いつもなら爽快な目覚めの筈の土曜日の朝。
それなのに今朝は
「日曜日の夜、七時に駅前に来て」
この一文のせいだ。
折本からのメールの最後の一行。
この一文に俺の脳内と精神は掻き乱されていた。
駅前というのは折本の最寄り駅である海浜幕張のことだろう。そこに来いと。
行ったら何がある。何が起きる。
期待は無い。不安だけが心中を満たしている。
時計は午前七時を示していた。
とりあえず洗顔だけでもと階下へ降りると、既に小町は起きていた。
「およ、休みなのに早いね。こりゃ雨かな」
馬鹿言うな。今日は久しぶりの秋晴れと天気予報でも言っていただろ。
そもそも俺が休日に早起きしたくらいで雨が降らせる能力があったなら、クリスマスとバレンタインデーには間違いなく大雨を降らせてる。
なんなら俺がいなくても世界は滞りなく回り続けるし、誰も気づかないまである。あまりお兄ちゃんの影響力の無さを侮らないで欲しい。
「お兄ちゃんも朝ごはん食べる?」
「ん、コーヒーだけでいい」
キッチンの椅子に腰を下ろして、忙しなく手を動かす小町の背中をぼんやりと見つめる。
あれ、そのトレーナーって二年くらい前に無くなった俺のお気に入りのトレーナーだよね。何故キミが着ているのかね、小町くん。
「はい、お兄ちゃん。熱いよ」
「ん、あんがと」
マグカップを差し出すと、サイズが大き過ぎるトレーナーの広い襟首がずるりと滑り落ちて、小町の肩が露出した。瞬間、小町の顔が少しだけ朱に染まる。
やばい。我が妹ながら超可愛い。
妹じゃなければ惚れてるところだ。いや、妹じゃなければ俺なんて相手にされないな。ぐすん。
まあそれはそれ、これはこれ。
何故二年も行方不明だったお気に入りのトレーナーを小町が着ているのかを確かめなければ。
「……ねえ小町ちゃん」
「……なんだいお兄ちゃん」
再びキッチンへ立った小町はこちらも見ぬままに応える。
「そのトレーナーって俺の……」
食い気味で小町が応える。
「あ、これね。ありがとお兄ちゃん。このトレーナー、すごくゆったりしてて寝る時に楽なんだ。着心地も良くって、ホント助かってるよっ」
「あ、ああ、そう」
腰の下まで届くトレーナーの裾をぴらっと摘んでくるんと回り、ポーズを決めてきゃろんと笑う小町。
……ほんと兄あしらいが上手い妹ってやだ。キラキラと輝く笑顔で「ありがとう」なんて言われたら、それ以上の追及が出来ないじゃないの。
テーブルにハムエッグとサラダを並べる小町を待って、一緒にいただきますをする。
ん。
コーヒーが苦い。
小町め、砂糖を少なめにしやがったな、と視線を送ると、練乳のチューブが差し出されていた。
「あんまり入れ過ぎちゃダメだよ」
おお、小町。兄の健康に気を遣ってくれるのか。
「最近それ、安売りしてないんだから」
──ひどい。
午前十一時。
何も手につかない、ただ時間を消費する為だけの読書も捗らず、気がつけば俺は昨日のメールを眺めていた。
内容も何もない、日時を指定しただけの一行。
普通なら、行ってみれば分かるとか、明日になれば分かると云うのだろう。だが生憎俺にその発想は出来ない。出来てもその不安までは払拭出来ない。
恐い。怖い。情報が少な過ぎる。
知らないということは恐怖だ。
これがゲームならば、やってりゃ分かる、になるんだろう。しかしこれは現実。コンティニューもセーブポイントも無い。
俺が一人を好む理由のひとつはそれだ。
