幻想狂縁起~紅~ 《完結》+α   作:触手の朔良

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鏡合わせの姉妹

「レミリア、話って?」

「全く他人行儀だな。レミィと呼んでいいと言ったろう」

「あぁ、そうだったねレミィ」

 その夜、レミリアは権兵衛を自室へと招いた。

 本当はこんな強行策の様な真似、取りたくは無かったが、そう悠長にもしていられなくなってしまった。自然と時間を経るがままに任せたかったのだが、仕方あるまい。

 状況は変わったのだ。ならば対応を変えるのもまた自然であろう。

「呼び方を間違えるなんて、ククッ。緊張しているのか?」

「そうかもな。部屋に誘われるなんて初めてだからさ」

「偶にはオマエから誘ってくれてもいいじゃないか。男の甲斐性だぞ」

「……善処するよ」

 他愛の無い会話も調子良く。出会った当初ではとても出来ないような内容は二人の仲の深まりを感じさせた。だがこれでは遅い、遅すぎるのだ。

 そして今晩権兵衛を呼んだのも、こんな他愛のない話をする為ではないのだ。

「じゃぁ早速甲斐性を見せてみろ。ほら」

 ぽんぽんと、レミリアは横を叩いて意思を示した。ここに座れと。

 しかし権兵衛は躊躇した。彼女の横に座るのが嫌なのではない。彼女が座っている場所が問題なのだ。

「ふぅん、なんだ。やっぱり甲斐性が無いんだな権兵衛は」

少女の挑発的な口調に、男の安っぽいプライドが刺激された。権兵衛は少しだけ眉根を寄せ、勢い良くレミリアの横に腰を下ろした。

 レミリアの、普段から使っているベッドの上に。

「ククッ、怒るなよ」

「怒ってなんか」

 彼の子供っぽい一面も、レミリアは嫌いではない。それは贔屓だと解ってはいたが、諸々を含めてこそ感情なのだから、仕様のないことだろう。

「なぁ権兵衛。オマエが紅魔館に来て、色々あったな。色々あった割には私が、私がオマエを気に入った理由をまだ話していないよな」

「……そうだな」

 それは権兵衛としても、ずっと気に掛かっていた事だった。話してくれるというなら大歓迎である。

「朱に交われば赤くなると言うだろ?」

「はぁ?」

 その第一声があまりにも意味不明過ぎて、男の口からもつい「何言ってんだコイツ」との気持ちが漏れ出てしまった。

「あぁ、そうだな。順を追って話そうか。まずは――。権兵衛、オマエは私の能力を知ってるか?」

 能力、か。美鈴は『気』を操り、咲夜は『時』を操るという。レミリアもまた何らかの能力を持っているのか。しかし権兵衛は誰の口からも聞いた覚えが無かった。

「私はな、『運命を操る程度の能力』を持っているんだよ」

「……凄すぎじゃない?」

 従者も従者なら主人も主人である。

 運命とは、男の予想を遥かに越えて凄まじい能力だ。あまりにも凄すぎて、どんな能力か想像も付かない程には大層な響きである。だと言うのにレミリアはくつくつと、自嘲気味に笑った。珍しい。だって彼女はいつも尊大で自信満々な態度を崩さ――そこそこに崩してたな……。

「そう思うだろう? だけど実はな、大して役に立たないんだなこれが。私が操れる運命なんて本当はちょっぴりしかなくて、精々他人の運命を覗き見る事ぐらいしか出来ないんだよ」

 少女が見せた弱音に、権兵衛の心は強い衝撃を受けた。

「運命と言う名の糸はさ、人と人とで複雑に絡み合っているのさ。それを視ればおおまかにどんな未来を辿るのか分かるって寸法さ」

「……それじゃぁ、未来は決まってるのか?」

「いや、そうとも限らないよ」

 今までの人生もこれからの人生も、所詮運命の操り人形が織り成す演劇に過ぎないと告げられて男は寂しくなった。それを知らずに生きてこれた彼は、これからその真実が呪いのように付き纏うのだ。そしてレミリアは、ずっとこの恐怖とも付かぬ感情を抱いて生きてきたのだ。何て、何て悲しいことなんだろう。

