夜八時過ぎのサイゼリヤ。俺はドリンクバーのコーヒーを飲んでいた。その目の前には──。
「でさー、そん時あいつ、何言ったと思う?」
「……知らねぇって」
「玄関開けたら、頭に花瓶を乗せた青いレインコートの女がいたんだってー、ウケる」
──ウケねぇし。つか知らねぇし。
話半分以上頭に入ってきてねぇし。
だいたい何で俺と折本かおりが一緒にサイゼにいるんだよ。それだけでもパニックだわ。
「てかさ、比企谷って友達いたんだね」
何それ。俺に友達がいたらそんなに変ですかね。
「それってちょっと失礼だよ、折本さん」
「……あ、あはは、だ、だよねー」
初対面の戸塚の反論が意外だったのか一瞬表情を固めるも、さすがは折本というべきか直ぐに笑顔を貼り付けた。
だがやはり俺への擁護に衝撃を受けたのか、その後の暫しの沈黙の間、折本は愛想笑いを浮かべながらストローの紙袋でしきりに手遊びを繰り返す。
その間、俺はといえば戸塚の言葉に少しだけ面映ゆい気分に浸りつつ折本かおりの様子を窺っていた。
「ところで比企谷、なんで海浜幕張の駅前にいんの?」
うわっ、こいつとうとう話を振ってきやがった。今迄は折本の駄話に適当に相槌を打っていれば凌げたのに、これじゃ俺も話さなくちゃいけなくなるだろうが。
「いや、本屋にね」
「何それウケる。本屋くらいもっと近所にあるでしょ」
「ウケないし、お前には関係ないだろ」
「──そだね」
いや全くウケない。笑う要素ゼロ。
「でもさ、こうして比企谷とお茶できるなんて……思わなかったなぁ」
いやいやその表現はおかしい。正解は「最寄りのサイゼにお前が強引に俺を引っ張り込んだ」だろうが。だが、折本の意見に関しては同感だ。
折本かおりは過去に告白し、振られた相手である。解せないのはその折本の行動だ。過去に振った相手をサイゼに誘うかね、普通。
あ、俺が普通じゃないのかな。どうでもいいけど。
愚考しつつも、俺はこの状況からの脱出だけを考えていた。
まずはトイレに立つ振りをして伝票を隠し持ち、バッグと荷物を抱えてダッシュ!
……ダメだ。荷物が多過ぎるし、レジで立ち止まらなければいけない。
ならば次の作戦だ。
スマホに着信があった振りをして荷物を持って席を立つ……これもダメだ。電話しに行くのに荷物を持つ必要性が無い。そもそも俺に電話してくる奴はいない。哀しいけど。
って、いかんいかん。ちゃんと戸塚も連れて逃げなきゃ。もちろんお姫様抱っこで。じゅるり。
ふと正面に顔を向けると、当たり前だが目の前にはあの折本かおりがいる。
すうっと視界が遠くなるような感覚に襲われて、苦い記憶が蘇る。
折本かおりに告白した自分。恥ずかしさのあまり足をバタつかせた夜。その翌日、その告白をクラス中が知っていたという現実。
その記憶が、目の前の折本かおりの笑顔を否定する。
ふと俺の腐った目を見た折本かおりは、その笑顔に少しだけ影を落として俯いた。
* * *
真っ暗な中、そろりそろりと玄関を開けて、静々と靴を脱ぐ。リビングに音と気配を伝えない様に抜き足差し足──。
「遅い」
帰宅した俺に掛けられた声は「おかえり」ではなく、わが妹小町の小言だった。
「お兄ちゃんさぁ、遅くなるとか外で食べてくるならそう言ってよね」
「悪い、ちょっと知り合いに捕まっちまった」
苦し紛れの言い訳とも取れるその言葉に、小町は異様に興味を示してきた。
「え、誰? 雪乃さん? 結衣さん?」
うわ、面倒くせぇ。これはアレだ。答えるまで粘られるパターンだ。
「違う。中学の時の……だ」
「うわぁ、第三の女かぁ。ポイント低いよ、それ」
「別に女子とは言ってないだろ」
「じゃあ、男?」
「いや……女子だけど」
「うげぇ、やっぱり女じゃん。お兄ちゃんは小町の愛情たーっぷりの晩御飯よりも、その女を選んだんだね」
よよよ、と芝居掛かった泣き真似をする小町の頭をすっと撫でる。
「馬鹿いうな。戸塚も一緒だったし。それにだ、小町の作る晩メシに勝てる奴なんかいる訳ないだろ」
「ふぇ?」
「だから……小町のメシを差し置いて浮気なんかするかよ」
気の抜けた声で聞き返した小町の顔があっという間に朱に染まる。何これ、超おもしれぇ。
調子に乗った俺は追い討ちを小町の耳元で囁く。
「小町のメシが世界一だ」
「な、な、な、なに言ってんの、ばかぁ!」
どたどたと足音を鳴らして小町が逃げ込んだキッチンから、どんがらがっしゃんと鍋の蓋を落とす音が響いた。
それからは別段何を追及する訳でもなく、小町は俺のメシを咀嚼する姿を見つめていた。
配膳されたメシは、何故か超大盛りだった。
* * *
よせばいいのに。
自分でもそう思う。
何で俺はまた危険を冒してまで海浜幕張に来るかね。しかも折本かおりと遭遇した翌日に。
今日は折本に遭遇しない様にと脳内パッシブソナーとステルスヒッキーを全開にして、再び海浜幕張駅で降りた俺は、やっぱり阿保なのかもしれない。
ったく、学習能力の無い奴だ。しっかりしろ、俺。
そういや、折本はあの「歌うたいの少女」の存在を知っているのかな。昨日聞いとけば良かった。
日は沈みかけて、二本目のマッカンを飲み終える頃、ギターケースを抱えて駅に向かってくるニット帽が見えた。
来た。「歌うたいの少女」だ。
目を隠すように深くニット帽を被ったまま丸く剪定された木の下に着いた少女は、足を止めない群衆の流れに頭を下げてギターケースを開く。
ストラップを肩に掛けた少女はしばし俯き、意を決した様に歌い出した。
うむ。相変わらずの下手さ加減だ。たまに「びよん」とか異音を挟みながらも、それでも少女は俯きながら懸命に歌う。
ふと思い当たる。
もしかしたらこれって、何かの罰ゲームなのか。だが、周囲には少女を見て嘲笑するような集団の姿は見受けられない。
それどころか、誰も見向きもしない。
この状況で、彼女は何の為に歌っているのだろうか。
誰も聴いてくれない状況に泣きたくなることもあるだろう。心が折れることもあるだろう。
だが、少女は歌い続ける。
なぜだ。
演奏が終わった。
ふと少女の頭がこちらを向く。ギターをケースに仕舞って、再び俺を見て小さく一礼。
少女は逃げる様に去って行った。
帰り道、俺は考える。
あの歌うたいの少女が歌う理由。
俺に頭を下げた理由。
幾つか仮説を立ててみるものの、真実は確かめようがない。
すべては、彼女の胸の中にだけあるのだから。