──夜七時、海浜幕張駅前。
街灯の下で人々が行き交う中、その雑踏から少し離れたベンチに俺は腰を下ろしていた。
その目の前には──「歌うたいの少女」が俯いたまま立っている。
いつもと同じ服装に、いつもと同じニット帽。そのニット帽をいつもと同じ様に目深に被っている為、顔は見えない。
が、何処かで見た雰囲気を感じた。
この少女が纏う雰囲気は懐かしさと後悔、そして未だにちくりと痛む心の古傷を想起させる。その所為で俺は何度も過去の自分と向き合う羽目になったのだ。
だがそれは決して嫌なことではない。むしろ俺自身をトラウマの一つから解放し得る好機の様にも感じている。
折本かおりへの告白。
ただ自分のエゴを押し付けただけの一方的で身勝手な告白。その結果、我が身に降りかかった罰。その終末をようやく迎えられる。そんな気がしていた。
彼女の歌う歌詞は、過去の自分を責める内容だった。軽率だった自分を責め、贖罪の手段を探している様なものだった。
だからこそ俺は、その下手くそな歌に傾倒し、自分を重ね、幾度となくこの海浜幕張へ足を運んだのだろう。
人は皆、後悔を繰り返しながら生きている。その内容や深度には差異はあれども、みな等しく後悔の森を彷徨い続けて生きているのだ。
傷つけた後悔。傷つけられた哀しみ。何も出来なかった悔しさ。
そこには加害者も被害者も、また傍観者すらも混在していて、みな一様に下を向いて自責の念に駆られている。
果たして目の前の「歌うたいの少女」が抱える後悔を計り知ることは俺には出来ない。が、路上で歌う彼女の姿は決して希望に満ち溢れたものでは無かった。
そして今も彼女は下を向いているのだ。
無言のまま、目の前の少女は深々と頭を下げる。その行動の意味も理由も解らない。
それでも彼女は頭を下げ続ける。そして彼女の右手がニット帽にかけられた。
「……え」
ニット帽が脱がれて、彼女の髪が風に舞う。
ウェーブのかかった肩までの髪。つい最近見た髪型だ。だがその沈痛な表情は、先日見たものとも、あの日見たものとも、まるで掛け離れていた。
「──折本、か」
街灯が逆光となってはっきりとは視認出来ないが、俺の声に小さく頷く彼女は、正しく折本かおりだった。
気づかなかった。まったく気づかなかった。
そういえば「歌うたいの少女」は常にニット帽を深く被って顔を隠していた。だが、ぼっち生活で培った俺の洞察力スキルを総動員すればすぐに見抜けたのではないか。
自分の愚かさに呆れてしまう。何がぼっちは洞察力が高い、だ。
雰囲気が違うだけで正体を見抜けなかったこの腐った目は……節穴じゃないか。ポンコツじゃないか。
「話、あるんだ……」
雑踏の奏でる身勝手な不協和音の中に微かに響いたのは、記憶に固定された印象とは真逆の、か細い声だった。
雑踏を離れて歩く。並んではいない。折本はギターケースを抱えたまま俺の斜め前を歩いている。たまに歩道の敷石とスニーカーの底が擦れてざりんと音を立てる以外は、秋風の音しか聞こえない。
先に公園が見えてくる頃には人は疎らになり、その公園に踏み入ると完全に人の気配が無くなった。
先導する「歌うたいの少女」──折本かおりは無言だ。時折左手に提げたギターケースが膝に当たって「痛っ」と言う以外に言葉は無い。
何度目かの小さな悲鳴を聞いて、その度に膝頭を
ギターケースに掛けられた俺の手を見て目を丸くする折本は、どうしたら良いか解らないという目を向けて、すぐに俯く。
「ほれ、貸せ」
ギターケースを奪って右肩に担ぐと、折本は更に目を見開いた。
「……んだよ。大事なギターを俺に触られたのがそんなにショックなのかよ」
本気の嫌味ではない。俺らしさを心掛けていないと、この意味の解らない状況に押し潰されそうになる。その為の予防線だ。
「う、ううん。違う……ありがと」
どうやら俺のお節介は許された様だ。
街灯の列が照らし出す先、自動販売機の近くにあるベンチ。そこを目指して無言で歩く。ふと低い空を見上げると、黒い天球に貼りついたオリオンと