一人ならば、例え何か間違えても被害は最小限、つまり自分だけで済む。だけど誰かと一緒ならばそうはいかない。間違いは即ち、等しく共にいる誰かにも降りかかるのだ。
故に間違えられない。間違えるのが恐い。それ以前に恐怖で答えを見つけられないかも知れない。
漸く出した答えを間違いだと言われた時、きっと俺は何をどう間違えたかも解らずに頭を抱えることしか出来ない。
反省はおろか、謝罪の仕方も解らないかも知れない。
ならば一人でいい。一人ならば考える項目を最小限に抑えられる。目の前の物事に集中出来る。
何という、無駄を省いた生き方。
いや、違うな。無駄こそが人生における楽しみなのだ。
アニメを見る。ラノベを読む。ゲームに没頭する。
どれも非生産的な行為だ。
だがしかし、それは心を躍らせる「もう一つの世界」となる。現実逃避というならそれでもいい。
だが、その目的はリア充たちの遊びと同じだ。
日常に溢れた非日常を味わう。違うのはその媒体だけだ。
その思考は、他人とは共有は出来ないだろう。だがそれでいい。たとえ一人で味わおうが愉悦は愉悦だ。
本筋から外れた思考は灰色の霧に包まれ、やがて闇に落ちた。
泰平の眠りを覚ましたのは
微睡みの中、画面を見る。
☆★ ゆい ★☆
思わず見なかったことにしようと画面を伏せようとしたその拍子にうっかり画面をタッチ、通話状態となってしまう。
「──もしもし、ヒッキー?」
スマホから聞こえる、弱々しい声音。
「……俺のスマホだし。俺以外の奴が出ることは……あっても小町くらいか」
何を電話越しに言い訳しているのだろう。我ながらみっともない。
「うん……あのさ、いろはちゃんのことなんだけどさ──」
やばい。これは休日出勤の流れだ。
まだ俺は十七歳。社畜には早い。なんならずっと働きたくない。
「断る。眠い。だるい。休みは休むものだ」
「断るの早っ!? まだ要件言ってないしっ」
由比ヶ浜お得意の突っ込みが炸裂するスマホを耳から遠ざける。寝起きからテンション高過ぎた。寝起きなのは俺だけか。失礼。
「──で、何の用だ。聞くだけ聞いてやる」
『それは良かった。これからいろはを説得に行くんだけど、比企谷も一緒にどうかな』
あれ。誰よその男。それ由比ヶ浜の携帯だろ。別に嫉妬とかじゃないからな。理解不能な現象に戸惑っているだけだから。
『……もしもし?』
「あん? 誰だよ」
『あ、すまない。葉山だよ』
葉山かよ。なら話は早い。
「いや、一色の説得はそっちでやってく──『もしもし』──誰?」
『貴方の上司である雪ノ下よ。いいから来なさい。貴方の力が必要なのだから』
──はい?
呼び出された先は、うちの最寄りのサイゼだった。店内を覗くと、既に奥の四人掛けのテーブルに雪ノ下、由比ヶ浜、葉山の三人の姿が見える。これで一色が来たら、俺の座る場所無いよね……という理由で帰ってもいいかな。
と、店の入口から立ち去ろうとすると、目の前に今回の依頼者である一色が立っていた。
「──葉山先輩に呼ばれたんですけど、なんで先輩がいるんですか」
……あれ?
こないだのあざとい作り笑顔は何処に忘れてきたの?
何故に俺を睨みつけるの?
「悪いな、いろは」
「いえいえっ、お休みの日に葉山先輩にお呼び頂けるなんて光栄ですぅ」
あれれ? あれあれ?
随分と態度が違くない?
泣いちゃうよ? あと少しで泣いちゃうよ?
