あはは、どうしてこうなった。
では、どうぞ
胸が『痛い』、蝕むように苛み、締め付けるように纏わり憑くその『痛み』は、依然薄れることを知らない。
外傷内傷共に受けていない。体には何一つ異常なんてなかった。
それは体の一部なのだろうか、だとしてそれは胸の中にあるのだろうか。
『痛み』の根本、それは心。
今私の心はどうなっているのだろうか。荒れているだろうか、静寂に包まれているのだろうか、何もかもが崩れているのだろうか。
そんなことは、正直どうでも良い。
どうしてこんなに『痛い』のか、どうしてこんなに苦しいのか。
分からない、分からない。
さっきからずっと『痛い』のだ、アミッドさんを切り捨ててから、彼女の嗚咽を聞いてから、彼女がかみ殺していた叫び声を、悲惨な小さき悲鳴を聞いてから。
暗い部屋、ただ一人で考えていた。この『痛み』はどうしたら消えてくれるのか。
いつから『痛い』かは分かる、でも何故『痛い』かが全く分からない。
教えてくれる
これは自分一人で解決すべき問題だと、勝手な強迫観念に囚われている。
自分が分かる限りのことを、自分でできる限りの思考を総動員してひたすら考える。
でも、その『痛み』が何なのか、分かることは無かった。
いたずらに過ぎてゆくだけの時間は、私の記憶と心に、『痛み』として刻まれた。
「チッ、なんなんだよ……」
似つかわしくない彼本来の口調、それが示すのは怒り。
何についてなのか、それは本人でも気づいていない。
その悪態は、暗い部屋の陰へと消えていった。
* * *
何一つ分からないことは、先程から感じている焦燥感に拍車を掛け、『痛み』と
握っていた胸には、くっきりと残った手の痕と、果てに抉れた肉、そこから流れる血で惨状と化していた。
握っていた手も、それ相応の惨状となっていて、指先は割れ、爪は砕かれるか剥がれ、隙間が無くなる程一色に染まっていた。
いろいろな意味で、最悪の状態。今一人でいられることが本当に幸いした。
のっそりとした動作で、階段を一段一段と上っていく。
気付くと天井が消えていて、代わりとして黒雲が支配する夜天が広がった。
その黒雲からは、誰かの気持ちが代替したかのように大粒の雫が降り注ぐ。
その雫は、昂った感情と憤った気持ち、そして燃え盛る思考を洗い流し、冷ましていく。
焦燥感は薄れていく、対し『痛み』は弱まらず、薄れない。
無意識のうちに、また、引っ切り無しに胸を握りそうになった。
だが、今握っているのは、胸ではなく
腰の一刀にしがみつく手は、一体どんな感情が籠っていたのだろうか。
あるいは、何も籠っていなかったのだろうか。
その答えは知らないし知る由もない。
ただ、腰に携えた刀は鞘から解き放たれた。
呪いが体内を通い、自然傷を修復していく。
だが彼は、それを待たずに刀を振った。
振った、振った、振った、振った、振った。ひたすら振った。
それは次第に勢いを増し、空気を斬り、風を斬り、届いてないはずの地面を斬った。
激しさを増す刃、その刃には一体何の意味があるのだろうか。
でも、その意味の無さは、今の彼には救いに等しい。
意味の無いことに意味がある。意味がなければ何もない。
彼は何も考えずに、ただ斬るだけで済んだ。
『痛み』も悲しみも苦しみも、何故か感じる恐怖さえも。
全てが全て、振るわれる刀に斬られるかの如く消えていった。
―――自分の口が、歪に歪むのを自覚しながら、ただ斬り続けた。
ただ彼は気付かない、自分の頬を滴る、自らが出した濁る粒に。
* * *
気づけば、降りしきる大粒の雫は諦めたかのように去っており、私は独り取り残されたまま斬り続けていた。
空を
射し込む光は陽光、残酷なまでに眩しい槍のような光。
その光は、私の周りを照らし出していた。
廃れていても強度は十分だったはずの市壁上。そこは無数の
