やはり俺の十七歳の地図はまちがっている。   作:エコー

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後章
1 紅茶とポテチと面倒な依頼


 

 

 師走。

 目が回る様な年末の忙しさに師匠クラスも駆けずり回ると云われる、この季節。

 で、あるのだが。

 

 我ら奉仕部は非常に安穏な日々を過ごしていた。

 修学旅行後の艱難辛苦を乗り越えて、目出度く帰還を果たした紅茶の香りと、静謐の中で参考書のページを捲る紙音。それと、時折鳴る携帯電話をポチる音が、かつて感じた独特の温もりを再現する。

 

 そして三人の足元をじんわりと温める遠赤外線がその安息を象徴している。

 

 そう、ついに我が奉仕部にも文明の利器、電気ストーブが導入されたのだ。

 提供者は平塚先生。

 何でも大学の同期の結婚式の二次会のビンゴで引き当ててしまったらしい。

 友人である新婦からは「これで独りでも寒くないね」などと笑顔を向けられたらしい。

 つーかあの人、何で二次会まで律儀に出席しちゃうかなぁ。

 

 電気ストーブと云っても、石英管が上下に二本横たわる小さな物なので、長机の下の足を少し暖める程度の控えめな仕事しかしていない。

 それでも今日のような小春日和には充分な暖と云える。

 

 低い角度から差し込む柔らかな冬の陽射しと、雪ノ下雪乃が淹れた温かい紅茶、そして長机の下で健気に熱を発し続ける小さな電気ストーブ。

 

 それで充分に温かく、暖かい。

 何より、先日までの様に心中に寒風が吹き荒れないのが嬉しい。もう二度とあの永久凍土(ツンドラ)は味わいたくはない。

 ツンドラとツンデレ。一文字違いでえらい違いだ。全然一文字違いじゃなかった。

 

 暖房があるとはいえ、女子二人はそれぞれに膝掛けを使っている。由比ヶ浜はタータンチェックの膝掛けを、雪ノ下は何処で見つけてきたのかパンさん模様の膝掛けを、普段は外気や思春期の男子共の目に晒されている太ももに掛けている。

 つーかスカート短過ぎるんだよ。もっと短くてもいいけど。

 

「….…くしゅん」

 

 桃色の妄想を広げ掛けた瞬間、小さなくしゃみと共に、桃色がかった茶髪のお団子が揺れた。

 男女の制服の防寒性の差なのか。それともやはり空き教室を利用した部室にたった三人では、圧倒的に人口密度が足りないのか。

 かといって、この三人以外に人が増えることを期待したり歓迎する訳では無いのだが。

 

「──どうぞ、少し熱いかも知れないわよ」

 

 頃合いを見計らって、部長の雪ノ下が由比ヶ浜と俺にお代わりの紅茶を淹れてくれる。

 熱いかも知れないと注意された紙コップに、おっかなびっくり口を付ける。

 そおっと。そおっと。

 

「……んだよ、飲み頃じゃねぇか」

「かも知れない、と言った筈よ」

 

 口に流れ込んだ紅茶は、俺にとっての適温だった。

 騙された、と雪ノ下を見遣ると、秋以前には決して見せなかった柔和な笑顔があった。

 まるで悪戯に成功した子供のような、満足気な微笑みに、少々鼓動が早くなる。

 その自然な笑顔への直視に耐えられなくなって顔を逸らすと、頬を膨らませた由比ヶ浜の唸りが聞こえた。

 

「むむ……はいっ、ヒッキーも食べてっ」

 

 差し出されたのは、ポテトチップスだ。しかもご丁寧に袋の背中を開いてある。いわゆるパーティー開きという開け方だ。

 

「……ポテトチップスかよ」

「むぅ、いいじゃん。ね、ゆきのん」

「──そうね、フィッシュ&チップスのフィッシュ抜きと考えれば、案外英国式なのかも知れないわね」

 

 待て待て。由比ヶ浜さんに甘過ぎですよ部長さん。

 フィッシュ&チップスはイギリスではジャンクフード扱いだろ。紅茶と一緒に出すならレモンパイとかじゃないの?

 

 そう思いつつも、せっかくだからと由比ヶ浜が勧めるパーティー開きのポテチを一枚つまみつつ、温かい紅茶を喉に流す。

 

「……あれ。うまい、かも」

 

 口に残ったポテチの脂っこさが紅茶で洗浄され、仄かに残る塩気と渋味が混ざり合って未知の味となる。

 

「へへ〜、でしょ〜?」

 

 うん、塩味のポテチに紅茶、中々悪くない組み合わせだ。これは緑茶や烏龍茶でも試してみる価値はあるな。

 もう一枚ポテチを噛み、追って紅茶を啜り、喉元と胃の腑がじんわりと暖かくなったところで長机に広げた参考書に意識を戻す。

 

 だが、意識はすぐに居場所を曖昧にする。

 