はてなマークで埋め尽くされた俺の背後には、葉山らしい笑顔の葉山。その向かい、俺を挟んであざとい笑顔を葉山へと向ける一色。そっかぁ、俺、邪魔だね。あとは若い二人に任せて、馬に蹴られる前に退散しようそうしよう。
「急にお呼びだてしてごめんなさい。こちらへどうぞ、一色さん」
あらら。気がつけば雪ノ下もいるじゃありませんか。もう逃げられないな。
仕方なく面々の後に続いて席に着いた。何故か俺はお誕生日席。言い換えれば、他所から持ってきた補助席みたいな丸い椅子に座らされている。よかった。椅子取りゲーム方式だったら座る場所に困るとこだった。
「単刀直入に言うよ。いろは、生徒会長をやって貰えないかな」
話を切り出したのは葉山だ。つーか元々この役目は葉山一人に押し付ける筈だったのに。
対する一色は戸惑っていた。由比ヶ浜による事前のリサーチで一色が葉山に気があることは把握している。その憧れの存在である葉山が発したのは、自身の希望から真逆の言葉なのだ。
だがさすがは一色と云うべきか、すぐに笑顔を作り直して可愛い後輩を演じ始める。
「えー、でも、あたしって一年生じゃないですかぁ。無理ってゆーかぁ」
ま、そう来るよな。角の立たない妥当な断り文句だ。そこにあざとい笑顔と仕草がプラスされれば、大抵の男は一色の言いなりになってしまうだろうな。
だが残念だな。お前の説得に当たるその男は、そんな安っぽい外面なんか簡単に見抜く奴だ。なんせ幼少の頃からあの強化外骨格の魔王様に鍛えられているからな。
「そんなこと無いと思うよ。サッカー部のマネージャーもすごくしっかりとやれてるじゃないか。いろははしっかり者だから大丈夫だよ」
「えー、でもぉ……」
さすがは葉山と云うべきか。話の切り口が如何にもまともで筋が通っている。だが、それでは焦ったい。
「一色」
「なんですか」
おおっ、超クール。エブリバディBeクール。
葉山に向けていたそれは明らかに違う、挑発とも取れる表情の一色に、俺は決め手の一言を投げつける。
「お前が生徒会長を断った場合、葉山が立候補することになっている。もちろん葉山なら……当選確実だろうな。良かったな一色」
「だ、だめですっ。葉山先輩はサッカー部のキャプテンなんですよ」
「そうだな、サッカー部のキャプテンであり、要だ。葉山が抜けたら次の大会は一回戦負け確実だろうな」
「だ、だったら……っ」
言葉を詰まらせた一色が俺を、俺だけを射抜くように睨む。その視線は、お前なんぞお呼びではない、と雄弁に語っている。つーか超恐い。
「一色」
「なんですか」
けほん。咳払いをひとつ、気を取り直して一色いろはを見据える。
「お前には二つの選択肢がある。一つは生徒会長となって葉山とサッカー部の役に立つこと。もう一つは葉山に生徒会長を押し付けて、推薦人の陰口やせせら笑いを聞きながらも楽な道を歩くことだ」
敢えて二択を提示することで一色いろはの思考を制限する。この方法は俺が思い付いたのだが、実は好きなやり方ではない。
本来、思考は自由であるべきだ。
学校や社会、集団生活や経済活動において人々は必ず制限を受ける。法的に規制されたり、公序良俗に鑑みたり、そこに完全な自由は存在しない。
だからこそ思考は自由であるべきだ。
だが、今回はその思考を縛った。制限された二択を提示することで他の選択を放棄させた。同時に、一色が抱える問題を葉山隼人の去就という全く別の物にすり替えた。
大袈裟にいえばこれは脅迫、個人の尊厳に関わる行為だ。
通常ならば「どちらも選ばない」という新たな選択も可能だろう。だが今回は一色が当事者だ。そこにもう一人の当事者として葉山隼人を放り込んだ。
そして極め付けに、目の前に葉山隼人を置く。それにより一色は否応なく二択の中からの選択を迫られる。
自分自身を選ぶか、葉山隼人を選ぶか。
この二択にすり替えた時点で、一色の答えは決まったも同然だろうけど。
「……ひどいです。卑怯です。最低です」
一色の発言は尤もだ。
