やはり俺の十七歳の地図はまちがっている。   作:エコー

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5 いま彼女は何を思う (15の夜)

 

  夢を見た。明晰夢というやつだ。

 その夢の中で俺は──折本かおりに告げた。

 

「す、好きでつ。つ……付き合っていただけませんか」

「あー、ごめん、無理。話それだけ? なら行くね」

 

 たった数十秒の夢。この夢を見るのはどれ位ぶりだろう。もう見なくていいのに。見たくないのに。

 

 中学時代。半年がかりで綿密な計画を立てて決行した告白は、ものの数十秒で負けが確定した。

 当然だ。折本かおりはクラスの中でも最も目立つ存在の一人だ。俺なんか相手にする筈が無かったのだ。

 

 折本は優しかった。こんな暗くて目立たない俺にも話し掛けてくれた。皆に便乗したとはいえメール交換もしてくれた。

 それから半年ほど悶々と妄想を繰り返しただろうか。次第に折本かおりへ対する「何か」は俺の中で肥大化し暴走し、ついに突然の告白という形で決壊した。

 そしてその「何か」は……たった数十秒で(ちり)となった。

 

 折本にしてみれば、俺への対応は優しさでは無かった。友人以外のその他大勢に対する上辺の対応か、それ以下でしか無かったのだ。

 悪いのは、それに気付けない程に舞い上がっていた俺だ。

 

 恋は盲目。よく言ったものだ。実際そうだったし。だから大して折本を知らずに妄想だけを繰り返し、実体を何ら理解せずに突っ走ってしまった。クラス内で孤立していたボッチの癖に、分不相応にも告白なんて思い切った行動を起こしてしまった。

 

 この俺の告白は所詮は自己満足の為だ。あわよくばと思う気持ちが一割、あとの九割はダメ元と覚悟していた。

 当然結果は失敗。だが俺は、こんな俺でもクラスカースト上位の女子に告白出来た、という事実に満たされていた。

 だが、その満足感の代償は想定よりも大きかった。

 翌朝にはクラスの大半が俺の告白を知っていたし、だからと言ってそれを直接揶揄(からか)うこともせず、ただ雑音(ノイズ)の如く囁かれる数多の陰口が俺の傷ついた心を更に抉っていった。

 

 人と関わることを諦めたのはそれからだった。

 知っている奴とは距離を取り、知らない相手、解らない相手には壁を作り、溝を掘って身を守った。

 そうでもしなければ俺は自分を保てなかった。害意に潰されるか、圧力に耐えかねて爆発するかのどちらかだった。

 

 時間はかかったが、人との関わりを諦めると決めたら楽になった。誰が何を言おうが、言葉の刃で斬られた傷は心の表層で食い止められた。

 時には暴力もあったが、反撃はしなかった。奴らと同じにはなりたくなかった。

 だが、俺を嘲笑う声は消えはしない。

 嘲りは水酸化ナトリウム水溶液の如くじわじわと心の表層を浸食し、気付かない内に侵し、犯していく。

 ある日、気がつくと泣いていた。それからは来る日も来る日も気づかれない様に泣いた。

 その涙が止まった時には、俺の目は濁り切っていた。

 

  * * *

 

 ──ふう。

 嫌な夢を見たものだ。それもこれも、ここ最近で二回も折本かおりに遭遇してしまったからだろう。

 そもそも忘却の彼方に置き去りにしたた筈の人物なのだ。現に高校二年生に進級してからは一度も思い出さなかった。

 それがいざ遭遇してみると、即座に折本かおりの名は脳裏に浮かんできた。忘れたつもりだったが全然忘れていなかった。何のことはない。折本の記憶は依然として頭の中にあり、単に他の記憶の物陰、見えない処に隠しておいただけだった。

 

 昨日、折本は戸塚とばかり話していた。俺はといえば二人の会話に耳を傾けながら、同じベンチの端っこでマッカンをちびちびと飲んでいただけだ。

 折本との会話の中、戸塚はこんな俺を褒めてくれた。自慢の友達とも言ってくれた。その度に何故か折本かおりは俯いていたが、まあ、中学時代のあんな件があったのだ。俺への賛辞など右から左だったろう。

 

