俺にとって悪夢と等しかった修学旅行から数日が経過した。
クラス内の空気は以前と変わらない様に見えて、その実、以前とはまるで違う。
トップカーストである葉山隼人のグループは、明らかに以前よりも静かだ。ムードメーカーと称された戸部も以前の様にはしゃぐことはない。その隣にいる葉山も以前の様に上手く作り笑いが出来ていない。その後ろでは、大岡と大和のモブ二人がちらちらと俺を見ては何かを囁き合っている。
クラスの女王三浦優美子は、自身の指先に目を向けていて、その横には由比ヶ浜結衣がこれまた貼り付けた笑顔を浮かべ、その二人に隠れる様に海老名姫菜は薄い唇を噤んで俯いている。
ただ、そこにいるだけの、集団ですらない個体たち。
それでも彼ら彼女らは懸命に綻びを修復しようとしている様に見えた。その努力は果たして実るのだろうか。
「──幡、八幡ったら」
天使の声音で現実に引き戻される。
ふと顔を向けると、戸塚彩加が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
近い。あと十数センチで口唇と口唇が……けほん。
「おう、どした」
努めて冷静に、俺史上初であり唯一無二の友達に目を向ける。
「どうしたの、顔が赤いよ」
それは君のせいさ、などと冗談を言う度胸も気力も無い俺は、普段どおりに「何でもない」と返す。
「何でもないことはないでしょ。八幡、哀しそうだもん」
不意をつかれた言葉が胸に刺さる。
「そうか? 俺は至って普通だが」
「──そっか。でも、何かあったら言ってね。ちゃんと、聞く、よ?」
胸の前で小さくガッツポーズをする、余りにも可愛らしい戸塚の頭をポンと反射的に撫でてしまう。
「──ありがとな」
「ううん。友達だもん、当然だよ」
友達なら当然、か。
葉山たちもそう考えているのだろうか。崩壊しかけたグループの現実から目を逸らし、互いに何事も無い様な日常を演じる彼ら彼女らは、それぞれにどんな思いを抱えているのだろう。
だが、それは俺たち奉仕部も同じことだった。
* * *
放課後。
習慣になった筈の特別棟への足取りが重く感じる。先に教室を出た由比ヶ浜は既に奉仕部の部室に着いていて、雪ノ下と談笑し始めた頃だろう。
これから待っているのは針のむしろ。そこで俺は、俺たちは普段どおりの振る舞いをしなければならない。「日常を演じろ」としか書かれていない台本だけを胸に抱えて。
特別棟の階段を上る途中で、俺は踵を返した。考えての行動ではない。
そのまま職員室に向かい、ノックの後、扉を開ける。入り口に立ったまま室内を見渡すと、目当ての人物はそこにいた。
奉仕部顧問、平塚静先生である。
平塚先生は小テストの採点中の様で、ちらと俺に目を向けて、直ぐに机の上の答案用紙に視線を戻した。
「どうした、比企谷」
その声音は強く、柔らかい。
「すみません。今日は体調が悪いので部活は休みます」
咄嗟に口から出たのは、使い古されたテンプレの言い訳だった。
赤ペンを置き、平塚先生は俺に向き直る。じっと俺の顔を見つめて、溜息を吐く。
やばい、怒られるか。
まあ、いざとなったらファーストブリットくらいは大人しく頂戴して帰ろうなどと覚悟を決めたが、一向にその気配は無い。
「──ふむ、体調が悪いなら仕方ないな。今日は帰りたまえ」
あれれぇ。おっかしいぞー。
予想ならここで「ほほぅ、仮病とはいい度胸だな。歯を食いしばれ」とか言われて、腹部にぐはぁっと衝撃が来るはずなんだけど。
不意打ちに備えて腹筋に力を入れながら、平塚先生の様子を伺う。
だがそこにあるのは、寂しげな笑顔だった。
