「おお……そうか、通してくれ……」
プリアモスは期待と不安の相反しながらも友である感情を抱きながら予言を持ち帰った使者を呼ぶように言った。
かつてプリアモスは愛したいのに愛せなかった王子がいた。
それは予言が理由であった。
その王子が王妃ヘカベーの胎にいる時にヘカベーが見た夢があまりに奇妙であったことから何かの兆候ではないかと考えた。しかし、それは凶兆であった。予言によるとその王子はトロイアを滅びに招くとされたのだ。
プリアモスは涙を呑んで我が子を捨てた。
それは父としての情を殺し、王としての責務であった。
そして、この新たな王女であるニネミアを授かった時にもヘカベーは再び夢を見た。
それは「巨大な一本角を持つ馬が群れを率いて風と共に野を駆け抜ける」と言ったものであった。
馬の勇壮さを物語る夢であったがそれでもプリアモスは王子のこともあり不安になり新たに授かった子のことを想って予言を授かりに使者を送り出した。
プリアモスは不安だった。
もし、この愛おしい娘がかつての王子と同じく将来トロイアに害を及ぼそうとする予言が下った時、果たして自分はもう一度我が子を殺せるのだろうかと。
プリアモスは父である前に一国の王であり、王である前に一人の父親だ。
そして、そんな葛藤が頭に浮かぶ父の腕の中にいるにもかかわらずニネミアは変わらず笑顔であった。
その笑顔が余計にプリアモスを苦しめる。
「陛下!!」
「……来たか……ご苦労であった。
して、予言は……この子はトロイアに……害をなすのか?」
プリアモスはそれでも覚悟を決めて、愛おしい娘をヘカベーに預けて使者の答えを待った。
どのようなものであろうと預言は受け止めなくてはならない。
神々の怒りを買うことは王としては避けなくてならない。
かつて、プリアモスの父は神を騙したことで罰を受け、そのことで大英雄に救われながらも今度は大英雄を騙したことで身を滅ぼした。
ゆえに誰よりも慎み深いのである。
王以外のヘカベーやその侍女、全ての者もまた固唾を呑んで見守ろうとした。
「い、いいえ……
むしろ、新たに御生まれになられた御子はトロイアの名を高めるであろうとのことです……」
「それは真か!?」
それを耳にしてプリアモスは全ての不安が消え去ったかのように喜びを顔に浮かべ、ヘカベーは再び子を失わずに済んだことに安堵し、それにならって周囲の者たちも新たな姫君が受けた予言が祝福であると信じて疑わなかった。
「そうか……きっと、この子は類稀な英雄の妻か、神の御寵愛を受けるのだな……
これは目出度きことだ!!」
プリアモスは父としては多少の寂しさを残す解釈をしながらも、愛娘の幸福を疑わなかった。
プリアモスはかつて大英雄の姿を目にしたことがある。
親兄弟を殺された身であるが、それでも目に映ったその姿は未だに記憶に残っていた。
プリアモスが慎み深いのは過去の戒めもあるが、同時に大英雄の威光を目にしたことによる己の器を理解していることもある。
娘に約束された幸福が与えられることにプリアモスは喜んだ。
「……陛下……御子は……姫君なのですか……?」
王の言葉を耳にしてこの場にいる中で唯一、喜びを浮かべずに重い表情をしていた者がいた。
それは予言を持ち帰りし使者であった。
「……ん?そうであるが?
見よ!この愛らしさを!!
親の贔屓目もあるが、きっとこの娘は美しい王女になるだろう―――!!」
プリアモスは使者に愛娘の可憐さを自慢しようとした時だった。
「ああぁ!!なんてことだ……!!
運命とは……こうも恐ろしいことなのか……!!!」
使者はまるでテーバイの悲劇の王の出生の秘密を知った大予言者の如く悲嘆した。
その突然の叫びにこの場にいる全員が静まり返った。
「どうしたのだ?
