幸せになる番(ごちうさ×Charlotte)   作:森永文太郎

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第40話、たった一つの冴えたやり方

 雨の中、猫の死骸を見つけ突然泣き出した神北だったが、泣き出してからしばらくすると、ようやく泣き止み、そして沈黙した。しかし時間はもう門限の七時を過ぎてしまっている。

 

「先輩、立てるか」

 

 有宇がそう声をかけると、神北はようやく立ち上がった。

 高そうな洋服もずぶ濡れだな。こんな雨の中膝ついて座りこんで泣いてたもんだから、ソックスもスカートもぐしょぐしょだ。

 なんにせよさっさと帰らないとな。もう校門はしまってるだろうし、学食で夕食も始まってることだろう。風呂の時間とかもあるし、とにかく急がねば。

 しかし神北は立ち上がったものの、そこから動かなかった。

 

「おい、まだなんかあるのか?」

 

 有宇は神北の視線の方向を見る。

 ああ、猫か。くそっ、こんな猫の死骸ほっとけばよかったな。ていうかあれか、こいつがここにいるから神北のやつ、ここから動かないのか。あぁクソッ、仕方ないなぁ……。

 有宇は一度手に持っていた傘を神北に持たせて子猫の死骸を下水から抱きかかえてやる。

 うげぇ……ぐちょぐちょに濡れてて気持ち悪ぃ。だけど臭いとかはそんなにしないな。多分、死んでからそんなに経ってないんだろう。

 それから左腕で猫を抱えて、右手で神北から傘を受け取る。神北は有宇のジャケットの裾を掴み、ようやく有宇と神北は学校へと歩を進めた。

 

 

 

 帰路に着く間、有宇はただただ苛ついていた。

 神北は相変わらず虚ろな目をして黙り込んでるし、猫の死骸なんか抱えて歩かなきゃならないし、門限には遅刻するし散々だ。

 あークソッ!こんな日に出かけるんじゃなかった!結局門限の時間過ぎたし、今日じゃなくて休みの日とかに出かければよかったんだ。こんな放課後のちょっとした時間で遠出しようってのがそもそも間違いだったんだ。

 一番の間違いは猫の死骸なんか見つけてしまったことだ。こいつを見つけなきゃ神北がおかしくなることもなかったんだ。

 ていうかマジで神北はどうしたんだよ。猫の死骸なんて割とよく見るもんだろ。そりゃ女子には少しショックかもしれんが、こいつは死骸の割に結構綺麗で、生きたまんまの姿をしている。痩せてるしおそらく栄養失調だろう。親猫に見放されたか?

 なんにせよ、交通事故で轢かれて血まみれになったのと比べたら全然マシな方だ。だというのに、あんなに泣き叫ぶほど何がそんなに悲しかったんだ?

 すると、ずっと黙っていた神北が口を開いた。

 

「思い出した……全部」

 

「あ?思い出したって何が?」

 

 苛ついてたこともあり、有宇はつっけんどんに聞き返す。しかし神北は動じずに答える。

 

「失くしたもののこと……」

 

「失くしたもの?それってまさか、先輩の兄さんのことか?」

 

 有宇がそう聞き返すと、神北は小さく頷いた。頷いたものだから有宇は少し驚いた。

 まさか……今のショックで兄さんのことを思い出したっていうのか?

 

「お兄ちゃん……体が弱くて入院してたの」

 

 そして神北は語り出した。

 神北と神北の兄さん……神北拓也は八つも歳が離れた兄妹だったらしい。そして神北が幼稚園の頃、神北拓也は血を吐いて病院に入院した。

 隣町の病院だったにも関わらず、神北はいつも自転車を漕いで兄の元へと見舞いに行っていたらしい。それを聞く限り、兄妹仲はやはり良好だったようだ。

 神北拓也とはいつも病院の屋上でかけっこやら隠れんぼをして遊んだり、絵本を読んでもらってたりしたそうだ。時々、神北拓也は画用紙で自作の絵本を作ってくれたりもしたらしい。あの鶏とひよこの絵本もその一つだろう。

 だが、神北拓也の病状は次第に重くなっていった。そして遂にその最期のとき、神北拓也は神北にこう言い残した。全ては夢なのだと。悲しいことなど何もない。例え自分がいなくなってもそれは夢なのだと。

 そうして神北拓也は病院のベッドの上で息を引き取った。だが神北はすべてを忘れてしまった。兄さんのことも、それに関わるもの全部の記憶を。

 つまりあれか、この人は兄さんに言われた言葉が暗示みたいになって、それで全部を忘れてしまったってことなのか。そんなスピリチュアルな……。

 だが有宇はすぐに思い直す。

 僕は知っている。この世の中は僕が思う以上にスピリチュアルな事で溢れていることを。超能力、世界を裏から牛耳る組織ガーディアン、超能力者を引っ捕らえて人体実験をする科学者、光る蝶々の亡霊、タイムスリップ、僕はそんな非現実を知っている。

 それに僕自身もまた、夢の中のあの人のことを覚えてないし、中学入学以前までの記憶があやふやだ。僕もそうなのか。何らかの暗示がかけられてたり、或いは辛い現実から逃避するために忘れているだけなのか?