 だが思ったよりも話は盛り上がっていたようで、俺がトイレに立って中座して帰って来ると互いのスマホを出してふりふりしていた。

 ダメッ、とつかたんはみんなのとつかたんなんだよっ。

 何の流れか折本は俺にまでアドレスを聞いてきたが、用事も無いし教える必要性は感じられなかった。それでも戸塚の頼みとあらば折本とのアドレス交換くらいお安いご用だ。

 とまあ、結局アドレスを教えたのだが……こいつ俺のアドレス知らなかったっけ。

 あ、俺が変えたんでした。携帯の番号ごと。

 

 

 

「──やべ、もうこんな時間だ」

 

 ぼんやりとする寝起きの頭をぶんぶんと振って強制的に目を覚まし、急いでリビングに降りると既に小町の姿は無く、食卓には一人分の朝食と「先行く」とだけ書かれたメモがあった。

 トマトを退けたサラダを口に押し込んで飲み込み、目玉焼きをトーストに乗せて二つ折りにしたのをこれもまた口に押し込む。

 もそもそする口内の咀嚼物を牛乳で流し込んで身支度を整えて自転車に飛び乗った。

 

 ここからはタイムトライアルだ。幸いにも雨は降っていない。

 さあ、間に合うか否か。

 

 結果からいうと遅刻した。

 こんな日に限って一時限目は平塚先生の国語で、そろりそろそろと後ろの扉を開けて覗き込むと、そこには鬼の形相の独身アラサー白衣が仁王立ちしていた。

 セカンドブリットを受けた後の大して痛くも無い腹を大袈裟にさすりながら午前中の授業を終え、購買へ向かう。

 

 待ち伏せ……なのだろうか。

 もう少しで購買に辿り着くという階段の踊り場に、雪ノ下雪乃はいた。

 刹那、目が合う。が、すぐに目を伏せて雪ノ下の右側をすり抜ける。

 言葉は無い。だが、先程の視線だけで雪ノ下の感情は伝わってきた。目は口ほどに、という奴である。

 雪ノ下の目にあった感情は、憂いと解釈できた。だが何に対しての憂いなのか、それが奉仕部の部長としての感情なのか雪ノ下個人のそれなのか解らない。

 俺はその感情の正体を知りたくなかった。怖かった。それだけに無言を貫く雪ノ下の態度は少しだけ有難かった。

 

  * * *

 

 一難去ってまた一難。今日の俺はとことんついていないらしい。

 最小限の被弾で華麗に雪ノ下を躱した数分後、ベストプレイスにてぼっちメシに舌鼓を打っている処に珍客が現れた。

 海老名姫菜、である。

 

「はろはろー」

 

 全然流行らない普段どおりの挨拶で現れた彼女だが、その表情には影がある。

 

「……おう」

 

 たった二文字の挨拶。うん、実に省エネ。地球に優しいな俺って。

 さて、メシの続きを……はぁ?

 

「よいしょっと」

 

 何故俺のすぐ横に座るんでしょうかこの腐女子は。温もりが伝わってくるでしょうが。

 思わず尻をスライドさせて海老名さんとの距離を確保するも、再び海老名は離れた分だけ近づく。

 

「……何してんだよ」

「まあまあ、たまにはいいじゃん。告白してくれた仲なんだし」

 

 くっそ。誰のせいでそうなったと思っていやがる。あ、俺のせいでしたね。

 

「何か話あんだろ。離れたら聞いてやる」

「ずるいなぁ、ヒキタニくんは」

「何がずるいだよ。遠回し過ぎて理解しがたい依頼を持ち込む奴に言われたくねぇ」

 

 言い返してしまってから、気づく。今の嫌味は少々口が過ぎた。海老名さんは少し顔を伏せて呟く。

 

「それに関しては……申し訳ないと思っているんだよ。それに」

 

 息を吸い、吐き出す。

 

「わたしの依頼のせいで結衣、ううん奉仕部の関係がおかしくなったのも、すごく申し訳ないと思ってる」

 

 ほほう、そうなのか。トップカーストの面々は下々に感情など抱かないと思っていたが、どうやら違うらしい。

 

「でもさ、ヒキタニくんもずるいじゃん。あの時、ヒキタニくんの後ろに結衣と雪ノ下さんの顔が見えて……あんな顔を見たら……ちゃんと振るしかないじゃん」

 

 俺が背を向けていた、海老名さんだけが知っている、あの時の二人の顔。その表情は永遠の謎である。

 

「つーか、それって俺のせいなの?」

「そうだよー、ヒキタニくん……比企谷くんがあの二人にあんな顔をさせたんだよ」

 

