水滴が滴る音が聞こえ、ジルクニフは目を覚ました。
暫く意識を失っていた為か、じんじんと痛む頭を押さえながら立ち上がり、自分の体を確認してみる。
あの深い穴へと落ちたはずだが特に怪我はないようだ。
自分が落ちてきた穴がありはしないかと天井を見てみるが、そこには平らな面があるのみ。
それどころか、部屋のどこを見ても出口らしきものは存在しない。
どうやって入れられたのか、完全な密室に閉じ込められてしまったようだ。
だが、ただ一つ。
この部屋にあって異彩を放っているものがある。
壁に取り付けられている大きな鏡だ。
鏡面の周囲は繊細な石の彫刻で飾られており、人間一人の全身を映せるほどに大きい。
ジルクニフがその前に立つと、自らの鏡像と目が合った。
その時だった。
鏡の中のジルクニフの姿が大きく歪み、その向こうに違う景色が映し出される。
そこにあったのは、ここと同程度の大きさの二つの扉で閉ざされているらしい部屋。
そして、鏡のすぐ向こうに立ち、こちらを同じように見つめているバレットの姿があった。
「で、殿下。 どうして? だってあの声は』
これは幻だろうか。
いや、それにしては余りにも生々しい。
噂に聞いたことがある、遠くの景色を見ることが出来る魔法によるものかも知れない。
「あの声だと? 一体、何がどうなってるんだ」
「それは『望むなら教えよう』 ⁉」
バレットの声は、突然どこからともなく響いた、若い男のものらしき声に遮られた。
低く深みを帯びたその声は続ける。
『石板に最初に触れし者は、扉を開ける鍵を知る。
"
捧げし者よ、今そなたが居るのは
捧げられし者よ、そなたが居るのは水底の部屋。 水面の部屋の扉を開く場所』
声がそこまで話したとき。
部屋の至るところから水が流れる音が聞こえてきた。
咄嗟に周囲を見渡すと、壁の隙間という隙間から水が溢れ、あっという間に部屋に溜まり靴を濡らした。
鏡を見てみるとバレットがいる声が言うところの水面の部屋、とやらも同様に水が流れ出したようだ。
『双子の部屋は同時に水に満たされん。
捧げられし者よ。 汝が献身を望むなら、この鏡に触れよ。
さすれば水面の扉は開かれよう。 しかし水底で扉が開くこと無し・・・。
汝が、どのような選択をしようともな』
「ま、待て! お前は誰だ」
しかし、もう声が語り掛けてくることは無かった。
薄々なにが起きているのか感づいたジルクニフだが、確認の為、鏡を通しバレットに問いかける。
「バレット、お前が知っていることをすべて話せ」
バレットは、しばし怯えた顔で逡巡していたが、やがて観念したように話し出した。
「あ、あの部屋で石板に触れた時、頭の中であの声が響いたんです。 その内容はさっきの声が話した通りですけど、オレは先に進むには誰かをあの穴に突き落とせって意味だって気が付いて、で、殿下を穴に・・・」
「かまわん、続けてくれ」
震えて沈黙しかけたバレットにジルクニフが話の続きを促した。
「でも、あの扉を開いて中に入るとこの部屋があって、奥へと繋がる扉は開かなかったんです。
慌てて引き返そうとしたんですけど、通ってきた扉も開かなくなってて、そしたら殿下がこの鏡の向こうに見え、て」
「やはり、そういう事だったか」
(仲間同士の裏切りを誘発し、一人の仲間を切り捨てさせる。 そして次は切り捨てられた者に、自分を切り捨てた者の生殺与奪権を握らせる)
ジルクニフが足元を見ると、既に水は膝の高さまで溜まっていた。
後十分も経過すれば、部屋は完全に水で満たされるだろう。
(おまけに声によると、どうやってもこの部屋に居る者が助かる道は無いらしい。
成程、誰か知らんが悪趣味な仕掛けを作ったものだな・・・)
ふぅぅぅ、ジルクニフは深呼吸をする。
昔からやっていた、感情が暴発しそうな時や絶望に押しつぶされそうになった時の習慣。
(よし・・・、落ち着いた)