 なにはともあれ、神北が神北拓也の最期の言葉が暗示となり記憶を失ったという話も、あながち嘘ではないかもしれないということだ。

 

 

 

 神北の話を聞いてからしばらくすると、ようやく学校に辿り着く。しかし、当然学校の校門は閉まっていた。

 周りに教師や風紀委員がいないことを確認すると、取り敢えず猫の死骸と傘を置いて、校門の向こう側へとよじ登る。それから門を開けて猫の死骸と傘を回収した。

 さて、まずは神北をどうにかするのが先か。女子が服を濡らしてるっていうのはいかんだろうし、取り敢えず女子寮へ行くか。

 そう思い有宇は女子寮へと向かった。女子寮へ着くと、見知った顔が丁度いたので声をかける。

 

「来ヶ谷」

 

 来ヶ谷が丁度女子寮へ入るところを見つけたので声をかけた。来ヶ谷はすぐにこちらに気付き、やって来る。

 

「おや有宇くん。こんな時間にどうしたのかね……って、小毬くん?」

 

 来ヶ谷はすぐに、有宇のジャケットの裾を掴んで立ち尽くす神北の異変に気付いた。

 

「……何があったのかね」

 

「僕にもわからん。取り敢えず、さ……笹川先輩呼んで貰えるか?」

 

「誰だねそれは。笹瀬川佐々美くんじゃないのかね」

 

「そう、その人。呼んできてくれ。先輩のルームメイトらしいから」

 

 いかんいかん、また間違えてしまった。ややこしいんだよあの人の名前。

 取り敢えずルームメイトに押し付けちまえばなんとかなるだろう。笹瀬川だっけか、あの人結構面倒見は良さそうだしな。ルームメイトなぐらいだしなんとかしてくれんだろ。

 そして来ヶ谷は「わかった」と言うと、笹瀬川を呼びに行ってくれた。あいつも神北の様子を見て動揺したみたいだが、あいつでも動揺することってあるんだな。それが少し新鮮に思えた。

 しばらくすると、笹瀬川がタオルを手に持って女子寮前に姿を現した。

 

「神北さん!?一体どうしたんですの!?」

 

 来ヶ谷からも聞いていたんだろうが、神北のただならぬ様子を見て心配して、笹瀬川は現れるなり駆け寄ってきた。そして濡れた神北の体を、持ってきたタオルで拭いてやっていた。

 それから有宇の方をキッと睨みつける。

 

「貴方……まさか神北さんになんかしたんじゃ……」

 

「誤解だよ!僕は何もやってないって!」

 

「なら、一体何があったらこうなるんですの!?」

 

「だから知らないって!!一緒に外に出かけた帰りに猫の死骸見かけて、そしたら急に泣き出したかと思えばこうなって……僕だってわかんねぇよ!!」

 

 有宇は若干ヒス気味になって、そう答えた。有宇自身、今のこの状況に困惑している一人であった。有宇のその様子に笹瀬川も敵意を引っ込める。

 

「落ち着きなさい、わかりましたから。とにかく、神北さんはこちらでなんとかしますわ」

 

「ああ……頼む」

 

 取り敢えず誤解は解けたようでよかった。すると笹瀬川は、有宇が抱き抱える猫に目をやる。

 

「それがその猫なんですのね……」

 

「ああ、こいつの側から離れなかったから、仕方なく一緒に持ってきた」

 

 すると笹瀬川は猫の死骸をそっと撫でた。

 

「そう、可哀想に……まだこんなに小さい……」

 

「汚いから触らないほうがいいぞ」と言いかけたが、笹瀬川の様子を見てその言葉を引っ込める。そういやこの人、鈴さんの猫に擦り寄られたときも、取り巻きが勝手に追い払ったとはいえ、決して自分からは追い払おうとはしなかったよな。

 

「猫好きなのか?」

 

 笹瀬川の様子を見てそう聞くと、笹瀬川は何やら浮かない顔を浮かべる。

 

「嫌いですわ。だって、勝手にいなくなってしまうんですもの……」

 

 何か昔あったんだろうか。飼ってた猫が家から脱走したとか、早死にしたとか。でも、嫌いというのはおそらく嘘だろう。本当に嫌いだというなら、猫の死骸を見てこんなに心を痛めることはないだろうしな。

 そして笹瀬川は猫の死骸からそっと手を離す。

 

「それじゃあ早く神北さんをこちらに」

 

「ああ、ほら先輩」

 

 有宇は神北に女子寮へ戻るよう促す。しかし、神北はジャケットの裾を掴む力を強めて、離れようとしなかった。

 

「……いや」

 

「いや、嫌って言われても困るんだよ。ほら、笹川先輩待ってるぞ」

 

「さ・さ・せ・が・わですわ!!わざとですのそれ!?」

 

 おっと、いかんいかん。また間違えた。

 しかし神北は依然、有宇のジャケットの裾から手を離さない。そして神北はこんなことを言いだした。

 

「ここにいる……お兄ちゃんの側がいい」

 

 お兄ちゃん?何言ってるんだ?幻覚でも見えてんのか?

 

「馬鹿なこと言うなよ。あんたの兄さんなんてここにいないだろ」

 

「何言ってるの……ここにちゃんといるよ。ねぇ、()()()()()()

 

 神北はその虚ろな目を有宇に向けながらそう言った。

 まさか……お兄ちゃんって僕のことを言ってるのか……?

 それを聞くと、再び笹瀬川が有宇に疑念の眼差しを向ける。

 

「あなた……やっぱり……」

 

「違うよ!だからそんなことしてないって!あとそういうプレイ的な意味でもないから!」

 

 どいつもこいつも、僕のことをなんだと思ってるんだ。苛立ちから有宇は自分の髪をくしゃくしゃする。

 あぁもうっ!!ていうか神北のやつ、マジでどうしたんだよ本当に。もしかしなくても、僕と神北拓也を混同してるのか?なんにせよ、迷惑極まりない。

 クソッ、とにかくこのままじゃ埒が明かない。有宇は神北に必死の説得を試みる。

 

「なぁ神北先輩、服だけじゃない。腹だって減ったろ?行きの電車の中でクッキー食べただけだし。だからもう寮へ帰れって。笹……瀬川先輩も心配してるから。ほら」

 

 有宇がそう言うと、神北はすぐ側にいる笹瀬川に目を向けた。それから有宇の顔を見る。

 

「お兄ちゃん……どこにも行かない?」

 

「ああ、行かない行かない。だからとっとと行けって」

 

