「──コミュニティセンターに行ったら、もう解散したと聞いてね。いや、比企谷に会えて良かった」
低いエンジン音をB.G.Mに平塚先生に耳を傾けていると、水滴のついた車窓越しに駅が見えてきた。
すぐ横──右の窓の向こうには、外壁を赤い十字のリボンでラッピングしたようなマリンピアのイルミネーションが夜の闇に浮かび、その下の歩道では寒色のLEDの光の群れが戯れるカップル達を照らしつつも巧みに隠している。
横でハンドルを握る平塚先生は、イルミネーションや店先のツリーの合間から見えるカップルに、小さく舌打ちを繰り返す。
その姿に苦笑しながら、すっぽりと肩を包み込む革のシートの奥底に身を埋める。
その状態でウインカーの柔らかいリレー音を聴いていると、何だか自分自身の価値が上がったような錯覚に陥った。同時に、いかに自分が矮小な存在であるかを思い知らされる。
これが大人。この先の俺たちが歩む、そのまた先にある世界。
果たして、俺が平塚先生の様に左ハンドルの外車に乗れるまでになれるかは判らない。可能性からいえば極めて低いだろうな。
平塚先生の流れるようなハンドル捌きで、車は滑る様に左折する。
バスターミナルを半周ほどすれば駅の入口だが、車は其処で停まる事なく、濡れた路面をゆっくりと進み続ける。
どうしてこうなった、とは聞きはすまい。家まで送ってくれるというのだから断る理由は無い。なんなら渡りに舟だ。
少し長い信号待ち。
ふむ、と平塚先生は顎先に手を当てる。
「少しドライブに付き合ってくれないか。なに、深夜徘徊に抵触する時間までにはちゃんと家に送るさ」
おっと、これは大人の階段へのお誘いですか違いますね分かってます。
冷静になれ。そんなもの、ただの異性との部分的な接触だ。つまりぼっちには無用の長物。いや、そんなに長くなかった。多分標準サイズ、って何の話だよ。
──げふん。思考を元に戻そう。
別段用事はない。強いて言えば考えるべき案件があるくらいだ。しかしそれなら車のシートに座りながらでも可能なこと。
小さく同意を示す。と、車は後部を沈ませて南へと加速する。大方、海沿いの県道へでも出るのだろう。
ナビの画面だけが照らし出す車内で、平塚先生は鼻唄交じりに運転を続ける。時にはハンドルに指を叩きつけて軽快なリズムを刻んだりしながら。
随分とご機嫌な様子である。
そんな遥か年上の女性を可愛い、と評したらどんな反応をするのだろうか。色々と終わる気がするから絶対やらないけど。
エンジン音が高くなるにつれ、車窓の景色の流れが速くなる。心地良い高揚感と若干のGが俺の背ををシートにめり込ませる。
駅前を離れた途端に車窓の光が少なくなった。それでも街路灯のお陰で完全な闇ではない。
左右に団地が建ち並ぶ直線区間を抜けると、稲毛海浜公園前の信号に突き当たった。そこから左右に道を延ばすのは海沿いの県道である。
青信号。柔らかいウインカーの音を聴きながら、フロントガラスの右から左へと流れる景色をぼんやりと眺める。
雨の残滓なのか、水滴の残るフロントガラス越しに見る夜の県道は、あらゆる光が雨粒のレンズに映り込んで何倍にも増幅されて見えた。
光を追っていくと、流れる街灯に平塚先生の横顔が浮かび上がる。
時間にして一秒弱。思わず見つめてしまい、すぐに車内のインテリアに目を逃す。
運転席の平塚先生の前には、計器が並んでいる。対する俺の眼前は、のっぺりとした曲面があるだけだ。それが示すのは、果たして格差か。それとも役割の違いか。
「……どうだね、私の愛車は」
言外で「褒めて、褒めて」と催促するかの如く訊いてくる横顔が少しだけ幼く見えると言ったら、先生は怒るだろうか。
「格好良いですけど……先生の車って、こんなでした? 千葉村の時とは違うような……」
「あれはレンタカーだ。私の愛車は正真正銘、この車だよ」
「外車、なんですか。高そうですね、左にハンドルあるし」
「──言うな比企谷」
あれ。何か地雷踏んだかな。あ、これは確実に踏みましたね。先生の目から光が消えてるし。
「……本当ならば、私も英国仕様、右ハンドルのアストンマーチンが欲しかったさ。だがな比企谷、その時の結婚貯金ではこの車しか買えなかったのだ」
結婚資金という言葉は聞き覚えがあるが、結婚貯金とは果たして──いや、それは聞くまい。
きっと平塚先生はその時、結婚に夢を抱くのをやめたのだ。
そしてその代償として、憧れの車を手に入れたのだ。
己の人生の孤独と引き換えに。
「……何故泣く、比企谷」
「いや、何故かとてつもなく悲しい物語な気がして」
「馬鹿者、物語が始まらない悲しみよりは幾分マシだ」
想定よりも悲しみは深かった。きっと印旛沼より深いに違いない。
ふんっと息を吐き、先生は取り出した煙草に火をつけ……ない?