 だが当の彼女、運命を視ることの出来る彼女は強く否定した。

「運命っていうのは、いい加減な奴でな。簡単にうつろうものじゃないが、その人間の努力次第によってはそこそこに変わってしまうものなんだよ」

「そいつは良かった。全部が全部運命の言う通りなんて張り合いがないからな」

「ははっ、同感だ」

 レミリアは笑った。自虐的なものなんかじゃなくて、晴れ晴れとした笑いだった。

「しかし一体全体、レミィの能力と俺を、その、気に入った話がどう繋がるんだ」

「せっかちな奴だなぁ。これからが、その話をする所なんじゃないか」

 そんなにせっついたつもりは無いのだが、レミリアはそう感じたようで饅頭みたいにむくれた。

「ふふっ。私はな、オマエを一目見た時から、オマエの運命を視た時から、すぐに分かったよ。その運命の珍しさに。私はそこに、惹かれたんだよなぁ……」

 レミリアは嬉しそう、それは本当に嬉しそうに。

 男の顔へと手を伸ばした。そのまま頬をそっと撫でる仕草には、時折見せる年不相応の妖艶さがあり権兵衛の胸を酷く掻き乱した。

「単に物珍しさってわけか」

「ククッ、拗ねるな。それだけじゃぁ、無いんだからさ」

 くすぐったさを覚えて手を跳ね除けるが、レミリアはすぐに触れてくる。また除けても、すぐ触れてくるんだろう。権兵衛は諦めて無抵抗のおもちゃになる事にした。

「権兵衛。私の名前を言ってみろ」

「レミィ」

「い、いや。そうなんだけど、今のはフルネームを答えろって意味で、そんな真剣に呼ばれても困るよ?」

 何故か顔を赤くして背けるレミリア。何故かなんて、夜に男と女がベッドの上で二人きりなんてシチュエーション。男だってすっとぼけなければついつい意識してしまう。

だから矢継ぎ早に、権兵衛は答えた。

「レミリア。レミリア=スカーレット」

「あぁ、そうだ。私こそが紅魔の主、レミリア=スカーレットだ。外の世界じゃ知らんが、ここ幻想郷じゃ名前というのは体を現す以上に重要な意味を持つ。私の名前は紅。この能力と合わさって他人への影響力っていうのはそれはもう、関わった者全てに与えてしまうほど強力なのさ」

 そう、語る少女はふっと悲しげに微笑んだ。

 権兵衛はレミリアが五百年、どんな風に生きてきたかなんてのは知らない。だけど彼女の憂いを帯びた横顔を見て権兵衛は察した。

 彼女は孤独なのだと――。

 レミリアは言った、自身の影響力の強さを。それが本当に意味する事とは、なんと悲しい事実なのだ。仮の話、彼女に尽くす人間がいても、仲の良い友人が出来ても、所詮は自分の能力が影響を与えた結果に過ぎない。レミリアはそう、捉えてしまっているのだ。

「権兵衛……。オマエの運命は本当に、本当に珍しい。こんな強固で、閉じた運命は見たことがない……。私の力が及ばない人間は二人目だが、彼女の運命もオマエのに比べてしまえば、とても数奇と呼べるものじゃなかったな……」

 ふと、レミリアの赤い瞳が、普段よりも輝きを増している事に気付いた。

 気付いただけで、それがどうしたのだろう? 何だか思考に霞が掛かっているみたいで、レミリアの言う一人目が誰かすら気にも留めなかった。

「だからオマエが記憶を、名前を失ったと聞いた時には本当に焦ったよ。下手な名前を付けたら、折角の運命が壊れてしまうんだから、気が気でなかったさ。だのに権兵衛ってば、私の心配なんかあっさりと越えてしまって、大したヤツだよオマエは」

「名前って、名無しの権兵衛がか?」

「そうだよ。名無しに意味なんてない。権兵衛の本質は記憶を失う前と、何ら変わっていないよ」

 彼女の瞳が、近い。瞳ではない。顔が近いのだ。

 既にお互いの息遣いも聞こえる程、何時の間にこれ程の接近を許したのだろうか。だが払い退けようという気は、微塵も沸き起こらない。

「権兵衛。私のものになれ。なってくれ。本当はオマエの方から選んで欲しかったんだが、ふふっ。プロポーズは男からなんて古い慣習、女から告白するのも悪くないだろう?」

「レミィ、俺は――」

 知らぬ内、権兵衛はベッドへと押し倒されていた。その指は蛇の如く絡まり解けそうもない。

 ゆっくりと、二つの影が一つに重なる――。

「何……、してるの……」

 最も居てはいけない人物の声が響いた。

 二人の唇は触れる直前まで近付いていたが、残念な事にまだ触れてはいなかった。

 惜しいところで……っ!

