巨人の名は───アウルゲルミル
元々、この名は彼のではなかった。
『霜の巨人』と呼ばれる者達の名であった。
かつては彼も彼だけの名を持っていたが、既にそれは忘れていた。
激しい怒りと喪失感、長年に渡る眠りが名前を忘却の闇へと沈めてしまったのだ。
ユミル、という巨人がいた。
全ての巨人の祖がいた。全能なる神の祖がいた。
今ある世界が作られる前、ユミルという巨人が誕生し、あらゆる命を肉体から産み落とした。
熱気と冷気より作られた毒の雫が形となった原初の巨人だ。その肉体は世界そのものであり、最果てなどあるか分からないほどに巨大であった。
父はアウルゲルミルを、兄弟達を多く生み出した。偉大とはこの事。父は万能であり、原初だった。全ての拠り所であり、きっと死ねばやがて父に還るものだと彼らは信じていた。
だが、ユミルに死が訪れた。
殺されたのだ。ユミルから産まれし女巨人、その子である、のちに傲慢にも神と名乗る者達
───ヴィリ
───ヴェー
そして───オーディン
あの三人がなぜ、全ての祖であるユミルを殺したのか、いまだ定かではない。だが、奴らは殺したのだ。殺してしまったのだ。
我らが、全ての父を…っ!!!
怒り狂い、復讐に燃えるアウルゲルミルはあの三人を殺すことができなかった。
巨大な父の死体から洪水のように溢れる血液がアウルゲルミル達を飲み込み、皆を溺死させたからだ。
殆どの兄弟が死んだ。ユミルを慕う者達は皆、父の血によって無に帰る。
彼もそうなるはずだった。だが、彼だけは助かった。ただの偶然だ。流れる血の奔流の中に硬質な白の塊が彼を血の中から救い出したのだ。それは骨だった。ただの骨、だがユミルの骨。その骨にしがみつき、血の洪水が収まるまで彼は耐えきった。
洪水が終わり、彼は世界の果てに辿り着いた。
洪水を生き延びた彼には体力が残っておらず、眠気に勝てず、死ぬように眠りについた。
彼が目覚めた時には、全てが終わっていた。
オーディンは父の遺体で世界を作った。
肉体は大地、骨は岩山、歯と顎からは石、血は海、頭蓋は天に、脳は雲にした。
なんと、なんということだ。
なんて、醜態極まる…っ!!!
あまつさえ父を殺し、遺体を解体し、それらを自らが支配するための楽園として踏み躙る。
奴らは神ではない、神を名乗った畜生共だ!!!
両足で大地に立つ行為こそ、父に対する辱めに他ならない!!
だが、立たなければ前に進めない。自身に最悪の嫌悪感を感じながらも、彼は立ち上がる。
眠っていた彼を保護したのは、ヨーツンヘルムに生きる父の末裔達だった。彼同様に血の洪水から生き延び、オーディンに慈悲という名の傲慢に許され、人が住む大地の外れに息を潜め生きていた。
創世の時から、既にいく数千年。
オーディンの血を引く人間共が文明を気づき、神の恩寵の元命を育む時代。
彼は誓った。オーディンへの復讐を。父に行った所業を、倍にして返す。
苦痛と嘆きの元、厚顔無恥なる神々の王を大地に叩きつけ、遺体となったユミルに許しを請わせる。
その為に、彼はまず人間を殺す為にヨーツンヘイムを飛び出した。
まずは人々を絶望を。オーディンが愛している戦士達を骸にする。
だからまずは、この時代で最も優れた戦士を殺す。その為に餌を撒く。餌に食らいついた時こそ、嬲り殺しにする。
優れた戦士の名はシグルド。
シグルドが、やってきた。
○ ○ ○ ○ ○
「「「オ、オ、オ、オ、オ、オオオオオォォォォォッッッ!!!!!」」」
咆哮。それだけでまず数人が死んだ。
砦の高台で突然現れた巨人に対し、弓を構えていた兵が音の衝撃で肉体の内部から破壊された。
その衝撃で砦の一部が破壊され、参加していた戦士達が吹き飛んだ。
大地がめくれ、石が大砲のように飛び散る。それにあたり絶命した者も数名。
顕現された暴力の化身。それを正確に確認できぬまま亡くなった戦士達。なんとか生き残った者達は、放心していた。
「アウル、ゲルミル!?」
「…霜の、巨人か!?」
放心する戦士達の中で、たった二人だけが正気を保ち、巨人を警戒し距離を保っていた。
言わずもがな竜殺しのシグルドとフェーデだった。
「あいつらはユミルが死んだ時に起こった血の洪水で途絶えたはずだ!」
「…例外はある。ベルゲルミルは妻と共に生き残った」
「後の巨人の先祖か…」
咆哮を放つ寸前、明確な死を感じた。それはシグルドとフェーデが共通に感じていた。即座にその場を離れ、咆哮の死の脅威から抜け出したのが幸いだった。
