元来、雨は嫌いではない。しとしと降る雨はその独特な情感により心を穏やかにしてくれ、読書の際にはうってつけのB.G.Mとなる。
だがそれはあくまで「寒くない季節の普通の雨」ならば、という話だ。
したがって、昨晩から降っている師走の雨は除外だこのヤロー。
当たり前だが十二月の雨は冷たい。衣服に浸みたら寒さ倍増どころか、ヒャダルコ食らったかと思うレベルである。
それでも、夜更け過ぎに雪へと変わるだろう、などと予報でもされれば少しは気分も違うのだろうけれど、それも期待出来ない。
温暖で過ごしやすい気候と定評のある千葉では、十二月中の降雪は
昼休みになっても空は暗く、細かく冷たい雨は静かに降り注ぐ。これではいつものベストプレイスは使えそうもない。
さて、ならば何処でぼっち飯を堪能しようかと思考を巡らせながら購買へ着くと、明らかにいつもより人が多い。
大方、普段学校を抜け出してコンビニに昼飯を買いに行く奴等が購買へ流れて来たのだろう。
パンを買うまでにかなりの時間がかかりそうだ。それ以前に、いつもの惣菜パンが売り切れになりかねないという危惧もある。
人の群れの奥、忙しく応対する購買のおばちゃんと目が合った。やだ、これって恋かしら。
おばちゃんは俺を見てにこりと笑い、頷く。やだ、本当に恋かしら。
人が疎らになるのを見計らって前に進み出て、パンが並べられた陳列棚を物色する。やはりいつもの惣菜パンは売り切れてしまったようだ。
仕方なく売れ残ったクリームパンを買うべく件のおばちゃんに声をかける。
「あの……」
声を発したと同時に白いレジ袋が差し出される。
きょとんとして、腐った目をぱちくりとさせると、その向こうには件のおばちゃんの眩しい笑顔があった。
「はい、いつもの。とっといたよ」
「え、あ……すみません」
「良いんだよ。お得意様は大事にしなきゃ」
マジ、か。
俺って購買のおばちゃんには覚えて貰えてたのね。あと四十年早く生まれてたらマジで惚れそうだわ。
内心で敬意を表しつつ、お釣りが要らないようにぴったりの額の小銭を渡す。
「毎度あり、頑張ってね」
ぼんやりとした抽象的な励ましを受けて、こそばゆい気持ちを胸に購買を後にする。
今日は良い日だ。
だが人生山あり谷ありなのは世の常、ましてや谷の方が多い俺の人生。やはりスムーズに事は運ばない。
「あれ、ヒッキーじゃん。どしたの?」
目の前には、大きなお山を胸に持つ由比ヶ浜がいた。
「パン買ってきただけだ」
「ふーん。あ、じゃあヒッキーも一緒に食べよ? 飲み物買ったら奉仕部の部室に行くんだ。ゆきのんもいるよ」
恥ずかしくも有難い申し出だ。だが、今の俺にはちょっとばかり都合が悪い。
「悪いな、今日は一人で食いたいんだよ」
「ヒッキー、いっつも一人じゃん」
本当、痛いところを突いてくる奴だ。
「うるせ。じゃあな」
「──へんなの」
結局昼休みは屋上手前の底冷えする階段の中腹で過ごした。使い捨てカイロ持ってきて正解だったな。
放課後、廊下で待ち構えていた由比ヶ浜と一緒に奉仕部の部室に行くと、そこには既に一色いろはの姿があり、長机を挟んで雪ノ下と話していた。
「あ、せんぱい遅いですぅ」
いやいや。二年生より一年生の教室の方がこの特別棟に近いだけだろ。
ん?