 そう言うと「わかった……」と言って、ジャケットの裾から手を離し、笹瀬川の元へとおぼつかない足取りで歩いていく。そして二人で女子寮の中へと帰っていった。

 帰り際、神北は有宇の方を見て再びこう言った。

 

「じゃあね……お兄ちゃん」

 

 そして神北は笹瀬川に連れられ、女子寮の中へと消えていった。

 

 

 

 はぁ、どうしてこんなことに……。

 神北を笹瀬川に預けた後、有宇は猫の死骸片手に女子寮の前で立ち尽くしていた。

 取り敢えず過ぎたことを考えても仕方がない。さっさとこいつをどっかに埋めて僕も寮に帰るか。

 しかし、猫の死骸を埋めるにしても、どこに埋めたらいいものか。あんまり生徒がよくいるような場所に埋めると、誰かしらがいたずらに掘り起こして、また神北の目に触れる可能性もあるし、できれば人通りが少ないところがいいよな。

 そんな風に猫の死骸を埋める場所を探し歩いていた時だった。

 

「おいっ!」

 

 誰かに後ろから呼びつけられる。有宇が振り返ってみると、そこには鈴の姿があった。

 

「鈴さん、なんでここに……」

 

「さっき女子寮でさささに会って聞いた。小毬ちゃんのこと」

 

 ああ、そういうことか。神北と鈴さん、この一週間ぐらいでだいぶ仲良くなってたしな。鈴さんはチノとは違いその辺素直だから、自分に好意的に接してくれる神北に懐くのも時間の問題だったわけだ。

 そしてその神北の異変を知って、異変の原因を知るであろう僕の元まで来て、傘も差さずにこうして駆けつけてきたわけだ。

 あとどうでもいいが、さささって笹瀬川のことか?なるほど、いつも鈴さんに名前間違えられるから、名前間違えられると怒るのかあの人。いや、それ関係なしに名前間違われたら普通怒るか。

 そして鈴は有宇に神北のことを問い質す。

 

「お前、小毬ちゃんになにをしたんだ!?」

 

「何もしてないって。道に落ちてたこいつを見たら、急にあの人泣きだしてああなったんだよ。僕だってよくわかってないんだ」

 

 そう言って有宇は、腕に抱えた猫の死骸を見せる。

 

「死んでるのか……?」

 

「ああ」

 

 すると鈴は悲しそうな表情を浮かべる。

 無理もない。この人、猫好きだもんな。だが変な誤解されたくないし、見せるしかないだろう。

 でも鈴さんは、決して神北のように泣き叫ぶようなことはしなかった。これが普通だ。どんなに悲しいと思っても、あそこまで絶叫して泣き叫んだりは普通はしない。やはり神北には何かがある。

 そして鈴は有宇に背中を向けて言う。

 

「有宇、ついてこい。こっちだ」

 

 鈴にそう言われると、有宇は言われるがままに、鈴の後ろを追っていく。そして隣に並ぶと、持っていた傘の中に鈴を入れた。

 しばらくして辿り着いた場所は、裏庭の一角であった。そこに地面から土が盛り上がっているのがいくつか見られる。これは……。

 

「今まで死んでいった猫たちの墓だ。こいつも、他の猫たちと一緒なら寂しくないと思う。それにここは寮長が守っていてくれるから墓も荒らされないし安心して眠れるはずだ」

 

 なるほどな。そりゃあれだけの猫の世話をしているんだ。歳だったり病気だったりで死んだ猫もそりゃ今までいただろう。この猫が初めてじゃないってことか。

 それに確かここの女子寮の寮長、名前は確かあま……あま……なんだっけ?まぁ、ここの女子寮長も猫好きみたいだしな。寮長の権限とかもあるし、そんな彼女が守るこの場所を荒らそうとする輩はいないだろう。

 そして有宇はそこに猫の死骸を埋めた。それから二人で墓に向けて手を合わせる。

 猫の埋葬が終わり、寮へと戻る帰り道、鈴が再び有宇に尋ねる。

 

「お前、小毬ちゃんがああなった理由、本当に知らないのか」

 

 直接の原因は猫の死骸を見たこと。けど鈴さんが聞きたいのはそこではないんだろう。神北がああなった背景が知りたいということなんだ、おそらく。背景というのは、言うまでもなく神北の兄の死にまつわることだ。

 しかし、それを素直に話していいか躊躇われる。一応これって神北のプライバシーだし、僕が勝手に話していいものなのか。

 だが、かといって僕一人で解決できる問題でもないし、まして神北本人が自分で解決できることでもない。それに鈴さん含めリトルバスターズの連中は、神北のプライバシーを勝手に言いふらしたりとかはしないだろうし、話してもいいのかもしれない。

 

「知ってる……全てじゃないですけど。えっと、話すなら他のみんなにも話しておきたいから、今から神北先輩以外のリトバスの全員集めるってことできます?」

 

 鈴にそう言うと、鈴は一言「わかった」と返した。それから学食に集まることを約束して、有宇は鈴と女子寮の前で別れた。

 

 

 

 男子寮に戻ると、風呂に入り体を温める。それから着替えると、有宇は鈴との約束のため、学食へ向かう。

 学食につくと、時間ももう九時近いこともあって、学食に他の生徒の姿はなく、学食のおばちゃんが後片付けをする音だけが響いていた。

 だが、いつもリトバスメンバーたちが食事を取る机の一角、既にそこにリトバスメンバー全員が揃っていた。

 有宇が近づいていくと、全員がこちらを見る。席には理樹、鈴、真人、来ヶ谷、三枝、そして謙吾が座っており、側の柱には恭介が寄りかかって立っていた。

 そしてまず最初に理樹が声を上げた。

 

「有宇!来ヶ谷さんと鈴に聞いたよ!一体小毬さんに何があったのさ!?」

 

 理樹は鬼気迫る様子で、席から立ち上がり有宇に尋ねる。

 