シグルドとフェーデに絡んでいた大男は死んだ。巨人が現れた時の踏み込みは救えたのだが、咆哮が放たれた時には足元であったため、即死だった。
「そもそも、あれは本当にアウルゲルミルか?」
ブリュンヒルデにより教えられた創世の物語を覚えているフェーデにとって、それは嘘のように思えた。
ユミルより直々に産まれた神と同格の巨人、
今こそ世界のどこかに生きているとされる巨人はそのアウルゲルミルの子孫だ。
存在自体が原初、最大級の神秘。それがなぜ、ここにいる。
「そうだ。当方の
言い切った、シグルドの瞳は仄かな光を宿していた。
曰く、シグルドは邪竜の心臓を喰らい神々の智慧を得たという。
シグルドには神の智慧がその血に流れている。如何なる難題も知りたいと願えば
如何なる魔法だろうが、見たことのない怪物だろうが、その正体を神の智慧が相手を分析し、検索し、解答へと導いてくれる。
あの巨人を眼にした瞬間、その智慧が答えを出した。
───憎悪を感知、対象:神族及び人類種
───目的への解決手段、殺戮
───対象の殺戮を完遂した時のみ、和平交渉可能
───優先対象:シグルド
視覚より与えられた情報のみで、対象の正体と行動を看破。
必要なことだけを導く智慧を停止させ、シグルドは魔剣に意識を集中させた。
「…ひとまず、お前を信じよう。で、どうするつもりだ」
「斬る。アレは放逐できぬ。此処で打ち倒さねば、大地が血で満たされる」
それこそ、ユミルが死んだ時のように。
「…元々そのつもりで来たが、あれほどのデカブツだ。弱点を突かねばならんだろう」
「ああ、その通りだ。奴の肉体は他の巨人と異なり、作りが違う。弱点を突かぬ限りまともに傷をつける事もできぬだろう」
その手段について問おうとした時、冷えた夜空に幾つもの曲線が描かれた。
「撃て、どんどん撃て!!」
巨人の咆哮に固まっていた兵士、巨人討伐に参加していた戦士達が動き始めていた。
あの巨体に直接攻撃するのは不利と判断したのか、遠距離からの矢で攻撃し始めた。この砦の指揮官が命令を出し、惜しみなく矢を放っている、のだが。
全ての矢が、巨人の身体をすり抜けていく。
まるで煙の中に石を投げ込んでいくように、矢は肉体の中に一度姿を隠してすぐに反対側へと飛び出していく。
「巨人の肉体は
「…それで霜の巨人か」
肉体は冷気により形成されており、その冷気の中には並外れた魔力と神秘が含まれている。人が、物質がその冷気に触れれば実際に実体があるように硬質化する。
そこに実在するようで、そこに無い。生命の活動を妨げる冷気によってできている人外。それこそが霜の巨人の正体である。
突然現れて、消えれたのは自身の肉体を
「ここで何時迄も話している暇はないな。───出るぞ」
シグルドは相手の正体を見破った上で、前へ出た。
巨人は近づいてくるシグルドに対し、睥睨していた。
矮小な身で、自分に何の策もなく突貫してくるその様子を完全に呆れた様子で見ているように見えた。
「オオオォォォッッ!!!」
だが、完全に仕留めるために渾身の一撃を振り下ろした。隕石の如き拳の襲来をシグルドは完全に回避してみせた。
一刀が巨人の足へと振り切る。
斬られた場所はすぐに霧散し、傷がない状態で元通りとなる。
巨人はニタリと嗤った。
無駄なことを。どれだけ斬られようとも自分を傷つけることなどできない。
浅はかな無駄な足掻きと巨人はシグルドを目で捉え、足を持ち上げ、踏みつけた。
シグルドは再び回避し、また斬りつける。
馬鹿なことをと、再び踏みつけてやろうかと思い
斬りつけられ、斬りつけられ、斬りつけられて
斬、斬、斬、斬、斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬
何度も、息絶えぬ速度でその魔剣を振り続けた。
形成しようと集めた冷気が、足を作り直される前に散らばっていってしまった。
愚直の乱れ斬り。無意味な足掻きなどではなく、確かな意味を持って披露される演舞。一太刀振られるごとに風が舞い、二太刀で豪風、三太刀と続き、無限に続けばそれは嵐だろう。
冷気によって肉体が構成されている巨人、一瞬体の部位が失っても近くに冷気があればすぐに修復されるが、冷気は尋常ではない力技により散ってしまった。
「オ!?」
片足がなければ立つこともままならず、片膝をついた状態で倒れてしまった。
───この自分が、屈した?