だとしたら解せぬ。
雪ノ下のクラスであるJ組は、F組よりも特別棟からの距離は離れている。なのに何故いつも、いの一番に部室に来ているのだろう。
もしかしたら部長になると特別なゲートや空間跳躍のスキルでも使えるようになるのか。無いな。
「あ、せんぱいはどの演劇が良いですか? あくまで参考までに聞きますけど」
この後輩女子、顔見知りになって二ヶ月足らずだというのに、もう俺の扱いをマスター……じゃなくて。
一色が広げて見せてきたのは情報誌。そこには現在上演中の演劇やミュージカルのラインナップがある。
ほーん、結構なお値段なんだな。中には文庫本が十冊以上買える価格の舞台もある。
つーか、これってまさか。
「この中からクリスマスイベントの演目を決めるつもりか?」
「馬鹿なんですか、せんぱいは。観るんですよ」
馬鹿と云う奴が馬鹿なんだよ、と小学生並と感じる台詞を脳内で吐き散らし、白い溜息を吐く。
「……なんで観るんだよ」
「わかってないですねぇ。やっぱり本物を見ないと良い演劇は作れないと思うのですよ、生徒会長としては」
ふむふむ、成る程それも一理ある。
だがな、一色。
「たった二週間でプロ級の演劇なんぞ出来る訳ゃ無いだろ」
「私も先ほどから散々同じ説明をしているのだけど、一色さん納得しないのよ」
プロの舞台は稽古に数週間、長ければ数ヶ月の期間を費やすという。プロでさえそうなのだから、素人が同じ結果を得ようとするならば年単位でかかるだろう。
上演まであと二週間しかない、しかも素人の俺たちの参考になることは少ないと思える。
「大体、演劇を観に行くにしたって、金はどうすんだよ」
「そこはほら、せんぱいが平塚先生を上手く言いくるめて──」
「全部他力本願じゃねぇか。俺はいやだぞ。交渉なら自分でやれ」
「ぶー、せんぱいには可愛い後輩のお願いを叶える義務があると思いますっ」
「生憎と全く可愛くねぇな」
可愛いっていうのはな、小町とか戸塚みたいな存在のことを云うんだ。特に小町は羽島伊月とかいう妹好きラノベ作家に小町神と崇められていて……いや、何でもない。
まあ、外見だけなら一色も──けほん。
「とにかくだ。素人は素人なりにやるしか無えだろ。考えるのはインスタントでお手軽、かつ練習の期間が短くて済む演目だ」
「そんなの無理に決まってるじゃないですかー」
不満を出しつつも現実を知った様で、一色の表情が曇る。そのまま長机に突っ伏し、あのまま合同イベントを潰しておけば……なんて恐い恨み言を吟じ始めた。
いや今更やめるのは無理だろ。手伝ってくれる保育園とか小学校とか、色んな人たちに申し訳が立たない。
断るのなら当初話を持ち掛けられたその瞬間しか無いのだよ、一色くん。
しかし、この泣き言生徒会長をどう処理すべきか。打つ手が見つからずに頭を掻いていると、雪ノ下が手元の本を閉じた。
「それならば、朗読劇という方法もあるわね」
ナイスなタイミングでドンピシャなヒントを与えてくれる雪ノ下。
その生まれたばかりの流れに、渡りに舟とばかりに全力で乗っかる。ナイスです、ナイスですね〜。
「お、それいいな。台本を覚える手間も省けるし、何より演者の動きが少なくて済む」
「そだね、朗読劇なら上演時間の計算も楽っぽいし。さすがゆきのん、目の付け所がシャープだねっ」
「──白物家電や液晶テレビを製造販売した覚えは無いのだけれど……って、由比ヶ浜さん近い」
何処かで聞いたことのあるフレーズを皮切りに、二人の周囲から季節外れの百合の香りが漂う。
「ま、そういうことだ。あとは朗読劇の台本を探せばいい」
一転、ぽかんと口を開けて放心している一色。
「……世間話みたいなテンションで次から次へと決まっていくなんて、あの悪夢の様な会議の日々が嘘みたいです」
「うちは部長さんが優秀だからな。どっかの意識高い系の生徒会長と違って」
苦笑いを浮かべる一色に、優秀な部長が柔らかい笑みを向ける。
「私たちには一色さんを会長に推した責任があるのだから、これくらいは当然よ」
「ゆきのん先輩……」
「ごめんなさい一色さん。その呼び方はやめて貰えるかしら」
「えー、どーしてですかぁ? 結衣先輩にだけ許すなんてずるいです」
おっと、今度は雪ノ下と一色の間に百合の花が……じゅるり。
「よし、じゃあ行こっか」
若干の苦笑いを浮かべた由比ヶ浜の一言に、俺を除いた一同が顔を見合わせる。あらためてだが、女子三人に男子一人って肩身が狭いなぁ。
まあ俺には単独行動が性に合っているから別にいいけど。絶対に寂しくなんか無いし、絶対に。
心に涙を浮かべながら足元の鞄を掴んで立ち上がり、一人部室の扉へと向かう。
女子三人も席を立ち、いざ雨の中をコミュニティセンターへ。
「では、今日は出来る所まで詰めてしまいましょう」
「だな。今日中に演目決めて出演者をリストアップ、その後直ぐに台本作りに取り掛かるぞ」
歩きながら本日の作業内容を話していると、一色が怪訝そうな顔を向けてくる。
「──んだよ」
「……せんぱいって時々、異様に仕事出来る感出しますよね」
「それは誤解よ、一色さん」
よし雪ノ下いったれ、びしっとばしっと否定したれっ!
