息が詰まる。
どうにもイイ言葉が出てこない。
バカな幼馴染は、間の悪いことに発情中。
何か気分を変えられるものを探していた。
運命の切れ端を掴むことになるなんて思わずに。
#3
イライラして、ムシャクシャして、落ち着いていられなかった。
あまりにも落ち着くなく歩き回るシェリルに、グレイスは呆れたように口角を上げた。
くいっと眼鏡を上げる仕草にさえ怒れる気がシェリルにはした。
「アナタ、生理じゃないんだから」
「生まれてこの方来たことないわよっ」
ぴしゃりとシェリルはグレイスの言葉を切る。
αの女性に月経、いわゆる生理と呼ばれる現象はほぼない。
理由は様々に研究されているが、子供を孕む可能性がほぼないため遺伝子的にそうなっているのだろうというのが通説だった。
力を入れていたライブも終わり、一端休養も含めた創作活動の時期にシェリルは入っていた。
いつもなら休養中の経験やら、ライブの時の感動やらで、ある程度作品ができてきてもおかしくない時期だ。
それなのに一曲も作れない。それどころか、言葉の一欠けら、メロディの一節さえ見えない。
スランプと評される期間に足を突っ込んでいた。
「だめ、なーんも、ないわ」
ペンを片手に紙に向かってみてもダメ。
気晴らしに散歩や、ショッピング、レッスンをしてもダメ。
気分が晴れない。イライラする。
原因はわからない。
だがいつからかはわかる。
あのライブが終わってしまった日からだった。
最初はただ大きな仕事が終わって寂しいだけなのかと思っていた。
燃え尽き症候群、なんて病気もあるのだし、それに近いのかなとシェリルは考えていた。
だからしばらく休んで、遊んで、働いて。
そうする内になくなる類の感情だと見誤っていたのだ。
――あのライブで何か失敗したかしら。
もんもんと考え、答えが出ず、先ほどグレイスに指摘された通りの状態になった。
「スランプなら、一度全然違うことをしてみたらどうかしら?」
「違うこと?」
訝し気にグレイスを見る。
苛立ちで乱れた髪が顔にかかる。
興味を引けたことに満足したのか、グレイスは綺麗な笑顔を作るとチラシを一枚差し出した。
*
「オーディション?」
シェリルは社長室でティーカップを片手に聞き返した。
出された紅茶は芳醇な香りで鼻腔をくすぐる。
この事務所からデビューしたシェリルだったが、オーディションをするというのは初めて聞いた話だった。
「そうデスネ、うちも大分大きくなりましたし、今年からやってみようという話になりましてデス」
グレイスさんとも相談しまして、と社長とシェリルの専属マネージャーがアイコンタクトを交わす。
ふーんと気のない相槌を打った。
オーディションそのものに興味はない。
シェリルに言わせれば、出てくる人間は勝手に出てくる。
勝手に出てくるくらいの人間でないとこの世界ではやっていけない。
「それで、アタシに審査員でもしなさいと?」
確かに新しく出てくる芽を見るのは気分転換になりそうだ。
刺激的な子もいるかもれない。
それでも――シェリルにとっては暇つぶしでしかない。
「いえ、最初はその予定だったのデスが」
シェリルは眉を顰める。
社長はにこにことした表情を崩すことない。
「本当は何人かに絞って、本選で合格者を決める予定だったのよ」
手元の書類を束のまま振って、その量の多さを見せつける。
シェリルのネームバリューもあり、事務所の規模の割には多い。
これであればグレイスの言っていたように、書類選考後に本選もできるだろう。
だが、その予定は潰れたらしい。
「なに、どっかから横やりでも入ったの?」
「いえいえ、まさか。まぁ、この音源聞いてみてクダサイ」
シェリルの目の前に出されたプレーヤーとイヤホン。
それは自分が曲を作り、渡す時と同じ使い慣れたものだった。
白いイヤホンの末端を持ち、指先で弄ぶ。
「これで、つまらない曲だったら怒るわよ?」
にっこり笑って社長へ言い放つ。
ただでさえ苛立ちが止まらない状態なのだ。
もとから穏やかとは程遠い激しさがシェリルにはある。
「大丈夫デス」
自信を持って言い切られる。
へえ、とシェリルは面白そうに唇を半円にした。
耳へとイヤホンを差し込み、音量を確認してから再生を始める。
静かに目を閉じて音を待つ彼女の世界に染み渡るようにその声は歌い始めた。
――アイモね。
アイモは特殊な曲である。
どこの言語なのか、なんと言っているか、いまいち分からない。
それでもシェリルはこの愛の歌を好んでいたし、たまに歌ったりしていた。
自分とは違う声質が紡ぐ柔らかな音。
シェリルの荒ぶっていた心を優しく撫でつけられるような気分だった。
