「愚かしい……力の差が分からないのか?」
今までだって同じだ。明白な力の差がありながら、それを突破してきたのだ。
今回も、その差が一際大きくなっただけ。
根本的なものは変わってはいない。
「残念だけど、私のマスターが諦める状況なんて存在しないわ。例え神様が相手でもね」
自信を持って言うメルト。それは間違っていない。
どんなに絶望の淵にあっても、僕は諦めない。それが僕の、最大の武器になる。
「……ならば良い。どちらにせよ結果は同じだ」
トワイスは落胆したように言い、刻印の輝く右手を前に突き出す。
「
菩提樹に座すセイヴァーは、その命を静かに肯定する。
「苦は
目を覆いたくなる程の眩い光が、転輪に灯る。
一つは、赤。四枚の花弁を持つ光の名は、ムーラーダーラ。
一つは、朱。三日月輝く六花弁の光の名は、スワーディシュターナ。
一つは、黄。火を表す宝珠の都市たる光の名は、マニプーラ。
一つは、緑。風の元素に関する蓮華の光の名は、アナーハタ。
一つは、青。虚空を司る清浄なる輪の光の名は、ヴィシュッダ。
一つは、紫。教勅を意味する蓮華の光の名は、アージュナー。
一つは、白。天頂に輝く千の花弁は最高位の光。名を、サハスラーラ。
輝きはその七色を以て、転輪の中央に宝物を映す。
救世の英雄が持つ、理想の王の概念を顕す転輪。
宝具としてそれに名をつけるとなれば、『
意思持つ王の平定を約束する輪宝、チャッカラタナ。
空を翔る純白の像宝と馬宝、ハッティラタナとアッサラタナ。
それらの周囲を囲うように輝く珠宝、マニラタナ。
女宝、イッティラタナが。居士宝、ガハパティラタナが。将軍宝、パリナーヤカラタナが。
貞節な王妃を、王を支える市民を、賢明な智将の形を取る。
古代インドにおける、理想的な王を指す概念、転輪聖王。
王に求められる全てを備える王が持つ七つの宝を映す転輪はゆっくりと回転している。
その回転に伴って圧倒的な魔力が中心に集束していく。
レールの如き転輪をゆらりゆらりと動く輪は一つ一つが彩色豊かな膨大な魔力の閃光を雨の様に降らしてくる。
「メルト!」
「任せなさい――」
令呪一画に加え、ラニからの魔力も得た以上、メルトは今まで以上の力を発揮している。
攻撃を防ぐための『さよならアルブレヒト』を使うまでも無く、『月影の名は魔刃ジゼル』の閃光で相殺せしめた。
大きく弾け、魔力が飛散する戦場。それを眺めるように存在する転輪は、尚も回転速度を増している。
本来なら、これまで早い展開は無いだろう。恐らくあの転輪の光は、時間経過によるもの。
だというのに既に全てが灯っているのは、トワイスの令呪によるものだろう。
トワイスは急いている。地上の救済が手遅れになるのは時間の問題だと思っているのだろう。
それに焦りを感じるがために、令呪を使用して早々に決着をつけようとした。
しかし、セイヴァーの転輪は令呪の強制力の外に在るものなのだ。
サーヴァントでありながら、その存在は令呪でさえ及ばない位置にある。
まさに規格外の存在。令呪の効果が発生しない事を決して安心はできない。
それほどの力を持っているのだ。発動が遅れたからと言って、何を安心できようか。
だから、終わらせるしかない。セイヴァーの転輪に灯る凄まじい魔力に勝てるかどうか――否、絶対に勝てる。
僕がメルトを信じなくてどうする。今までだって、そうしてきたんだ。
最後だからこそ――
「メルト、宝具を――!」
最大の力を、メルトに命じる――!
「その意思、応えましょう――最愛の貴方の為に!」
静かな水辺は、唐突に津波を呼ぶ。
転輪全てを飲み込めるほどの、水の壁とも思える波が立ち、空を覆う。
対抗すべく転輪の輝きは増す。
時は来た――渇望し続けた瞬間に子供の様に目を輝かせながら、トワイスは高揚を隠さず宣言する。
「転輪は時を告げる――あらゆる衆生、あらゆる苦悩は我に還れ!」
高速で回転する光は一個に集まる。
さながら大日如来の背負う後光。光は拡大していく。全てを救うべく地上を遍く照らす太陽の如く。
「大いなる悟りの下、人類は此処に一つとなる――」
膨大な光が、メルトを、僕を、ラニを襲う。
相手である以上、全てを照らす光。だが駄目だ。ラニを巻き込む訳にはいかない。
そして、宝具の発動に全力を出しているメルトの邪魔はさせない。
二人は僕が守る。守って、みせる!