出来れば俺もこの二択は提示したくはなかった。これは一色いろはの「想い」を利用する卑怯な策。いわば人の弱みに付け込んだだけの策だ。だからこそ交渉役は葉山本人に頼んだ。葉山なら「誰も」傷つかずに一色を納得させられると考えたのだ。
この案を由比ヶ浜経由で提示した時、案の定雪ノ下は難色を示したが、意外なことに葉山は乗り気だったらしい。葉山程の頭脳ならば、この策がどんな結果をもたらすかは簡単に想像出来るだろうに。
「どうかな、いろは。もし生徒会長を引き受けてくれれば、俺と奉仕部で全力でバックアップするよ」
案の定というべきか、葉山に対する一色の態度は変わっていた。もうその顔は可愛い後輩のそれではない。いや、表情を作る余裕が無くなったのか。
「引き受けなかったら……どうなるんですか」
分かりきったことを聞くのは、きっと葉山に優しさを求めているのだろう。
だが葉山は柔らかい笑みはそのままに、残酷な事実を突き付けた。
「俺が生徒会長をやる事になる。いろはの代わりに、ね」
葉山隼人らしからぬ言葉のチョイスだ。これではまるで自分が一色の為に犠牲になると明言している様なものだ。そこまで追い込むのかよ。鬼だな葉山。
などと自分を棚に上げて一色の答えを待つ。
「どうかな。俺と比企谷のバックアップじゃ……不安かな」
いやいや、そこに俺の名を出すなよ。後々面倒なことになりそうだから。
だが、葉山が全面協力するというのは一色にとっても悪い話では無い筈だ。
従来の関係性を発展させる可能性に充ち満ちているのだ。それが理解出来ない一色では無いだろう。
「わかりました。でも」
しかし一色の答えは、これも意外なものだった。
「葉山先輩はサッカー部があるからダメです。りよ……相談するなら奉仕部に伺います」
ま、まあ。利用すると言いかけたことはこの際捨て置こう。
一色ならば葉山の厚い援護を希望すると思っていた。計算高い奴は必ず自分の"利"にこだわるからな。
その葉山の申し出を断るとは予想だにしなかった。その代わりに奉仕部を利用するのはやめて欲しいが。
「では……引き受けてくれるんだね」
葉山が爽やかな笑みで念を押す。やっぱりこいつ腹黒いわ。見直した。
「はい……サッカー部の、葉山先輩の為ですもん、ね」
噛みしめる様に呟いた後、俯き頬を染める一色の口角が一瞬だけ吊り上がったのを俺は見てしまう。
成る程な。こいつ予想以上に計算高いな。
葉山の申し出を断った上で生徒会長になることで、葉山へ恩と負い目を抱かせることが出来る。同時に健気な後輩キャラも確立出来る。
それに、生徒会長になれば予算の面でも優遇出来るかも知れない。そうなればまた新たな恩を売れる。
邪推かも知れないが、一色の中にはそれだけの算段がある様に思えてならない。
「ということで、よろしくお願いしますね、せんばい?」
あざとい笑顔を向ける方向が間違ってますよ、一色さん。つーか。
「な、なんで俺……」
「だってぇ、この案って先輩が考えたんですよね。だったら責任は取って貰わないと」
計算し尽くされた笑顔で俺を見る一色に、思わずはっとする。
一色は全部解っていたのだ。いや、この場で理解したのか。その上で俺の案に乗り、葉山に恩を売り、俺という下僕を手に入れ……あ、俺ったら大事な用事を忘れて──
「せーんぱいっ、ダメですよ。敵前逃亡は銃殺刑ですっ」
──くそっ、逃げられなかった。
悔し紛れにがしがしと頭を掻くと、由比ヶ浜の視線が突き刺さる。そして、片目をつぶり口唇を動かした。
──だ・い・じょ・う・ぶ・だ・よ
おぅふ。何この可愛い生き物。思わず口唇を見つめてしまい悩殺されそうになる。
火照った脳内を冷やそうと手許の水をがぶ飲みし始めると、今度は雪ノ下が一色に向かった。
「一色さん、勘違いしないで欲しいのだけれど」
冷たさを纏った視線に射抜かれた一色の肩先がひくんと跳ねた。
「確かにこのどうしようもなく卑怯な案を考えたのは
ただの言葉遊び。詭弁だ。しかし何故か胸が温かくなる。この店暖房効き過ぎなのかな。
「そして一色さんの生徒会長就任は、言い換えれば奉仕部から一色さんへの依頼、ともいえるわ」
