エンリ達のエ・ランテル脱出とほぼ時を同じくして。
ンフィーレア・バレアレは、未だに街の中を駆け回っていた。
空を見上げると点々と黒い点が動いている。
それらは飛行能力を持つ無数の悪魔達であり、時折地上近くを滑空しつつ、都市の至る所へ仲間の悪魔を投下すると、入れ替わりに人間を攫っていく。
恐怖する人々が発する悲鳴と、異常な熱気が支配する中をンフィーレアは立ち止まらずに、あちらこちらを見回しながら走り続けた。
数日前に、故郷のカルネ村が盗賊に襲撃され滅びた為に、エ・ランテルへと仕事を求めてやってきたエンリとネム。
特にエンリはンフィーレアにとって幼馴染の友人であると同時に、片思いの相手でもある。
その二人が若くして両親、そして故郷を失う悲劇に襲われたと聞いた時、絶対に二人を守らなければと誓った。
一昨日、アンデッドによる襲撃ではエンリを守るどころか逆に守られてしまったが、だからこそ今度は自分がエンリを助けられる程強くなってみせると……。
だが、その今度がこれほど間を置かずに、しかも遥かな脅威となって現れるとは予想もしていなかった。
「っ!」
二十メートル程先の曲がり角の先から聞こえる唸り声を感知し、ンフィーレアは慌てて路地へと逃げ込んだ。
冒険者でも戦士でもないンフィーレアにとって悪魔の強さなど察することは出来ないが、見かけた悪魔は火を吹く犬、ぶよぶよと太った灰色の巨人など見るからに恐ろしいものばかり。
戦闘経験など碌に無いンフィーレアにとっては、見るもの全てが自分の命を容易く奪う強者に思えた。
唯一幸運と言えることは、襲撃から既にある程度時間が経っている為、ンフィーレアが今いる外周部には人が少ないという点だろう。 悪魔達は、現在避難してきた人間が密集しているであろう内周部に集中しており、ンフィーレアがエンリ達を探している外周部においては比較的まばらだ。
しかしながら、今も尚、断末魔のような悲鳴が様々な方向から聞こえているのだが……。
「ぜえっ、はぁ」
いつの間にか、胸が苦しくなっている事に気がついたンフィーレアは狭い路地裏の建物の隙間に潜り込み、一旦息を整える。
極限状態の中で、必死でどこにいるかも分からない二人を探してきたのだ。
体力が既に限界を迎えていても、不思議ではなかった。
ンフィーレアは迷う。
先程、市場を探したときには見当たらなかった。
そもそもいくら襲撃前に市場にいたとしても、いつまでも同じ場所にいる筈がない。
当然エンリ達も避難しているだろう。
いや、もしかして、既に悪魔に……。
「……」
そこまで考えてンフィーレアは無理矢理、その思考を振り払う。
今のンフィーレアはエンリ達が生きているという希望だけで、この絶望的な状況を闘っていた。
もし、それが途切れれば力尽きて二度と起き上がれなくなってしまう気がしたのだ。
きっと二人は既に城壁内に避難しているに違いない。
だとすれば、現在街の人達が多く集まっているであろう内周部へと行ってみよう、とンフィーレアが壁から背を離し歩き始めた時
「どこへ行くんだい?」
と、背後から声が聞こえてきた。
その声色は、今の状況にそぐわない涼やかとも言える落ち着きと、頭の奥を揺らすような甘さを含んでいる。
ンフィーレアが咄嗟に声が聞こえてきた方を向く。
今の声は背後から降るように聞こえてきた、とすると……。
斜め上を見たンフィーレアの視線の先、路地脇の建物、その屋根の上にそれは居た。
緩くウェーブの掛かった絹糸のような黄金の髪に、体のしなやかさを引き立てる、しなやかなスーツ。
驚く程に整った中性的な顔には、男性のンフィーレアから見ても息を呑むような、淫靡とも言える微笑を湛えていた。
ただ、その額から生えた二本の角と、青い肌色が彼の正体を如実に物語っている。
「あ、悪魔……」
ンフィーレアは体中に鳥肌が立つ感覚に襲われ、数歩後ずさりした。
その様子を悪魔は、変わらぬ微笑を浮かべて見つめている。
その悪魔の名はインキュバス。 特に精神系魔法に長けた悪魔の一種であり、レベルにして23と、自動POPモンスターの中ではそれなりの戦闘能力を持つナザリックのシモベ。
ンフィーレアにとっては、まともに戦ってもまず勝目がない強敵だった。
「いい表情だね。 ……ふふふ、人間が怯える顔ってなんでこう、そそられるのかなぁ。 僕たち悪魔の本能がそうなっているのか、それともシモベとして与えられた性質なのかな」
「……っ!」
インキュバスの口調から、完全に自分が侮られていることをンフィーレアは理解するが、だからと言って憤ることも出来ない。 ンフィーレアの意識はどのように戦うか、ではなく、どのように隙をついて逃げるかに向いていた。
それと同時に、思いがけず言葉を話す悪魔と出会い、つい口をついて疑問が噴出する。
「ど、どうしてエ・ランテルを襲う? こんなに多くの人を一方的に……どうして!?」
インキュバスはンフィーレアの問いかけを聞き少し思案するが、やがて答えてやることに決めた。
勿論、親切心などではなく、インキュバスは既にンフィーレアを逃がすつもりは無い為情報流出の心配は無く、もう少しンフィーレアの絶望を楽しみたくなったという理由からだったが。
