前話四時間で書けたのに今回六時間かかった……
では。どうぞ
軽く小さな足音が、階段の方向から聞こえた。
その足音は段々と大きくなり、次第に近づいて来る。
「来ましたね」
「うん。ベル、驚くかな……」
「後ろから奇襲して驚かしてやりますよ」
そう言い残し、気配を周囲に紛らわせる。
階段で足音を響かせている兎は、その数秒後にやって来た。
「アイズさん、おはようございます」
「うん、おはよう」
来て早々、腰を折って丁寧にあいさつをする兎ことベル。
その動きを目で追わず、気配だけで判断する。そして、ベルの気配が狙いやすい位置まで移動するのをただ待った。
アイズと言葉を交わしながら一歩一歩と進み、背を取りやすいところまで来たら、半分抜いていた『一閃』を音を鳴らさずに抜く。
目視で確認せずに背まで動くと、瞬間行動を起こした。
「動くな」
「―――ッ!」
『一閃』を首元に添え、ベルが怖がれるくらいの丁度良い殺意を出し、耳元で小さくそう囁いた。
完全な虚を突いた不意打ち、確実に殺せる攻撃。
それを行った理由が、驚かしたいというしょうもないもの。やられる側の身にもなるべきだと言うべきだろうが、彼にそう言う人物は一人もいない。
「右肘を顎に付けながら、左手で右踵を掴んで、左足だけでしゃがめ」
おふざけついでに、人間ではどう頑張っても無理なことと、普通に難しいことを要求してみる。
そして何故だろうか、ベルはそれを呑み込もうと、必死に右肘を顎に付けようとしていた。
「ぷっ」
無謀な挑戦をしているベルを見ていると、堪え切れなくなった笑いを吹き出してしまった。
首に添えていた『一閃』を納め、数歩後退しながら、口を手で押さえ笑いを隠そうとする。
ベルはその時を好機と見たのだろう、腰に携えていた漆黒の
笑いながらその攻撃を素手で止めると、始めは込められていた力が、次第に弱くなっていった。
「シ、シオン⁉」
「気づくのが遅過ぎです」
度重なる予想もしてなかったことに、驚き戸惑い混乱するベル。慌てふためいたその様は、兎が自分を執拗に触ろうとする人間から逃げているときのようだ。
「アイズ、大成功です」
「うん、大成功っ、だね」
何故かこちらに背を向けるアイズ。その声は途切れ途切れで、肩をわなわなと震わせていた。
何かと思い見ていると、口を手で押さえていることが分かった。
笑っているのだ。
「順調な証拠、ですかね」
「何言ってるの? 馬鹿なの? ねぇ馬鹿なんだよね?」
「それ以上言うと流石に怒りますよ?」
「止めて殺さないで!」
何か酷い扱いを受けた気がするが、まぁ気にしないでおこう。
今はとても、気分が良いのだ。
* * *
余談
「ねぇシオン、今までどこにいたの?」
「この世にはない何処かです」
「何言ってんの? あっ! そうだシオン、テランセアさんって、シオンの知り合いなんだよね? どこで知り合ったの?」
「え? あー、それは……いろいろあったのですよ。いろいろ」
「またはぐらかした。でも、あの人凄い美人さんだったよね、どういう関係なの?」
「…………」
「え? なんでそこだけ黙るの? ねぇなんで? ちょとシオン⁉」
* * *
余談Ⅱ
「あぁ⁉ シオン君⁉ 君は一体どこで何をしていたんだい!」
「さぁ何でしょうね」
「神様、協力してください。シオンがさっきからはぐらかすんです!」
「分かったよ、ベル君!」
「それで、シオン。テランセアさんとはどういう関係なの!」
「ふぇ⁉ そんなことを聞いていたのかい⁉ ボクも気になるけど! さぁ話すんだシオン君!」
「……もう面倒ですね。同一人物ですよ同一人物」
『は?』
* * *
うららかな陽光が雲に僅かに遮られながらも街を照らし出す今日この頃。彼は治療院の前に居た。
少しの迷いが残る手で出入り口を空けようとするも、最後の一歩が踏み出せない。
勇気の無さにはうんざりする。彼は心底そう思っていた。
「すみません、そこを通して頂けますかな」
「あ、ごめんなさい。どうぞ」
背後から老人がそう声を掛けてきて、反射的に横へずれてしまった。
老人がここを通るのなら、それを切っ掛けに自分も出入り口から入ればよかったのに。
「……あぁ! もどかしい!」
