1 歌うたいの少女 (街の風景)
「はぁ……帰りたくねぇ」
修学旅行の解散式が終了した午後、俺、比企谷八幡は独り千葉駅の辺りを歩いていた。
かといって、別に行く宛がある訳ではない。ただ何となく真っ直ぐ家に帰りたくなかった。勿論道づれがある訳でもないので、安定のお一人様だ。
時折肩からずれ落ちるバッグを直しながら、脳内で今回の修学旅行の総括を始めた。
同級生の戸部翔の依頼に端を発した今回の修学旅行。そこには様々な思惑が入り組んでいた。
戸部の依頼は、同じトップカーストに属する腐……眼鏡女子、海老名姫菜への告白をサポートしてもらいたいという内容だった。
俺は他人の恋愛に首を突っ込みたくない。それを理由にその依頼は断る気満々だった。雪ノ下雪乃は返事を迷っていたが、もう一人の奉仕部員である由比ヶ浜結衣の安請け合いで結局は依頼を受けてしまった。
今思えば、この時に頑なに反対すべきだった。
程なくして奉仕部に訪れた海老名姫菜の話す内容は、自身の爛れた趣味に隠した依頼だった。俺だけが理解出来たその依頼内容は、戸部のそれとは相反するもの。
つまり、戸部の告白を阻止して欲しいというものだった。
そして告白の時。俺は戸部の代わりにフラれて見せてやる方法を選択した。
グループの筆頭である葉山からは苦々しい謝辞を述べられ、戸部からは何故かライバル宣言までされてしまった。
こうして一見無事に収まったかに見えた今回の依頼。だが、奉仕部の二人の女子は俺の選択した方法に納得していなかった。
「あなたのやり方、嫌いだわ」
「もっと人の気持ち、考えてよ」
部長である雪ノ下雪乃と、部員であり戸部や海老名さんと同じグループに属する由比ヶ浜結衣の言葉だ。
雪ノ下は、方法は俺に任せると言ってくれた。なのに否定するんだな。
由比ヶ浜、お前の安請け合いが原因でこうなったことを忘れるな。もっと戸部や海老名さんの気持ちを考えてやれば、お前なら内々で解決出来たんじゃないのか。
第一、俺は告白なんてもうしたくないんだよ。中学の、折本かおりの件で懲りてるんだよ。
一世一代とはいわないけど、あの当時の俺なりに真剣だったんだ。それを曝され、笑われ、馬鹿にされるのは幾ら悪意や害意に慣れた俺でも嫌だったんだよ。
今回は、あの場ではあの方法しか思い浮かばなかった。でなけりゃ、誰が好き好んであんな嘘告白なんぞするかよ。
もしかしたら心の何処かで、あの二人なら俺のやり方に賛同……とまではいかなくとも、否定はしないと思っていたのかもしれない。だがそれは一方的な期待であり、他人に対しての甘えだ。そんな甘ったれた期待をした自分が恥ずかしく、気持ち悪い。本当に反吐が出そうだ。
ぶらぶらと書店を回りつつ時間を潰した俺は、千葉駅から同級生共が居なくなった頃を見計らって独り帰りの電車に乗った。
* * *
やはりそのまま帰る気にはなれない。何よりこの精神状態で妹、小町と顔を合わせるのが嫌だった。
あいつはきっと、喜々として修学旅行の出来事を聞いてくるだろう。それこそ根掘り葉掘り。
あいつは最近、脳が恋愛に冒されているからな。しかも最大の関心事はこの俺の色恋沙汰という、非常に面倒な状況なのである。
その小町に修学旅行の最大最悪の出来事を話そうものなら、それこそ最大級の侮蔑で応えるだろう。
それを思うと尚更家に帰りたくなくなる。
因果な話である。
誰よりも外出を疎ましく思い、何なら一生貼り付いていたい筈の家に帰りたくない日が訪れるとは。
海浜幕張駅に降りた俺は、近くの商業施設にある書店を目指した。こういう時は現実逃避に限る。その材料を仕入れる為だ。
現実逃避といっても異世界転生ものは好きではない。
剣と魔法と亜人の世界で現代知識を活用して転生者が大活躍、なんて話は某投稿サイトに山程転がっている。
俺が欲しているのは、そんなテンプレ的な気分爽快お手軽トリップではない。もっとこう、重い、厚い何かだ。
気がついたら俺は長編の時代小説を手にとっていた。
「これ、確かテレビの時代劇でやってたな」
三ページほど文庫本をぱらぱらと捲り、そのシリーズを四巻鷲掴みにしてレジに置く。ついでにラノベの新刊も数冊購入する。
あとは家の近所のコンビニでマッカンを買って帰れば、現実逃避の準備は万端となる。
思ったよりも本の選択に時間をかけてしまった様で、商業施設を出ると既に日は沈んでいた。
「くっ、なかなか重いな」
二泊三日の荷物に京都の土産。それに文庫本とはいえ十冊の重量が増えたバッグは、全重量を一手に引き受ける左肩を執拗に責め立てる。
次第に足取りは重くなって、ついに駅前のロータリー付近でダウン。目についたベンチで一時休憩とした。
『ここをキャンプ地とする』
いつか見た深夜のバラエティ番組の台詞が浮かぶ。
あの番組は面白かったな。北海道のテレビ局で制作されたらしいが、あの馬鹿馬鹿しさは頭を空っぽにして楽しめた。
足と肩を休めつつ、駅前の人の流れを眺める。スーツ姿のサラリーマンやカーディガンを纏った女性、見慣れない制服の学生がそれぞれに人の波を形成しては流れてゆく。
中にはがっくりと項垂れて歩くスーツ姿も見えて、その度に人生の悲哀を感じてしまう。
その人の流れの向こうからギターの音色が鳴った。普段なら絶対に気にしないけれど、ふとその音源が気になる。
バッグを背負い直して歩み寄ると、丸く剪定された木の下、ニット帽を目が隠れるまで深く被った若者が立ったままギターを弾いていた。
お世辞にも上手いとはいえない。何より小さな身長に抱えられた大きなアコースティックギターが不恰好である。
何かの曲のイントロだったらしく、若者が歌い出した。
「女の子……か」
か細く歌い出したその声は、女性のそれだ。
見るからに自信なさ気に歌うその女の子の弾き語りに耳を傾ける人は無く、周囲にはただ目的地へと足を動かす人の流れだけがあった。
時折、何処かの高校の制服を着た女子たちがちらちらと見ては、苦笑しながら去ってゆく。
それでも女の子は歌う。下手くそなギターとか細い声で。その行為は彼女にとってどんな意味があるのだろう。
誰も聴かない曲を歌い終えた「歌うたいの女の子」は、自分に見向きもしない人波にぺこりと頭を下げて、逃げる様に雑踏の中へと消えて行った。
結局、彼女の歌を最初から最後まで聴いたのは、俺だけだったのかも知れない。