午後六時過ぎ。
ドーナツショップの窓枠に切り取られた空は、すっかり雨雲の黒に染まっていた。その暗雲を覆い隠す様にガラスを叩く雨はいよいよ激しさを増している。
そんな中、ギターケースを背負って現れた「歌うたいの少女」は、その目深に被ったニット帽のせいで顔が見えない。
店に入るなり彼女はずぶ濡れのニット帽の上にご丁寧に濡れたパーカーのフードを被る。まるで世の中から自己の存在を隠そうとする様に。
背を丸めてカウンターに立った「歌うたいの少女」は、灰色のパーカーの裾から滴を落としながらそそくさとメニューを指し示している。
足元には浅い水溜りが形成されて、少女の僅かな動きに呼応してその足元に水紋を作る。
パーカーは水を吸って色が変わり、元の色は雨に濡れなかったほんの僅かの部分でしか元の灰色が判別出来ない。
少女は注文を済ませた後に左右に首を振り、俺の席から一番遠い席、壁際に設置された奥のカウンターテーブルの一番向こう端に腰を下ろした。丸まった少女の背中にもたっぷりと雨が染み込んでいた。
あれでは風邪を引く。ドーナツショップで雨宿りするよりも、タクシーでも何でも掴まえて早く自宅に帰って暖をとるべきだ。そもそも予報ではこの雨はすぐには止みそうに無いのだから。
というか、まさか今日も歌うつもりだったのだろうか。それとも歌っている途中で雨に降られたのか。
ずぶ濡れのギターケースの水滴をパーカーの袖で拭うその仕草は、いかに少女が大事にしている物かが窺えた。
ついさっきまでの雨中を疾走する覚悟は何処へやら、俺の視線はカウンターの隅っこにちらりと見える「歌うたいの少女」の背中へ釘付けになっていた。
俺が見ていた限りではあるが、彼女の歌を聴こうと足を止める人はいなかった。それどころか歌う彼女の前を避ける様に迂回する人さえいた。
誰も聴かない歌を歌う。一見すれば報われない行為である。
なのに何故、彼女は歌い続けるのか。何のために、或いは誰の為に、誰にも届かぬ歌を歌い続けるのか。
彼女の内面を知らない俺には、その理解どころか想像すら出来ない。
だけども彼女のその実直と思える飾り気の無い歌声は、確かに心に沁みた。自作であろう曲の歌詞は誰かへの後悔を歌ったものだろう。
届くといいな。安直に思う。そう思わせるだけの力は彼女の声にはある。
それは意識の共有を怠った結果、招いてしまった自分自身の境遇を重ねた故か。或いはそれに比類する過去の黒歴史への残留思念のなせる業か。
理由はどうあれ、俺は彼女の歌に自分を重ねていた。たとえそれが、名も知らぬ誰かに向けられた歌であっても。
その思考は現状からの「逃げ」だったのかも知れない。何かを考えること、何かに没頭することで、自分の現在抱える問題から目を反らしているだけなのかも知れない。
ふと
あれから雪ノ下と由比ヶ浜はあの件には触れてこない。それでいて、まるで気にしていないかといえば違う。彼女達の目が、仕草が、言葉を選り分ける一瞬の空白が、如実にそれを物語っている。
端的に言えば、気を遣われている。腫れ物扱いだ。それがどうにも歯痒くて、辛い。
いっそもっと責め苛んでくれれば楽なのかも知れない。返す言葉は決められるから。
だが現状はどうだ。
壊れないようにそっと表面をなぞるだけの会話と、その中で訪れるある種の緊張を伴う静寂に、かつて感じた心地良さは無い。
それは、雪ノ下が紅茶を淹れなくなったせいか。由比ヶ浜が空気を読みまくって当たり障りのない話ばかりするせいか。
否。
自惚れで無ければ、俺のせいだ。
あの件を、修学旅行の夜の嘘告白を、それと同時に心に落とした三人分の影を踏むまいと懸命なのだ。
あれから由比ヶ浜は教室では話しかけてはこない。そればかりか誰かが修学旅行の話題を出すと俯いていた。
故に俺は逃げたのだ。あの場所から。その居心地の悪さから。彼女らと正面で向き合うことから。
繰り返し思う。
どうしてあの時、俺は雪ノ下と由比ヶ浜に相談しなかったのだろう。
自分だけが理解出来た、解ってしまった海老名さんの依頼を相談しなかったのだろう。