その事実に、巨人の怒りは一瞬にして頂点に達した。
矮小なる人間の身でこの体に土をつけられるという屈辱に喉が震えた。
殺してやると、両の眼を開かせた。
「
その眼に、眩い光が迸った。
○ ○ ○ ○ ○
先に飛び出したシグルドの背中と、両手に構えた魔剣の極光が巨人の肉体を塗り潰した。
禍々しく、けれど壮麗で無尽の魔力の刃は冷気の巨人を一瞬で吹き飛ばしたのだ。
「…これが、竜殺し」
改めて、その実力と魔剣の神秘に舌を巻く。
剣の腕はまだ測れていた。経験の差も理解していた。だが、神に与えられた魔剣を握った大英雄の真なる英雄性を自分はまだ測りきれていなかった。
「は、ははは…」
なるほど、本当に自分は慢心していたらしい。
魔境に育てられ、戦乙女に鍛えられた。それだけで、自分は強いと勘違いしていた。まさに井戸の中の蛙、大海を知らないわけだ。
あれこそが頂点、あれこそがブリュンヒルデが求めていた男なのだろう。
ならば、ならば…!
「此処でこそだろう…!」
負けていられない。ここで立ち竦んでいる暇などない。
負けていると完膚なきまで教えられたのなら、越えるべきだ。挑むべきだ。勝つべきだ。
自分は戦える。戦って、戦って、戦って鍛えるべきだ。自分が未だ何もなし得ていないなら、ここで、為すべきだ!
○ ○ ○ ○ ○
肉体の形成に、時間がかかった。 あの光に覚えがある。あの光、あの魔力。あれは正しく我が怨敵の匂い。
あの男、オーディンに愛されているな!?
怒りが頂点に達した時、さらに怒ると逆に冷静になる。巨人は冷えた頭脳で敵を見据える。
侮るべきではない。必ず殺せ。
胸にあった侮蔑は捨てる。必要なのは単純な殺意と殺意を行動に移せる技能だ。
魔剣に肉体全てを吹き飛ばされたとしても、アウルゲルミルに死は与えられない。
冷気、即ち気体によってできている怪物だ。殺すなら、気体ごと消し去らなければならない。
シグルドの魔剣は、あらゆる魔剣の頂点に達している。巨人を吹き飛ばした際、後ろにあった砦の外壁を
今の魔剣の極光は、あくまで
ここで魔剣の全種解放の一撃を見舞うとなれば、周りにいる戦士達に巻き添えが出てしまう。シグルドの本気は、ただの戦士では耐えきれない暴力の化身と成り果てるのだ。
「オオオオオオオオッッッ!!!」
肉体が完全に修復し、立ち上がる。眼下に広がる群がる人共。シグルドを除き、殆どが怯えた目で巨人を見上げていた。あの雄々しい眼が気に入らん。
崩れていた砦の一部を掴み、天へと振りかざす。この一撃は石の雨となって、皆に襲うだろう。
さあどうする、英雄? 力を込めて、振り下ろす。
「???」
手に違和感を感じた。
その感覚には、覚えがあった。生まれた時から、今までで何度も味わった。しかし、あまりにも久方振りの感覚に脳が処理しきれていない。
鮮烈でいて灼熱の鋭い肉体の防衛機能。生物である以上、逃れられないこの感覚の名前は───
痛み、という。
「オ、オオオ、オオオオオオオオ!!?!」
手首から流れる黒い血流。間欠泉のごとく噴き出す、ソレに巨人は瞠目した。
「こちらだ」
肩から、声がした。
人と巨人にはあまりの対比さがある。似たような臓器の配置があるといえ、その規模はあまりにも桁違い。身長のみならず、体重もだ。それゆえに人間の体重など綿みたいなものだろう。
肩に人が乗っていても、巨人は気づくはずがない。
肩にいた男は槍を持っていた。腰には剣。軽い身のこなしができるように軽装だ。
その男の槍は───真っ赤に
煌々と冷夜に灯るその炎は星のように輝いている。
その炎の中心には、記号のような文字が刻まれていた。
巨人は知るはずもない。
アウルゲルミルが眠りにつき、目覚める永き間。彼が最も憎む神が知り得た知識の結晶。
それは劣化しようとも未来にも名を残す、魔術において一つの大家として成立している秘術。
ルーン魔術の原典、原初のルーンだと。