 レミリアは淑女あるまじき荒げた声を放ちたかったが、そんな事をしてみたら折角の術が解けてしまう。名残惜しさを覚えるも、上体を起こし掌に残る男の温もりを二度三度確かめて、忌々しい妹と対峙した。

「どうした我が妹? 駄目じゃないかノックも無しに入ってきて。子供はとっくに寝る時間だぞ」

 出来る限り優しい姉の仮面を被って諭すように口を開いたが、どこまで出来たことやら。

「妖精達が話してたのよ……。お兄様がお姉様にお呼ばれしたって、楽しそうにさ。だから心配になって様子を見に来たの……」

 あの元気一杯なフランとは、思えぬ程に静かな声だった。

 静かな怒りを孕んでいた。

「お姉様? お兄様に、何をしたッ!?」

「やれ、私の魅力参ってしまったのかな?」

 レミリアはおどけた風に肩を竦める。姉の言葉に妹は、すぐに心当たりを見つけた。

「あぁ、魅了(チャーム)ね。何てゲスなのかしら。そんな事しないとお兄様を手に入れられないなんて、可哀想なお姉様」

「何だと……?」

 妹の方も負けてはいない。手を口に添えて、身振り手振りを交え大袈裟に悲しんだフリをする。

「誰の! 誰のせいでこんなことする羽目になったと思ってるっ!? 私だってこんなことしたくなかったわよ! ちゃんと彼に選んで欲しかったわよ!」

「だったらしなきゃイイじゃない! お兄様に選ばれる自信が無いから、そんな事をする!」

 皮肉と皮肉の応酬が飛び交う。

 かつて姉妹が生きてきて、衝突は幾度もあったが、これ程までに素のままの感情を剥き出しにし合った事はない。五百年生きて、初めて姉妹はまともに向き合ったのだ。

 それは和解を成す為ではなかった。

「ねぇお姉様、知ってたかしら? 私ね、お姉様のこと嫌いだったのよ? ずっと、ずっと、嫌いだったの。だって私を閉じ込めて、私の為だなんて嘯いて、本当は全部自分の為なのに」

「あぁフラン、知らなかったのか? 私がオマエの事を怖がっていた事を。ずっと怯えていたさ。私よりも力の強いオマエの影に、いつオマエが私を殺しに来るのかって夜も眠れなかったよ」

 二人は思いの丈を伝える。血の繋がった姉妹が本音をだと考えると、あまりにも悲しすぎる吐露であった。

 無論、抱いているのは悪感情だけではない。ならばどうしてレミリアは、そんな恐ろしい相手を生かしておいたのか。ならばどうしてフランは、いつでも抜け出せるのにじっと姉の命令を聞いていたのか。

 最早互い、相手を思いやる感情も儚い。

 兎も角、今は相手が憎過ぎた。

 鏡合わせの、決して映ることのない吸血鬼の姉妹。

「だけど――」

 語ることは全て語ったと、レミリアは構えた。後は殺し合いの合図を待つだけだというのに、フランは構えない。代わりに苦しそうに、胸をかき抱いて言葉を続けた。

「だけど本当は、お姉様のこと、嫌いになんてなりたくなかったの。ふふっ、五百年経ってようやく分かるなんて、私もバカだよね。お兄様が教えてくれたの、五百年経って、今日、初めて、他人を思う心を」

「フラン……」

「やだ、やだよお姉様。私からお兄様をとらないで。大切なお兄様をとらないで。私から大切なお姉様を奪うだけじゃなくて、お兄様までとらないで。……お願いだから、お姉様をこれ以上嫌いにさせないで」

 私だって!