「この男は元々仕事は出来るのよ。ただ、普段はやらないだけよ」
「そうそう、文実の時のヒッキー凄かったって言ってたよ」
は?
何でそんなに好評価なの?
こわいこわい、絶対何かあるぞこれ。
「雪ノ下、由比ヶ浜」
「何かしら」
「──お前ら、なんか悪い物でも食ったか?」
えーと、何故俺は睨まれているのでしょうか。あと由比ヶ浜さん、痛いから抓らないでください。
他の生徒会役員と合流してコミュニティセンターに着くと、これまで使っていた会議室は海浜総合に独占されていた。
ま、そうなる、よな。
「──ど、どうしましょうか」
出鼻を挫かれて、一色はかなりショックを受けているようで、既に涙目だ。
しゃーないな。
「一色、行くぞ」
「ふぇ?」
「イベントの手伝いに来てる小学生たちがいる部屋がある筈だ。その一角を借りるんだよ」
「小学生たちの部屋、ですか……」
「この際あまり贅沢は言っていられないわ。明日以降の使用許可は事前に申請するとして、今日はそこを使わせて貰いましょう」
会議室の扉を開けると同時に話し声が消え、静かになる。案の定、あまり歓迎はされていないみたいだな。まあ、俺たちは海浜総合の描く合同イベント像を破壊した張本人だ。当然と言えば当然か。
海浜総合生徒会の視線に構うことなく、生徒会長玉縄が座る議長席の前に行く。
「──何か用かな」
「小学生達のいる部屋の一角を使わせて貰いたいんだが」
周囲の目が玉縄に集まる。
自分たちの会長がどんな判断をするのか見ているのだろう。なんなら断ることを望んでいるのだ。
だが玉縄は笑みを浮かべて快諾した。
「あと小学生達も自由にしていいよ。僕らのプログラムには不必要になったから」
──こいつ。
自分で勝手に小学生を呼んでおいてその言い草かよ。
「あと、あの件──」
「わかった。恩にきる」
玉縄の言葉を遮り社交辞令見え見えの謝辞を述べ、会釈程度の礼を残して足早に会議室を辞去する。
「どしたのヒッキー、なんかこわい顔してる」
「あいつ……小学生たちを切り捨てやがった」
「──そう。ほとほと残念な人ね」
小学生達がいるのは二階のトイレ横にある和室とのことだった。
和室に入ると、小学生達が輪になって飾り付け用の花や小物を作っていた。聞けば海浜総合の奴らに此処で作業するようにと連れて来られたらしい。
そしてこの小学生たちは、今さっき玉縄に切り捨てられたのを未だ知らずにいる。
「何とかしてあげようよ、ヒッキー」
「ま、この子たちに非は無いからな」
とは言ったものの、さて、どうしたものか。
とりあえず入口の引戸の近くに車座になり、事前に部室で話し合ったことを伝えると、副会長以下の役員たちは賛同してくれた。
聞けば、今日一色が奉仕部へ相談に来たのは生徒会の総意らしい。副会長は、自分達が不甲斐ないばかりにと頭を下げてきて、逆に申し訳ない気持ちになる。
朗読劇という案は、役員たちのいないところで決めてしまったものだ。それを受け入れた上で、かつ頭を下げられる副会長に少しだけ感心した。
同時に、こいつなら一色の補佐をしっかりと務めていけるのだろうとも感じた。
書記の女子も副会長の隣で柔らかく笑って頷いてくれた。
今年の生徒会は人格者揃いだな。一色以外は。
役員への報告を済ませたところで、由比ヶ浜がブレザーの袖をくいくいと引いてくる。
「あの子、留美ちゃんだっけ」
「まだ孤立しているようね……」
集団から一人離れて作業しているのは、知っている女の子だった。
「ま、すぐには状況は変わらんさ。だが見ろ、あの顔」
その少女は、以前千葉村で見た時とは明らかに雰囲気が違う。群れに入れないのではなく、自分の意思で群れから離れている。
少なくとも俺にはそう見えた。
「うん。なんか強くなった感じがするね」
「だな。それだけ頑張ってるってことだ」
奉仕部の三人で少女を見つめていると、何を思ったか一色が声を上げた。
「そうだ、あの子たちに演劇に出てもらいましょうよ。お年寄りウケ良さそうですし、多少の失敗は目を瞑ってくれそうですし」
良く言えば、計算高い。悪く言えば、あざとい。だが玉縄に切り捨てられた小学生に活躍の場を用意出来るのなら、あながち悪い案では無い。
「ま、妥当な案だな」
「ということで……せんぱい、出演交渉よろしくですっ」
え、俺?