「『
殆どの魔力をメルトに回した上で、衆生を救済する光を一手に受ける。
究極の対個人宝具を受けるのは、僕限り。
耐えて、みせる――勝って、みせる――!
光の中で、セイヴァーと対峙していた。
どこまでも慈悲を示す眼で此方を見つめている。
何故、こんな事が。セイヴァーの宝具の影響だろうか。
「――此処は?」
声は喉からではなく、心から直接抜き出たように発される。
どこにあるともしれない果てに反響する声は幾重にも重なり、やがて消えていく。
「覚者たる個。一切の業を祓った、輪廻の外です」
セイヴァーの対人宝具たる所以。人は全て、覚者と一つになる。
それが正しく、この空間なのか。
輪廻の外に在るということは、仏教の教えで言うならば解脱――涅槃へと脱することを意味する。
つまり自分は死んだという事だろうか。あの光に耐えることが出来ず、しかしそれによって救われた命として。
――違う。一画を減らした令呪は残っている。
聖杯戦争の外に出た訳ではない。
「……出るには、どうすれば?」
死んではいないならば、ここから脱する方法がある。
それを、この光を発生させたセイヴァーに問うのはお門違いだろう。
だが、人の考えが及ぶ世界の外に、今僕は存在している。彼に聞くほか、手段は思いつかなかった。
「それは、貴方が至るべき答え。苦を知らぬ貴方ならば、望むなら輪廻の環に戻ることが出来る」
望めば脱出ができる。しかし、それを思ったところで光景は何一つ変化しない。
ただ一人、この境地へと至った者の言葉は、更に重く、意味を持ったものなのだ。
「答えを示しなさい。衆生が空けた穴を埋める欠片を」
セイヴァーの言葉の意図が掴めない。
衆生が空けた穴を埋める欠片。衆生――命ある全て。
それらが空けた穴を埋める。セイヴァーが望む答えとは、一体何なのか。
「彼は、生存の強さを以て悟りへの道を拓こうとした。では貴方は衆生に、何を望む?」
彼が指しているもの、それはトワイスだろう。
ようやく、理解できた。
トワイスは戦争によって人々の強さを開花させ、人類の道を拓こうとした。
そしてトワイスとぶつかっている以上、僕にも道を拓く考えがあると。
僕とトワイス。どちらの考えが、人類の先に光を齎すか。セイヴァーは禅問答の形で、僕に問うていた。
――恐らく、セイヴァーはトワイスの思想に共感して力を貸したのではない。
トワイスの見捨てがたい苦悩に慈悲を示していただけなのだ。
仏教において覚者となる方法は人それぞれである。
それと同じように、人類の道を拓く思想も人それぞれ。或いはこの問答は、どちらが歪んでいるかが命題なのかもしれない。
セイヴァーが最後に慈悲を示すのはどちらなのか。そんな考えは関係ない。
こんなところで言葉を曲げる訳にもいかない。
自分自身の考えに自信を持って、救世の英霊に告げるまでだ。
「――歩みは、止めさせるべきではない。停滞した世界では無く、人々がそれぞれ道を切り開くことが、最善の道だと思う」
これだけならば、トワイスと同じだ。
しかし、彼の“固く”“歪んだ”思想と対を成すのは、この先。
「ただし、戦いは好めない。平和であるまま開拓を進めたい。それが僕の根底にある願望です」
どうしようもなく自分勝手。良い所取りのエゴに過ぎない。
人によっては、善とも悪とも言えるだろう。
こんな綺麗に取り繕った願望しか持てないのは、生きた時間が少ない故なのだろう。
それでも、これは僕の“生涯”全てを以て見出した、命を懸けれる願望なのだ。
「――」
暫し、その言葉を反芻しながら見定めるように沈黙していたセイヴァーは、
「人の善悪に価値などない。人の認識では、世界の在り方は変わらない。救いの形は、人それぞれ。全ての救いに、神は宿る」
自らの境地を諳んじるように語る。
ふと耳に、川のせせらぎのような清涼な音が聞こえてきた。
「見届けましょう、世の末を。涅槃にて共に――それが貴方の、最期の救いだ――」
どこまでも慈悲に満ちた言葉が紡ぎ終えたかも分からない刹那、光の外より一滴の雫が落ちる。
二滴、三滴と数を増やし、やがてそれは清流へ、そして激流へと姿を変える。
「――メルト」
その名を口に出した。
対衆宝具にして、対界宝具にして、対心宝具。世界中の人々のコミュニティー、道徳を受け入れ、蕩けさせる融解の宝具。
人類の版図がこの光にはある。今まで人が至り、迷い、歩んできた道。
それら全てを融かし、未来を作り出す。続いた人類史を遍く融かす、女神の涙。
其は――
「
光は、唐突に消え去った。