いつまで経っても逃げ切れないオリオンと、いつまで経ってもその尾を刺せない蠍。
蠍を引き離せないオリオンに現実からの逃避を図っていた自分を重ねて、思わず可笑しくなる。
可笑しいといえば、まず何よりもこの状況なのだが。
告白を断った者と、断られた者。本来ならば交わるはずのない二人。
それが唯一明確である俺と折本の立場だ。それに付随するダークな出来事は置いておくとして、であるが。
明確に線を引かれ分かたれた俺たち二人が、年月を経て、一体何をしているのか。
先にベンチの端に腰を下ろし、目線で折本に話を促す。だがその目線は俯く折本を素通りしてしまう。
ベンチの中央にギターケースを立て掛ける。このギターは二人を分かつ境界線。その向こう側に折本は座ればいい。
他人。
それが今の俺と折本に相応しいであろう距離だ。
ベンチに腰掛けてからも折本はニット帽を両手の指で弄っていた。しかしこのままでは埒が開かない。もう少し経てば夜風は冬の気配を運んでくる。
寒いのは苦手だ。寒いのかなと気を遣うのはもっと苦手だけれど。
水を向けるのも苦手なのだが、早く話を終わらせる為には致し方ない。
「……ギター、弾けたんだな」
話の取っ掛かりを探したが、ギターくらいしか見当たらなかった。
「……練習、したから」
沈黙。
「あの歌って、自分で作ったのか」
「う、うん、一応」
沈黙。
……うん。会話が続かない辛さが良く分かった。今まで俺に話しかけてくれた奴の大半は、こんな気持ちだったのだろうな。
過去の俺に関わった皆々様、その節はすみませんでした。
かと言って、話を聞かないまま帰るのは夢見が悪い。早く帰りたい気持ちに偽りは無いが、帰るのは折本の話を聞き終えてからだ。
だから俺は、促す為に「らしくない」台詞を吐く。
「あのさ、頼むから普通に喋ってくれないか。このままだと話が進まない」
リア充の奥義"ザ・ワールド"を展開できる葉山ならもっと上手く言えるのだろうが、愛想笑いも碌に出来ない俺にはこれが限界だ。
だが、言い淀む相手に急かす様な空気を読まない台詞を言えるのは、ぼっちの特権であり特技だ。何せ、どんな発言をしようが皆の会話がそこで止まるのだから。
空気を断ち切る男。何だそれ、ちょっと格好良いじゃん。
折本もその格好よさに呆気に取られて……違いますね知ってます。
「じゃ、じゃあ、普通に、話す、ね」
頬を緩めたかと思ったらいきなり天を仰いで、折本は胸一杯に夜の空気を吸い込む。
そして。
「いやーしっかしさー、我ながらよく気づかれなかったよね。ウケる」
──変わり過ぎだ、おい。そんな急ハンドルにぼっちの俺が着いていけるかよ。
* * *
勢い任せにぺらぺらと喋る折本に時折「いや」とか「なんでだよ」などの定型の合いの手を入れていると、ふと中学時代が懐かしくなる。
もっともあの頃は、こういう箸にも棒にもかからない会話をしている折本を離れた場所から眺めるだけだった。眺めるだけで気持ちが募った。気持ち悪く恥ずかしい話だ。
亀の如き重鈍な歩みではあるが、少しずつ俺の闇が薄れている証拠なのかも知れない。
はたと折本の言葉が途切れる。
明るかった表情は沈み、両手は握り拳で両膝に押し付けられていた。
ん? もう話は終わったのか。
否、そうではない。
本当に伝えたいことを未だに言い淀んでいるのだ。そうでなければこの場に折本が留まっているのはおかしい。
自分の用事が済めば、気が済めば、友達を放って勝手に帰る。それが自由人である中学時代の折本の行動原理だった筈だ。
その、およそ従来の印象と掛け離れた態度は、何を意味するのか。
あわよくば、などと浅ましい期待はしていない。折本かおりに対する俺は、あの日確かに幕を閉じた。かといって、罵詈雑言を浴びせられる様な雰囲気ではない。謎だ。見当もつかない。
だが、頬に当たる夜風は確実に冷たくなっている。もう頃合いか。