 飾らない素直なフランの心に応えてやりたかった。だけど、それは権兵衛を諦める事と同意義なのだ。フランが五百年を掛けて権兵衛という人間に出会えたように、自分とて五百年の歳月を経てようやく巡り会えた相手なのだ。

 レミリアは叫びたくなる気持ちをぐっと飲み込んで、妹の切なる願いを非情にも切り捨てるも。

「それは、出来ない……」

 一滴、涙までは堪えきれなかった。

「……うん、分かってたわ。私だって諦められないもん」

 その言葉にショックを受けるでもなく、フランは納得した様子で頷く。どこか清々しさすら感じさせる表情で、悪魔の妹は遂に構えた。

「ねぇ、お姉様。私達って似た者姉妹だったのね」

「ははっ! 違いないな」

 男の好みまで一緒だなんて、神様はよっぽど私達が嫌いらしい。まぁ悪魔なんだから、当然か。

「バイバイ、麗しのお姉様」

「さよなら、我が最愛の妹」

 姉妹として最期の言葉を交わして、姉妹だった吸血鬼はここに激突した。

 

 権兵衛が正気を取り戻すと周囲は火の海に包まれていた。

 確か自分はレミリアに呼ばれて、彼女の部屋へ向かった、までは覚えている。だがそこでどんな内容の会話を交わしたか、思い出そうとすると頭痛が奔り思考が纏まらない。纏める暇なんて、そも無いのだが。

 頭上では今も新たな破裂音が生まれている。

 見上げれば色取り取りの弾幕と、その合間を縫うように、二つの影が高速で飛び交う光景は正に幻想的の一言であった。弾幕ごっこの話は耳にした事はあるが、目にするのは初めてだった。

 レミリアの手から無数の紅弾が放たれる。圧倒的な密度の弾幕の雨をフランは掻い潜り、対象へと接近し燃え盛る剣を、姉の胴体目掛け容赦なく薙いだ。寸前レミリアは後方へ飛び退き回避したかに見えたが、彼女の纏う服には一筋の切れ目が入っていた。本当に、紙一重の回避だった。

 開いた間を詰めて追撃に出ようとするフランに、再度レミリアは弾幕を張る。二人の距離は先の交戦よりも狭く、フランと弾幕が接触するまでの時間も短い。その全てを捌ききれずに、幾つかを綺麗に被弾したフランは血を吐きながら吹き飛んだ。

 これが弾幕ごっこ……? こんなの只の殺し合いじゃないか!

「レミィ! フラン!」

 少女らの名前を叫ぶも、戦いの音に掻き消されて二人の耳には届かない。

 争いは激しさを増す一方で、館への被害は拡大していく。不思議な事に男の立つ場所だけは安全を約束されているかのよう、ほとんど被害も無かった。

 姉妹の争う理由が男なのだから、権兵衛を害してしまったら意味が無いからだ。

 だがそれも先程までの話。

 攻撃はひたすら相手を打倒する為だけのものとなり、周囲への被害を鑑みる余裕は失われ始めた。

「ぐっ!」

 男のすぐ横に、流れ弾が着弾する。

 床に大穴を開ける威力を目の当たりにして、もし少しでも位置がズレていたらと考えると血の気が引く。

 どうすれば、どうすれば二人を止められるのか。

 男は必死に脳を回転させる。二人の間に割って入ろうにも自分は空すら飛べず、届くかも分からない声を張り上げることしか出来ないのかと、己の無力さに打ちひしがれる。

 何もしないよりはマシかと、もう一度少女らの名前を叫ぼうとして、男の視界に一つの扉が入った。

 勿論、部屋を出入りする為の扉だ。

 ――その扉を目にした瞬間、彼の脳裏に一つのデジャヴュが過ぎった。

 瞬間、権兵衛は弾幕の雨が降る中へと躊躇なく飛び出し、扉目掛けて一目散に走りだした。身の安全など、考えるよりも早く身体が勝手に動いたのだ。

 馬鹿げていると思うだろうか? ただ既視感を覚えたから、なんて理由は。

 ただ権兵衛は異様な焦りだけを覚えて、間に合えと念じながら、必死に手足を動かした。

 

 何事か、館をも揺さぶる轟音が響き渡る。

 それだけならば弾幕ごっこが主流の幻想郷ではさして珍しい事でもない。盗人が魔女の大切な書物を借りて行きでもしたものかと、最初はそんな程度の認識であった。

 今回ばかりは、その認識も間違いだったと言おう。

「きゃああぁぁぁぁぁっ!」

 妖精達が悲鳴を上げる。

 様子がおかしい。

 二度、三度と数える事すら馬鹿らしいぐらいに爆音は鳴り止まず、館は分かりやすく悲鳴を上げ始めた。窓は割れ壁は崩れ、倒れた燭台から絨毯へと火が燃え移り、瞬く間に館内を火の海へと沈めた。慌てて外を覗いてみれば、空をも両断する幾つもの光線が縦横無尽に放たれているではないか。