膨大で激烈な――それでいて守るように優しい波は全てを掬い上げ、飲み込んでいく。
再び足を付けた空間から波が引いていく。
怪我を負っていないラニに安心しながら前に目をやる。
「――勝負ありね」
そこには、勝鬨を上げる少女が立っていた。
そして対するトワイスには、何も残っていなかった。
空を覆う程巨大な転輪も、それが齎していた七色の光も、そして、彼の道筋に光を示していた救世者も、全てがその場から跡形も無く消滅していた。
ただ一つの名残は、咲き誇る沙羅双樹の花の如き、淡い輝き。
それもすぐ消える。次に訪れる消滅は、他でもないトワイスに齎された。
「……戦火の音がする。やはり悔しいな、敗北というのは」
かつて、何度経験してきたことなのだろうか。
望みの為に戦い、そして幾度も殺されて、また初めからやり直してきた。
これもまた同じく、戦いの果て。一つの敗北による、一つの死亡。
そんな、今回の戦いに想いを馳せながらトワイスは、消え行く体を呆然と見る。
「だが無念はない。命が転輪するように、戦いもまた転輪する。それを、君が証明した」
自身の望みが断たれたとは思っていない。これから先に、僕自身がそれを肯定すると確信しているのだろう。
聖杯戦争のルールを定めた男は、そのルールに殉じて消える。
それがムーンセルの絶対条件なのだ。
一歩ごとに崩れる体を気にも掛けないトワイスは、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「聖杯に接続したまえ。そこで君は、多くを識るだろう」
――無作為に命を使い、何の目的もないまま繁栄し、路傍の花のように散る我々の未来を。
断固として言うトワイスの目には何の迷いも疑いもない。
「その是非を。君の目で、判断してほしい。私たちは本当に、正しかったのかという事を――」
その一瞬に、トワイスの何かを見たような気がした。
しかしそれも終わる。戦いによって綻びを埋めようとした欠片は、しかし穴に填められる事無く消滅した。
罅を広げて崩れるように。或いは戦火の空に融け行くように。
死して尚妄執を抱き続け、ムーンセルのシステムになってもそれを忘れなかった男。
彼は逸れた道の先で救われるだろう。救世の英霊が指し示した別の道にて。
「……終わったんですね」
「……あぁ」
安堵しきったラニ。屈託ない笑みを見せるその一人の少女は、忘却している。或いは、気付いていないのだろう。
まだ後一つ、やることが残っている。
それが終わって初めて、聖杯戦争は終結するのだ。
「聖杯戦争を、終わらせる。聖杯に接続しなきゃ」
「そう、ですね……すっかり忘れてました」
とは言え、僕はトワイスと同じなのだ。
ムーンセルにとって僕は不正なデータ。ムーンセルに接続すれば消去されるだろう。
ようやく人の心に気付けたラニを一人置いていくのは、ただ心苦しい。
しかしこれは避けようのない
不正なデータとして分解される――だがそれでも、僅かな時間くらいはある筈だ。
だからそれまでに、やっておかないと。
勝者を確認したムーンセルは、聖杯への道を生成する。
天の立方体に続く光の階段。
これを昇ることで、全てが終わる。
「敗者である私はこの先にはいけません。だから――」
「うん。お別れだ、ラニ」
「――え……?」
ラニの笑顔が、戸惑いに変わる。
そして、事実を思い出したように不安の色を見せた。
「きっとこれから、僕は不正なデータとして分解される」
「そんな――なんで――」
理解している事実を、しかし事実であってほしくないと心で否定する。
これもラニに芽生えた、掛け替えのない感情だ。
その目元に浮かぶのは、ラニから初めて流れる涙。
ラニ自身は気付いていないまでも僕は確信した。もうラニは、完全な一人の少女なのだと。
「だから、頼みがあるんだ」
「……え?」
「君は地上に戻る。だから、僕が戦いの中で見つけた願いの結末を見て欲しい。人々の先頭に立って、世界を導いてほしい」
傲慢な頼みだ。今まで無茶な頼みを幾度も聞いてくれたラニに対して、最後にして最大の頼み。
しかし、ラニは、
「――――はい」
長い沈黙の後、最上の笑顔で肯定してくれた。
頬を伝う涙をそのままに笑うラニに此方も目頭が熱くなるが、それを堪えるのは作り物の――しかし当然の、男としての矜持なのかもしれない。
ラニの頬に手を当てて、その涙を拭いながら、ラニに別れを告げる。
「――さよなら、ラニ」
手を離し、ラニに背を向ける。
ラニは何も言わない。何を思っているのか、知る由も無い。