「落ち着いてください直枝さん。それをこれから説明しますから」

 

 有宇がそう言うと、理樹は大人しく席につく。こんな焦った様子の直枝さん、あのキャンプ場で恭介たちと会ったことを話したとき以来だ。

 そして有宇は全員の前に立つと、ここ最近神北と何をしていたのか話した。

 自分と神北は夢の中に、兄と思しき男が出てくることが多々あったこと。そして二人してその夢の男について調べていたこと。それから神北の兄、神北拓也が絵本の発見により実在したことが発覚し、更に調査の過程で神北の祖父と出会い、神北拓也が亡くなっていたことが判明したこと。

 そのことを神北には隠すことにしたものの、今日、猫の死骸を見たショックから突然おかしくなり、更にそのショックが元で神北が忘れていた兄のことを思い出したこと。そして何故か、自分のことを兄だと思い込み始めたこと。

 有宇が全てを話し終えると、皆暗い顔を浮かべていた。まぁ、こうなるよな……。

 あまりにも重すぎる展開だ。こんなこと聞いて、一体自分達はどうすればいいんだって感じだ。

 すると来ヶ谷が有宇の話を聞いて、神北が有宇を兄と呼ぶ理由について、こう持論を語る。

 

「もしかしたら小毬くんは今、有宇くんを兄だと思い込むことで、兄の死を知った悲しみから身を守ろうとしているのかもしれんな」

 

 だとしたら本当に迷惑極まりないんだが。今日だけでもかなり迷惑被ったっていうのに、明日以降も迷惑かけられることがあるってことじゃないか。

 もし同級生の前でお兄ちゃんなんて呼ばれてみろ。一つ上の先輩に兄と呼ばせているところなんざ見られたら、他の奴等は僕のことを、そういうプレイをする奴と思い込むに違いない。

 実の妹の歩未にだって、周りからシスコンと思われたくないから、学校に行くときは別々にしてるぐらいなのに……ほんと、最悪だ。

 

「そんなの小毬ちゃんが可愛そうだ!!なんとかしてやれないのか!?」

 

 来ヶ谷の話を聞いて、鈴さが感情的にそう叫ぶ。

 そりゃなんとかしてやれるなら、してやりたいけどなぁ。だがこればっかりはなぁ……。

 理樹も有宇と同じ考えなのか、暗い表情で鈴さんにこう答える。

 

「今の小毬さんには、何もしてあげられないよ……。知りたくもないことを知らずにいられたなら、小毬さんはひだまりみたいな笑顔のままだったのに……。僕だってそんな真実知りたくなかった。知らないままでいられたらどんなによかったか……」

 

 直枝さんの言う通りだ。これは神北の問題であり、僕等にはどうすることもできない。

 何かしてやれるなら、同じリトバスの仲間として、してやらんこともないが、この問題を解決するには神北自身が兄の死に向き合い、その悲しみを克服する必要がある。それを外野である僕等がどうこうしたところで、解決できるものでもないだろう。

 理樹の言葉を受け、再び場が沈黙に包まれる。すると、この沈黙を破ったのはあの男だった。

 

「だが、神北は既に知ってしまった。知ってしまった以上、逃げることはできない」

 

 恭介であった。そして有宇を含め、皆が恭介に視線を集める。

 

「もし世界が知りたくないことで溢れていても、できることは逃げること、目を逸らすことだけなのか。いや、そうじゃない筈だ」

 

 そう言うと恭介は閉じられていた瞳を開き、有宇を見据えて更にこう続けた。

 

「今の神北には乙坂が特別な存在になっているんだ。乙坂、神北に寄り添い、救ってやれるのはお前だけだ」

 

 恭介がそう言うと、その場にいた皆の視線が今度は有宇に向けられる。

 

「はぁ!?ちょっと待てよ!僕一人であいつをどうにかしろっていうのか!?無理に決まってるだろ!!」

 

 冗談じゃない!今日一日付き合うだけでも大変だったのに、今度は神北を救えだぁ!?

 ふざけんな!!んなことできないし無理だし、それに僕の負担がでかすぎだろ!!

 

「勿論、俺達にできることがあれば、俺達はそれを全力で手伝う。だが、主となり神北を救ってやれるのはお前だけだ」

 

 恭介は冷静にそう返した。それからその場の全員を見据える。

 ここで断ることもできなくはない。だが、かなりの顰蹙(ひんしゅく)を買うことになるだろう。

 それに僕がリトルバスターズに入ったのは元々、ここにいる全員の信頼を得て、これから起こる悲劇を信じてもらうことにある。ここで顰蹙を買えばその目的からかなり遠ざかるだろう。だが逆に言えば、これを解決できればその目的に大きく近づくことができる。

 そして有宇は決心して、皆の前でこう答える。

 

「わかったよ。ったく、取り敢えず明日、神北先輩の爺さんに今日のことを話してみる。それから神北先輩をなんとかできるか、色々やってみようと思う。自信はないが」

 

 有宇がそう言うと、その場にいた皆は安堵の様子で微笑む。それからこの場は取り敢えず解散となり、有宇も部屋に戻った。

 部屋に戻ると、有宇は先程の集まりのことを少し考える。

 なんか大変なことになったなぁ……。僕があの状態の神北の目を覚まさせる?無理だろ……今日だってあの人、まるで話が通じなかったぞ。そんなあの人に、僕の言葉が届くのか……?