「話……終わったならそろそろ──」
「ま、待って。言う、言うから」
「……わかった。だが、ちょっと待ってろ」
再び俯く折本をベンチに残して、近くの自販機の前に立つ。ホットの飲み物が幾つか並んでいる。
適当にボタンを押して転がり出たペットボトルと缶を手の中で転がしながら戻り、そのうちの一本を折本に渡す。
折本に渡したのはペットボトルのお茶、俺は安定のマッ缶。あまり買う人がいないのか温度調節の問題か、ともに熱々である。
「あ……ありがとう……あったかい」
おう、とだけ答えて、熱々のマッ缶をちびりちびりと口に含んで暖をとる。うむ、甘いけど熱い。折本はニット帽で熱いペットボトルを包む様にして両手で持っている。
「……冷めるぞ。つーかお前も猫舌なのか?」
ぶんぶんと首を横に振る度にシャンプーの香りが漂い、ニット帽で押さえつけられていた髪が膨らみを取り戻す。
「そか」
ちびちびと缶を傾けていると、折本の手の中のペットボトルがぺきょっと鳴った。
「……なさい」
ぽつりと呟いた一言は、掠れてよく聞こえない。
「よし折本、まずお茶を飲め。喋るのはそれからだ」
こくりと頷いた折本は、ペットボトルを口に運ぶ。こくこくと二回ほど喉を鳴らして息を吐き、キャップを閉める。
さあ、どうぞ。
「ごめん、なさい」
「──何のことだよ」
今更、と語尾に付けたくなるのを必死に我慢する。
「告ってくれた時……のこと」
胸の何処かがきゅっと締まる。
「別に謝罪される筋合いは無い。分不相応な行動に出た俺が悪かった」
「そんな……こと」
あるんだよ。
少なくとも俺はそう思っているのだ。
最下層の住人の俺のくせに、現実を見ずに都合のいい妄想を膨らませて。何か変わるきっかけが欲しくて。
その自分勝手な理由でやらかした、単なる暴挙だ。
「あ、あの時……あの事を友達に話しちゃったんだ」
知ってる。てか気づいてた。
「そしたら、次の日には……みんな知ってて」
だろうな。何でもかんでも面白がるあの連中に喋ったら、そうなるって話だ。
「だから、その、あの……」
「別に……普通だろ。その日にあった出来事を友達に話すのは良くあることなんじゃないか? 友達いないから知らんけど」
フォローのつもりは無い。ただ、そういうものなのだろうと納得出来るだけ。
「葉山くんは、友達じゃないの?」
「冗談でもやめてくれ。あいつは全ぼっちの敵だ」
「でもさ、こないだ千佳と四人で遊んだ時はあんなに葉山くんと話して──」
「そりゃ間違った認識だな。遊んでたのはお前ら三人で、俺はただそこに居ただけだ。いうなれば刺身のツマ、パセリみたいなもんだ」
「パ、パセリ……美味しいじゃん」
「いや、そんな悲しいフォローいらんから」
冷めてきたマッ缶で喉をぐびりと鳴らすと、折本はまじまじと俺を見る。
「やっぱ比企谷……変わったね」
「アホ、人がそんなに簡単に変わるかよ。そんなに簡単に変われるなら世の中は変身ヒーローだらけだぞ」
おっといかん。俺の中の変身ベルトが起動しそうになっちまったぜ。
「でも、あの頃の比企谷って……何も言い返さなかったじゃん」
「言い返さなかったんじゃない。言い返せなかったんだよ。会話に慣れてなくてな」
「──何それ、ウケる」
「いや全くウケないから……んで、話の続きはどうした」
不躾な言葉に折本はまたしても俯いてしまう。完全な失言だ。
が、折本は俯いたまま言葉を紡ぎ出した。
「でも、あたしのせいであの時比企谷は辛い思いを……」
「やめろ、そんなもん今更なんだよ」
確かにあの件以降、俺への風当たりは強くなった。空気のように無視されていた俺があの日を境に虐められる様になったのは事実だ。
だが、それには納得出来る理由がある。折本も知らないであろうその理由は、誰にも話すべきではない。話したところで何も変わらない。その問題の解は既に出ているのだ。
「……比企谷さ、あたし、気づいてたんだよ」
──は?