 由比ヶ浜が、雪ノ下が、そして俺がいるこの空間。

 一度はこの手で壊しかけ、漸く三人で取り戻せた、この平静さ。

 あれ程渇望したその心地良さが、皮肉な事に俺のやる気を阻害する。

 やわらかに揺れる空気が、そして何より再びこの二人と時間を共有出来ている事実が……ずっとこのままで居られたら、などと柄にもない、分不相応な事を考えさせるのだ。

 

「そういえばさ、最近いろはちゃん来ないね〜」

 

 そういえば、という割には脈絡の無い名前を出す由比ヶ浜に目を向けると、至近距離で視線がぶつかる。

 慌てて視線を逸らされたものだから、俺もつい視線をずらして咳払いをひとつ。

 

「ま、厄介ごとは少ない方がいいだろ」

「一色さんと厄介事をイコールで結ぶのはどうかと思うのだけれど……」

「実際そうだっただろ。経験則だよ」

 

 生徒会長となった一色は、最初の内は涙目を浮かべて奉仕部を訪れては恨み言を吐いていたが、前会長の城廻先輩からの引き継ぎが終わると本格的に忙しくなったのか、奉仕部へ顔をみせることは殆ど無くなった。

 

 そして三人だけの奉仕部の部室は以前の空気を取り戻した……訳ではなかった。

 

「ねえヒッキー、ここ教えて」

 

 何故か急に現代国語の教科書を取り出した由比ヶ浜が、広げたページを俺に傾ける。ついでに肩が触れてきて……って近いですよ由比ヶ浜さん。生憎と俺は接近戦は得意じゃないのでアウトレンジでお願いしますでもいい匂い。

 今なら花に集まる虫の気持ちがまるっと理解出来そうで怖いです。

 しかし、そこは俺。いつ如何なる時でも緊急避難の方法だけは思いつくのだ。

 

「……雪ノ下に聞けよ」

 

 矛先を変えようと、学校一の才女に水を向けるも意外な反論が述べられる。

 

「あら、国語なら貴方が教える方が良いのではないかしら」

「なんでだよ。学年三位より一位が教える方が良いに決まっているだろ」

「まあまあ、どっちもあたしにとってはうわの空の人だし」

 

 理解不能な由比ヶ浜の発言に雪ノ下が固まった。当然、俺も固まる。

 

「それは……もしかして、雲の上の人、と言いたかったのかしら」

「そう、それそれ!」

 

 すげぇ。すげぇよ雪ノ下。由比ヶ浜語の翻訳検定があったら間違いなく一級だな。

 この手の由比ヶ浜の発言は、時には空気を弛緩させ、時には場を収める。

 それも、狙ってやっているのではと疑いたくなる絶妙なタイミングが多い。

 もしかしたら本当はこいつ、俺や雪ノ下よりも頭が回るんじゃないのかね。

 

 しかし、先程から互いの距離が近過ぎる。

 長机の上で身を寄せ合う三人分の教科書とノート、参考書。時折由比ヶ浜の肘が当たったり、雪ノ下の消しゴムが転がってきたり。はたまた三人の飲み物が寄り添う様に配置されていたり。

 つまりそれは、三人の距離が以前よりも近いことを意味する、のだろうか。間違いなく物理的には近いのだが。

 

 窓際の角は雪ノ下の指定席で、そのすぐ横に由比ヶ浜、そして十数センチ離れて、俺。

 つまり、広い部室の中のたった一坪ほどに全人口が密集している。

 

 やっていることはただの勉強会なのだが、この距離感にはどうも慣れない。落ち着けない。たまに漂う甘い香りに、思わず素数を数えたくなる程である。

 

 一応俺も男子。シャンプーや柔軟剤の香りで動揺するくらいには敏感で、思春期真っ只中の健全な男子なんですけどねぇ。

 しかし、シャンプーの香りも色々あるものだな。

 隣の由比ヶ浜は甘酸っぱい柑橘系の香りがするし、向こうの雪ノ下からは薔薇の花束の様な香りが漂ってくる。

 折本かおりはまた違った香りがしたけれど、あれは何の香りだったのだろう。

 キンモクセイかな。いや違うか。

 ……いや、どうでも良いことだ。だが、一度気になると答えを知りたくなる。別に臭気鑑定士を目指している訳でもないのに。

 

 がらり。

 突然開いた部室の引き戸の音が愚考に水を差す。

 

「せんぱぁいっ、やばいですやばいです、やばいんですよぉおおお」

 

 噂をすれば影がさすとは、よく言ったものだ。

 ノックも無しに飛び込んできたのは、先日新しい生徒会長になった一色いろはだ。

 

「はぁ、十日ぶりに顔を見せたかと思えば、ノックもせずに……」

 

 こめかみを指で押さえてぼやく雪ノ下に苦笑するのは由比ヶ浜。

 

「ま、まあ、いいじゃん。いろはちゃんはあたし達の依頼で生徒会長になったようなもんだし」

「それでも、親しき仲にも礼儀あり、と思うのだけれど」

「お、珍しいな。お前が会って数回の一色を親しき仲とは」

「あ、貴方まで……ふぅ、もういいわ。用件を伺いましょうか」

 