 なんにせよ既に引き受けてしまったわけで、後戻りはもうできない。まぁこれも未来に帰るためだ。これもなんかの試練と思ってやるしかない。なんとしても神北には正気に戻ってもらわないとな。

 にしても、他人のことなど考えず、常に自分のことしか考えてこなかったこの僕が、他人の救いになる……か。

 有宇の頭にココアの姿が思い浮かぶ。出会って間もない頃、自分に手を差し伸べるココアの姿を。

 まるであいつみたいだ。他人を放ってはおけず、救いの手を差し伸べるなんて。なに、結局は自分のためさ。自分らしさなど、考えなくていい。

 そして明日に備え、有宇はそのまま眠りについた。

 

 

 ◆◆◆◆◆

 

 

 次の日、昼休みになると有宇は早速いつも神北と会う屋上へと向かう。予め二年B組に顔を出し、直枝さん達から神北がどこかへ行ったことは確認が取れてる。あの人が昼休みにどこか行くとしたら、屋上しかない。

 屋上前の扉まで来る。そしてドアの脇にある、いつも屋上を出入りする窓は既に開いていた。どうやら既に神北はいるみたいだ。

 有宇は窓の向こう側へと体を乗り出し、いつものように屋上へ侵入する。辺りを見回し神北を探す。いつもならこの上の給水塔のところにいるはずなのだが、今日は屋上のドアのすぐ側で座っていた。

 神北もこちらに気づき声をかけてくる。しかしその瞳は昨日と変わらず虚ろなままだ。

 

「あっ……お兄ちゃん」

 

「違う。僕はあんたの兄さんじゃない」

 

「ふふっ……お兄ちゃん変なこと言うね」

 

 やはり駄目か。まるで話が通じない。完全に僕を死んだ兄さんだと思い込んでいやがる。こりゃ一体どうしたものか……。

 有宇がそんな風に頭を悩ませていると、ふと神北の隣に目をやる。するとそこには、昨日の雨でできた水たまりに浸かった神北拓也の絵本があった。

 

「何やってんだお前!?大事な絵本じゃないのかよ!?」

 

 有宇は慌ててすぐに絵本を水たまりから拾い上げる。しかしもう大部分が浸かってしまっており、絵の具で描かれた絵が滲み出している。

 

「ごめんねお兄ちゃん、さっき落としちゃったんだ……」

 

「こんな大事なもん落とすなよ!死んだ兄さんの形見だろうが!」

 

「死んだ……?おかしなお兄ちゃん。お兄ちゃんならここにいるのに。そうだお兄ちゃん、絵本だめになっちゃったし、また新しい絵本描いてよ。次はちゃんと小毬、大事にする」

 

 狂っていやがる。それが今の神北を見て正直に抱いた有宇の感想であった。

 人間こうも簡単に壊れるもんなのか。大切な人とはいえ、たった一人の人間の死で、こうも変わってしまうものなのか。話も通じず、現実も見えていない。こんな奴相手にどうしろってんだよ。

 ぐちゃぐちゃになった絵本を手にして、神北を救おうとするやる意が削がれていくのを、有宇は身に沁みて感じた。

 

 

 

 放課後、鈴に神北を寮に預けて休ませるようにお願いし、有宇は学校を出て、以前神北と行った老人ホームへと向かった。

 神北小次郎は何か知っているはずだ。神北がああなった理由を。それを聞き出さねばならん!

 有宇は正直焦りを感じていた。現時点で、神北をどうにかできる自信が全くなかったのだ。一日経てば落ち着くだろうと思ってたが、どんどん酷くなっていく。あれは兄の暗示とか、そんなレベルじゃないぞ。

 正直軽く考えていた。しかし実際に目のあたりにすると、やはり無理だと思えて仕方がない。

 なんとかしなくちゃならない。そんな焦りから、老人ホームへと向かう有宇の足取りも急ぎ足になり始めた。

 老人ホームへ辿り着くと、老人ホームのスタッフに神北小次郎に会いたい旨を伝える。するとスタッフは快く中へと通してくれた。

 あの爺さん、スタッフにも好かれなさそうな頑固ジジイだし、きっとそんな爺さんの世話をしてくれた僕が来て、スタッフも内心嬉しいんだろうな。

 そんなことを考えている内に、小次郎の部屋の前に着いた。そしてノックを二回、ドアに向けてする。

 

「おい爺さん、この前あんたの部屋を掃除しに来た乙坂だ。入るぞ」

 

 そう言ってドアを開け部屋に入る。

 

「くぅおらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

「うぉっ!?」

 

 部屋に入るなり、以前来たときと同じように大声で一括される。

 

「なんじゃ、小僧ではないか」

 

「あんたは一々叫ばないと話ができないのか!?」

 

「なに、挨拶のようなもんじゃ。挨拶は大きく元気よくじゃ」

 

「あんたは元気過ぎるんだよ……」

 

 相変わらずとんでもないジジイだ。さっきまで色々考え込んでたのも吹き飛んだわ。まぁ、おかげで冷静さを取り戻せた気もするが。にしても……。

 有宇は部屋を見渡す。雑誌やら何やら色々と散らかっているのが目に入る。

 

「一週間と言わず、三日でこのザマかよ……」

 

「この方が落ち着くんじゃ」

 

 その発言からしてダメ人間だな。こうはなりたくないもんだ。

 とはいえ僕も木組みの街に来るまではろくに家事もしなかったし、掃除もしてこなかった。そもそも物がなかったからあまり散らかったりはしなかったが、だらしない人間であったことは確かだろう。

 あの時の僕とこの爺さんの違いといえば、掃除してくれる人間が側にいるかどうかだろう。あの時の僕には歩未がいたからあれだが、この爺さんは掃除をしてくれる人がいないからこうなるんだろう。

 老人ホームのスタッフも手を焼いてるみたいだし、家族もろくに来てないみたいから部屋は汚れ放題。おまけに孫である神北にも何らかの理由で会えないというし、以前も思ったことだが、この爺さん本当に孤独だな。

 もっとも、掃除だけでいえば、そんだけ元気なんだから自分でやれって感じだけどな。僕だって今は歩未が側にいない上に居候身分だから、自分以外の家事だって担ってるというのに。

 それから有宇は前来たときみたいに部屋を掃除し始める。その最中に小次郎が尋ねる。

 