これほど目出度き預言を授かり、愛らしい姫が生まれたのだ。
言うことなどあるまい」
プリアモスは使者の態度に少し怪訝さを感じながらも咎めようとしなかった。
愛娘の誕生に悲しみの声を上げられることは腹正しいことではあるが、あの大英雄に脅された形とは言え姉に救われるほどの人格者であり、怒りを他者にぶつけることはない。
トロイアが再建されたのは彼の人格があってこそである。
プリアモスはそう言う王なのである。
ゆえに今回も広い心を以って聞き容れようとした。
「……予言に続きがあります……」
「何?」
使者の口からそれが出た瞬間、再び周囲に不安が広がった。
「……もし御子が姫君ならば……」
使者は口を噤みそうになった。
それは王を怒らせることが怖ろしかったのではない。授けられた予言があまりにも目の前の愛娘の誕生を喜ぶ国王夫妻と無辜にして無垢な姫君にとって残酷であったからだ。
幸せを壊す。
ささやかなる親子として、姫君としての幸せを奪うことを使者は躊躇った。
しかし、それでも使者は口を動かさなくてはならなかった。
それこそが王女のことを救う唯一の方法であるからだ。
「もし王女として育てられれば……顔も知らぬ男どもに散々に辱められ異国の地にてその生涯を終えるとのことです……」
使者は言ってしまった。
王女の幸せを奪ってしまった。
短いながらもそれでも平穏な
「な、なんだと!?」
「そんなっ!?」
使者の口から出て来たあまりにも出て来た信じたくもない予言に王は絶句し、王妃は娘を抱きすくめて自らの子を見えない未来からの悪意から守ろうとした。
姫君の両親は我が子に降りかかるであろう不幸などと生ぬるい悲惨な将来に嘆いた。
この場にいる全ての者たちが祝いの声から一転して嘆きの声を上げた。
使者はそれを目にして自らが出してしまった言葉に深い悔恨の念を抱いた。
使者はこのまま黙ろうとした。
けれども、それでは余りにも姫君の父と母が哀れに思えてしまった。
それは使者が臣下だからではない。
一人の人間としての情であった。
「陛下……ですが、姫君の恐ろしい運命を変えられる方法が一つだけございます……」
使者はそれでも勇気を奮いただした。
自らが明かすことが姫君の幸福を奪おうと言うことを理解しながらも。
「……それは本当か!?」
姫君の父親はその言葉に縋った。
それは王としてでなく、愛娘の父親としての姿であった。
愛娘に降りかかるであろう悲劇を避けられるのなら防ぎたい。
紛れもなく父としての情がプリアモスを動かした。
後に彼のその情愛は憎しみで心を曇らせた英雄の心を動かすことになる。
王だけでなく、王妃が、この場にいる者たちが使者の言葉に希望を抱いた。
「……仮に
しかし、使者の語った言葉は余りにも理不尽なものであった。
「……なんだと……」
可憐さを既に見せ、誰もが姫君は愛されるであろうと思っていたのに、姫君に課せられたのは華よ蝶よと愛でられる生涯ではなく、勇ましさを求められる生涯であった。
プリアモスは呆然とし、ヘカベーはただただ娘を抱きしめ、周囲の者は何と声をかければいいのか分からなかった。
プリアモスは愛する妻の腕の中で悲嘆に暮れる周囲を気にもせずに無邪気に笑う娘を見て心が苦しくて仕方がなかった。
これより始まるは姫君の悲劇ではなく英雄譚。
勇壮なる一人の英雄の物語。
煌く星空を彩る一つの星。
悲劇の都市トロイアに咲きし一輪の花。
花は散る。
花が散るのを切なく思うは我らが常。
されど、花は何を思う。
最後まで咲き続ける花は何を思って散っていくのだろう。
バレンタインデーにおけるヘクトールおじさんの発言……
おじさん!木馬の時、パリス死んでるから!?
と一応、弁護しておきたいです。