その日はぽかぽかと陽気の良い日だった。
「平和ねぇ」
縁側でずずりと緑茶を啜る、この少女を幻想郷で知らぬ者はいない。名を博麗霊夢といった。
ほぅと息を吐くと、白い呼気が空中で溶けるようだった。
冬なればそれも形となって見えたろうが、生憎今は雨季の終わり。初夏の前。吐息は見える筈も無かった。
今度は茶請けの煎餅に手を伸ばし、バリバリもしゃもしゃ。乾いた喉を潤すために茶を一口。
「はぁ、平和ねぇ……」
まるで文句のあるかのような言い様だったが、その逆だ。
異変解決を専門とする博麗の巫女であるからこそ、この何気ない一時をしみじみと噛み締めている故に漏れた一言だった。
「そう。それは何よりね」
「あら、いらっしゃい。素敵な賽銭箱はあっちよ?」
その独り言に相槌が打たれた。
しかし霊夢は動揺する事もなく、突如現れた人影――十六夜咲夜に対しいつも通りの対応をした。
「で、何の用? あんた一人で来るなんて珍しいじゃない。レミリアから伝言でも預かってるの?」
霊夢はパンパンと袴を払い立ち上がる。
境内で立ちんぼしている珍客に歩み寄って、眉を顰めた。
「あんた変わったわね」
事情をまるで知らない筈なのに、巫女の恐るべき勘に咲夜は舌を巻く。
この巫女を敵に回す事態は起こしたくないが、彼を待たせているのだ。一秒とて無駄には出来ない。
「えぇ、霊夢。貴方に頼みがあるの」
「ふぅん。本当に珍しいわね」
霊夢の言葉には応えず、己の事情のみを話す。霊夢は特に気を悪くした様子も無く、聞く体勢に入った。
博麗霊夢とは、良くも悪くも、何時如何なる時もこうであった。他人に興味が無いというか、むしろ世界にも興味が無いのかもしれない。
だが霊夢の性質がどうだろうと咲夜には関係無く、何より今は彼女の性格は有難かった。
「外界に送り返して欲しい人がいるのよ」
「……どういうこと?」
話が読めず、霊夢は首を傾げる。
咲夜はかいつまんで説明した。
「貴方は知らないだろうけど、今紅魔館では外界の男性を保護してるの。その人を送り返して欲しいの」
霊夢の反応は意外なものだった。
「――あぁ、あぁ。そう言えばさっき天狗が騒いでたわ。紅魔館のメイドが男とデートしてるって」
何と彼女は、こちらの事情を少しだが知っているようだった。
天狗め。偶には役に立つではないか。
「それじゃぁ――」
「いいわよ別に。出すものちゃんと出すっていうならね」
咲夜の言葉に被せ霊夢は、手で円の形を作った。
思いの外トントン拍子に話が進み、咲夜の気が抜ける。
――いや、ここからが本番なのだ。気を緩めるには早過ぎる。
「そうね。ま、外の人を送るのは博麗の巫女の仕事だし、そんなに多くは――」
「私も送って欲しいのよ」
「……何の冗談?」
何処か掴みどころのなかった霊夢の気が、鋭いものと化してゆく。
「お金なら払うわ」
「そう言う問題じゃ――」
「霊夢」
刹那、咲夜の姿が掻き消えた。
代わりに背後を取ったメイドが首筋にナイフを突き付けてきた。
「お願いよ、霊夢」
「……脅迫って言葉、知ってる?」
それでも、霊夢に動揺は見られない。
相も変わらず、この巫女の精神構造はどうなってるんだと咲夜は呆れ、感心した。
出会い頭に首元へナイフを当てるメイドも大概ではあるが。
「倍出すわ」
「あのねぇ、金額の問題じゃ」
「五倍」
耳元で小声で囁かれる度、霊夢はこそばゆい思いをする。
咲夜の交渉に霊夢は呆れと、若干の怒りを混ぜて返答するも、更なる言葉には生唾を飲んだ。
――五倍。
それだけあれば丸一年、何もせずに悠に過ごせる。
巫女としての責務と欲望の狭間で、霊夢の心が揺れ動く。
「も、もう一声」
「十倍」
「よし分かったわ」
一体博麗の巫女としての矜持とは何だったのか。
一応、吹っ掛けてやれば諦めるだろう、という考えもあっての台詞だった。
尤も、ふんだくってやろうという考えが大半を占めての台詞でもあった。
「でもすぐにって訳にも行かないわ。ちょっと準備があるから、そうね、三日後ぐらいかしら?」
「そんなに待てないわ。今すぐにでも送り返して欲しいのよ」
「……明日よ。それ以上は飲めない要求ね」
咲夜は懐から、金子の入った袋を取り出した。
そして無言で霊夢に投げ渡す。その無愛想なメイドの態度が癪に障るものの、袋の中身を取り出し「ひーふーみー」と、幻想郷ではそれだけで大金である紙幣を数え霊夢は目を丸くした。
十倍どころではない金子があった。
「出来ないとは言わせないわよ」
「あーもー、分かったわよ。でも、本当に準備が必要なのよ。今からすぐ取り掛かるけど、準備が出来なきゃ送り返せないわよ?」
妖怪退治であれば超が付く程一流な彼女も、此度の駆け引きの敗北を認めなければなるまい。と言っても、大半が金の力だが。
がしがしと頭を掻く霊夢の雰囲気から、これ以上の交渉は無意味と悟ったのだろう。
「頼んだわね」
咲夜はそれだけ告げて、まるで慌てるように、音もなく姿を消した。
「何なのよ、もう」
霊夢は先程まで咲夜がいた場所をじっと見つめる。
はぁー。気が乗らないわね……。
抱えた袋の重さが、今やそのまま心に重しとなり、霊夢は盛大に溜め息を吐いた。
「号外~! 号外~!」
霊夢の気分とは対象的に姦しい声が頭上を通り抜ける。
一拍置いて、空から紙きれが舞い落ちてきた。
近くに落ちたそれを拾い上げ、紙面に書かれた文字に目を落とし霊夢は言い様もなく嫌な予感を覚えた。
「本っ当に、大丈夫なんでしょうね……」
早さをモットーに。いや、速さだけをモットーにした天狗の新聞。
『その時、家政婦は見られた! 紅魔館のメイドに熱愛発覚!?』
一面には、なんともセンスの無い煽り文句。隠し撮ったのであろう頭上からの構図の、咲夜と件の男が仲睦まじく手を繋いでいる写真。
霊夢はくしゃくしゃに新聞を丸め投げ捨てると、早々に記憶から消そうと準備に取り掛かるのであった。