「で、小僧。今日はなんのようじゃ。またあの子に言われてボランティアか」

 

「いや、今日はあんたに聞きたいことがあってここに来たんだ。掃除はついでだ」

 

 有宇がそう返すと、小次郎の顔が少し険しくなる。

 

「あの子のことか」

 

 さっきから言ってるあの子とは、当然神北のことだろう。有宇は頷いた。

 

「ああ、なんかあんたの孫、おかしくなってさ」

 

 そう言うと、小次郎の眉がピクッと動く。なにか心当たりでもあるって感じだな。有宇はそのまま話を続ける。

 

「昨日あの人、急に自分の兄さんが死んだことを思い出したんだ。僕が話したわけじゃないぞ。それからなんか様子がおかしくなって、僕のこと死んだ兄さんだと勘違いし始めるし、わけわかんねぇよ」

 

 かなり掻い摘んだが、小次郎に神北がおかしくなったことを伝える。すると、小次郎は特に焦ったりすることもなく、冷静に、有宇にこう尋ねた。

 

「……発端はなんじゃ」

 

「は?」

 

「小毬が見たのは血か?それとも何かの死か?」

 

 血?何かの死?

 いきなりそんなことを聞かれて困惑する有宇であったが、すぐに冷静になって小次郎の質問に答える。

 

「猫の死骸だ。それを見てあの人はおかしくなったんだ」

 

 有宇がそう答えると、小次郎は「そうか……」とまるでわかっていたかのようにそう言った。

 そして小次郎はこう続けた。

 

「わしが最初にあれを目にしたのは、わしが喀血したときじゃ」

 

「え?」

 

 喀血?あんたそんなに体調悪かったのか?

 

「喀血って、血吐いたってことだろ?大丈夫なのかよ爺さん」

 

「大したことないわい!とうに胸掻っ捌いてデキモン取っておるわい!」

 

 なんだ、そうなのか。心配して損した。まぁ、でなきゃこんな元気あるわけ無いか。

 

「じゃがそれを見たあの子は……泣き叫び、崩れ落ちていったわ。見るに耐えない姿じゃったそうだ」

 

 同じだ。昨日、猫の死骸を見てからのあの人と。

 

「次の日、そのことはすっかり忘れ、今を兄の死んだ頃と混同し始める。じゃがそれもしばらくすれば再び兄のことすら忘れ、いつものあの子に戻っていく」

 

「えっ、戻るのか?」

 

「ああ、じゃが、根本的な解決ではないがな。他にも飼っていた金魚が死んだときも同じ状況になったと、せがれ達からは聞き及んでおる」

 

「じゃあ、今までこんなこと何回も繰り返してきたのかあの人は」

 

「そういうことじゃ。じゃから老い先短いワシもまた、わしの死をあの子の目に触れさせぬよう、小毬には内緒でこの施設に入ったというわけじゃ」

 

 うへぇ、戻るっていっても、また何かの死を見る度にあの状態になる可能性があるってことか。あの人、何度も何かの死を見る度に兄の死をフラッシュバックして苦しんで、そして兄の暗示によって全てを忘れていく。その繰り返しってわけだ。

 神北拓也、あんたの言った言葉は確かに神北をあんたの死という悲しみから守ったのかもしれない。だがその結果、神北はあんたを失った悲しみからいつまでも逃げ出せず、その苦しみの中に幽閉されてしまったがな。

 あんたの言葉は結果的に呪いにしかならなかったよ。ほんと、あんたのせいでこっちは迷惑かかりまくりだ。あの世にいなかったらぶん殴ってやりたいぐらいだ。

 ていうか小次郎がこの老人ホームへ入ったことを神北が知らなかったのはそういうことだったのか。小次郎が死ぬところを目にすれば、神北は今回みたいにおかしく……いや、自分の祖父が死ぬとなれば、その悲しみは猫の死骸を見たときの比ではないはずだ。

 だから小次郎の爺さんは神北の目の届かないところで死んでもいいように、この施設に入ったってことか。家族も小次郎がいつ消えても神北に悟られぬように、小次郎の存在自体を神北から隠した。

 どうやら根本的になんとかする方法はないっぽいな。けどまぁ、別に根本的な解決でなくてもいいよな。元に戻りさえすれば、一応リトバスの連中との約束は守ったことになる。リトバスの連中だって、完璧な解決を求めたりはしないだろ。取り敢えずほっときゃ一応は治るって連中には伝えておくか。

 有宇は教えてくれたことに対して、小次郎に礼を言おうとする。すると、その前に小次郎が有宇に言う。

 

「ところで小僧、今小毬はお主を兄と呼ぶのであったな」

 

「えっ?あ、ああ」

 

 そういやその話はまだ聞いてなかったな。でもそれだってアレだろ。今を兄のいたときと混同するって言ってたし、それの副次的な効果だろ。どうせ、それもほっときゃ治るんだろ?

 そんな楽観的なことを有宇は考えていたが、小次郎はこう続けた。

 

「小僧は小毬に相当好かれていたと見える。それで、お主は兄の代わりになるつもりか?」

 

「は?代わり?なんで?そんもんなるわけ無いだろ。そこまでしてやる義理なんかないって」

 

 有宇がそう平然と返すと、小次郎は拍子抜けた顔をする。

 

「お主は……小毬が好きなわけではないのか……?」

 

「まさか、飽くまで後輩として心配してやってるだけだ。別にそんなんじゃない」

 

「なんじゃ、他に好きな女でもいるのか」

 

 他に好きな女……。

 小次郎にそう聞かれたその時、有宇の頭の中にココアの姿が浮かぶ。

 いやいやいや、あのココアだぞ!!なんで今あいつの顔が浮かぶんだ!?ないない、絶対ない!!

