こちらより先に『十九渕鎮守府の長い1日・弐』をお読みください。
肺が潰されて中の空気が漏れ出たような、とでも言えばいいのか。そんな汚い、
この事態を引き起こしたのは吾川。なぜ彼が提督を攻撃したのか。
そんな疑問を抱くよりも早く体は行動を開始した。提督に敵対する存在を排除せよ、という命令を守るために。でも、照準を定めたところで動きが止まる。
「そうだよな。撃てるわけがない。そんなことをしたら俺もろとも提督が死んじまう」
素早く提督の背後に回り首を締めあげながら吾川は笑う。
いつもの醜悪な笑みとは違う、冷笑。
「吾川、何のつもりだ!」
「見て分かるだろ。抵抗は止めろってことだ」
「貴様、裏切るつもりか……!」
「裏切る?悪いけど最初からそっち側には立ってねぇよ」
最初からそっち側……提督側には立っていない。吾川はそう言った。
どういうこと?だって吾川は五十鈴ねえや川内さんにひどいことを……。
混乱する私を置いてけぼりにして事態は進んでいく。吾川は執務室に備えられている、さっき提督が鎮守府全体への放送に使ったマイクを空いている左手で取った。
「このまま首をへし折られるか、さっきの命令を撤回するか。好きな方を選べ」
提督の顔色がどんどん青ざめていく。口の端に泡を浮かべながらじたばたともがく様は滑稽だった。
脅し……だとは思うけどその冷めた声と瞳が本気のように思えてならない。
でも、どうして彼はあの命令を撤回させようとしているの?何もかも分からないことだらけで、助けを求めるように神通さんの方を見る。でも神通さんも那珂ちゃんも事態についていけていなかった。
憲兵達の反応を見てもこの場の誰しもが吾川忍の意図を読み取れていない。
あの男は私達の敵なのか味方なのか。そっち側じゃないということは味方?それなら五十鈴ねえや川内さんに乱暴はしていないということ?
いや、でも五十鈴ねえは毎晩のように部屋に呼び出されていたし、五十鈴ねえにそういうことをしたってはっきり言ってた。あれは嘘?だとしたらなんのために?
「ず、ずる……ずる、がら……」
提督が懸命に言葉をしぼり出す。吾川はそれを聞いてようやく腕の力をゆるめた。
といっても抵抗できない程度には極まっているけど……。
「無駄口も質問もなしだ。命令を撤回すればいい」
「……わ、わがっている」
相当強く絞められて喉を痛めたのか、提督の声はしゃがれていた。そんな提督に構うことなく、吾川は放送機器のスイッチを入れて提督の眼前にマイクを差し出した。
小さなハウリング音。それが収まってから提督は荒い呼吸を抑えつけながら言う。
「……ち、鎮守府内の、全艦娘に……告ぐ。現時刻をもって、我らに敵対する存在を排除せよ、という命令は解除とする。命令は……解除だ」
その言葉を聞くと同時に、武器を構えていた腕が弛緩してだらんと下がる。
命令が解除されたんだ……。
「……よし、これでいい。じゃああんたはしばらく眠ってろ」
言うや否や、吾川は再び提督の首を絞める。声を漏らす間もなく、ものの数秒で提督は意識を失った。
それを確認すると吾川はぞんざいに提督を放り出す。って、それじゃあ……!
「やってくれたな吾川ァ!」
残っていた憲兵達が声を荒げながら、腰のホルスターから拳銃を引き抜く。
解除された命令は『敵対する存在の排除』だけ。つまり今の私達には吾川を守る必要はなく、普段通り彼らの行動を遮ることはできない。吾川がハチの巣になるところを見ていることしかできなかった。
ドン、という銃声が響く。それが合図になったかのように5人の憲兵が発砲を開始する。
距離を考えればまず外れない、38口径から放たれた実弾。助からない。それが常識的な判断……のはずなのに。銃弾の雨が通ったその場所に、あの男はこれまでと変わらずに立っていた。
「な、なんで……?」
思わずそんな言葉が口をついた。その疑問に答えるように、吾川はいつの間にか右手に握っていた警棒を憲兵達に向けて構える。
まさか……まさか、まさか――!
「う、撃てー!」
再びの発砲音。けれどその最中に、明らかに銃撃とは異なる甲高い音が聞こえる。そしてそれは、銃に狙い打たれている吾川が警棒を振るう度に鳴り響いた。
「じ、銃弾を、弾き落してるの……?」
「あり得ないわ……」
そう、あり得ない。人間はもちろん、艦娘の動体視力でだってできることじゃない。そんなの空想の世界の出来事。
なのに吾川は未だ傷ひとつ負わず、警棒を操り続ける。そしてついに、憲兵達の拳銃から銃弾がすべてなくなった。
激しい銃撃音の後に訪れたのは息を呑むような沈黙。その中で吾川だけが何事もなかったようにそこに立っていた。
「もう終わりか?ならこれ以上抵抗しないで捕まってくれよ。逃げるってんなら容赦しない」
「ふ……ふざけるなああああああ!」
絶叫が木霊する。逆上した憲兵長がなりふり構わず吾川に殴りかかった。
あれほどの光景を見せられて選択したのが、観念でも逃走でもなく、まさかの攻撃。それが蛮勇を通り過ぎて自殺行為だというのは火を見るより明らかなのに。
憲兵長の拳は空を切る。最初からそこには何もなかったかのように吾川の姿は消えていた。そう見えたことだろう。
吾川はいつの間にか憲兵長の背後を取っていた。私の目でも追い切れない速さ。そのまま吾川は憲兵長の後頭部を鷲づかみにすると、執務室のデスクに顔面から叩きつけた。
鈍い音がした。顔面を強打した憲兵長は力なくずるずると崩れ落ちる。デスクの側面を鮮血で染めながら。
「ひ、ひいいいいいい!」
恐怖が限界に達してか、残った憲兵達が一斉に逃げ出そうとした。でも、もう遅すぎる。
たったの一足で吾川は部屋の奥から私達の目の前、部屋の入り口までの距離を詰めた。室内にいた憲兵を置き去りにして。まるで瞬間移動でもしたかのように。
背を向けたはずなのに、なぜか自分達の前に立ちはだかる吾川。現実とは思えない出来事の連続についに憲兵達は腰を抜かした。
「ば、化け物……」
震えて、恐怖に染まった声。
尻もちをつきながら言葉を発した憲兵の股間にはシミが広がっていた。
「化け物結構。それじゃあいい夢を」
きっと見るのは悪夢だろうけど。
吾川は容赦なく憲兵達の意識を奪い取った。