「あ、ありがとう……ございます」
拍子抜け、というのも違う。別に殴られたい訳じゃないし。
ただ、すべてを見透かした様な平塚先生の笑顔は、素晴らしく綺麗だった。
ただそれだけのこと。
白衣のポケットから取り出した煙草を咥えて、ライターで火をつける。何とも様になる仕草で一連の動作を終えた先生は、ふぅと紫煙を燻らせた。
「で、その体調、戻るまでには日数がかかりそうか?」
ああ、やっぱりこの
だからこそ、俺の吐いた安い嘘に乗っかってくれたのだ。
──おっと、うっかり惚れそうになっちまったぜ。
「ん? 顔が赤いな。体調というのは風邪か?」
「え、あ、いや……」
「どうした、自分の体調だろう」
その口調はあくまで柔らかく、俺を責める様な刺々しさは微塵も感じられない。
やばい。マジで惚れる、かも。って、いかんいかん。今の俺にはそんな余裕も無ければ資格も無い。
今は目の前の大人の女性の「優しい嘘」に謹んで甘えさせて貰おう。
「──はい、ちょっと日数が必要だと思います」
目を逸らしながら答えると、煙を吐いた平塚先生の手が俺の肩に触れた。
「そうか、じゃあ、体調が戻るまでは部活を休むと良い。雪ノ下には私から伝えておこう」
触れた手で肩をポンと叩くと、俺の身体の緊張は一気に弛緩する。
「すみません」
「まったくだ。修学旅行で悪い病気に罹るなんて、自己管理がなってない証拠だぞ」
あくまで嘘に乗っかる姿勢を崩さない平塚先生に、心中で深々と礼をする。
「まあ、あれだ。今はゆっくりと休むべきだろう。体調不良の原因が整理出来て、解決するまではな」
本当にこの
「比企谷」
緩んだ涙腺と格闘する俺を呼ぶのは、いつもの平塚先生の声音。
「今度、ラーメンでも食いに行くか。実はな、こないだ幕張で美味いラーメン屋を見つけてな」
はい。その時には喜んでお供致します。
* * *
翌日、いつもの様に登校すると、昇降口で由比ヶ浜結衣が待ち構えていた。
思わず身体が強張る。
「ヒッキー、部活休んだの?」
いや、お前も同じ部活なんだから知ってるだろうが。あ、サボったという見方もあるか。結果は同じだが中身が違うな。
「ああ、ちょっと……な」
濁して答えると、胸にチクリと痛みが走った。由比ヶ浜の寂しそうな、それでいて悲しそうな澱んだ顔がその胸痛に何かしらを上乗せする。
「……もう、来ないの?」
その問い掛けには、答えられなかった。
由比ヶ浜との短い会話で気になったことがある。それを確かめるため、急いで職員室に向かった。
職員室前の廊下。引き戸が開いて、出てきたのは平塚先生だ。その先生の腕を捕まえて、階段の陰へと引きずり込む。
「ど、どうした比企谷。朝っぱらから教師を連れ込んで二人きりになるなんて……はっ、まさか」
なんですかそれ。何で頬を染めるんですかね。
「……先生、俺がしばらく部活休むことは伝えてくれたんですよね」
「──あ」
平塚先生が固まった。
「忘れてた。てへぺろっ」
軽く握った拳骨で自分の頭をコツン、じゃねぇよ。可愛いじゃねえか。
浅く溜息を吐いて肩を落とす俺に慌てた平塚先生は、白衣のポケットから急いで携帯を取り出した。
「わ、悪かった。よし、今すぐメールしとこう……ん、これで万事抜かりは無いぞ」
ぽちぽちと携帯を押し続けてパクンと閉じ、満面の笑みで無駄に豊かな胸を張るアラサー女教師。
つーか抜かってばっかりじゃねぇか。こりゃ幕張のラーメンは奢りだな。トッピング追加も決定しちゃおう。
「はあ、じゃ教室に戻ります」
ぞんざいに頭を下げて向けた背中に、昨日と同じ柔らかな声音が届く。
