直すから……!」
「ううん。二人は何も悪くないよ。悪いのは、きっと私」
「待って……待ってよ……!イヤだよ、こんなふうにおしまいなんて……!」
「さよなら。二人のこと、大好きだったよ。それだけは本当だから」
「姫菜……!」
由比ヶ浜結衣の悲痛な叫びは、しかし友人には届かなかった。海老名姫菜は振り向きもせずに教室を出ていってしまい、後には抱き合うようにして泣き続ける二人の女子。
突然目の前で繰り広げられた友情の崩壊劇に大岡が茫然としていると、いきなり横合いから胸ぐらを掴まれる。葉山隼人だった。
「何をやってるんだ!お前のせいでこうなったんだぞ!?はやく追いかけて連れ戻してこい!」
「はいぃぃぃぃっ!?コレも俺のせいなの!?」
状況がまったく把握できずにあたふたしていると、背後から良く知る、ある意味では葉山隼人以上に親しい人物の声が聞こえた。
「大岡……」
「戸部ェ……みんななんかおかしいんだよ。お前からもなんとか言って……!?」
大岡は戸部翔に振り返り、ギョッとして固まる。
戸部翔は普段の人懐こい笑顔の代わりに、目に涙を溜めて情けない表情を浮かべている。そしてその手には……
「大岡ぁ……」
「なんで泣きながら包丁握りしめてんだよお前は!?」
大岡は慌てて戸部翔の持つ包丁を叩き落とした。包丁はあっさりとその手を放れ、そのまま教室の隅まで滑っていく。
戸部翔は自由になった手で目元を擦りながら、涙声で訴えた。
「だって、『友達が間違った道に進もうとしてるなら、相手に恨まれてでも止めてやるのが本物の友情だ』って、ヒキタニくんが……」
「ヒキタニぃぃぃぃっ!」
我慢の限界が近かったところに学校の嫌われ者の名前が出て、その姿を探して教室を飛び出す。
別に本気でヒキタニの仕業だと思ったわけではない。なんでもいいから誰かのせいにしたかっただけだ。
もしかしたらただ教室から逃げ出したかっただけかもしれない。どちらかは分からなかったし、正直どちらでも構わなかった。重要なのは、教室を出たところで誰かとぶつかったことだろう。
「きゃっ……!」
ぶつかったのは青みがかったポニーテール。同じクラスの川崎沙希だった。彼女は尻餅を着いた状態でこちらを見上げている。
倒れた彼女に手を差し出す。が、
「わ、悪い!大丈夫か!?」
「ヒッ……!?」
川崎沙希は、何故か顔を青ざめさせている。イヤイヤと力無く首を振る少女に、どうすれば良いか分からずに固まる。
「ヤ……助けて……!」
「ま……待て待て待て!俺がいったい何をした!?」
「イヤァァァァ!」
「川崎さん!」
涙を流して怯える少女を救い出したのは、このクラスの天使と名高い美少年、戸塚彩加だった。
彼女、もとい彼は川崎沙希を抱き抱えて大岡から距離を取る。それはさながら王子様のごとく。
「川崎さん、大丈夫?」
「戸塚、あんたどうして……」
「これでも男だから。女の子がピンチなのを見過ごせないよ」
「あんた、格好いいよ……」
「ありがと。ここは僕に任せて、早く逃げて!」
「……なあ、俺はいったい何をしたんだ?頼むから教えてくれよマジで」
心の底から沸き上がるどす黒い感情に、大岡は表現しようのない声をあげる。
真剣な表情で身構える天使を前に、いっそ本当に悪魔になってくれようかなどという考えがよぎった時のことだった。
「待てえい!」
背後から、異様によく通る声が響き渡る。
振り向けばそこにはどこかで見覚えのある、コートに指ぬきグローブの巨漢が腕組みしていた。その男を見た戸塚彩加が声をあげる。
「材木座くん!」
ああそうだ。そういやそんな名前だった。
大岡がそんなことを思っている間に、材木座義輝はドタドタと戸塚彩加達の元へ駆け寄り、大岡と彼らを遮るように立ちはだかる。
「戸塚よ、おぬしが犠牲になることなどない。ここはこの剣豪将軍に任せよ!」
「何言ってるの!材木座くんはケンカなんてできないでしょ!?今だって脚が震えてるじゃないか!」