ボロボロにしてしまった市壁上。今誰かが近づいて来てら、無意識のうちに刻んでしまいそうだ。
気付いたらこうなっていた、加減を大きく誤ったのだろう。
「ねぇ、シオン」
明瞭な意識を取り戻し、やはり止められない刀で周りを刻みながら自己判断を行っていると、ふとそこに自分の名を呼ぶ声が掛けられた。
不覚にも、誰かが近づいてきたことに気づいていなかったらしい。
声のした方向、市壁内部の階段へと続く道には、一人の少女が、様々な感情が重なり顰めてしまった端正な顔でこちらを見て立っていた。
それが誰かを理解すると、何故か胸の『痛み』、複雑な
自棄なのか、自分でも分からない。刀を振る力が増している。
すると段々楽になった、何も考えない心が落ち着く。
結局、ただひたすらに振り、ただひたすらに斬っていた。
「……シオン、どうして、そんなに悲しそうなの?」
その問いは聞こえている、でも、応えられない。
「……シオン、どうして、そんなに濁った剣技を使うの?」
ほんの僅かに切っ先がズレた、お陰で加減を誤ってしまい、意図せずとも多くを斬ってしまう。
「……シオン、どうして、そんなに逃げちゃうの?」
彼女が嘆くように、擦れるような声でそう呟いた。
一体、私が何から逃げているのだろうか、私はただ斬っているだけだ。
ただ、現実を斬っているだけだ。
―――――それを、逃げていると言うんじゃないの?
不意に、脳裏がそんな言葉の通行を許した。
精密さを大きく失うことの無かった斬撃は、初めて目に見えて狂い、剣士の恥と言えようか、刀が前方の地面に大きく斬痕を残しながら食い込んでしまった。
斬り裂き続けた斬撃はその効力を失い、私のいらぬものを斬らなくなってしまった。
必然的に、『痛み』が私を襲う。
一層増した『痛み』。無性に感じる苦しみ、気持ちの悪い訳の分からない感情がただひたすらに、蝕み、苛み、逃げてしまいたいくらいに私を虐めぬく。
嫌だ、嫌だいやだイヤだ。
次第に湧いて来る嫌悪感、でもそれは殺すことなく増長させる。
気持ち悪い、体内全てが煮えくり返る方が全然楽だ。
痛みで『痛み』を消そうと自傷する。全てを塗りつぶしてやろうと痛みを味わう。
狂っているとしか思えない行動、我ながら常軌を逸している。
奇行に及んでいる私を見て、彼女はどう思うのだろうか。
嫌われてしまうのだろうか、他人として扱われるようになってしまうのだろうか。
でも、それは何故かこの『痛み』を消してくれそうな気がした。
いいかも、しれないな。
―――――本当に、それでいいの?
またもや、脳裏に言葉が過ぎった。
はっと、自分の考えていたことの愚かしさ、それに気づかされる。
この声が何か、どうでも良い。自分の愚考、自分自身で自分の生きている意味のようなものまでも切り捨てようとしたのだ。
そのことは、何よりも私を追い込んだ。
「なんなんだよ……畜生……」
地面に生えた刀に体重をかけ、額を
たった一つ、様々な事が関わっただけのたった一つの出来事で、どうしてここまで追い込まれなくてはならないのだろうか。どうしてここまで苦しまなければならないのか。
私が一体何をしたと言うのだろうか、ただ、自分に正直に生きていただけのだ。
なのに……どうして。
堂々巡りのようにその疑問は、望まなくとも反芻した。
ふとそこに、温かく、柔らかく、包み込まれる温もりが割り込んだ。
何だろうか、わからない。でも、落ち着く。
安らかなそれは、心地よいなどと生ぬるい表現はできなかった。
聖母のような、慈愛に満ち足りた者の抱擁とは、こういったものなのだろうか。
無意識のうちに手が動き、その安らぎから離れたくなくて、勝手ながらも掴み、抱き寄せてしまった。
それはまるで、母から離れたくない我が儘な子のよう。
「何があったか、話してくれる?」
耳元に、そっと優しく囁かた。
耳をくすぐる声、そっと耳を撫でるか細い風。