「あの時、比企谷は何も言い返さなかった。それどころか、自分で悪い噂を広めてた、でしょ」
あちゃー、バレてましたか。
折本への告白の翌日に囁かれた陰口は、こうだった。
『へえ、あの折本が比企谷と、ねえ』
『えっ、折本って比企谷に告られたんだー』
それを耳にした俺は、匿名メールを使って新たな噂を流す事でそれを上塗りした。
『比企谷は、折本かおりにストーカーの様に付きまとっている。そんな最低な奴は振られて当然だ』
その噂の捏造の後、折本かおりは悲劇のヒロイン、俺はキモいストーカーとなった。
別にこれは折本の為では無かった。
不用意に告白なんかして迷惑を掛けてしまった、俺なりの責任の取り方だった。
「あれって、あたしの為だった……んだよね」
「勘違いするなよ。そして俺のキモさをあまり見くびるな。あれは単に俺の絶大なるキモさが皆さんの反感を買ってだな……」
おもむろに顔を上げた折本は、俺を見つめてくる。その双眸は水気を帯びて公園の街路灯の光を反射していた。
ふっ、と折本の表情が緩む。
「もういいんだよ。全部分かってるんだ」
その柔らかな表情には既視感があった。
呆れた様な、哀しい様な微笑み。
これは雪ノ下と由比ヶ浜との和解。その時の二人の表情と同種のものだ。
「あの時は気づかなかったけど、後になって分かったんだ。あれは、あたしを守る為に比企谷が何かしたんだって」
やめろ。もう賞味期限切れどころかカビが生えた話だ。
「だから比企谷は……」
「よせ。今のは全部お前の推理だろ。残念ながら全部不正解、ハズレだ」
だからそんな顔をするな。俺が知る折本かおりという人物は、そんな顔をしない。
いつでも能天気に笑っていて、その笑顔を誰にでも平等に振りまいて、俺はその笑顔に都合のいい曲解をした。
それだけなんだよ、事実は。
「ずっと、ずっとずっと……どうしたら良いか悩んだよ。でも、比企谷の辛さを分かることなんて無理で、だから」
一旦口を噤んだ折本は冷たい夜空を仰ぐ。
「だからあたしは、街に立ったの。道行く人に下手くそな歌を歌って聴かせて、比企谷の何分の一かでも辛さを体験したかった。あの時比企谷が浴びた冷たい視線を、あたしも経験しなきゃっ……て」
滅茶苦茶な論理だ。どんな状況であれ、他人が感じた辛さを理解出来る筈は無い。
だが、その短絡的な思考は何というか、折本らしいと言える、のか。
声を震わせ、肩を震わせ、折本は続ける。
「でも、それでも分からなかった。どう償えばいいか分からなかった。そんな時……戸塚くんに出会ったんだ」
冷たい夜風が二人の間を抜けて、その真ん中のギターケースをかたりと鳴らした。
「戸塚くんは言ってくれた。後悔してるなら謝ることから始めればいいって。もし謝る勇気が無いなら、その勇気が出るまで頑張ればいい、って」
風に吹かれた落ち葉が、かさかさと地面を擦る。
「だからあたしは決めたんだ。クリスマスまであの海浜幕張の駅前で歌い続けて、そしたら比企谷に会いに行って謝ろうって。でも……」
言葉に詰まり、同時に風が止んだ。
「その前に俺が現れちまった、ってことか」
「……うん。あ、でも比企谷を責めてる訳じゃないよ。これはあたしの勝手な願掛けだし。ホント、ウケないよね」
その後も折本かおりは語り続ける。
戸塚にLINEで相談したこと。頼りになる人に会わせると言われたこと。その人が……張本人の俺だったこと。