「比企谷、もし君が悩んでいるのなら、話してみるといい。相手は私じゃなくても……今の君には話を聞いてくれる相手はいるはずだ」
うわぁ、今のでチャラになっちまった。
本当、良く見てるわ。
眠気に負けた数学の授業を終えて体を起こすと、既に昼休みに入っていた。
いつものように気配を消して購買にてパンを二つ購入、自販機でマッカンを仕入れてベストプレイスへと向かう。
俺のベストプレイスは、校舎の外にある。ここは滅多に人が通らない。そればかりか、目の前はテニスコートがあるのだ。そしてそこには昼の練習に勤しむ大天使、戸塚の姿。
眼福、眼福。
と、俺に気づいた大天使がぶんぶんと手を振って駆け寄ってくる。
「はちまーん」
こ、これはアレか。両手を広げて迎えるべきだろうか。そして熱い抱擁を交わすべきだろうか。
などと妄想しながら待ち構えていると、俺の一メートル手前でぴたりと止まってしまった。
惜しいっ、そこはオーバーランして胸の中にぽすんと収まって欲しかった。ぐすん。
「八幡は、お昼ご飯?」
「ああ、いつもの如くぼっちメシだ」
「なにそれっ」
戸塚は俺の横にちょこんと座って汗を拭き始める。俺も残りの昼メシを片付ける為に腰を下ろす。
「奉仕部、行ってないの?」
おうふ。いきなりド直球できたか。さすがはテニス部の新部長。強烈なスマッシュだぜ。
「まあ、な」
「ふぅん。でも、たまには休みたい時もあるもんね」
違う。違うぞ戸塚。俺は年中休みたい。
だがそれを言うと軽蔑されそうなのでグッと堪える。
「そういえば八幡、海浜幕張駅で歌ってる女の子って知ってる?」
* * *
放課後。
例によって部活を休んだ。だが今日は仮病ではない。確固たる用事があるのだ。
「こっちだよ、八幡」
昼休みに戸塚に誘われて俺たちは海浜幕張の駅前へと赴いていた。誘われた相手が戸塚ならば、それはもう最優先の用事である。
その目的は、戸塚が言っていた「歌うたいの少女」を「見る」為である。
「歌うたいの少女」と呼んでおきながら「見る」のは失礼かとも思ったが、あの少女の歌声は素通りする人々とその哀愁込みのものだ。
考えてみたら可笑しな話である。
極力他人に興味を持たない様に過ごしてきた俺が、今はこうしてあの「歌うたいの少女」を人待ち顔で探しているのだから。
自分でも、あの下手くそな歌の何が琴線に触れたのか解らない。
だけど聴きたいのだ。
いや、確かめたいだけなのかもしれない。
彼女が此処で、誰も見向きもしないのに歌い続ける理由を。
戸塚の話によれば、あの「歌うたいの少女」は一年ほど前からあの木の下で歌っているらしい。一年歌い続けてあの下手さかよ、と、一笑に付す気持ちも無い訳ではない。
だが俺は人の言動の裏を読む悪癖がある。それは防御本能であったり保険であったりするのだが、そのおかげで高校に入学してからの俺は勘違いせずに生きてこれた。人の悪意から身を守ることが出来た。
とはいえ、高校では今も現在進行形で害意には晒されているのだが。
元凶は、言うまでもなく文化祭での相模南に対する俺の所業。その悪評は学年の垣根を越えて広がっている。そこへきて修学旅行のあの嘘告白だ。奉仕部の二人が俺に愛想をつかすのも解らなくはない。
だとしたら。
すべて納得済みであるのに奥底に燻るこの感情は何なのか。
苛々する。過去の自分を認めてやれと言ったのは何処のどいつだ。こんな直近の「過去」にさえ悩む俺は、誰だ。
日は暮れ、風は冷たく頬を叩く。三本目のマッカンを飲み干しても「歌うたいの少女」は現れない。
帰るか。
そう決めて立ち上がった時、声を掛けられた。
「あっれー、比企谷じゃん」
その声は記憶の奥底に沈めた筈の、折本かおりの声だった。