時間が無かった。タイミングが合わなかった。
それは言い訳だ。
俺が海老名さんの言葉を依頼だと理解したポイントは二つ。
修学旅行初日の、あの葉山隼人の葛藤を見た時と、夜のコンビニでの三浦優美子との短い会話を交わした時。
その二人の言動から、海老名さんが戸部の告白を望んでいないことは導き出せていた。
ならばその翌日の自由行動の時にでも早々に二人に相談すべきだったのだ。少なくとも、自分が抱えている依頼の内容くらいは話すべきだったのだ。
言葉が足りないのは俺の悪癖である。が、今回に限っては悪癖では済まされない程の結果が出てしまった。
たとえそれが俺個人に向けられた依頼だったとしても、どんなに迂遠で理解し難かったとしても、奉仕部の部室で伝えられた、れっきとした依頼なのだ。ならば俺は、彼女らと問題と認識を共有するべきだったのだ。
だが俺はそれをしなかった。
何故か。
その答えはすでに出ている。
自分だけが理解出来たその依頼は、自分だけで解決するべきだと思い込んでしまった。思い上がってしまった。
だからこそ寸前まで独りで悩み、結果的にあんな方法を選択してしまった。
元凶は「奉仕部」よりも「俺」を選んでしまった俺自身なのだ。
つーか、何で俺はそのことを考えているんだ。
視界にあるのは、絶賛雨宿り中の「歌うたいの少女」の小さな背中だ。
何故俺は、その雨に濡れた小さな背中を見ながら彼女等への黙考に耽るのだろう。
それに、あの小さな背中には妙な既視感を覚えていた。こないだも同じ色のパーカーだったし、当然と云えば当然なのだが。
固結びに絡まった思考をほっぽり投げて、残ったコーヒーを口に含む。すっかり熱を失っていた琥珀色の液体は、ただ甘ったるさを残して胃の腑に落ちた。
思えばである。
それが不幸の序章だったのかもしれない。黙考などせずに、とっとと雨の中を突っ走るだけの糖分を摂取して店を飛び出せばよかったのだ。
そうすれば、今まさにドーナツショップに入ってきた奴に遭遇せずに済んだのだ。
「──やあ、君も雨宿りかい」
雨に濡れても相変わらず爽やかでいけ好かない奴だな。
ドーナツショップのドアをくぐって来たのは、葉山隼人だった。
葉山は前髪から垂れる水滴を払って注文を始める。時折女性店員の顔が笑顔になったり赤面したり……随分な色男だなぁおい。
注文したドーナツと飲み物を載せたトレイを持った葉山は、あろう事か俺の横へ腰を下ろした。
「……他にも席は空いてるだろ」
「 俺がいたら邪魔かな」
手を払って、あっち行けという意思を明確に示してやる。
「ああ、邪魔だ。邪魔過ぎてうっかり手が滑ってコーヒーをお前の顔面にブチまけそうになる」
「……そう邪険にするなよ」
くっ、駄目かぁ。さりげなく占有権と専守防衛の腹積りを匂わせても、爽やかリア充は席を移る気配を見せないばかりか既にコーヒーに口をつけ始めている。
まだ熱いだろうに。やせ我慢するな。やせ我慢だよな。おい。
仕方がない。葉山が動かないならば、ここは戦略的撤退といくか。
冷えてしまったカップを飲み切って席を立とうとすると、葉山の視線に動きを止められた。
普段の教室では見せない、申し訳なさと苛立ちを綯交ぜにした様な顔。その顔のまま、葉山は深く頭を下げる。
「……ずっと比企谷に謝りたかった」
はぁ、こいつもかよ。
これが何に対しての謝罪なのか、勿論俺には解っている。が、口には出さない。言葉にすれば葉山の謝罪を受けたことになる。俺の行動が間違いだったと認めたことになる。
未だ頭を下げ続ける葉山に、心の中で文句を垂れる。
ふざけんな。俺はただ自分勝手に依頼を遂行しただけだ。二つの相反する依頼を同時に解消する手段をあれしか思いつけなかっただけ、ただそれだけなんだよ。
葉山が戸部と奉仕部を訪れた時、依頼を断ることも出来た。いかに由比ヶ浜が乗り気になっていようとも、雪ノ下が依頼を受けようとも、俺個人として反対は出来た筈なのだ。
それをしなかったのは、俺の甘さであり、甘えだ。
依頼を通じて彼女たちと意思の共有をしたかった、俺の弱さだ。