 視線を戻すと、当の一色は固まっていた。

 

「あの……何かありました?」

「質問が抽象的過ぎて分からないのだけれど」

「あれだ、最近風が強い日でも京葉線が遅れなくなったことだろ」

「あ、そーいえばそうだね」

「それはそれで、例えが千葉過ぎて分からないのだけれど」

「あれ、総武線に新しい電車が来るのって来年だっけ」

「そうだが……新しいっつっても、どうせまた都内のお下がりだろ」

「仕方ないでしょう。総武線は中央線と直通なのだから」

 

 と、ひとしきり会話を重ねて、計った様に一斉に紅茶を啜る。ちょっとだけ恥ずい。

 

「ほらっ、そういうとこです」

 

 一色の声音が室内の空気を揺らす。

 

「んだよ、いきなり大声出すなよ。心臓が口から出るかと思ったぞ」

「あら、それは珍しい現象ね。是非ともこの目で見せていただくわ」

 

 悪戯っぽい笑顔を向ける雪ノ下に、由比ヶ浜が慌てる。

 

「だ、ダメだよゆきのんっ。大丈夫だよヒッキー、あたしが飛び出た心臓をマッサージしたげるからね」

「阿呆か、実際心臓が出たら死ぬだろ。比喩表現って知ってるか、由比ヶ浜?」

「し、し、知ってるし。あたしも比喩表現に乗っかってボケただけだし」

「さすがにそれは無理があるわ……由比ヶ浜さん」

 

 ばんっ、と、長机が鳴った。

 

「それっ! そういう感じのことですってば」

 

 見ると、顔を紅潮させた一色がじろりと視線を走査させた。

 

「何だか以前より雰囲気いいし、お三方の距離……近くないですか?」

 

 あ、バレた。って見りゃ分かるか。

 

「……そうなのよね。由比ヶ浜さんが備品を引きずって寄ってくるものだから」

「あー、ゆきのんひどいっ。じゃあ何で離れると寂しそうな顔をするの?」

「そ、そんな顔……してないわ」

「いいや、してるぞ。特に由比ヶ浜の携帯に三浦から着信があった時なんか、どんよりしてるぞ」

「そんな……こと」

 

 ふいと顔を背ける雪ノ下に、由比ヶ浜が飛びつく。

 

「ゆっきのーんっ!」

「やめて、暑苦し……いや、その」

「良いではないか、良いではないか〜」

「やめ、本当に、あっ、ちょ……」

「うりうり、ココかな、それともコッチかなぁ」

 

 うわぁ、ゆるるりがガチゆりに進化しつつあるぞ。ここには第二次性徴期を迎えた男子もいることを考慮しなさいよ由比ヶ浜さんご馳走様です。

 おおっと、とりあえず由比ヶ浜の暴走モードを停止せねば。

 

「やめてやれ由比ヶ浜。体力の無さに定評のある部長様が疲れて、勉強どころじゃなくなるから」

「あっ」

 

 由比ヶ浜から解放された雪ノ下は肩で息を繰り返す。

 くそっ、何だか事後みたいじゃねえかよ。事後って何だよ。何のだよ。

 

「……これを毎日の様にやられる辛さ、一色さんはわかるかしら」

「え、ええ、まあ……はい」

 

 お察しします的な同情の目をする一色が、ふるふると首を振る。

 

「──じゃなくてっ、大変なんですよっ」

 

 お、やっと本題かよ。ここまで長かったね、ご苦労さん。

 

「なんか他校との合同イベントをクリスマスにやることになったんですよ〜」

「おー、すごいね。頑張ってね」

「そうね、生徒会長として、しっかりと頑張って」

「……という訳で、お帰りはあちらだ」

「うわっ、何ですかその流れるような連携プレーは」

 

 擬音でいうと、ガビーン。そんな顔で驚く一色は、ついに瞳を潤ませた。

 

「ひどいっ、ひどいですっ。生徒会長を引き受けたのも、奉仕部のお三方が助けてくれるからっていうお話だったじゃないですかっ」

「ま、まあまあ、いろはちゃん落ち着いて。話なら聞いたげるからさ」

 

 両手で顔を覆って訴えるその一色の姿に絆されたのは由比ヶ浜だ。だがその優しさは仇となって返されるのだよ。

 だってそれ、見え見えの嘘泣きだし。だが、ま、しゃーねぇな。

 

「で、何がどうしたって?」

「何もどうもならなくて困ってるんですよ〜」

 

 はい?

 

「どういう事か、説明してもらえるかしら」

 

 一色の話を要約すると、他校の生徒会からクリスマスの合同イベントを打診され、何度かその会議に出席したのだが……訳の分からない言葉で翻弄されて数日を無駄にしている、と。

 

「で、相手はどこの高校なんだ?」

「海浜総合高校です」

 

 おぅふ。折本かおりがいる高校じゃねぇか。

 こりゃ多分、面倒なことになるな。

 




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