 尋常ではないと、ここ事に至り彼女は自らの甘さを呪った。

「落ち着きなさいっ!」

 狼狽する妖精メイド達を、一喝で正気に戻す手腕は流石メイド長である。果たしてその言葉はメイド達にだけ向けられたものなのだろうか。咲夜は深く息を吸ってから、凛と放った。

 音のした方向は――本当は今すぐにでも駆けつけたい気持ちを、咲夜は必死に押し殺した。彼女は館のメイドを預かる、完璧で瀟洒なメイドなのだから。

「落ち着きなさい貴方達。まずは自分の状態を確かめて、動けるかしら。周りの娘達は? 怪我をした子は動ける者に助けを求めなさい。そして一秒でも疾く館の外へと避難なさい。もし余裕があるなら、この事を皆に伝えて。急いで!」

 メイド長の指示を聞いて、周囲のメイド達は一斉に散らばっていった。彼女らがどうするのか、従う者もいれば、我先にと逃げる者もいる。そこは自由意志であろう。

 避難そのものは、大して難しくない。そこいら中の壁は崩れて穴が開き、何とも風通しが良くなっているからだ。妖精ほどの小さい身体なら苦労もせず通り抜けられるだろう。

 妖精達は無事逃げられたろうか。尤も、巻き込まれた所で彼女等は一回休みなだけだが、無事であるに越した事はない。

 後の事は、おそらく美鈴がやってくれるだろう。

 平時もサボっているのだ、これぐらいの仕事を任せても罰は当たるまい。

 そうこうしている間にも火の手は一向に緩む気配を見せず、遂には少女めがけてその身を躍らせた。白磁を思わせる肌が炎に炙られ無惨な姿を晒す――事は無かった。

 寸での所で炎は、大気を喰らいながらあり得ない動き――その動きを止めた。

 いや、炎ばかりではない。崩れ落ちる天井も周囲を赤く染める火の粉も、ピタリと宙に固定されていた。

 『時間を操る程度の能力』。十六夜咲夜という人間を形作る因子の一つ。それを今、発動させたのだ。

 これで火の手が積極的に彼女を襲う心配はなくなったが、状況は一つも解決していない。危険は依然として隣り合わせである。

 動きを、時を止めたとはいえ炎は炎。触れれば当然彼女を灼くし火傷は必至。何より燃え盛っている空間自体が発している熱量は変わらず、今も咲夜の肌を大量の汗が撫でていく

 急がなければ!

 決意を固めてあろう事か、おもむろに咲夜は火勢極まる方向へ駆けだした。目指すは元凶、主人の部屋である。

 何が起きているのか、と忠実なメイドの頭を以てすれば理解は難くなかった。だが、何故そうなったかなんて、当事者でも無い限り分かるまい。しかも騒動は彼女の想像を遙かに越えていたのだから。

 咲夜の認識は、今尚甘かった。

 時の停止した世界を、咲夜は走った。実際に経過する時間は歩こうが走ろうが何ら変わりないのだが、逸る気持ちが彼女の脚を速めた。

 彼女以外の全てが静止した世界では、猛火に飲み込まれた廊下もさして苦労する事もない。歩を進めるにつれ炎は大気を紅蓮に染め上げ、館をその名の冠するにふさわしく彩っていく。

 永い永い一瞬を掛けて、ようやく秒針がその身を刻み始めた頃には、咲夜の前に未だ火に包まれる事なく鎮座する扉が存在していた。

 レミリアの自室である。

 メイド長ですら用もなく、許可もなく入ってはいけない神聖な部屋だ。勿論この緊急時に許可を得ているはずもなく、緊急時だからこそ彼女は入ろうとするのだ。

「ッ~~!」

 扉に手を掛けると、肉の焦げる音と臭いが鼻をついた。と言っても、決して食欲をそそるものではない。焼かれているのは咲夜の手なのだから。金属製のノブはとうに熱で炙られて、さながらフライパンの如く掌を焼いていく。

