もらい事故の様な海浜幕張での折本かおりとの遭遇から二日経った朝、俺は窓を叩く雨音で起こされた。
目が覚めて初めて聞いた音が雨音とは。本日は中々に憂鬱な始まりである。
「はぁ、だりぃ」
誰にも届かない文句を吐いて、少しだけ自分の中に溜め込んだ憂さを浮世に返す。
目覚まし時計の表示は朝の5時。回転し始めたばかりの脳細胞を叩き起こすが如く頭を振ると、鮮明になるのは雨音のみだった。
くしゃくしゃのシーツの上に胡座をかいて、昨日の出来事を総括する。
戸塚に誘われて行った海浜幕張の駅前で折本かおりに遭遇。そのままサイゼに軟禁されて知らない奴の知らない話を一時間以上も聞かされた。
折本曰く中学の同級生の話らしいが、生憎俺の記憶には同級生など存在しない。あるのは嘲笑された過去と、蔑まれた思い出だけだ。
あの時、戸塚が帰ろうと言ってくれなければ二時間、三時間と分からない話を聞かされていたのかと思うと、少し寒気がした。
駄目だ。思考を切り替えなければ。
そう思っても、一度開いてしまった折本かおりの記憶が都合良く封印される訳もなく、それはしばらく胸中で燻り続けるのだろう。
今外に出れば、降り注ぐ秋雨はこの燻りを消してくれるのか。無理だな。
無理やり思考を変える為にスマホを掴む。が、それがいけなかった。
一番棚に上げておきたい件を思い出してしまった。
奉仕部の、二人の顔。
すでに修学旅行から一週間経過している。
一週間も経つと疲弊した俺の心も落ち着きを取り戻していた。と同時に、自分の行動と、それによって失ったものを再確認する余裕が出来てしまった。
失ったのは、奉仕部での穏やかな時間。その代りに得たのは、策に酔い痴れた果ての自分勝手な快感と……後悔。
どう考えても釣り合いが取れるものではない。
そんな調子で物思いに耽ること約二時間。何と無駄な時間だろう。考えても解決なぞ出来やしないというのに。
最悪な寝起きのまま、小町が登校して誰もいない食卓でもそもそと朝食を詰め込む。
朝の教室、俺は机に突っ伏しながら雨音に耳を傾ける。が、瞬く間にホームルームの前の喧騒に掻き消された。
戸部がはしゃぐ声が聞こえ、三浦がそれにぴしゃりと突っ込み、大和だか大岡だかがそれに便乗する。
ふむ。葉山は上手くやっている様だ。海老名さんと由比ヶ浜の声が聞こえないのが気掛かりではあるが。
ま、表面上だけでも普段どおりにしてくれていれば、俺が無様に踊った甲斐もあるってものだ。少なくとも何の成果も無いよりかは幾分かマシである。
だが、未だに思う。
俺の取った行動。あれは正しかったのか。ベストでなくともベターと言えたのか。より良い選択肢が他にあったのではないか。
その思考の全ては間違っていて正しい。たとえ間違っていたとしても正解など誰にも分からないのだから。
などと今になって考えても遅い。全ては済んでしまった過去だ。もう巻き戻しは出来ない。
『誤解も曲解も、解は解』
だから俺は、限られた時間と少ない手駒の割には最善の手を打てたのだと、繰り返し自分に言い聞かせ続けている。その自分への言い訳にも疲れてそのまま眠ってしまった俺は、平塚先生に小突かれるまで悪夢の中だった。
故に、雨が激しくなったことにも、由比ヶ浜結衣が時折寂しそうな顔で俺を見ていたことにも、まるで気づかなかった。
* * *
昼休みになると雨は上がっていた。かといってすぐに蒼天が広がる筈は無く、空はどんよりと曇ったままだ。
融通の利かない秋雨前線に独り愚痴を零しながら、いつもの様に購買のパンとマッカンを抱えて雨上がりのベストプレイスへと向かう。
と、普段昼休みはテニスコートで自主練しているはずの戸塚が、先に俺のベストプレイスに座っていた。
「へへ、先にお邪魔しちゃってごめんね」