ひとつ謎が解けた。
何回も戸塚が俺を海浜幕張に誘った理由は、折本かおりの謝罪のサポートの為だったのだ。
「戸塚くん言ってた。これで八……比企谷のトラウマがひとつ解消出来たら僕も嬉しい、って」
何だよ。知らない内に戸塚に苦労をかけてたんだな、俺は。
「だから、その……ごめんなさい。あたしは弱かった。比企谷は勇気を出して告ってくれたのに、あたしは勇気を出せなかっ……た」
「もういい、それ以上は──」
遮ろうとしても折本の独白は止まらない。
「許されるなんて思ってない。許して貰おうなんて高望みもしない。でも、謝りたい。謝って謝って、謝り続けたい」
折本の謝罪を受けて、今迄の俺ならどうしただろうか。
きっと、謝罪なんてお門違いだ、俺が分不相応な告白なんかしたのだから俺の自業自得だ、などと高らかに叫ぶのだろう。現に先程まではそう思いかけていた。
だけど俺は。
奉仕部の二人、雪ノ下と由比ヶ浜に謝ることで謝罪の意味を知った。雪ノ下と由比ヶ浜は俺の謝罪を受け入れ、俺は二人の謝罪を受け入れた。
謝りたい奴の自己満足なんて、もう軽々しく言えない。
話せば解るというのは、嘘であり真だ。話しても全てを理解して貰える訳ではないが、話さなければ一ミリの理解すらも得られないのだ。
言葉は魔物だ。容易に人の気持ちを左右する。
けれど、それが良い方向へと動くのならば、俺は──
「わかった。折本の謝罪は受け入れる。そんで、これで終わりだ」
折本かおりの謝罪を受け入れた上で、その良心の呵責の輪廻から解き放ってやるべきなのだ。
言うべき台詞を吐いた俺は、残り少ないマッ缶を飲み干してベンチを立つ。
が、その足は折本の視線によって地面に縫い付けられた。
「勝手に終わりにしないで。これから……もっと恥ずかしいことを言うんだから」
は?
なに、まさか乙女の秘密でも大公開するのか。それは是非とも、じゃなくて。
愚考に逃げ込むことも叶わず、視線は俺を見上げる折本かおりへ釘付けになる。
深呼吸をひとつ、折本は立ち上がって俺に正対した。
その瞬間、フラッシュバックが脳内に投影される。
あの日の教室、俺の台詞、折本の困り顔。
場所は違うし立場は逆。だが、重なった。重なって……しまった。
「ひ、比企谷……さえ、良かったらあたしと……」
間髪入れずに頭を下げる。折本に最後まで言わせてはならない。俺はもう──。
「──悪い。それは受け入れられない。罪滅ぼしで告白なんざ迷惑なだけだ」
訪れたのは、沈黙。
折本は茫然。
あ、あれ。何だこの違和感。
大挙して押し寄せる、はてなマーク。
次の瞬間──折本かおりは笑い出した。
腹を抱えて、涙を流して。折本は笑い続ける。腹の底から、心の底から。
ようやく笑いを収めた折本は俺を見て意地悪そうに笑った。
「……ウケる。全部言わないうちに断わられちゃった。しかも勘違いしてるし」
どうも、俺がその勘違い野郎です。つか仕方無えだろ。俺の読んでるラノベだと大概告白されてる場面なんだよ。
その前に俺は物語の主人公どころか村人C以下のモブキャラでした。てへ。
「あたしね、まず比企谷と友達になりたいと思ったの。それを勝手に告白と勘違いするなんて、本当ウケる」
……いや。本当は可笑しいと思ったんだよ。折本かおりが俺に告白するなんて罰ゲーム以外ではあり得っこない。
折本は上流、俺は下流。棲息域が違い過ぎる。
「でも……これで一対一、イーブンだね」