 痛みに堪えて開けようとするも、中々開かない。あんなに立て付けの良かった扉も、すっかり熱で変形してしまっていた。

「くぅ、ああぁぁぁぁぁっ!」

 館が崩れる音、火の粉が爆ぜる音に混じり微かに鈍い音を響かせ、やっとの思いで扉が開く。急いで部屋の中へと身体を滑り込ませ、咲夜は言葉を失った。

 ――地獄が広がっていた。

 部屋での出来事自体は想像の通りであった。二人の子鬼が弾幕ごっこを繰り出しているのだと。

 何せしょっちゅうである。フランのワガママを諫める為、はたまた逆もあるが、彼女らが喧嘩をするのは。

 きっと二人は弾幕を交えながら、フランは楽しそうに、レミリアは困ったように怒りながら。退屈な日常の中のちょっとしたスパイス、そんな微笑ましい弾幕ごっこが繰り広げられているものだと思っていた。

 だが、目の前の光景は想像の範疇を超えていた。

 フランの顔に笑顔は無かった。吸血鬼の名にふさわしい悪鬼そのものの形相で姉を殺しにかかる。レミリアもまた同様に、咲夜ですら見た事のない怒りを露わにし、フランへ躍り掛かる。

 喧嘩などと生やさしいものではない。

 ひたすらに純粋な殺意のやり取りだけが存在していた。

 ほんの一瞬、咲夜は迷った。殺意の渦中に飛び込む事を。

 何を馬鹿な――。

 自分は一体誰の為の従者なのか、考えるまでもない。

 自分の身が可愛いと思った事を恥じるも、自責の念に囚われる悠長な時間はない。頭を振って思考を問題の解決にのみ傾ける。

 お嬢様――。

 咲夜の喉が主人の名前を震わせることは、ついぞ無かった。悠長と呼べる時間はとうに過ぎていたのだから。

 彼女へ接近する、一つの影があった。

 何事か咲夜の視界が翳る。

「きゃっ!」

 自身の身に何が起きたか理解する前に、背中を強い衝撃が襲った。

 受け身を取る暇などない、咲夜はしこたま背を打ち据えてしまう。あいたたた、何処か場違いな台詞を吐きながらゆっくり目を開くと、自身の身体へ覆いかぶさるように、権兵衛その人が我が腰に飛び付いていたのだから。

「何を――!」 

 その言葉は途中で飲み込まれてしまう。

 彼の惨状に。

 自分に飛び付いていた男は、あるべき下半身がすっかり消え失せていた。その更に先、存在していた筈の床に、大きな大きな風穴が開いている。咲夜は理解した、男に庇われた事実を。

 勿論そんな怪我をして生きられる人間はいないが、驚くべきことに権兵衛の息は辛うじて繋がっていた。

 即死を免れた事は幸か不幸か、これはきっと後者に違いない。だって咲夜に、下半身が失せた人間を治療する術なんて、ない。だから生きるのと痛みががちょびっと長引いただけに過ぎなかろう。彼女に出来るのは、精々大人しく看取ってやるぐらいだ。

 男の胸の動きが次第に小さくなり。

 そして最期の最後に、男は咲夜に、微笑んで逝った。

 人が死ぬことの、なんと呆気無い。

 馬鹿な男―――。

 いの一番に浮かんだのは、感謝ではなく罵倒。

 だってそうじゃないか。私は時を止める事が出来るのだ。例え鼻先にナイフを突き付けられようと、その刃を躱すどころか相手の胸元に突き返してやることも訳ない。だからこれは、彼が自己満足に先走っただけの結果に過ぎない。英雄を気取って犬死にするなんて迷惑にもほどがある。

 ……嘘だ。

 ならばどうして私は、現に時を止めなかったのだ。自分一人避ける事も、ついでに男を助けてやる事だって余裕だったろうに。

 単純に、不可能だったからだ。

 時を止める、確かに強力な手段である。時を止められればの話だが。

 たかが人間には過ぎた能力を持つ咲夜だが、優秀とはいえ身体能力は所詮ヒトの域である。反射を上回る速度に反応することは無理だ。まして反射を上回る速度で意識の外からきた攻撃を、どう反応しろと言うのだ。

 咲夜は馬鹿な男の亡骸をそっと横たえた。これから二人を止めなければならないのに。それ以上は身体が、指先一本動かす事も出来なかった。たかが嫌いな男一人が亡くなった事実を前にして彼女は呆然と、ただ呆然とする事しか出来なかった。