「戸塚よ……やはり優しいな、そなたは。我を心配してくれる者など、八幡以外ではそなたぐらいしか知らぬ」
材木座義輝は、戸塚彩加へと穏やかな微笑みを向ける。
「自分が中二病であったことを感謝したのは初めてだ。友の為に命を賭けねばならぬ場面で、逃げ出さずに済む」
「材木座くん……!」
「往け。その
「……絶対、絶対戻ってくるからね!それまでに死んじゃったら絶交だよ!?」
材木座義輝にそう言い残し、戸塚彩加は川崎沙希を連れて去っていった。それらの寸劇を
「ウソップにそげキングがいるように、岡部倫太郎に鳳凰院凶魔がいるように、俺には剣豪将軍が着いている!来い外道!この材木座義輝、そう易々とやられはせんぞ!」
「だから俺が何したってんだよォォォォォォ!?」
大岡は泣いて逃げ出した。
「イヤァァァァァッ!」
「姉さん!落ち着いて、姉さん!」
「怖い、怖いの!お願い、助けて雪乃ちゃん!」
「お願いだからしっかりして!姉さんがそんなんじゃ、私だってどうしたら……!」
錯乱し、お互いに抱き合って泣きじゃくる雪ノ下姉妹を尻目に学校を飛び出す。
「キャーーー!?」
「逃げろ逃げろ逃げろ!立ち止まるな!」
「ふ、ふひ、ふひひ、終りだ!ひゃははははっ!」
騒音。爆音。逃げ惑う人々。火を吹く自動車。悲鳴。罵声。
混乱が深まっていく。
なんなのコレ!?何が起きてんの!?
街に出た大岡を待っていたのは、更なる狂乱だった。しかもそれは大岡を中心に広がっているらしい。
滅茶苦茶になった人の流れは、実際の人数以上の人混みを産む。誰もが自分を見失い、どこへ向かえば良いか分からずに右往左往する。
そんな中で大岡が人とぶつかったのは、無理からぬことであっただろう。
たまたま偶然大岡と衝突した黒髪の少女、鶴見瑠美は、
「ーーはうっ」
大岡を見上げてそのまま卒倒した。
「またかよっ!?」
嘆きつつも大岡は、倒れた鶴見瑠美を抱え上げる。できれば無視して逃げたかったが、この騒乱の中で放置すれば、下手をすれば命に係わりかねない。
せめて人の居ないスペースに移動させようと立ち上がった大岡の背に、鋭い声が投げ掛けられた。
「貴様、その子をどうする気だ!?」
「だからなんなんだよコレは!?」
自分に銃を突き付ける警官に、思わず怒鳴り返してしまった。さっきからやることなすこと全てが悪い方向に働く。いっそ笑いたい気分だ。
「抵抗するつもりか!?くそ、凶悪な犯罪者を発見!至急応援を願います!」
大声を出したのが不味かったのか、警官が無線機に語りかける。すると出番を待っていたかのごとくスムーズに、わらわらと多数の警官が現れた。さらには有志の民間人らしき、バットや鉄パイプを構えた人物もその中に混じっている。
「油断するなーー確実に仕留めろ!」
「機甲部隊はまだか!?バカやろう!事件は会議室じゃなくて現場で起きてるんだ!」
「負けん……俺はもう、あんな奴のために誰かが泣くところを見たくないんだ!」
もうなんなのマジで?
大岡が何かを諦めて、膝を着こうとしたその時、大岡を護るかのように白い影が飛び込んできた。
「待ってくれ……!どうか、彼を責めないでくれ!」
この騒動の中で初めて大岡に味方したその影は、白衣を纏った国語教師、生活指導の平塚静であった。
「先生……!」
思いがけず訪れた救いの手に、大岡の眼に涙が滲む。
平塚静もまた泣いていた。
彼女は涙ながらに警官隊へと訴える。
「頼む、彼を見逃してやってくれ。彼は何も悪くないんだ!」
「先生ェ……!」
大岡の無実を主張する美女に、警官達が戸惑う。大岡もまた戸惑っていた。しかし彼は感激していた。
ご免なさい、先生。今まであなたのことをアラサーとか言ってバカにしてました。もう二度と行き遅れとか年増とか言いません。ていうかむしろ結婚してください。
ごく自然にそんなことを思い描いてしまう。その間にも平塚静の涙混じりの訴えは続く。
「彼がしたことは確かに許しがたいことかもしれない……だけど、それは仕方の無いことなんだ!」
ん……?