「この子、面白いわ」
耳からイヤホンを外し第一声。シェリルはそう言い放っていた。
その瞳は今までの憂鬱を忘れたかのよな輝きに満ちる。
耳に残る声は透き通っていて、シェリルとは異なる響きを持っていた。
この声と合わせられれば、とてつもないことが起こる気がした。
「これで決まりですね」
「ハイ。いやー、オーディションもやってみるべきデスネ」
シェリルの耳にシェリル自身はもちろん、グレイスも社長も自信を持っていた。
その彼女が面白いといった声と歌。
もう本選の必要はないと言ってよかった。
*
シェリルのライブが終わってから、生活を変えた一人にランカも含まれる。
大勢の中に入っていっても、特に問題が発生しなかったことを考慮し、試験的に外で暮らすことが許された。
ただ週に一回の検査は変わらず、結果もよろしくない値を出すようであれば、すぐに元の暮らしへと戻される。
色々制約は多かったが、それでもランカは嬉しかった。
初めての一人暮らし。
研究所が手を回してくれたのか、借りたアパートはβしかいない。
今までαやΩという希少種にばかり囲まれていたため、それが新鮮だった。
普通に学校へ通い、友人を作り、バイトをする。
憧れていた生活だ。
「送っちゃった」
勢いで送った書類と音源データ。
送信完了の文字が画面に映るのを見て、やってしまったと思う。
充実した毎日だった。研究所にいた頃とは比べ物にならないほど。
そんな中でも、ランカは歌うことに夢を抱かずにはいられなかった。
いつ、あの生活に戻ってしまうかわからない。
だから、できるうちにやりたいことは全てやってしまおうという火事場のバカ力に似た決心をランカはしてしまっていた。
「ランカさん? どうしたんですか」
バイト先のお店で一緒に働くことになったナナセがランカに尋ねる。
同い年という気安さもあり、まだ一か月働いていない時期にしては親しい部類に入っていた。
そしてランカの事情を知らないβの一人だった。
「ううー、これに出しちゃった」
ナナセに端末を押し付けるように渡すとランカはその場に座り込んだ。
もう仕事は終わっており、あとは着替えて帰るだけだ。
今さら、何度も取り直した曲やかちこちに緊張していた書類の写真を思い出して赤面する。
顔が熱い。
頬に手を当てれば驚くほどの熱を持っていた。
「ああ、シェリルさんとこの! すごいじゃないですか」
ランカのシェリル好きは職場の仲間の知るところである。
当然、ナナセもその熱意を知っていたし、今回のオーディションで悩んでいたこともわかっている。
小柄で、まるで子犬のような性格のランカはお客さんからもバイト仲間からも好かれている。
人からフェロモン無しに好かれる。
それ自体が初めての経験に近かく、最初は戸惑った。
ナンパのような軽口を飛ばされることも身構えて、だが慣れてくるとそれはただの挨拶に過ぎないとわかり、ランカ自身軽く返せるようになった。
「ランカさんは歌も上手ですし、きっと大丈夫ですよ」
「ありがとう」
座り込むランカに視線を合わせ、ナナセが励ましてくれる。
彼女にも何度かカラオケボックスでの練習に付き合ってもらっていた。
かわいいものに目のないナナセは的確にアドバイスをくれ、ランカは本当に助けられた。
――シェリルさん
初めてのライブ。生で目にした輝く姿。そして圧倒的な歌、歌、歌。
どれもがランカの中に刻まれて、惹きつけられる。
心の中で呼ぶときでさえ、敬称をつけるようになっていた。
もし、彼女のように歌えたら。
彼女の隣で歌えたら。
彼女と一緒に歌えたら。
きっと、素晴らしいことになる。
そんな強い予感がランカの中で溢れて、止まらなかった。
「シェリルさん」
画面を見つめて、そっと名前を呼ぶ。
満員に近い電車は混雑しており、なんとも言えないざわめきに満ちていた。
ナナセとは店の前で別れ、今は一人帰宅する身だ。
耳に差し込んだイヤホンからはあの日ライブで使われた曲が流れてくる。
瞳を閉じれば、それだけでランカはあのライブ会場に戻ることができた。
「~♪」
電車を降りてから家まで歩く。
恥ずかしいので声は出さないが、鼻歌は出るようになっていた。
歌うことさえ禁止された研究所とは違い、今は誰も見とがめることもない。
それが嬉しくて仕方ない。
イヤホンをして、鼻歌を歌う可愛らしい少女を一定の距離を取りながら見つめる姿があった。
瞳に込められる熱量は異常であり、まるで発情しているように見えた。
ずっとそういう視線と無頓着だったランカはまだ気づいていない。
人生の禍福は交互にやってくるのだということを。
#3 end