「俺の部屋に来い。夜戦だ」
今日という日ももうすぐ終わろうかという頃、唐突にそんな言葉をかけられた。声の主は見慣れない、でもここ数日ですっかり有名になった人物。もちろん悪い意味で名を馳せている。
吾川忍。数日前にこの鎮守府にやって来て、すでに五十鈴を手籠めにしている男。
部屋で夜戦。隠語のつもりか、私が夜戦好きと知っていてわざとそう言ったのか。どちらにせよ最低なセリフであることに変わりはない。
でも私達はそれを拒否することができなかった。反抗的な態度を示して神通や那珂にまで魔の手が伸びるのは絶対に嫌。
それにこういうことは初めてじゃない。慣れたくなんてなかったけど、もう慣れちゃった。
私が十九渕鎮守府の所属になったのは別の鎮守府で建造されてから半年ほど経ってからのこと。
横須賀鎮守府で建造されてから戦闘の訓練を受けて、ある程度の練度に到達してからここに着任した。
そういうことは良くある。退役や轟沈などで欠員が出た他の鎮守府に対し、大本営からすぐに戦線で運用可能な艦娘を派遣するための制度。
各鎮守府で年間に建造できる艦娘の数が定められているのもこんな制度が設けられている理由かな。
そんなわけで私はここにやって来て、その日の内に鎮守府の異常性を知った。体を汚されたのもそれから間もなくのことだった。
何度絶望に暮れただろう。人知れずどれだけの涙を流しただろう。いつしか大好きな夜戦ができる夜が訪れることすら怖くなっていた。
それでもここでの生活に耐えることができたのはしばらくして神通と那珂が建造されたから。
私が身を挺していれば二人を守れる。そのためならどれだけ辱められたって構わない。
だから今回だって素直に従い、吾川の部屋に足を運んだ。そしてそこで私が見たのは――
「遅かったわね。何してたの?」
マグカップを片手に小首を傾げる五十鈴の姿だった。
うっすらと立ち昇る湯気と鼻をつく芳ばしい香り。それで五十鈴が飲んでいるのがコーヒーだと瞬時に察する。
いや、五十鈴が何を飲んでいるかは問題じゃない。彼女がここにいるのも不自然じゃない。なにせ五十鈴はこの吾川という男に純潔を散らされた……はずなのに。
「い、五十鈴……?」
「川内も立ってないで座ったらいかが?」
いつもと変わらない気品を感じる所作で私を招く。その振る舞いは自然で、むしろいつもよりリラックスしているようにさえ見えた。
なんで?という疑問が私の中に渦巻く。ここは吾川の部屋で、五十鈴はこの吾川にひどいことをされたはずなのにどうしてそんな風にしていられるのか理解できない。
そう混乱している私に、五十鈴はふっと笑いかけた。
「安心しなさい。信じられないかもしれないけど、わたしは吾川に何もされていないわ」
「いやいや、そんな……えぇ?」
上手く言葉が出てこない。だってこの男は食堂で五十鈴に乱暴したって、確かにそう言っていたはず……。
恐る恐る吾川の方を見る。すると彼は何事でもないように言った。
「あれは嘘だ」
「……う、嘘?そんなの、なんのために……」
あの嘘のせいで彼はこの鎮守府の艦娘全員から敵視されている。そんなことをして一体どんな利益が……。
「あー、まあ釈明させてもらうとだな……」
そう言って吾川が今に至る経緯を説明してくれる。
彼がここに来た初日の夜、五十鈴が憲兵長に連れてこられ彼女を好きにしろと言い放った。そこで真っ向から反対すれば面倒事になるし目をつけられる恐れもあったこと、何より憲兵長に体をいいように触られる五十鈴が見るに堪えず調子を合わせたらしい。
それで一旦は事なきを得たけど、そのせいで憲兵長に対しては「五十鈴に乱暴をした」という体面を保たなければいけなくなり、食堂でのあれは正に最悪のタイミングで起きたことなのだと……。
「ついでに言わせてもらうと川内への誘い文句もその一環だな。不快な思いをさせて悪かった」
「ちょっと、あなたなんて言ったのよ?」
「……『俺の部屋に来い。夜戦だ』って」
「バカじゃないの!?」
「川内が一人にならなかったんだからしかたないだろ」
「それにしたってもっと別の言い方があるじゃない。最近名取があなた憎しですごいことになってるのよ?」
吾川と五十鈴が騒々しく言い合う。それはどこからどう見ても対等な関係のそれで、この鎮守府で憲兵と艦娘がそんな関係にあるという事実と相まってさっきの五十鈴の言葉が本当なのかもしれないと思うだけの説得力を持っていた。
つまり彼は私にひどいことをしないって、信じられる人なのかもしれない。そう思うと腰が抜けそうになる。
「あ、あはは……」
私を挟んで言い合う2人の声を聞きながら思わずその場にぺたんと座り込む。気付かない内に小さな苦笑と、安堵を含んだ一筋の涙がこぼれていた。
「……だい、川内ってば!」
「ん……あ、ごめん。寝てた?」
「うたた寝だけどね。笑っていたけどいい夢でも見たのかしら?」
「うーん、まあそうかな」
見てたのは夢じゃなくて過去、一昨日初めてこの部屋を訪れた日のことだけど。
笑ってたってことは私にとっていい思い出ってことになるのかな。でもそれは私だけじゃないよね?
記憶に残るあの日の五十鈴。吾川さんが憲兵長に体を触られる五十鈴を助けるために芝居を打ったって話をしていた時、背けた顔がちょっとだけ赤くなっていて、口元がゆるんでいたのをしっかり覚えている。
きっと五十鈴にとっても大切な記憶なんだ。
「仲良くおしゃべりもいいんだけどさ、ひとまず明日の話をしていいか?」
「……そうだったわね」
「あはは、ごめん」
「お前らここ数日でずいぶん馴染んだよなぁ」
呆れたように吾川さんが呟く。確かにそう言われると反論できないなぁ。
なんでか分からないけどこの部屋は居心地がすごくいい。吾川さんの人柄ってやつなのかな?だからつい安心して居眠りしちゃったり……。
できれば神通と那珂にも本当の吾川さんを知ってほしいけど、彼が言うにはそれはまだ時期尚早らしい。早く誤解が解ける日がくればいいな。その時は私が、そして五十鈴もしっかり吾川さんの無実を証言するからさ。
「まあいいけど。んで、明日だけど」
「うん。私は何をしたらいいの?」
「なーに、簡単なことだ」
そう言って、吾川さんはニヤっと笑う。そして予想だにしないことを口にした。
「川内、俺とかくれんぼしようぜ」