「うん、だからヒッキーだけじゃなく、あたしやゆきのんもいろはちゃんを応援するよ」
雪ノ下と由比ヶ浜、二人の言い分に唖然とする。慌てて二人の方を見ると、雪ノ下は有無を言わさぬ大迫力の美しい笑みを浮かべ、由比ヶ浜は「してやったり」みたいな得意げな弾ける笑顔で俺を見ていた。
──やられた。やられました。完敗だ。
晴れてここに、一年生の生徒会長が誕生することとなった。
その後は選挙における役割分担を話し合った。その結果、応援演説は葉山が担当することになり、演説の原稿は奉仕部が請け負うことになった。
店を出る。既に日は傾き、西の空に浮かぶ羊雲は赤みを帯びていた。
一色は葉山が送っていくことになり、俺は雪ノ下、由比ヶ浜と並んで歩いている。
俺の右側に雪ノ下。左側には由比ヶ浜。あの時と同じ並び。
「こうやって三人で外を歩くのって、あれ以来かも」
「──そうね。もう随分と前のことに思えてしまうわ」
あれ以来、か。
明言こそ無いが、その代名詞が
──修学旅行だ。
自由行動の日、俺たち三人は並んで京都の街を散策した。あの時は由比ヶ浜が次から次へと食べ物を買ってしまうものだから、ついには食べ切れなくなり、雪ノ下と俺も協力して片付けたっけ。
気恥ずかしくはあるものの、旅行という非日常の中で確かにあの時の俺は充足していた。
三人で歩く古都は新鮮で、何もかもが色鮮やかに見えた。
俺の中で幸福と呼べるものを探した時、その思い出に突き当たるのかも知れない。
だが、その後の俺の行動の所為でその思い出は三人の中で封印された。
だから俺は、二人にこう告げるのだ。
「──悪かった、な」
何に対してなのかも語らぬ謝罪。
頭を下げる俺に、彼女たちは目を見開く。視線は俺に集中し、自然と歩く足が止まった。
「……主語が無い謝罪に意味は無いと思うのだけれど」
ああ、雪ノ下はこう言うと思った。
「……ちゃんと、聞かせて」
ああ、こんな時でも由比ヶ浜は優しい。
そのまま踵を返した俺たち三人は、落ち着ける場所を求めてサイゼへと戻った。
俺は、此処でようやく自分の修学旅行を終えることが出来る様な気がした。
* * *
昨日の心労の所為か久しぶりに深く眠れた。スマホは午前九時過ぎを表示している。お陰で朝のアニメを見逃したのは痛かった。
ほわんとする頭の中には、昨日の記憶が充満している。
俺が修学旅行の件について謝ると、由比ヶ浜も雪ノ下も頭を下げてきた。謂れのない謝罪だと言うと、それでもと二人は再び頭を下げた。
勿論それで全て元通りとはいかない。だが。あの件も含めて三人で笑いながら話せる様になるのではという、淡い期待を抱かせるには充分な話し合いだったと思う。
事実、俺の心は羽が生えたように軽かった。
最高の目覚め。最高の日曜……あ。
失念していた。今日は折本に呼び出されているんだった。一気にどんよりしてしまう。
アラーム、いや、着信音か。
ベッドに横たわったまま、その音源であるスマホを眼前に掲げる。寝起きの目にはその画面は眩しい。
表示されていたのは──
すぐに画面をタッチ、スマホを耳に当てる。相手は天使。待たせる無礼は許されない。
『……もしかして、寝てた?』
「ん、あ、ああ、ちょっとだけ」
『もう、休みだからって寝過ぎだよ』
可愛らしく叱るのは戸塚の声。爽快な眠りの締めが戸塚のモーニングコールなんて、素晴らしく贅沢な起き方だ。もう朝じゃないけど。
『今日、また海浜幕張に行かない?』
思わず心臓が止まりそうになる。まさか今夜俺が折本に呼び出されていることを知っているのか。
いやいやあり得ない。でも確か以前サイゼで連絡先交換してたな。いやしかし余りにもタイミングが良過ぎる。
なら電話の向こうの戸塚に確かめればいい、というかも知れないが、それが出来るならとっくに俺はぼっちを脱却している。
『どう、かな』
「お、おう……夜の七時頃までなら大丈夫だ」
『そっか、良かった。じゃあ後でね』
戸塚と会ったのは午後からだ。
ラーメンを食べたいという戸塚の願望を叶えて、近くのゲームセンターでたまたま居合わせた材木座を瞬殺で屠り、プリクラを撮った。