「メルト、行こう」
「――えぇ」
共に戦った聖杯戦争の勝者として、二人で聖杯へと向かう。
特に感慨もない光の階段を昇り、ムーンセルの中枢、聖杯へと手を伸ばす。
瞬間――――
「――――」
僕は、聖杯の中に居た。
地上の全てが記録された電子の海。
無数の情報が沈んでいる、ムーンセルの全てを司る中枢部。
言葉は出ない。というより出せない。既にムーンセルと一体となっているようだった。
そして、メルトの姿も、どこにもない。
きっと、僕も心のどこかで分かっていたのだと思う。
勝者が聖杯まで辿り着けばサーヴァントはシステムとして用済みなのだ。それを残しておくのはどこまでも合理的なムーンセルの性質からしてありえない。
ただの一言も、彼女に礼を言うことができなかった。
そんな後悔はすぐに流れ、ムーンセルが観測する勝者の思考として記録されていく。
そうだ、メルトに何も言うことが出来なかったのなら、せめてこの僅かな時間でできることをしておかなければ。
分解されるまでの時間、僕の意識はムーンセルに接続され、その記録を読めるようになっていた。
文様の様に編まれる情報は人類に理解できる知識体系の埒外にあるものだが、全てが脳に直接入ってくるようで簡単に読み取ることができた。
今までの人類史からして、トワイスの思想は間違っていない。
戦争の度に人々は発展を生み、重要な一歩を進んできた。
そして現在、西欧財閥による仮初の平和の代償として底知れぬ停滞を抱えている。
そんな全てを、月は見守り続けた。その過程に、幾度意思を持ちかけても、それを破棄して傍観者であり続けた。
当然な事だ。主観を持ってしまっては客観的に記録することはできない。
どんな事態が人類に、地球に起ころうとも、月は全てを受け入れてただ見守り続ける。
人の考えが至れないほど、このムーンセルは大いなる強さを持っていたのだ。
感慨を抱きつつも、今すべきはそれではないことに気付く。
聖杯へ早く願いを伝えなければ。
ムーンセルと接続している今、望みを伝えることはそう困難ではない。
――人類の開拓を――いや、違うか。
円満な平和による、開拓の可能性を。
過去の存在である自分が世界を定めてしまうのは、さすがにおこがましい。
だからあくまで僕が決めるのは、その可能性。
それに至るまでの平和を確立することが、過去の人間の仕事なのだ。
同時に、二画の令呪へ残った全ての魔力を託す。
ラニによって補強された令呪。それは意思を表出させるのに向いた作りへと変わっている。
トワイスとの戦いでは、全てを終わらせるという意思が強く現れただろう。
それと同じように、少し小さな願望を込めた令呪は、間違いなくムーンセルへとインプットされていった。
小さな、というのには語弊があるか。
あくまで、最初の願いよりは小さいものの、開拓への可能性としては十分な力を発揮してもらえるもの。
地上と月。一つ一つに作用する願い。
その内一つは、すぐに確定を認識した。
聖杯戦争の廃止。これで無為な戦いは終わり、何も知らずに命を落としたり、僕の様に凄惨な戦いを以て強くなる人間は少なくなる筈だ。
後一つ。それを確認するために、地上へのパスを作る。
なる程、凛の言っていた事は本当らしい。聖杯に接続したことで、地上の様子が確認できるようになっている。
当たり前か。観測機であるムーンセルが地上を眺める機能を持っていない筈がない。
検索を始めて、すぐに見つけた。
――あぁ、良かった。願いは、全て望んだ形で果たされている。
手を差し伸べて、それをおずおずと握ってくる五歳くらいの少女。
その周りには、沢山の子供達が笑っていた。虚偽も屈託も無い、満面の笑みを浮かべる子供達に、“彼”も笑う。
何て、素晴らしい世界。きっと僕は、間違っていなかった。
この願いにより、ムーンセルによる僕の分解が遅れたのは分かっている。
ムーンセルとの同期による時間感覚の変化で、一秒が膨大な長さのように感じられているものの、しかしそれも時間の問題。そろそろ僕は不正なデータと認識され、分解が始まるだろう。
その前に、後一つ。我ながらここまで来て、多くの願いを持ったものだと苦笑する。
それでも、ただの一言も間違える事無く、最後の願いを告げた。
サーヴァン ト 、 メル ト リ リス の ――――
前書きはセイヴァーさんの最後の台詞について。
救いの対象は、一体どちらなのでしょうか。
さて、いよいよ次回は最終話。
長らくお付き合いいただき……なんていうお礼の言葉は全部次回に回しますよ。