無理だって、無理、無理、無理無理無理無理リリリリィィィィ!
──はぁ、はぁ、はぁ。
ついうっかり脳内でラッシュしちまった。
「……雪ノ下、頼む」
「はぁ、仕方ないわね」
溜息をひとつ、立ち上がった雪ノ下は鶴見留美の前へと腰を下ろす。
一瞬驚いた顔を見せたが、話し掛けてきた相手が見知った高校生だと気づいたようで、雪ノ下の言葉に俯きながらも小さく頷いている。
「なんかさ、姉妹みたいだよね」
笑みを浮かべながら二人を見る由比ヶ浜のその表情には、少しだけ別の感情がある様に思えた。
一色は副会長以下に次々と指示を出し始め、雪ノ下は未だ鶴見留美と話している。その間に俺はLI○Eを開いて、海浜総合側の進捗状況を訊ねる。
「なになに、スパイ大作戦?」
「まあ、な」
軽く頷いてスマホを傾けて見せると、横から由比ヶ浜が覗き込んでくる。
きゃっ、えっち。覗かないでよっ。
つーかその角度は危ないから。第3ボタンまで開けた胸元の危険が危ないからっ。
──覗きは俺でした。
と、すぐに既読がつく。それから十数秒経つ頃には返信が来た。
『ロジックツリーだっけ。その話で盛り上がってるよ』
あ?
何か決まったことはあるのか……と。
『全然。なんにも決まんなくてウケる』
全然ウケねぇよ、それ。
朗読劇の内容は、あっという間に決まった。
主役は鶴見留美。
最初は渋って不安げに俺を見上げていたが、
「大丈夫。なんとかなるし、なんとかしてやる」
と声を掛けると、小さく頷いて引き受けてくれた。
演目は、何故か由比ヶ浜のごり押しでオー・ヘンリー作の「賢者の贈り物」となった。クリスマスの演目でいえば定番なので文句は無いのだが、理由が分からない。
台本の作成は書記の一年女子が立候補してくれて、大道具に副会長、タイムキーパーは由比ヶ浜、総合演出は生徒会長の一色いろはに決定した。
雪ノ下は全体の補助を担当し、俺は何故か総合演出補佐という助監督みたいなポジションを拝命した。
ついでにもう一つ決まったことがある。
「観てるお客さん、お腹すきそうだよね」
気づいたのは由比ヶ浜だ。
考えてみれば、イベントは凡そ三時間。その間飲まず食わずでご老人方を過ごさせるのは人道的に良くないし、楽しんでもらうという目的とは真逆の行為ともなる。
「なら、ケーキやお菓子でも振る舞いましょうか」
「いーですね、あとシャンパンなんかも開けちゃったりして……いてっ」
馬鹿生徒会長を脳天チョップで強制停止させる。
「酒類を出せる訳ねぇだろ。予算的にも法律的にも」
「えー、じゃあジンジャーエールで我慢します」
「つーかお前の為の飲み物じゃねぇからな?」
「いーじゃないですか。一杯だけ」
……台詞が仕事帰りのサラリーマンだな。案外一色は
ともあれこれで総武高校側の会議は終了し、あとの日程は準備に充てることとなった。
コミュニティセンターを出ると、雨は上がっていた。雲間には幾つかの星が瞬いていて、二日に亘る雨はなんだったのかと問いたくなる。
生徒会役員共は既に帰り、由比ヶ浜は雪ノ下の家に泊まるのだという。つかまだ木曜だぞ。お泊りって週末の行事じゃないのん?
久しぶりに一人で歩く夜道。脳裏に浮かぶのは「歌うたいの少女」だ。
今でこそ折本かおりだと知っているが、あの時の俺は確かに下手くそな弾き語りに惹かれた。
折本は、あの歌を贖罪だと言った。折本にとっては事実そうなのだろう。
だが俺にとってはただの歌だ。拙い歌声が持つ浸透圧は歌詞の意味を心に植え付け、刻み込んだ。
幾度となく聴いたその歌声は脳内でヘビロテされ、気がついたら口ずさむまである。そんな、「ただの歌」だ。
駅へ向かう途中、自販機であたたか〜いマッ缶を買い、プルタブを引いてすかさず口をつける。
うむ、美味い。やはり頭脳労働の後は糖分が効くぜ。
さて、イベントの方は目処が立った。残る問題は──
その時、俺の直ぐ横でクラクションが鳴った。
見覚えの無い車だ。外車なのか?
「比企谷、ちょっと乗らないか」
俺──比企谷八幡の人生初の逆ナンの相手は、国語の教師でした。