なんだこれ、内容を振り返るとちょっとしたデートだよね。もう戸塚一択でいいよね。まあそれ以外の選択肢が俺にあるとは……けふん。
夕方。日は沈み、人々の足がそろそろ帰途に着き始める時間──
海浜幕張駅前のベンチへと場所を移した戸塚と俺は、駅前のロータリーを眺めていた。
時刻は午後の六時半。
戸塚との楽しい時間は間もなく終わりを告げ、得体の知れない約束の時刻がやってくる。
ふとロータリーの真ん中、丸い木の下を見ると、あの「歌うたいの少女」が見えた。ケースからギターを出して、肩に掛けるストラップを装着している様だった。
「せっかくだから、僕も聴いていこうかな」
人々の波をかき分けてギターの音が内耳を揺らす。奏でるその旋律は、いつもと同じ曲だ。
叫ぶ様な彼女の歌声が聞こえてくる。相変わらず下手くそな歌だ。
だけど、沁みる。その歌詞に、拙い歌声に、中学時代の苦い思い出が重なる。
「彼女はね、一年くらい前から、ずっとあそこで歌ってるんだ」
ちゃんと聴く様になったのは少し前からだけどね、と何気なく語る戸塚の横顔は、少しだけ大人びて見える。それはまるで、少女からオトナへの過渡期を見ている様で──いかん、戸塚は男の子、戸塚は男の子、戸塚は……男の
雑念を振り払いながら「歌うたいの少女」を見ると、数人が足を止めていた。
いつもなら素通りされるだけの「歌うたいの少女」の前に立ち止まり、しゃがみ込み、その拙い旋律に耳を傾けている。
下手くそな弾き語りに耳を傾けるあの聴衆に去来するのは何だろう。
物珍しさ。同情。侮蔑。
考えて可笑しくなる。それはつまり、かつての俺への周囲の印象だろう。いや今でもかなり当てはまるが。
思い出は頭の中を蹂躙する。
折本かおりに告白した日の夕景が、遠く西の茜空に重なる。
あの時の俺は、確かに勘違いをしていた。優しくされたと勘違いをして、好きになったと勘違いをした。
そして、その勘違いに気づいていた。
それでも折本かおりに伝えたかった。
自分勝手でもいい。独り善がりでもいい。とにかく伝えたかった。
こんな俺に優しくしてくれて、勘違いさせてくれて、ありがとう……と。
あの時の気持ちは、感謝だった。それに俺は気がつかなかった。初めて他人に感じた感情の、正しい名前すら知らなかった。
だから、すべてをすっ飛ばして告白してしまった。そんなもの、折本に売れ入れられなくて当然だったのに。
結局は、味のしなくなったガムの如き折本かおりの僅かな優しさの記憶に浸っていただけだったのだ。
ああ、それだけだったんだ。
「八幡、器用だね」
戸塚が差し出したハンカチが視界に入る。
「すっごく優しい笑顔で、泣いてるよ」
ああ、そうだ。
俺はいつでも笑いながら泣いていた。
笑顔という歪んだ仮面を着けたその下で、心は泣いていたんだ。
本心を出すことを怖れていた。だから笑っていた。泣かないようにと笑っていたら、キモいと言われた。
それでも笑っていた。笑うことが出来た。
折本かおりの、ほんの少しの優しさが胸に暖かかったから。
「……歌、終わっちゃったね」
人波の向こう、立ち止まってくれた人たちに深々と頭を下げた「歌うたいの少女」は、ギターを仕舞い始めた。
「八幡、大丈夫?」
ああ、大丈夫だ、と声に出さずに首肯で応える。それを見届けた戸塚は、ベンチを立つ。
「彼女と、ちゃんと向き合ってあげてね」
去り際に言い残した戸塚の背中を目で追ってゆく。その先には、「歌うたいの少女」の姿がある。
すれ違いざま、二人が顔を向け合うのを見て違和感を覚えた。
どういうことだ。
戸塚は「歌うたいの少女」と知り合いだったのか。いや、戸塚の知り合いが「歌うたいの少女」なのか。
もう見えなくなった友人の背中に問いかける。
すぐ横、誰かが立ち止まった。
顔を隠す様に深く被ったニット帽と灰色のパーカー、ひと昔前に流行ったようなストレートのジーンズ。
「歌うたいの少女」だ。
少女は俺に向かって深々と頭を下げ、ニット帽を……取った。
次回、最終回。