戸塚ははにかみながら、持参した弁当を目の前で揺らした。うむ、安全安心、安定の可愛さである。
「あー、今日は昼休みの練習はいいのか?」
「うん。コート、雨でぬかるんじゃったから」
成る程。テニスコートを見に来て使えないと分かって、その流れでのベストプレイスか。
「八幡、今日も元気無いね。由比ヶ浜さんも寂しそうにしてたし」
戸塚には修学旅行の時の嘘告白の件は話していない。
決して戸塚彩加という天使……もとい人物を信用していない訳ではない。何なら溺愛してるまである。
だが、依頼には守秘義務が付きまとう。特に今回の案件は幾人ものプライバシーが関わってきているのだから尚更だ。
「やっぱり戸部くんの件、かな」
虚を衝かれて、頬張ったパンで咽せた。慌てた戸塚が背中を叩いてくれる。マッカンを喉に流し込んでひと心地つけて、戸塚に向き直る。
「……何でそれを」
「八幡、動揺しすぎだよ。戸部くんのは夏に千葉村で聞いてるし。それに、その件ならかなりクラス内で噂になってるよ」
おおっと。そういうことか。
ま、噂話はマッハ8っていうし。言わねぇか。噂の出処も何となく判るな。葉山グループのモブ1かモブ2が出処だろう。
「ったく、葉山の奴……自分のグループくらいまとめとけよ」
「大変そうだよ、ね」
まったくだ。
だがその大変なことを選んだのは葉山だ。いや、海老名さんや三浦の意向か。
どっちにしても面倒な話だ。
「ううん、大変そうなのは八幡だよ。今回も頑張ったんだよね」
思いもかけぬ天使の優しい言葉に思わず目が潤んでしまう。が、それを戸塚に悟られる訳にはいかない。
「どうかな。それについちゃ分からん」
「ううん。八幡は頑張った。頑張り過ぎちゃったんだよ。だから、そんなに苦しそうな顔をしてるんだよ」
は?
俺が?
苦しそうな顔?
「だって、文化祭の後もそんな顔、だったし」
「……そうか?」
「うん。八幡が頑張ったってことは、それだけ傷ついちゃったって……ことだもん」
傷ついた、という表現が相応しいかは解らない。だが、確かに俺は疲弊していた。文化祭の後も、そして今回も。
「そうだ」
頭上に電球が光ったかの如く戸塚が声を上げた。
「八幡、付き合ってよ」
「末永くよろしくお願いします」
「即答だし意味が分からないよ!?」
慌てて手をぶんぶんと振りながら顔を赤らめな戸塚っ。思わず押し倒しそうになるぞ。いや既になってますね。
背中で両手をわきわきさせながら欲望……もとい願望を抑えていると、戸塚の頬がぷっくりと膨らんだ。
なにこれ。怒っても超可愛い。
「今日の放課後も付き合ってっていう意味だよ。分かるよね?」
「あ、ああ。もちろんだとも。決してやましい感情なんか無かったぞ」
「それ、やましい人が言う台詞だよ」
なにコレ。超ラブコメしてる。
相手は男だけど、戸塚ならどんとこいだな。うん。
「で、どこ行くんだ。区役所の戸籍課か?」
「もう……昨日の海浜幕張だよ」
* * *
やはり俺は学習機能が無いらしい。まさかトラウマの元凶と遭遇してしまった場所に二日連続で来てしまうとは。
でも仕方ないじゃん。戸塚のお誘いだよ。断るなんて選択肢がある訳ないだろ。何なら一年間くらい続けてお願いしたい。
だが気が向かないことには変わりは無い。とりあえずイージス艦並みの防衛システムが欲しい。
午後五時。戸塚に誘われるままに着いた海浜幕張駅。ファーストフードで軽く腹ごしらえをして、二人で駅前のベンチに腰を下ろす。
「今日は来ると思うんだ」
来るというのは、多分あの「歌うたいの少女」を指して言っているんだろう。だが、俺の視界に入ったのは、またしてもあいつだった。
「お、比企谷じゃん」
あーあ、またこのパターンかよ。
俺のイージスシステム、どおなっちゃってんの?