 頬を伝うものがあった。

 涙を流している訳でもないのに、なんだろうと顔を上げる。

 まず瞳が捉えたのは煌々と輝く満月。ぽっかりと崩れた屋根の大穴から、綺麗な満月が覗いていた。更にはその穴から、まるで咲夜に目掛けてしとしとと、雨が降り注いでいた。

 夜に降る狐雨とは、また珍しい。

 私が泣くはずがない。散々人間を殺してきて、嫌いな男が一人死んだだけでどうして、喜びこそすれ悲しむことがあろうか。だから気のせい。この胸に感じる痛みも気のせいに違いない。

 だけど――私の為に命を落とした人間は誰一人としていなかった。

 遂には土砂降りの雨が、咲夜の身体を容赦なく打ち付ける。額を、頬を這った水滴が、顎先から溢れ冷たくなった権兵衛の顔へと落ちていった。夜の雨は凍える程に冷たいというのに、咲夜はそれを拭う事なく、権兵衛もまた当たり前のように気にする素振りを見せなかった。当然だろう、死人が動くことは無いのだから。

 弾幕の撃ち合いも、今は遠い場所の出来事のようで。

 天から注ぐ流水も――身を引き裂かんばかりの激痛があろうに――吸血鬼を止めるには至らない。

 殺し合いに夢中な二人は、こちらに気付きもしない。争う理由は既に亡くなってしまったのに、苛烈さを増すばかりで止む気配もまたない。そればかりか、もし二人が権兵衛の死を知っってしまったら、今以上の脅威になるのは間違いないだろう。

 頭上で美しい火花が飛び交う。その様子を咲夜は、何するでもなく漫然と見ていた。

 そんな咲夜に目掛けて、抹殺すべき対象から逸れた無数の弾幕が飛来した。

 奇跡的にも弾幕は彼女に直撃する事は無かった。しかし、直ぐ近くに着弾したそれらは強大な衝撃波を作り、二人の身体を容易く宙に放り投げた。

 されるがままに宙を躍る様は糸の切れたマリオネット。そのまま強く床へと叩きつけられて、肺の中の空気が無理矢理に押し出される。

「かはっ――!」

 最早身体のどこも、痛みに悲鳴をあげない部位はない。視界も徐々に霞んでゆく。

 二人をお止めしなければ。

 辛うじて残った理性が脳裏で叫びを上げるが、薄れゆく意識を繋ぎ止めるにはとても足りなかった。

 咲夜はよろめきながら、腕を伸ばした。

 一体、彼女は何を掴もうとしたのだろう。

 伸ばした腕は何を掴む事なく力を失い、咲夜の意識は闇に飲まれた。

 支えを失った少女の身体が床へと沈む拍子の事、懐から一つの時計が零れ落ちる。

 こつんこつん。硬い床に打つかって金属音を響かせながら、二度三度と彼女の手を離れて飛び跳ねる時計。

 壊れる時計。

 壊れた時計。

 

「お嬢様っ!」

 主人の名前を口にして、咲夜は飛び起きた。

 傍から見れば奇行そのものなそれは、とても完璧で瀟洒な従者とは程遠い。

「えっ――?」

 咲夜の視界に飛び込んできたのは、ボロボロに崩れた紅魔館の姿。ではなく、あろう事か、何の変哲もなっていない自身のプライベートルームだった。

 夢――だったのだろうか?

 いいや、見下ろした自身の服は煤に汚れたている。エプロンには無惨にも火の粉が開けた穴が無数にある。そして両の掌からジンジンと痛みを発する火傷の痕は、あの出来事が決して夢幻の類ではない事を雄弁に語っていた。

 時間を確認しようとして、少女は更に混乱する。

「一体何が……」

 時計の盤面を覆うガラスは見事に割れており、時針もまた動いていない。

 まさか――!? と一つの結論に至り、咲夜は慌ててカレンダーを見た。今日の日付を見て、息を呑む。

 あろうことか今日は、咲夜が権兵衛を拾ってきた、その翌日だった。




これにて二章も終幕です。

フランと仲良くするにあたり、トマト辺りのくだりをもそっと自然なものにしたかったのですが。
コレ以外何も思いつかなかった、です。


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