「吸わないんすか?」
「さすがにこの狭い密室で、高校生の君に受動喫煙させる訳にはいかないからな。形だけ、雰囲気だけだ」
それだけの気遣いが出来るのに何故結婚出来ないのか。
だが、我慢が限界に近づいているのか、火の点いていない煙草がぴこぴこと上下し始める。
それから数十秒後。
「──ダメだっ、もう辛抱堪らん。車を停めるぞ」
美浜大橋の手前、海沿いの駐車場へ車は滑り込み、数台駐車してある群れから離れて止まった。
「一度来てみたかったんだぁ、ここ。何度か挑戦を試みたんだが、夜景スポットだからカップルばっかりでな……」
平塚先生の言うとおり、駐車してある車の先には東京湾を見つめるカップルの影が複数窺えた。
「では……いざ、押して参る!」
何故か気合いを入れて外へ向かう平塚先生に続いて車を降りると、忽ち師走の夜風に吹きつけられた。
くっそ寒いじゃねぇか。平塚先生が気合いを入れたのも分かる。
しかしあのカップルたちは寒くないのだろうか。二人で身を寄せ合えば寒さなんてへっちゃらなのだろうか。
──俺には理解出来ない世界だな。
風上に背を向けて寒さを堪えていると、黒い缶を差し出された。
「飲みたまえ。暖まるぞ」
「いやあの、これブラックですか」
「なんだ、ブラックは苦手か。普段は達観した様な顔をしている割に、味覚はお子ちゃまだな」
「いえ、人生が苦いのでコーヒーくらいは甘いのを飲むのが信条で」
手の中で温かい缶コーヒーを転がす俺を見つめる視線は、平塚先生のものだ。
「まあ、理屈は分からんでもない。だが大人は違うぞ」
苦そうなコーヒーをぐびりと美味そうに飲む平塚先生は、その視線を海の向こうに泳がせる。
「確かに人生は苦々しく、辛く、切ない。だからこそ大人は常日頃からその苦さに慣れておくのだよ。コーヒー然り、ビール然り、タバコも然り、だ」
「屁理屈じゃないですか、それ」
「まあそう、だな。ただの屁理屈だ」
黒い缶を傾けた平塚先生は笑みと共に白い息を吐き、懐から一本の煙草を取り出してぱくりと咥える。
うーむ。どう見ても美味いとは思えない。だって葉っぱを燃やした煙だよ、それ。
だが紫煙を吐く平塚先生の表情は綻んでいた。
「本当に美味そうに吸いますね」
「ああ、美味い。タバコは心の栄養だからな。ま、決して勧めはしない栄養だが」
タバコの紫煙を海風が運び去るのを見ながら、苦いコーヒーを口に含む。
やっぱり苦い。だが、不思議とその苦さが今の俺には似つかわしく思える。
「で、どうだ」
漠然とした質問。
「ええ、何とかやってますよ。イベントに間に合う目処も立ちそうですし」
「そうか。で、君の方はどうだね」
「ええ、ですから……」
「少し質問を変えようか」
同じ台詞を繰り返し吐こうとしたのを遮られた。
「今の君の……心の重荷になっているものについて、君の答えは出たのかね」
具体的なことは何一つない。しかし心を射抜かれた気がした。
相変わらず平塚先生の視線は柔らかく、優しい。だがその言葉は厳しく、強い。
「君は今、葛藤を抱えているのではないか」
「……どうしてですか」
「見ていれば分かる。これでも教師だからな」
「……若手じゃなかったんですか?」