何をカウントして喜んでいるのだか、折本は両手の人さし指を立ててニカっと笑う。その笑顔は、かつての折本かおりのものだ。
「はあ、つーか折本、だいたいお前はもっと自分勝手でガサツな奴だっただろ。殊勝な態度なんて似合わんぞ」
「なにそれ、あたしの印象ってそんな感じ?」
「いや、今のは言葉の綾ってやつで……」
悔し紛れ、嫌味のひとつでも投げつけてやろうと放った言葉に、折本は頬を膨らませる。言い訳なんか聞く耳持たない。
「──もういい、わかった」
くるりと背を向け、歩き去る折本。
はあ、終わった、とふとベンチに目を遣ると、折本のギターは置き去りにされていた。
いや、ガサツとは言ったけれどさ。ギターを忘れるなよ。大事な物なんだろ、これ。
ギターケースの持ち手を掴んで遠ざかる折本を追いかけようと振り向いた時、ガコンガコンと音がした。
自動販売機の音だ。折本は、何かを手にこちらへ戻ってくる。自販機の光を背中に浴びて、それはまるでオーラか後光の様に見えてしまう。
びたっと俺の前に立った折本は、後光を放ったまま左の口角を上げた。
やばい、何かされるっ。
身構えて折本の次の行動を注視する。
「決めた」
──え。何がですのん?
「今から比企谷はあたしの友達ね。そう決めたから」
「いや、なに自分勝手に決めてんだよ」
「あれ〜、元々あたしは自分勝手でガサツな女だけど?」
「ぐっ……」
こいつ、俺の嫌味を逆手にとりやがった。中々味な真似を──え?
「はい、友達からの初オゴり。心して飲めっ」
差し出されたのは、一本の缶コーヒー。余程熱いのかパーカーの袖を指先まで伸ばして持っていたのが可愛……もとい、あざとい。
「お前の行動は何だよ。意味がわからねぇ」
同時に、ちゃんと知りたいと思ってしまった。こいつの行動原理を。折本かおりの、真意を。あと、何故渡されたコーヒーがマッ缶では無いのかを。
「ほら、熱いんだから早くっ」
おずおずと手を伸ばすとパーカー越しに握られた缶コーヒーを押し付けられ……あちっ、あちっ。
「何やってんの、ウケる」
「いや、ウケねえから」
けらけらと笑う折本に懐かしさを感じ、同時に面映ゆさを覚える。
「友達に、かんぱーいっ」
「何だよそりゃ」
「ほらぁ、比企谷もやるの。缶を向けて」
カツンと当たった二つの缶。
何やってるんだろうねという、折本。
そりゃこっちの台詞だという、俺。
夜風は一層冷たい冬の気配を運んでくる。けれど、寒くは無かった。
友人から頂いたコーヒーは甘さ控えめでほろ苦く、暖かい。ぼっちで猫舌の俺には少々熱過ぎる程に。
了
最終回までお読みくださいまして本当にありがとうございます。
今回のお話は、もしも折本かおりがずっと後悔していたとしたら……という設定の元で書きました。
人は誰しも悩み、間違え、後悔します。
若さゆえであったり、未熟ゆえであったり、個性ゆえであったり、無知ゆえであったり。
悩みが無いように見える人こそ、実は誰にも相談出来ずに悩みを抱え続けている、そんな場合も多々あります。
雪ノ下雪乃も、由比ヶ浜結衣も、八幡も小町も。
葉山だって、戸部だって、三浦だって、海老名さんだって、大天使のとつかたんだって。
そして……折本かおりだって。
──きっと、誰しも等し並みに悩みを抱えている。
伝えたかったのは、それだけです。
今までありがとうございました。
──あ、後書きに材木座の名前出すの忘れてた☆