 って、どんな顔だよ。全周囲モニターも邪眼も無い俺には背後の様子なんて窺い知れねぇぞ。

 

「ちなみに、どんな顔してたと思う?」

「解らねぇよ、俺はニュータイプじゃねえからな」

「……クワトロ大尉って、案外ヘタレ受けっぽいよね〜」

「どっちかっつーと、ヘタレ受けはジェリド中尉だろ」

「だねだね、ちなみにアムロは絶対誘い受けだよねっ」

「……何の話だよ」

 

 話が横に逸れまくってハアハア言い出す眼鏡腐女子に弱い突っ込みを入れて溜息を吐くと、海老名さんは一拍の間を置いて続けた。

 

「とにかく、ヒキタニくんにはちゃんと謝っておきたくて、さ」

「詫びなんていらん。俺が勝手にしたことだ」

「それでも、だよ」

 

 こくん、と一息飲んだ海老名さんは、立ち上がってスカートの裾を払い、姿勢を正す。

 

「ヒキタ……比企谷くん、迷惑かけてごめんなさい。わたしの依頼のせいで比企谷くんにも結衣にも、雪ノ下さんにも嫌な思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」

 

 深々と下げられた頭。膝の前できゅっと握られた両手は小さく震えている。

 ベストプレイスに響く詫びの言葉は、いつになく真摯に思えた。つーかこいつってちゃんと俺の苗字知ってたんだな。

 

「……気にすんな。それよりも、ちゃんと戸部を見てやれよ。案外いい奴かも知れん」

 

 今回の一連の依頼で分かったことは、戸部は印象ほど悪い奴でもチャラい奴でも無かった、ということだった。

 多少思慮が浅いようにも見えるが、あいつはあいつなりに真剣に考えて告白を決意したのだ。

 それは中学時代の俺の折本へ告白した時とは質が違うものだ。戸部の方が真摯に考えて悩んでいて、その結果の勇気なのだから。

 

 あれ、あの陰に隠れてるの、三浦か?

 あいつ隠れるの下手だなぁ。金髪縦ロールが風で靡いて丸分かりだ。あれじゃ立派な家政婦にはなれないな。

 

「……おい、おかんが見てるぞ。あんま心配かけんなよ」

「誰がおかんだし」

 

 金髪縦ロールを上下に揺らして物陰から登場した三浦は、口は普段の如く悪いものの優しい表情だ。

 

「優美子……覗いてたんだ」

「ちょっとだけ心配だったし」

 

 何に対しての心配だったのかな。俺かな。俺がいきなり海老名さんを押し倒すとでも思ったかこのばかちんがっ。

 

「じゃあヒキタニくん、邪魔したねー」

 

 いつもの雰囲気に戻った海老名さんは、そそくさと手を振って去って行った。

 で、何でまだ三浦は残ってるの?

 

「あ、あんさ……ありがと」

「何がだよ」

 

 本当にこいつらって、主語のない会話が好きだよな。

 

「わかんないならいいし。とにかく、ありがとっ」

 

 本当、何だかなぁ。こりゃ明日も雨だな。予報では夜半から雨らしいし。

 じゃあいいのか。よくないけど。

 

  * * *

 

 放課後、部活へ行く戸塚の背中を断腸の思いで見送って、さあ帰ろうとした時に呼び止められる。

 由比ヶ浜結衣だ。

 ここは聞こえない振りをしつつ避難だな、などと考えていると、いつの間に距離を詰めた由比ヶ浜は俺の腕を掴んだ。

 

「部活……今日も来ないの?」

「ああ」

「なん……で?」

 

 それをお前が聞くか。

 大元の原因は、お前が戸部の告白のサポート依頼を勢いで受けたからだろうが。

 そう零しそうになった途端、胸の奥がずきりと痛んだ。

 あれはあれで正しかった。いや、厳密にいえば正しいと断じるには難有りだが、戸部の告白のサポートという依頼は雪ノ下が掲げる奉仕部の理念にも合致していた。

 それに、由比ヶ浜は優しい女の子だ。恋に邁進する友達を応援したいと思うのは当然だった。

 何より実際に告白するのは戸部で、その結果を受け入れるのも戸部本人だった。

 その結末でも良かったのだ。

 

 だが、そこへ俺だけが理解出来た海老名さんの、戸部とは正反対の依頼により、状況は混迷を極めた。

 

 そこに俺の間違いがあった。

 