 有宇はすぐにそんな雑念を頭から振り払った。

 

「いや、別にいないけどさぁ。ていうか仮に僕があいつの兄さんの代わりになったところで、あいつは元に戻るのか?」

 

「いや、兄の代わりを求めたところで、今回みたいなことが起きたとき、早く忘れるようになるだけじゃ。特にあの子は何も変わらんじゃろ。さっき言った引き金に触れれば、また同じようになる」

 

「意味ねえじゃん……」

 

 そんな意味のないことのために、あいつのお兄ちゃんごっこなんてやってたまるかっての。ココア辺りなら喜んでお姉ちゃんにはなるだろうけど。

 ていうか爺さんはなんでそんなこと知ってるんだ?そんな話をするということは、過去に神北が代わりを求めたことがあるということになる。つまりはあいつに付き添える彼氏がいた事になる。

 あいつに元カレがいるとは思えんのだがなぁ。確かに顔も性格も悪くはないが、ちょっと変わり者だしな。にわかに信じ難いな。

 その辺のとこ、少し疑問に思ったので、小次郎に聞いてみることにした。

 

「なぁ、神北って昔誰かと付き合ってたのか?」

 

「そんなもん知らん。ワシはあの子と長い間会ってないと言ったじゃろ。息子達からもそんな話は聞いたことがない」

 

「じゃあ今の話は何に基づいて話してたんだよ。まさかあんたの単なる推測ってわけじゃないだろうな」

 

 それを聞くと、小次郎は押し黙ってしまった。

 えっ、なに、図星?それともなんか言っちゃいけないこと言ったか僕?

 しばらく沈黙した小次郎だったが、静かにその口を開いた。

 

「ワシの……連れもそうじゃった」

 

「えっ?」

 

「ワシの連れ……"こまり"も、あの子と同じだったんじゃ」

 

 何を……言ってる?

 小次郎の放った言葉に、有宇はただ困惑するしかなかった。

 連れって……爺さんの奥さん……だよな?つまりは神北の婆さんも、神北と同じだった?ていうか名前が"こまり"?神北と同じ名前?なんだ、情報が一気に入り過ぎて意味がわからん!?

 とにかく、一度ちゃんと確認するか。有宇は小次郎の言った言葉を自分なりに整理してから、それを小次郎に聞いて確かめる。

 

「えっと……つまりは神北先輩の婆さんも"こまり"って名前で、しかも同じようなトラウマを抱えて同じような症状で苦しんでいたってことでいいのか?」

 

「……そうじゃ」

 

 マジかよ。ていうかなんだよその偶然。名前も一緒で、さらにおんなじような事が起きるとか、どんなミラクルだよ。神北の親も、自分の親の名前なんか名付けんなよ。そのせいで余計不吉に思えてくる。

 そして小次郎は語り始めた。

 

「ワシの兄は、拓也と同じ血を吐いて死んだ。"こまり"は兄を好いておった。"こまり"は悲しみ、泣きながら兄を探していた。そんな日々が続いていき、ワシは……もう見てられんかった。兄の死に嘆く"こまり"を助けてやりたかった……」

 

 そこで有宇はさっき小次郎に聞いたことを思い出した。何故前例もないのに、小次郎は、神北の兄の代わりになるとどうなるのかを知っていたのかを。

 

「まさか爺さん……あんた」

 

「ワシは……兄の代わりになることにした。そうすることで、"こまり"が少しばかりでも、いつもの平穏を取り戻すことができるのであれば……と」

 

 それを聞いて有宇は激昂した。

 

「なっ……ふ、ふざけんな!!」

 

 有宇の突然の怒号を前にしても、小次郎は特に驚くこともなく、顔を俯けている。

 有宇の方も、自分でもなんでこんなキレたのかわからなかった。けど喉の奥から溢れ出る言葉の氾濫を止めることはできなかった。

 

「そんなことしてなんになんだよ!?なぁ爺さん、あんたその"こまり"さんのことが好きだったんだろ!?なのに、自分じゃなく、兄さんとして"こまり"さんに愛してもらうことになんの意味があんだよ!!あんたはそれでよかったのかよ!?そんなもん、虚しいだけじゃないか!!」

 

 さっき言った話は神北のことじゃない。この人と"こまり"さんの話だったのだ。この人自身が死んだ兄の代わりとなって、"こまり"さんの側に寄り添い続けたんだ。愛するもののために自分を犠牲にしたのだ。この人は……。

 小次郎として"こまり"さんを愛する気持ちも、神北小次郎としての時間も、人生も、その全てをこの人は、その"こまり"さんの為に捧げたのだ。

 だがそれは一方的な愛でしかなく、向こうは小次郎のことなど眼中にない。ただずっと小次郎の兄が生きているという幻想だけに囚われている。

 そんなもん……虚しいってレベルじゃないだろ。自分のことなど見向きもしない女と家庭を築き、何十年もの何の意味もない時間だけが流れていく。けど、どんなに時を重ねても、小次郎と"こまり"の二人の距離は出会った頃から何も変わらない。

 

「くだらない!そんな自己犠牲、実にくだらん!僕ならそんな意味のないことはしない!僕は……あんたみたいにはならない!!そんなことして、誰が幸せになれるんだよ!?誰も幸せになんか……なれないじゃないか」

 

 自らのありとあらゆるものを犠牲にしてきた結果がこれじゃ、あまりにも報われなさ過ぎる。"こまり"さんは小次郎の爺さんおかげで平穏を保てたんだからいいだろうさ。けど、その代わり小次郎の爺さんはなんにも報われてないじゃないか。

 普段は人に好き好んで干渉しない有宇ではあるが、小次郎があまりにも哀れに思えたのだ。だからこそ怒りを覚えた。

 だが、有宇の抱いたこの怒りは、"こまり"の代わりとして生きていくことを選択した小次郎への怒りでもなく、ましてや"こまり"への怒りでもない。小次郎と"こまり"の二人を苦しめるこの理不尽への怒りであった。