一つ一つが落ち着かせ、一つ一つが安らぎを齎してくれる、
それは心を解し、追い詰められていた精神までも解してくれた。
「……いつのことから、話せばよいのでしょうかね」
なので、しっかりと応えられた。意志をもって、『痛み』に真っ向から抗えた。
「じゃあ、はじめから」
弱々しい私の言葉に、彼女はやさしく
それが、私に冷静さを取り戻してくれたのかもしれない。
そこから暫く、私は彼女に語っていた。
勝手な私の、人生を。
* * *
私が彼女にどう自分の人生を伝えたか、正直言うと憶えていない。
冷静だった頭も、いつの間にかいらぬ熱を帯びていたのだろう。
なので、詳しくは語れないが、不思議と憶えていることだけはある。
『罪悪感、じゃないかな。シオンはとっても優しいから、気にしちゃうの。そして、全部自分のせいだと思ってる……のかな。それはシオンのせいじゃない、悪いのは……私かな』
彼女はそういっていた。私が感じているのは罪悪感だと、そして、悪いのは全て自分だと。
「……思ってみれば、そうかもしれませんね」
彼女が悪い、と言うのは理解しかねるし、賛同などできようもないが。それ以外なら、なんとなくの心当たりもあれば、思い当たる節も在る。
「案外、簡単な理由だったんですね……」
今はもう、心に余裕ができて、冷静さを保っている。
不安定な状態でもない、勿論、自傷なんてもうしていない。
着ていた服は今見ても本当に酷い、これを自分でやったのだと分かっているから、自分異常さにはとことん嫌になる。
でも、今は問題ない。
追い詰められてもいない、『痛み』も感じない。
嫌々いっても消えてくれないほど強く私に刻まれてしまったが、それは一つの経験として大切にしよう、
目を瞑り、漸くできるようになった自分の整理を行った。
独りだけいるボロボロの市壁上。ただじぃーと整理していた。
『答えは出せたかしら』
ふとそこに、脳内に響く一つの声が割り込む。
『出せた、のでしょかね。何とも言えません。ですが、整理はつきました』
『そう、ならいいわ。それと、できればの話なのだけれど、あまり荒れないでね?』
『というと?』
『貴方はとっても不安定なの。それの大半を保っているのが私。貴方が荒れるとそれだけ私が大変なのよ』
と、さらっと初耳のことを言うアリア。しかもまた、かなり重要なこと。
『……ありがとうございます、といえばいいのでしょうかね。今までそれを言わなかったことは措いておいて』
『いいのよ、好きでやっていることなのだから』
本当にそうなのだろうから何とも言い難いものを感じてしまう。彼女の目的が何で、何故彼女がそこまで私に拘るかは知る由もないが、こういうところは本当にありがたいし、助かっている。
「一日、ここにいたのでしょうかね……」
『感心したわよ? 休みもせずに全力で振るい続けていたのだから。貴方の人外っぷりは私が保証するわ』
『それも、大半は貴女のおかげなのでしょう? アリア』
そんなの保証されても正直嬉しくないのだが、さっき言ったことが本当ならば、それもアリアのおかげということになる。というか、私ができることの大半が彼女のおかげになってしまう。
なんともまぁ、難儀なものだ。
『ええ、勿論その通りよ。褒めてくれてもいいのだけれど』
『はいはい、ありがとうございます。上から目線が少しばかり頭にきますが、寛大な私は許してあげましょう』
目には目を、上から目線には更なる上から目線を。
ちょっとした仕返しだが、その程度で怒る程アリアは小さくはない、はずだ。
『それはそれとして、早く帰った方が良いと思うわよ?』
『いきなりどうして?』
『アレ、見られてたわよ』
何が、誰に、何を。そんなの言われなくても分かった。
即座に顔を蒼白に変え、飛び込むように階段に突っ込んで、途中で部屋から置いてある荷物を全て持って、廃教会まで、出せる全力で走った。