自棄になってしまえば簡単、その一歩は容易く踏み出せた。
少し荒めに響く鈴の音。誰かが来たことを知らせるその音は、当たり前だが彼がここに来た目的の人物にも聞こえた。
「――――――」
彼が足早に一つ目のカウンターの前に立つと、目的の人物である彼女に、ひたすら無言で直視された。
「あはは」
それに乾いた笑いを出してしまう。
気まずい空気が漂い始める中、彼女は突然立ち上がると、無言で彼の手を引きある場所へと無理やり引っ張った。彼もそれに抗うことなく従う。
されるがままに引っ張られると、ある部屋の前でその足は止まった。
彼女は鍵を刺し込み、開けると彼を一旦措いて、部屋へと潜りこんでしまった。
彼の鋭い聴覚と気配探知によって中で何が起きているかはわかってしまうが、目を背けることにする。
数分経つと、ドアが少し開けられ、そのままにされる。
入れ、と言うことなのだろう。
「し、失礼します」
冷たい気がしてならない対応に若干の戸惑うが、仕方のないことだろうと割り切る。
昼なのに窓に付けられたカーテンが閉められ、魔石灯が点けられておらず、部屋は薄闇に満たされている。
魔石灯を勝手に点けてもいいのだが、態々暗くされているのには何か意味があるのだろうし、今は大きく動くことが憚られた。
どちらのものか判らない心臓の音が、静かな部屋では耳障りな程聞こえる。
動かない時がひたすら続いた。
「シオン、私の言いたいこと、お分かりですか」
だが、その時に彼女の声が変化を齎した。
それは問いかけ、分かるはずもない相手のことについての問いかけ。
勿論彼ことシオンはその問いに答えられず、首を小さく横に振った。
「……では、私がどんな気持ちか、お分かりですか?」
やはり分かるはずもないその質問、それにも首を横に振ることで答えた。
「……今から、私は自分の気持ちの一端を体現します」
彼女はそう言うと、無駄の少ない動きで振り返りながら右手に拳を作り、その拳を捻りながら彼へ撃った。
彼はそれを簡単に避けられたし、何なら反撃もできた。
だが、彼は何もしない。それが何故かは、彼も理解できていない。
それでも彼は、動かなかった。
真正面からがら空きの鳩尾に撃ち込まれた拳。Lv.4が本気で撃ったその拳を諸で受けても尚、彼は一歩も動かなかった。
「馬鹿っ、馬鹿馬鹿ばかばかっ!」
叫びながらいろいろな感情が入り混じった拳を、ただひたすらにぶつけて来る。
何度も撃たれる拳を、彼はただ受け止めた。
次第に拳は赤みを帯びてきて、力も弱くなっていく。だが、ぶつけられる感情は、治まるどころかその量を増すばかり。
痛ましいまでになっても尚拳を握り、撃ち続ける。
見かねた彼は、その手を優しく受け止め、包み込んだ。
「……私が何を言いたくて、何を思っているか、気づけましたか」
それに、首を横に振った。
「なら、どうして止めたのですかっ」
「私を殴ってアミッドさんの気が済むのならいくらでもどうぞ。私は痛くもなんともありませんから。ですが、アミッドさん。貴女の体が持ちません。手、痛いでしょう?」
「……はい、とても痛いです。人を殴るのは、こんなにも痛いのですね」
俯いてしゃべる彼女の顔は窺えない。
だが、声の力の無さ、次第に抜けていく拳の力み。
そこから彼女がどんなことを思っているのか考えることはできる。でも、彼はそれをしなかった。否、したくなかった。
「アミッドさん、貴女は何を言いたくて、何を思っているのですか?」
優しく、優しいだけの声で、彼は彼女に問い返した。
「……怖かったのです」
すると彼女は答えてくれた。足を崩れさせ、震える声で、一生懸命に答えた。
「シオンが私の前から居なくなるのが怖かった。シオンが段々普通の人から、人間からかけ離れていくのが怖かった。近くに寄ることすら許されない程、遠くに行かれるのが怖かった。何もできずに、気づいたら見捨てられているかもしれないと、そう思うことが怖かった。怖かった、ただ怖かったのです……」
懺悔するかのように、彼女は自分の気持ちを言葉にして並べていった。
「ですから……私は私の為だけに、その恐怖を無くそうとしました」
「そうでしたか」
声のトーンを落とし、合いの手を入れる。その声は中々どうして、無感情に近い物だった。