それが「理解」だと思っていた。結局は違ったけれど。
「ほーん、そりゃどうも。お前に頭を下げられるなんて、光栄の至りだな」
具体的に述べずに若干の嫌味を込めて返してやると、一瞬だけ俯いた葉山の視線が鋭く俺を射抜く。そしてその目の光はすぐに消え、再びその頭は下げられた。
「すまなかった。修学旅行の件は、すべて俺の責任だ。奉仕部に持ち込むべき依頼ではなかった」
──何を言ってやがる。
あれは奉仕部が請け負った依頼だ。言うなれば安易に依頼を受けた奉仕部全体の落ち度であり、依頼を受けることに断固反対しなかった俺の責任でもある。
それに、今さら葉山が責任を感じたところで何が変わることもない。
結果は、解はもう出てしまったのだ。
しかし何だって突然謝る気になったんだ。葉山だけじゃない。昼休みの海老名さんや三浦もそうだ。
何がこいつらを突き動かした。
「顔を上げろ、気持ち悪いから」
「やっぱり素直には受け入れてもらえない、か」
「謝罪もクソもない。あれは俺の選択の結果に過ぎない。お前と違って俺は他人には頼れないからな」
「なぜ頼らないんだ」
「ちゃんと話を聞け。頼らないんじゃない。頼れないんだよ。俺には頼れる相手なんかいねぇよ」
「いるだろ」
「あ? 誰のこと──」
言い返しながらも、ふと頭に二人の顔が浮かんでしまい、それを必死にかき消す。しかしそれを見逃すほど目の前の男、葉山隼人は愚鈍ではない。当然の如く心の機微を読んで、そこを的確に抉ってくる。
「わかってる筈だ。お前は、お前には、頼れる相手がいる」
「俺を理解した様な顔をするな。それに、頼る頼らないは俺の自由だろ」
「それでもっ!」
葉山は顔を歪める。テーブルの上で握られた両拳は震え、明らかに苛立ちを孕んでいた。
「──やめよう。謝罪の意味がなくなる」
お前が勝手に謝罪して勝手にイラついてるだけだろ。マッチポンプも甚だしい。だがそこに葉山の悪意が無い以上、俺は文句の一つも言えなかった。
「君は……このままでいいのか」
「良くも悪くも、この現状が俺に与えられた世界だ」
自嘲混じりの口調ではあるが本心だ。
立てば半畳、寝て一畳。
俺に与えられる世界は常に一人分だ。
どんな時でも自分で考え、自分で動かなければ何も成せない。
参謀、俺。全兵力、俺。詰んでるねこれ。
「君は……結衣を変えた。戸塚だって川崎さんだって、比企谷と関わって変わった様に見える。雪乃ちゃ……雪ノ下さんも変わろうとしていた。なのに」
葉山の目が俺を射抜く。
「なのに何故、当の本人のお前がそれを認めないんだ」
馬鹿なことを言う。
それはきっと変わったのではなく、知らなかった一面を目にしただけだろ。
俺なんかがそんな影響力を持つ筈が無い。
たった一人、自分すらまともに制御出来ない俺なのに。
「余計なお世話だよ。お前にとやかく言われる筋合いは無い」
「俺は、比企谷にも変わって欲しい。俺と対等でいて欲しいんだ」
対等だと。対極の間違いじゃないのかよ、リア充の葉山さんよ。
「はぁ、結局お前の都合かよ。お前は何様のつもりだ。皆を照らす太陽にでもなったつもりか。お前は
「そんなつもりは無い」
「だったら放っといてくれ。世の中には日陰を好む奴もいるんだよ」
「それじゃあ……何も変わらないだろう」
奇しくもあの日、雪ノ下雪乃が言ったのと同じ台詞。
葉山が何を言わんとするかは解るが、生憎俺は素直じゃないんでな。
「変わることを善、変わらないことを悪だというのか。お笑いだな。二元論の押し付け、思わず草が生えるわ」
「──なら、奉仕部のことはどうする」
やっぱりそこか。
「それこそ、お前には関係の無いことだ」
「関係はあるさ。結衣は友達で、雪ノ下さんは幼馴染だ」
「だから俺に、あいつらの為に変われというのかよ」
「いけないかい」
「いや、望むこと自体は悪くはない。だが強制はするな。俺の事くらい俺の自由にさせろ」
興奮する葉山の相手に疲れた頃、ドーナツショップにずぶ濡れの戸部が現れた。
「っべーわ。超雨だわ〜、と、隼人くんじゃん。それにヒキタニくんも。二人で雨宿り?」
