「帰れ」
険しい道程を越えた先、魔女の放った第一声は非情である。血も涙も無いとはこの事か。
「何が険しいよ。ただ廊下を、歩いて来ただけじゃないの」
溜息を吐いて読んでいた本を机に投げ出し、パチュリーはソファーへと身を沈ませた。彼女が本を手放すとは、本気で呆れ返っているのだ。
「ふー……。何でここなのかしら」
「近かったから?」
「よし、帰れ」
険悪、と評する程ではないが、二人の会話は耳に楽しいものではなかった。そのすぐ近くで「あははははっ」と大きな笑い声を挙げるフランが、一体何が楽しいか周囲を飛び回っている。その余波で本棚から本が零れ吹き飛ぶほどだ。小悪魔は忙しなく飛ばされた本の回収に追い回されている。
これは酷い。確かに帰れと言いたくなるのも頷けるが、はいそうですかと易々引き下がる訳にもいかないのだ。
男権兵衛、交渉の腕の見せ所である。
「頼むよパチュリー。静かにさせるからさ」
「嫌」
見せ所終了。
「いやいや! そこまで嫌がらないでも……」
「厄介事には関わりたくないのよ。まして妹様なんて……」
「嫌い、なのか?」
「いいえ、どちらかと言えば好きの部類よ。でもそれとこれとは別。そして貴男は、私の中で嫌いな部類なの。お分かり?」
ずずりとパリュリーは紅茶を一服して、眉を潜める。入れられてから大分時間の経った紅茶は、それはもう冷めてるだろうに、彼女は気にせず口にしている。
「大体どうして、貴男なんかが妹様と一緒にいるのよ」
「その、咲夜に頼まれて……」
「咲夜に? 貴男もまた、随分と面倒見が良いというか考えなしというか。全く、魔理沙だけでも面倒だっていうのに……」
「やっぱり、魔理沙も来たんだな」
一息に飲み干して彼女は呟く。その愚痴の中に知ったばかりの名前を見つけて、権兵衛はつい反射的に聞き返してしまった。それが良くなかった。
「は? 魔理沙? どうして、貴男が、魔理沙を知っているのか、良かったら、詳しく、教えて頂けないかしら、ねぇ……?」
静かに、されど明確な怒気を篭めてパチュリーは言い放った。
間違いない。今日は厄日だと、権兵衛は確信した。
「えと……、魔理沙に、その、フランの部屋まで案内して貰って」
「泥棒に助けられる馬鹿がいたわ!」
泥棒とは、勿論のこと魔理沙を指すのだろう。
「ええ、そうよ泥棒よ盗人よ! 図書館の貴重な書物を無断で持っていくドブネズミよ! 今日だって、ああ憎ったらしいっ!」
「えぇー……。だって魔理沙は知り合いだって」
「知り合いっ!? えぇそうね知り合いも知り合いだわ。怨敵と言うのはあの女の事を言っ―――ゲホッゲホッ!」
「大丈夫か?」
熱弁を振るうあまり咳き込む彼女に、そっと自分の紅茶を差し出す。
どうやら二人、あまりよろしくない知り合いらしい。
「ゲホッ、あ、ありがとう……。ん、はぁー……。馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、想像以上のお馬鹿さんよね貴男。お馬鹿ついでにもう一つ厄介事を頼まれてくれないかしら。頼まれてくれるわよ、ねぇ?」
彼女の圧力を前にして、ノーと言える人間なんて少数派だ。
悲しいことに権兵衛は多数派に属していた。これが本当の魔女リティ、と。
「貴男、下らない事考えなかったかしら?」
「いいえ、とんでもございません」
「ぶー。二人ばっかりお喋りしててズルイわ!」
「のわっ!?」
背後からフランに飛びつかれてあやうく机に頭をぶつけそうになる。肩に乗せられた顔を見ると土饅頭になる所なんて姉妹そっくりだ。その頭をポンポンと軽く叩いてやると、嬉しそうな声を漏らすのだから、可愛い子だ。
小悪魔はどうしたろうとちょっと視線を彷徨わせると、中々見つからない訳だ。地べたで大の字にへばっている。ご愁傷様と心の中で合掌を送るなんて他人事ではない。次にフランの相手をするのは自分なのだから。
「あら。忙しそうだし、厄介事の件は明日でいいわ」
「受けるなんて言ってあいででででっ!」
「むー! 早く早く、遊びましょう!」
「分かった! 分かったから引っ張るなって!」
「そう、分かって貰えたみたいで嬉しいわ。あと出来るだけ静かにして欲しいものね」
「お前には言ってないよ!?」
幼女に引き摺られる大の男、という図を見送ってパチュリーは投げ出した本の続きを読み始めた。視線は活字から離さずに、手探りでカップを手に取り口を付けた所で、中に何も入っていない事に気付いた。継ぎ足そうとしてもポットも空なので。
「小悪魔。紅茶を貰ってきてくれるかしら」
「ぜー……っ、ぜー……っ! あのっ、少し休ませて、頂けないでしょうかぁっ!?」
「駄目よ」
「鬼っ! 悪魔っ! 畜生、紅茶の中にアレとかソレとか混ぜてやるんだからっ」