インキュバスを始め全ての自動POPモンスターはナザリックのシモベとして、仕事を忠実に行うことを本能レベルで刷り込まれている。
だが、アンデッドのように生理的欲求の無い存在ならばともかく、高い知能を持つ欲望の権化たるインキュバスが、仕事のついでに己の嗜虐心を満たそうとすることは当然有り得ることだった。
この世界ではスケルトンのような本能のみで動く低位のアンデッド等を除く自動POPモンスターにも、意思というものが存在している。
当然それはナザリックのシモベという彼らの存在意義を逸脱しない範囲に制限されており、そういう意味では自由意思とは言えないかもしれないが、兎に角ナザリック内のNPCが取る行動は良くも悪くも機械的なものでは無くなっていた。
「何故って言われてもねぇ……命令だからかな? 本当はンフィーレア・バレアレっていう人間の男を捕まえることが目的らしいんだけど、見失ってしまったみたいでね……。 それで都市内の若い男を手当たり次第に確保しているのさ。 まあ君がンフィーレアじゃなくても、それを判断するのは偉大な御方達。 僕としては……」
そこまで言って悪魔はンフィーレアの奇妙な表情に気が付く。
怒りと共に、先程までは無かった驚愕と奇妙な苦悩が入り混じった顔……。
「も、もしかして……」
「《マジックアロー/魔法の矢》!!」
ンフィーレアの手から、二本のエネルギーの矢が悪魔に向けて放たれる。
今、ンフィーレアの心中は混乱の極みにあると言っても良かった。
何故、自分の名が出てくるのか。 どうして自分が狙われるのか。 一体誰が、こんなに大勢の悪魔に街を襲わせたのか……、そして、このエ・ランテルの惨状は自分のせいだとでも言うのか。
様々な感情が奔流のように体内を駆け巡り、気がついた時には激情に任せて攻撃魔法を目の前の悪魔に放っていた。
だが、初歩的だが自分にとって最も頼りになる攻撃魔法である魔法の矢に、目の前の悪魔は軽く手を上げて首と顔を庇っただけだった。
矢が二本とも胸へと突き刺さり、スーツが軽く破れる。
……しかし、矢が当たったことを示す痕跡はそれだけ。 骨が折れる音が聞こえたり、血が吹き出ることは無い。
衝撃に軽く体を揺らした後、手を顔の前から下ろした悪魔は、先程とは異なる肉食獣のように凄惨な笑みを浮かべていた。
「その反応……、君、もしかしてンフィーレアなのかい? ……ひゃはははは、僕はついてる!
まさか、大本命に巡り会えるなんて。 さぁて、もう遊びはなしだ。 ―――行くぞ」
「うっ……」
悪魔が放つ禍々しい殺気にを受け、激情から再び恐怖に支配されたンフィーレアは悪魔に背を向けて逃げた。
そして狭い路地から飛び出し、視界が開けたと思った直後、右足が空を切って地面へと転がってしまった。
先程ここは通ったが、こんなところに段差があっただろうか。
一瞬疑問に思うが、直ぐにそれどころでは無いことを思い出し、ンフィーレアは大急ぎで体を起こそうとする。
だが……、なぜか右足から地面を蹴る感覚が伝わって来ない。 体は地面に縫い付けられたままだ。
後ろを見たンフィーレアの目に最初に飛び込んできたのは、鮮烈な赤色だった。
赤色の服など来てきた覚えは無い、と一瞬それが何なのかンフィーレアは分からなかったが,やがて気が付く。
これは自分の体から吹き出ているのだと。
そう認識した瞬間、今度は体の芯に響くような鋭い痛みが襲いかかってきた。
「あ、足が……ああぁぁぁ!」
近くの別の悪魔も呼び寄せてしまうかもしれない、などという配慮は最早ンフィーレアの頭にはない。
ただ痛みと恐怖のままに喉から悲鳴が迸る。
ンフィーレアの右膝から下の部位は完全に切り取られており、すぐ近くに靴を履いている足が無造作に転がっている。
動けなくなったンフィーレアが自分を追っているであろう悪魔のいる方向を見たとき、彼は何が起きたのかを全て悟った。
インキュバスが持つ赤い血が滴り落ちる偃月刀が、それを雄弁に語っていた。
「生け捕りという他に、特に指定は無かったからね。 ……どうする? まだ逃げてみるかい?」
既にンフィーレアには逃げる能力が存在しない事を承知の上で、インキュバスは彼を嘲笑う。
しかし、ンフィーレアはそれに言い返すことさえ出来ず地面をのたうち回るだけだ。
インキュバスは笑みを深くしながら、右手をンフィーレアへと伸ばした。
だが、その腕がンフィーレアを掴むことは無かった。
何故ならインキュバスが、ンフィーレアに手が届く直前に身を翻したから。
そして瞬き程の時間の後、インキュバスの腕があった場所を長い何かが風を切って通り抜けた。
動物的な勘でそれを回避したインキュバスの背筋を冷たいものが通り抜ける。
もしも避けきれておらず、まともにそれが体に当たっていれば、確実に重大なダメージを喰らっていたことを感じたからだ。 理屈ではない、悪魔として、捕食者としての本能によって。
「その人はそれがしの恩人でござる故―――、助太刀させて頂く。 さあ、命の奪い合いをするでござる」
インキュバスが睨みつける、二十メートル程離れた道路の先。
白銀の毛皮を持つ伝説の魔獣が、鱗に覆われた尾をしならせていた。