「やあ、戸部」
「戸部、こいつを連れてさっさと出てってくれ。面倒でかなわん」
「ええっ、今来たばっかなのに。そりゃひでーよヒキタニくん」
雨に降られるわ、葉山に絡まれるわ、戸部は来るわ。
はあ、厄日だな。
* * *
朝目覚めると、身体が重い。心なし頭も痛いし、何より鼻声だ。
どうやら風邪を引いたらしい。雨に濡れたせいだろうか。それとも葉山隼人に苛々して帰宅後にすぐ着替えなかったからだろうか。
もしかしたらゲームのゾンビを葉山に見立てて、夜中まで大量に屠っていたから、か。
「ぶぇっくしょんっ」
とにかく朝からくしゃみが頻発している。その度に「うえぇ〜」と顔を背けるのやめてね小町ちゃん。
「だって小町まで風邪引くのやだもん」
一人で朝食を片付けた小町は、そう言い残してさっさと登校していった。冷たい妹だぜ。
とにかく俺も早く朝メシを済ませなければと、鼻を啜りながらトーストを食べ終えてシンクに食器を運ぶと、風邪薬の瓶と水が入ったコップが置いてあった。
一応ではあるが、我が愛妹は愚兄を心配してくれているらしい。心中で感謝して瓶の中の錠剤を三つ、コップの水で流し込んだ。
遅刻ギリギリで教室の後ろの扉を開けると、そこは異世界の様な雰囲気だった。その原因は由比ヶ浜結衣の前にいた、雪ノ下雪乃だ。
雪ノ下と由比ヶ浜は、俺が教室へ入るなり視線を向けてきた。
しかし言葉は来ない。
俺は二人を一瞥して、自分の席に着くなり机に突っ伏す。
うわぁ、居辛いなあ。つーか熱が出てきたか。いいや、一時限は数学だ。
寝ちまおう。
二時限目が終わるといよいよ辛くなってきた。「大丈夫? 顔色悪いよ?」と優しく声を掛けてくれるのは戸塚だ。
身体を起こすと、額に戸塚の掌が当てられた。何コレ、どんなイベント発生だよ。
「ん、やっぱりちょっと熱があるみたいだよ。保健室行く方がいいよ」
「あ、ああ、そうするかな」
「一人で、行ける?」
普段の俺ならつい妄想を始めてしまうのだが、そんなことは無かった。よほど体調が悪いらしい。が、これ以上戸塚に心配をかけてはいけない。
「大丈夫だ、そんなにひどくない。仮病みたいなもんだ」
「わかった。先生には僕が伝えておくよ。気をつけて、ね」
戸塚の笑顔に見送られて、俺は保健室へと向かった。
* * *
目を開けるとぼやけた視界に入るのは、ぽつぽつと不規則に穴が空いた白い天井。
保健室で眠ってしまった様だ。
壁にある時計は既に正午を回っている。もう昼休み、か。
保健の先生はいなかった。机の上には「何かあったら職員室まで内線を」と書いたメモ書きがある。
頭を振ってみると、くらくらする。まあもう少し寝れば治るだろう。
それよりも昼メシだ。
購買に向かおうとベッドから立ち上がると、身体が慣性の法則に逆らえずに流れる。つまり、ふらふらする。
やめた。危険だ。ベッドに戻る。
嫌われぼっちの俺が校舎内で行き倒れになどなったら、何を言われるか分かったもんじゃない。いやその前に「こいつ誰」とか思われるか。
昼メシは諦めて大人しく寝ていよう。
暇潰しに枕元にあったデジタル体温計を脇に挟む。計測時間は……適当でいいな。所詮は暇潰しだ。
かち、こち、かち。
壁時計が刻む秒針の音がやけに耳に障る。
静かだ。
何となく厳かな気分になる。だからといって高尚な思考に至る訳は無く、考えるのは食べ損ねた昼メシのことである。
保健室の扉がからりと軽い音を立てた。保健の先生が戻ってきたのだろうか。
カーテン越し、シルエットが浮かぶ。
「八幡、起きてる?」
それは天使の福音。戸塚の声だ。
「ああ、もちろんだとも。元々風邪なんかでへばる俺じゃねぇよ」
心中で自分にダウトっ! と叫びつつ虚勢を張る。
「よかったー、入っていい、かな」
「おう、いいぞ」
もちろん断る理由は無い。問題があるとすれば、ウェルカムドリンクを用意出来ないのが申し訳ないことくらいだ。
「はい、お昼ごはん。八幡、いつも購買でパン買ってるでしょ」