 そんな有宇の怒りを受け取ると、小次郎は相も変わらず下に顔を俯けて、再びその口を開いた。

 

「そうじゃ、そんなことになんの意味もなかった。そんなのワシが一番よくわかってる。結局それから何年経っても"こまり"が元に戻ることもなく、"こまり"のために捧げたこの人生は何だったのか。ワシは何のために兄の代わりとして生きてきたのか。ワシはずっと考えてきた。答えが出たのは……"こまり"が亡くなる三日前だった」

 

 答え?答えってなんだよ……。

 

「あれだけワシを、ワシの兄だと疑わなかった"こまり"が、ワシの名を呼んだのじゃ。『小次郎くん』と。"こまり"が全てを思い出しのじゃ。兄が死んだことも、ワシが兄ではなく小次郎であることも。だがいつものようにパニックに陥ることはなかった。昔の……兄が死ぬ前の"こまり"に戻ったんじゃ……」

 

 "こまり"さんは……戻れたのか?

 そのことにまず驚く有宇であったが、そのまま小次郎が話を続ける。

 

「正気を取り戻した"こまり"はワシに優しくこう言った。『ありがとう。貴方を愛してます』と。ワシは悟った。ワシは……ワシはあの瞬間の為にこの人生を捧げてきたのだと。ワシの幸せになる番はこの時、ようやく訪れたのだと……」

 

 小次郎の声はいつの間にか涙声になっていた。

 小次郎は、"こまり"さんに愛していると言われるその一瞬の為に、この人生を捧げてきたと。それが……小次郎が兄の代わりとなり、兄の代わりになる意味を自問自答し続けてきた結果、得た答えだったのだ。この老人は、それだけのために、その人生を捧げてきたんだ。

 小次郎は泣いた顔を見せたくないのか、窓の方を向く。そして一言こう言う。

 

「見苦しいところを見せたな」

 

「いや……」

 

 僕にはわからなかった。小次郎がしたことが正しかったのか。それでなかったのかも。

 さっきまでは間違っていると思っていた。けど、最終的に小次郎の苦労は最期には報われたのだ。それが本当の幸せであるのかはわからないが。

 そういや以前、まだココア達と会って間もない頃、シャロに言われたっけ。有宇はリゼ・千夜・シャロに自分の身の上を偽っていた事を明かしたときにシャロに言われたことを思い出した。

 

『本当に好きだったら、そんなぞんざいに接したりする?あんたもどうせその子のことなんか本当に好きじゃなかったんじゃないの?』

 

 白柳弓に対する僕の姿勢に対して、シャロがそう言って僕を叱りつけたときに言ったことだった。

 結局僕は白柳弓のことが好きだったんだろうか。見た目は好きだったし、中身もそんな悪くないと思う。けど、もし白柳が"こまり"のようになっても、僕は小次郎のようにしただろうか。

 愛するもののためにそこまでする気持ちが、僕にはわからない。だから、小次郎がしたことが正しかったのかそうでなかったのかなんてわからない……。

 

「いずれお主にも好きな者ができれば、ワシの気持ちも少なからずわかることだろう。それで、お主はどうするつもりじゃ」

 

 小次郎が再び有宇の方を向き、問いかける。

 

「どうするって……」

 

 けっきょく話はそこに戻るのだ。僕は神北に何をしてやれる……?

 

「答えなどない。ただ、何もしなければ何も変わらんのは確かだ。だが、あの子の祖父として頼む。あの子を……救ってやってくれ」

 

 小次郎はそう言って頭を下げた。あれだけ年下に下からものを頼みたくないと言っていたあの小次郎が。

 だが、救ってやってくれなんて言われても……どうやって?そんなのが無理なことだっていうのはあんたが一番わかってるだろ。

 小次郎は"こまり"さんに何十年という時間を捧げた。だが結局"こまり"さんが正気に戻ったのは死に際の三日前だった。そこまでしないと無理なものを、あいつと特別な関係でもないこの僕がどうやってやればいいっていう……!

 そんなことを考えたそのとき、有宇はあることに思い至る。

 待てよ、神北の祖母であるその"こまり"さんは死ぬ三日前ではあったが、一応は正気に戻ったんだよな。つまりは不可能ではないってことだ。

 小次郎は長い時間を投じることで"こまり"さんを正気に戻した。なら、その長い時間に値するだけの何かを神北に与えることができれば、神北を正気に戻せるんじゃないか?

 そう考えると有宇は、早速その何かについて考え出した。

 考えろ……小次郎がかけた長い時間に匹敵する何かを。今の神北を変えるだけの何かを。

 その時、有宇の頭の中にココアの姿が再び浮かぶ。ココアだけではない。チノやリゼ……あの木組みの街で出会った者達。そんな彼女達と過ごした日々が、走馬灯のように思い浮かんでくる。

 そうだ。僕自身、変わっていったじゃないか。あの街で、あれだけ自分本位であったこの僕が、あいつらとの出会いで変えられてきたじゃないか。なにも異性へ向ける愛情だけが、人と人との繋がりではない。そうだ、それだよ……!!

 有宇は遂に、神北を正気に戻す何かを考えつく。そして、そのための作戦もまた同時に思い浮かんだ。

 

「ふふっ、はははは……」

 

 ようやく神北を正気に戻せるかもしれないと気分を良くした有宇は笑いを漏らす。

 

「小僧、何を笑っておる」

 

 突然笑いだした有宇に、小次郎は少し気分を悪くしたのか、声を少しいつもより落として有宇に尋ねた。

 

「いや悪い。でも爺さん、神北先輩のことだが、なんとかできるかもしれない」

 

「なに、本当かっ!?」

 

「ああ、それに差し当たって爺さん」

 

 そう言うと有宇は小次郎の前に手を差し出す。

 

「金、出してくれないか?」




そういえば今日はごちうさ単行本8巻の発売日ですね。
さて次回、こまりんルートいよいよ完結です

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