熱い涙を滂沱と流す平塚静の言葉に、大岡は脳内で疑問符を浮かべる。いやちょっと待って。それだとなんか……
「私が……私が悪いんだ!彼が道を踏み外したのは、私が指導の仕方を間違ったせいなんだ!だからどうか、責めるなら私を……!」
「だからなんでだあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
大岡は再び逃げ出した。
「ちくしょう……!なんなんだよ、これは……!?」
薄暗い路地裏。
人目を避け迷い込んだここで、大岡は独り黄昏ていた。
なにが起きているのかまったく分からない。つい先ほどまで普通の放課後だったというのに。
なんでこうなった?何がきっかけだ?
「分からないか?」
声に出していないはずの自問に答える声があった。その声が聞こえてきた路地の奥の闇に目を向ける。
「大和……」
闇から歩み出てきたのは、ラグビー部の大和だった。
戸部翔と並ぶ親しい友人の登場に歓喜し、すぐさまこれまでのことを思い出して項垂れる。どうせこいつもおかしくなってるに決まってる……
しかし大和は、大岡のそんな思考を否定する。
「心配しなくても故障なんかしてないよ。俺は、他の連中とは違うからな」
どこか自虐的にも思える呟き。だが、大岡にとってそんなことはどうでも良かった。
「大和、お前何が起きてるのか分かるのか!?」
「ああ、解決策も持ってきた」
「マジかよ!?ゴメン!俺今までお前のこと『それな』しか言えないボンクラだと思ってた!マジ見直したよ!」
「……まあ良いけどな。俺だってお前のこと童貞チビとしか思ってなかったし」
お互いに相当なことを言い合っていたが、希望に目の眩んだ大岡には分かってないようだった。早く早くと解決策をせがむ大岡に、大和はある物を手渡す。
「……何コレ?」
渡されたのは、一本のゲームソフト。
そのラブ〇ラスを手に茫然とする大岡に、大和は大真面目に頷いた。
「それを持ってみんなの前で『これが俺の彼女だ』と言え。それで全て解決する」
「ハアァァッ!?なんだそりゃ!?」
「お前だって、本当は解ってるんだろ?お前のあの不用意な一言が全ての元凶だと」
「ふざけんな!?なんでそんなことでこんなわけ分かんねえことになるんだよ!?」
その一言に、大和の眼が鋭く輝く。
「……言っても良いのか?」
「な……何をだよ……?」
大和の眼光に、大岡が思わずたじろぐ。そんな大岡に、大和は容赦無く続けた。
「お前は、俺達は、他の奴等とは違う。俺達があいつらを差し置いて恋人を作るなんて、この世界では許されないことなんだよ」
「い……意味分かんねえよ!なんで俺が彼女作っちゃダメなんだよ!?」
「決まってるだろ。それは俺達がモブだからだ」
あっさりと告げられたその言葉に、大岡は思わず固まった。
「な……なんだよそりゃ!なんだよモブって!?だ……だいたい、今さらゲームが彼女だなんて言ったって、本当の彼女が消えたり……」
「消えるよ、ちゃんと。世界がそれを許す。物語の都合の前には、俺達の現実なんて何の価値も無い」
「ウ……ウソだ!そんなわけない!俺はモブじゃない!ギザギザなんかじゃない!だいたいそれなら戸部はどうなる!?あいつだって俺達と変わらないはずだろ!?」
「戸部は違う。あいつはモブじゃない」
「なんでだよ!?あいつと俺達と、何が違うってんだよ!?」
大岡の悲痛な叫びに、大和は一旦言葉を切る。
「……もう一度だけ聞くぞ。本当に言っても良いのか?」
それは覚悟を問う言葉。
これを言われてしまえば理解せざるをえない、そんな答え。そんな予感に、大岡は怯えた。
「ま……待て、待ってくれ……」
「戸部が俺達と違うところ……いや、俺達が他の奴等と違うところ」
「やめろ!やめてくれ!」
「俺達にはな……名前が無いんだ」
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
人気の無い路地裏に、とあるモブキャラの悲痛な叫びが響き渡った。