カーテンを開けた天使の戸塚が差し出したのは、玉子ロールとハムカツサンド。
さすがは戸塚、やっぱり超天使だ。いやもう女神だ。是非ファミリアにしてください。
「悪いな、いくらだった?」
「いいよ、お見舞いってことで」
「そういう訳にはいかないだろ。親しき中にも礼儀あり、だ」
もそもそとポケットの財布を引っ張り出すと、戸塚は笑っていた。
「八幡って、変なとこで真面目だね。わかった。じゃあ今度、ミラノ風ドリアをご馳走してね」
「わかった。店ごと貸し切ってやろう」
さすれば余計な邪魔は入るまい。やだ、俺って策士。お父様お母様、スカラシップで浮かせた予備校の授業料は無駄にはしませんぞ。
「あはは、八幡ったら」
だが、幸せは長くは続かないものらしい。
コンコンと扉をノックする音が聞こえた。運命は斯く戸を叩くのだ。
「──失礼、します」
「……ヒッキー、大丈夫?」
雪ノ下雪乃と、由比ヶ浜結衣だ。二人の手には弁当らしき包みが見えた。
「──んだよ、お前ら」
現在会いたくない人物のツートップの揃い踏みに思わず声音が低くなる。
「保健室に入るのに、あなたの許可が必要なのかしら」
「保健室の主の許可は必要だろうが」
「まーまー、いいじゃん。一緒にごはん食べよう、ね?」
「ここは飲食禁止だろ」
本当にそうかは知らない。ただ保健室という部屋の役割上、飲食は避けるべきだとは思う。
「あなたもパンを持ち込んでいるようだけれど」
「あっ、それはね、僕が買ってきたんだよ。八幡、ずっと保健室だったから、お腹空いてるかなって」
別段責めるでもない雪ノ下の言に戸塚が応えてくれた。有難い。トツカファミリアに入りたい。
「そう……顔が赤いようだし、風邪、かしら」
いいえ、戸塚とダンジョンで二人きりになるのを妄想してしまったからです。あ、戸塚は女神だからダンジョンには入れないのか。
「──仮病だよ。ただのサボりだ」
また俺は吐く必要の無い小さな嘘を吐いてしまう。いつもそうだ。俺はどうして素直に答えられないのだろう。
「ま、そういう訳だ。とにかく俺はここで食うつもりはない。ここで食べたきゃ勝手に食え。俺は他所で食う」
上履きを履いてベッドから立ち上がろうとすると、俯いた由比ヶ浜が目に入る。
「……なんで?」
は、主語も目的語も無いぞ。それ質問なのか?
「なんで、あたし達を避ける……の?」
別に避けてるつもりは無い。ただ、なるべく接点を持たない様にしているだけだ。
つーか舐めるな。俺が全力で避けたらこんなもんじゃねぇぞ。引きこもるぞ。
「理由は……わかるだろ」
まただ。また俺は理解を求めてしまう。押しつけてしまう。
「言ってくんなきゃ分かんないよ。あたし馬鹿だから、ちゃんと言葉にして言ってよ」
「由比ヶ浜さん、やめましょう。ここは保健室よ」
「……ゆきのんもゆきのんだよ。みんなもう、何考えてるか……わかんないよ」
「何を言っているのか分からないのはあなたよ、由比ヶ浜さん」
他人の頭の中など解るものか。自分ですら把握出来ないんだ。
「……あのなぁ、喧嘩なら他でやってくれ。頭に響くんだよ」
「あら。仮病じゃなかったのかしら」
「あ? 誰が仮病だって?」
「あなたが言っていたのだけれど、違ったのかしら」
さすが雪ノ下、聞き逃さないな。だけどこの不毛な議論に付き合うのは今の俺では無理だ。
「……ま、どっちでもいいや。お前らには関係ない、ことだしな」
自分が吐いた言葉に胸の奥がちくりと痛む。
「なんで……わかってくれないの。ヒッキーのバカっ」
言葉と同時に由比ヶ浜は保健室から走り出した。
残された雪ノ下はしばし瞑目して、俺に告げた。
「今日の部活は休みにするわ。ゆっくり寝て、早く比企谷菌を退治しなさい」
「それ、俺が退治されちゃうんですかね……」
雪ノ下も去り、戸塚と俺だけが残る。
「ねえ八幡……二人とも八幡を心配してるんだよ。それだけは、分かってあげてね」
わかってる。わかってるよ。
だけど、わかるのと受け容れるのは、似て非なる別の問題なんだ。
保健室を出る戸塚の小さな背中へ呟いた言い訳は、誰にも届くことは無かった。