自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、腹の奥に力を籠める。
ジルクニフは鏡の向こうのバレットを真っすぐに見据えた。
「狼狽えるなバレット。 最初にも言ったはずだ、必要ならばオレを見捨てろ、とな。
お前は、私の命令に従っただけだ。 怯える必要は無い」
「・・・は?」
何を言っているか分からない、というようにバレットは目を丸くした。
「さっきの声は。この先が迷宮の終着点と言っていた。
迷宮がこの場所の事を指すなら、私がお前の部屋の扉を開ければ生きて帰れる可能性は高い。
外に出た時の頼みを忘れるなよ、フールーダに私が死んだのはグロック卿の陰謀であること、そして次期皇帝には第三皇子を指名していたと伝えるんだ。 絶対に忘れるな」
バレットが表情を歪ませながら、鏡越しに訴えた。
「いや、そうじゃないだろ? アンタこれから死ぬんだぞ! オレが憎いだろ、鏡に触れなければオレもアンタと同じ運命を辿る。 自分を裏切った罪を償わせることが出来るんだ」
言葉遣いさえも忘れバレットはまくし立てる。
その顔に出ているのは感謝や賞賛ではなく・・・恐怖だった。
「・・・別に裏切ってなどいないと言ったろ。 私は自分で選んで、捨て駒になったんだ。 お前はその命令を果たした。 次はここを出た後の命令を果たしてくれ」
ジルクニフが手を鏡に近づけていく。
バレットはそれを阻もうとするように、向こう側の鏡を叩いた。
「やめろぉ。 触るな。これ以上オレは・・・。 触るんじゃねえ!」
鏡面に触れた瞬間。
ジルクニフはここに入る際、入口の膜に触れた時のように、鏡へと引っ張られるのを感じた。
体が鏡の中を通り。
気が付いた時には、目の前にバレットがいた。
「は、え、どうして」
狼狽するバレットだったが、その時また声が響く。
『捧げられた同胞は扉を開け道を通った。
認めよう。 汝らが宝物庫へ至るべき器だと』
水面の部屋にあった奥へ進む扉は水圧に負けたように、半ばまで解き放たれ。
部屋の中にあった水はそこから流れ出ていった。
「生き、残ったか」
ジルクニフは底知れぬ安堵を感じながら自分が助かった理由を考える。
そうすると、声が伝えた言葉の不自然な点に気が付いた。
「成程な、同胞を捧げよ、か」
「どういう、ことですか?」
「奇妙だと思わないか? ただ、誰かを穴の中に落とすなら、普通は自分にとって一番価値の無い奴や、関係の薄い奴を無理矢理突き落とす。 ならば、同胞、ではなく生贄を捧げよ、の方がしっくりくる。 恐らく、これは穴の中に落ちても、自分達を助けてくれる者を選べ、という意味のヒントだったんだろう」
「で、でも、殿下が脱出できたのは?」
「ふむ・・・、そうか! あの声は"扉を開け道を通った"と言っていたな。
多分、道とは鏡の事だろう。塞ぐものなど何も無いから、水底の部屋に開く扉は無い、という文句とは矛盾しない。 ははっ、皮肉なことだな。 扉を開くまでもなく、始めから道は用意されているのに、恨みや憎しみが、その道を自ら閉ざしてしまうというわけか。 どうやら、ここの主の性格の悪さは、私の予想を超えているらしい」
「そんな・・・」
バレットは俯き、拳を白くなるほど硬く握った。
「・・・気にするなと言ったぞ。 さ、確か声は、宝物庫と言っていたな。
なんのことかは分からぬが、もう出口はすぐそこかも知れん。 先を急ごう」
二人が奥への扉を完全に開き、それをくぐる。
すると急に視界が開けた。
果てがかすむほどの空間に石造りの屋根が所狭しと並び。
既に朽ちてはいるが、かつての荘厳さを想起させる大きな石像や、枯れた噴水があった。
「これは、都市、か?」
帝都アーウィンタールと並ぶ、あるいは凌ぐのではというほどの広さを持つ地下都市。
それが命がけの旅の果てに、ジルクニフとバレットがたどり着いた光景だった。