彼女はそれに気づいたのだろうか、自嘲のように、口元に歪な笑みを作り出した。
「その手段の一つが、あの薬です」
「危ない薬感がびんびん感じられたあの薬ですか」
「ああなってしまったのは仕方ないのです……あの薬が、シオンの性欲を取り戻してくれるはずだったのに。直ぐに失敗を理解しましたよ……ちゃんと即効性にしておいたはずなのに、シオンは性欲魔獣にならなかったのですから……」
さらっと、ありえたかもしれない恐ろしいことを口走る彼女に、冷たい視線を送りそうになったが、そこは自制心で耐える。
「知ってましたかシオン、私って最低なのですよ?」
「どうでしょうかね」
人間が自分に正直なのは悪いことではない。それが最低かどうかなんて、所詮その人の観点でしかないのだ。
「正直なところ、私はあの場でシオンと性交を行い、既成事実でも作ってやろうかと思っていたのです。そうはなりませんでしたが」
「何やってるのですかマジで」
そうならなくてよかったと本気で思った。あの場でそんなことが起きていれば、風評被害だけでは済まず、いろいろなものを確実に失っていた。
「私は、恐怖を無くすため、シオンを独占しようとしました。その結果が、最高潮の恐怖の海と、人生最大の後悔の嵐。置手紙が無かったら、どうなってたでしょうね」
「あ、そうです。あの薬は作ったのですか?」
「全く同じ製法の物を二本、用意はしてあります。役に、立てますか?」
「ええ、あの薬は効果は違いましたけど、結構凄い薬ですよ。売ったりしてはいけませんからね」
「勿論です」
確かな意志をもって彼女はそう言った。彼女は本当に何によって動いているのだろうか。
「ねぇシオン、そろそろ、私が何を思っているか、何を言いたいか、分かりましたか?」
「……わかりませんね」
本当は気付いている。でもそれからは目を背けてしまう。
知りたくも無い現実は、存在するものだ。
「いじわる」
そんなことを言われたが、別に気にしたりはしない。
「ではもう私から言いますよ……シオン」
「はい、何でしょうか」
暗く淀んだ笑みを浮かべながら、彼女は顔を上げ、シオンを見た。
「私は貴方の近くにずっといたいです。どんな方法を使っても、どんな苦難があろうと、私は貴方の隣に立ちたいです」
「はい」
「私の気持ちと言うのは、ただの恋心。儚く終わってしまわないように必死で足掻く、小さな思いです」
彼女は知っている、彼女は理解している。
それがどんなに頑張っても、届くことの無いものだと。
「そして私の言いたいこと、それは―――」
彼女は一度口を
「―――――身勝手ですけど、私を選んでくれますか?」
黒く淀んでいた笑みは、儚く消える雪のような清々しい笑みへ変貌した。
その笑みの隙間を流れる、細く濁ってしまった筋。
いらぬ罪悪感が募る、心臓が握られた時のように苦しい。
だが、言わなくてはならない。七年前から定めた答えを。
「……ごめんなさい。貴女を選ぶことは、私にはできません」
彼女の顔を見ることが出来ない。目を顔ごと逸らしてしまった。だが、残酷なことに、鍛えられて広くなった視野は、彼女の顔をはっきりととらえていた。
だからこそ、不思議に思えた。
「ありがとうございます。そう言って頂いて」
彼女が今までに見せたことの無い程、淀みなく済んだ表情をして、お礼を述べたことに。
「それは……どういう……」
「それではシオン……これがその二本の薬です。どうぞ、持っていてください。さっ、早く帰ってください。私は仕事があるんですっ。それでは、シオン。また今度っ」
聞こうとするも、いきなり彼女が立ち上がって赤紫色の薬を二本押し付け、背を押してドアの外まで押しやられてしまった。
いつもの冷静さとは全く違ったその行いに、動揺を隠せず少し呆然としていると、気づいた。
ドア一つ隔てた向こう側、そこから漏れでる声は、嗚咽。
微かに聞こえるだけのそれは、耳にこびりついて離れず、煩わしい。
「――――なんで、こんなに痛むのでしょうかね」
彼は引きちぎってしまうのではないかと言う程力を込めて、自分の胸を掴んだ。
痛むはずのその胸は、掴んだのとは別の、歪に突き刺さり離れない痛みが募る。
吐き気を催すほどの気持ち悪さは、消えることなく纏わり続けた。