悪魔に悪魔と罵られるのは、中々気分が良い物だ。
とりあえず、ドタバタと小五月蝿いやり取りを音楽に、帰ってきた小悪魔には一番に紅茶を馳走してやろうと心に決めてパチュリーは読書へと耽っていった。
「あはっ、今日は楽しかったわね」
「お姫様がご満足したようで何より……」
片や少女の肌はツヤツヤと健康的に輝く一方、男はげっそりと一日で大分年を喰ったように見える。そんな帰路。
手を繋いだフランは上機嫌で、元気一杯に腕を振る様はまだまだ体力が有り余っていそうだ。彼女の手から伝わる振動それだけで、疲れきったの彼を更に鞭打つには十二分な効果を発揮していた。
「ね、ねぇ権兵衛? 聞いて欲しいことがあるの」
「お、おう。何だい……?」
フランの部屋も近づき、二人の時間も終わりを迎える、そんな時である。
勝手気ままそのものだったフランが珍しく言葉を言い淀む。どんな無理難題を口にするのかと、権兵衛は自然と身構えてしまった。
通路の暗さも相まり、俯いたフランの表情を窺い知ることは出来ない。
「その、えーっと、ね? あの、権兵衛のこと、お兄様って呼んでも、いい?」
「……いいけど」
「えっ、本当!?」
意外や意外。お願いはそれ程大層なものではなく、簡単に聞き入れられるものだった。
「やった、やった! お兄様、お兄様が出来ちゃったわっ!」
フランはぴょんぴょんと飛び跳ねて全身で喜びを現した。それは今日、魔理沙に出会った時よりも一番の喜びっぷりであった。そんなに喜んでくれるならこちらとしても嬉しい限りなのだが、出来れば手だけは離して欲しい。
「お兄様お兄様っ」
「え、あの、フランちゃ!? 降りてくれるっ!?」
「あらお兄様。可愛い妹の頼みが聞けないの? ほらほら、ゴーゴー!」
一際ぴょこんと高く飛び跳ねたと思ったら、着地した場所はなんと自分の両肩だった。フランはそのまま肩車の体勢へと持ち込み、頭をぺしぺし叩いてくる。痛くはないのだが、現在の権兵衛にとっては馬に鞭を入れるのに等しい程の肉体的、精神的苦痛を与えてきた。
だが彼女は降りる気なんてちっとも無くて。
「ええい、クソっ。どうにでもなれよっ!」
「きゃー!」
最早自棄である。
最後の気力を振り絞り一人の幼女を載せたまま走りだす。幸い、フランの体重は羽でも乗せているかの様に軽い。おかげで想定以上の馬力を出せたのだが、翌日筋肉痛に泣くことになるのは閑話。
権兵衛は気付くはずも無い。フランが自分の事を兄と呼ぶ、それこそが少女が抱く闇そのものだという事を。
咲夜は困惑していた。だから不注意にも、声なんて掛けてしまったのだ。
「……権兵衛様、お体の具合はよろしいのですか?」
「ん、大分良くなってきたよ」
答える男の顔には疲労が色濃く浮かんでいたが、一見して分かる場所に怪我をしている様子もなかった。
二人の会話を、横で聞くだけのレミリアは面白く無い。前に出された肉に苛立ちをぶつけるように齧りつく。
「ふん。なんだオマエ達、ちょっと見ない間に仲良くなってさ」
「いいえ、お嬢様! 決してそのような事は天地がひっくり返ってもありえませんわ!」
何もそこまで力一杯否定しなくてもと心の中で涙する男、権兵衛。
――迂闊であった。
腹立たしい事に、お嬢様はこの穀潰しをよく思っていらっしゃる。自分を差し置いて目の前で他の女と、しかも従者なんかと会話されて楽しい筈がない。主へと回す気が散漫になってしまう程度には、私は平常心を欠いてしまっているようだ。
ふぅと小さく息を吐いて、もう一度男を観察する。
何とも阿呆面引っさげて、美味い美味いと拙いテーブルマナーで食事をしている。
当然だろう。私がお嬢様の為に、他の娘の手伝いもそこそこ、丹精込めて仕込んだ料理なのだ。不味かろう訳がない。本来ならば決して貴様なんかが、気安く食べられるものではないのだ。
よぉく幸せを噛み締めておくがいいさ、ってそうじゃないでしょ咲夜。
食卓の席に付いているのはお嬢様と男だけ。今晩、男が席に付いている事が、咲夜の計算外であった、事が上手く運んでいれば、男は食卓に並んでいた予定だったのに。
……まだ初日である。そうそう上手くいくなんて、楽観が過ぎるというものだ。
どうせデリカシーの欠片もない男のこと、数日と経たずに妹様の琴線に触れて八つ裂きにされるに違いない。ざまぁみろ。
十六夜咲夜は優秀な侍女である。或る編纂された書物に、完璧で瀟洒と二つ付けられる程には。
だが彼女の優秀さとは、個人で完結している時に発揮される。故に自身が介入しない事象で、どうして活躍する余地があろうか。
彼女の目論見は最悪の形を以って結実する。
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