「本当に君は……余計なことは覚えているんだな」
「性分ですね、これは」
苦笑する平塚先生につられて俺の頬も緩むのが自覚出来た。
「今の君の葛藤はな、その余計なことを考え過ぎているせいだよ」
余計なこと。違う。
全ては解決、若しくは解消に必要なピースの筈だ。
「例えばだ。相反する二つの事象がある。この二つを両立させるには、どうしたら良いと思う?」
ふと修学旅行の夜が想起される。嫌な思い出だ。それを即座に掻き消して、白い息を吐いた。
「抽象的すぎて分かりませんね」
「ならば具体例を出そう」
東京湾に背を向けて、平塚先生が俺を見据える。
「君が思う人がいて、他の誰かもその人物を思う時、君ならどうするかね」
そんなこと簡単だ。伊達に数年間もぼっちを続けている訳ではない。
「自分が引きます、ね。無駄な争いはしたくないので」
「そこだよ。それが君の悪い癖だ」
争いを好まないことの何がいけないのだ。平和主義、大いに結構じゃないか。
「余計なことばかりに気を回し過ぎて、考えるべき本質を見失う。本当に考慮すべきものは何だ。それが分かっていない」
本当に考慮すべきもの。
何故だ。何故俺は解らない。
「それはな、心だよ」
──心。こころ。こゝろ。
誰の、心。
「明日の放課後、職員室へ来なさい」
「一人で、ですか」
「何人でも構わないが、一応六人まで、としておこう」
「六人なんて、俺にそんな人数を集めるのは──」
「無理か?」
いや、強ち不可能では無い。一年前の俺なら即答で無理と答えるのだろうけど。
「まあいい。とりあえず明日の放課後、私の処に来なさい」
缶コーヒーの底を天に向けて飲み干したのを確かめた平塚先生は、携帯灰皿で煙草を揉み消した。
「よし、今年の冬は男と二人っきりで東京湾の夜景を眺めることが出来た。帰るぞ」
「なんすか、それ」
その相手が教え子なんて寂し過ぎますよ。あと言い回しに背徳感たっぷりです。
「気にするな。単なる想い出だよ」
振り向いて、ゆっくりと夜空を見上げる大人の女性のあどけない表情に思わず見惚れる。
「先生、結構いい女だったんですね……」
「ば、馬鹿者っ、教師を
笑いを噛み殺しつつ、平塚先生の手から空き缶を奪って、自分の空き缶と一緒に近くにあるゴミ箱へ捨てる。先生へと向き直ると、尚もごにょごにょと口を動かし続けていた。
よし、もうちょっと弄ってやろう。
「はいはい、行きましょう、静さん」
「し……!?」
動揺を隠せない先生に背を向けて、振り向かずに車へ向かう。
「う……ううっ、なんかズルいぞ、それ」
背中から平塚先生の歯切れの悪い声が聞こえる。
やべえ。超楽しい。
さらに声は続く。
「な、名前で呼ばれるのって、いいな」
やべぇ、乙女だしてきやがった。ちょっとやり過ぎたかな。
つーか、俺もだいぶ感化されたな。誰にとは言わない。
それはきっと、この一年で会った全員だろうから。
「こ、これから、ラーメン……付き合ってくれるか、は、は、はち、まん」
「いいですよ、平塚先生」
「──ドSだな、君は」
可愛くて美しく、優しくて厳しいポンコツ教師を
繁忙期につき、申し訳ありませんがしばらく投稿をお休みするかも知れません。