 この一週間で幾度となく繰り返した思考。

 何故俺はあの時海老名さんの依頼の内容を、真意を、由比ヶ浜や雪ノ下に伝えなかったのか。

 その答えは既に出ている。

 やる気になっている由比ヶ浜の気持ちに水を差したくなかったのだ。

 だから言えなかった。

 

 違う。

 それは建前でしかない。

 

 結局俺は思い上がっていたんだ。

 一人でやれると思っていた。

 独りで大丈夫だと勘違いした。

 自分だけが全てを知っている状況で、それをコントロール出来ると過信した。

 その結果がこのザマだ。

 俺の間違いは、初手にあったのだ。

 

 ──もっと人の気持ちを考えてよ

 

 今更ながら由比ヶ浜の言葉が胸に突き刺さる。

 あの時の俺は、状況だけを変えようとしていた。戸部や海老名さんの気持ちなど考えに無かった。

 由比ヶ浜が怒ったのも、今なら理解出来る。

 告白という、人の心を動かす神聖な行為を「方法」として選択し使用したからだ。

 代わりに目の前で振られて見せてやるなんて、戸部の好意を押し込めるだけの行為ではないか。

 戸部は戸部なりに真剣だった。俺は、その戸部の本気を踏み躙った。

 俺が怒られるのは当然だった。

 だが、未だにあの時の由比ヶ浜の涙の理由は、泣きながら走り去った理由は……分からないままだ。

 もしも──いや、その理由は分からないままの方がいい。

 

「……悪い、予備校の時間だ」

 

 また俺は嘘を吐いた。確かに予備校はある。だが本音は、由比ヶ浜の前から逃げ出したかっただけ。

 これ以上由比ヶ浜の縋るような視線の前に身を晒していたくなかっただけだ。

 

 やはり俺は卑怯者だ。自分自身を愚かだと罵り、(あざけ)り笑う篭った声は、秋風と共にどんよりとした空に消えた。

 

  * * *

 

 幕張にある予備校の授業を終えて外に出ると、早くも大粒の雨が降り出してきた。

 時間帯天気予報だと雨は夜半からだったのに、女心と秋の空とはよく言ったものだ。

 スコールのような雨に降られた人々が歩道を小走りに走っている。中には鞄を胸に抱えながら全力疾走するスーツ姿のサラリーマンもいる。きっと大事な書類でも入っているのだろう。

 社畜は大変だなぁ、などと考えている内に、雨足が弱まった。これなら家まで自転車で行けそうだ。

 

 と思ったのが甘かった。再び雨足は強くなる。

 さすがは秋の空。しっかりと期待を裏切ってくれる。

 激しく打ち付ける雨に耐え切れなくなって、すぐ先のドーナツショップに駆け込む。鞄の中からタオルを取り出して制服の水滴を払い、温かくて甘そうなコーヒーとドーナツを注文、一番奥の席に座る。

 

 バッグからタオルを引っ張り出して頭を拭き、顔を拭く。鏡が無いから確認は出来ないけど、きっとオールバックっぽい髪型になってしまっている。

 ブレザーの肩の水滴を払い、そろそろ冷めてきたかなとコーヒーに口をつけると、まだ少し熱いけれど猫舌の俺でも飲める温度になっていた。

 一緒に注文したクラシックタイプのドーナツを一口頬張ると、口内の水分と引き換えに甘味が広がる。すかさずコーヒーをちょっとだけ飲む。

 うん、美味い。もうちょいコーヒーが甘くてもいいな。

 ガラス越しの外に視線を移すと空は暗くなり、雨は一層強く激しくアスファルトを叩いていた。

 さて。

 糖分とは熱量である。何が言いたいかというと、このドーナツとコーヒーの糖分を糧に、雨の中を家まで立ち漕ぎでダッシュする覚悟を決めたってことだ。

 だからこそ今はこの甘味に身を委ね、酔い痴れよう。

 

 店のドアが開くと、大粒の雨が其処彼処を叩く音がバタバタと聞こえた。

 もしかしたらこの雨、止まないんじゃないの?

 こんなことなら中学時代に投げ出さずに「ノア計画」を作っておくべきだったか。

 黒歴史に塗れたくだらない妄想を断ち切ったのは、店内に飛び込んできた一人の客の姿だった。

 目まで隠れたニット帽にずぶ濡れのパーカー。その小柄な体躯に不釣り合いな大きなギターケースを抱えた少女。

 

 ──「歌うたいの少女」だった。

 

 


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