ぬるま湯に浸かる一人の女の子。
6月の梅雨入りした大雨の中、傘もささずに一人で歩いていた。
身体中を傷だらけにして……。
ぬるま湯なのは熱すぎると傷が痛みすぎるから。ぬるま湯なら少しの痛みでゆっくり浸かれば冷えた身体は温まってくる。
ここは俺の部屋。2階建てアパートのワンルームだ。6畳半しかないこの部屋で毎日目的もなく仕事して寝ての生活をしている26歳の独身男。そんな特に取り柄もない冴えない男が、保護とは言え部屋に女の子を連れ込んでるところを人に視られてないか不安になる。
そんな事をカップに注いだ麦茶を飲みながら考えていると、風呂場の扉が閉まる音。数分経って、その話の張本人が現れた。
「お風呂ありがとう。」
「あぁ…替えの服はそこに置いてある。」
そう言ってバスタオルを巻いたまま風呂から上がった彼女に俺の大きめのTシャツと半パンを履かせた。ブカブカの服が少し気持ち悪いのか落ち着きがない。しかし他に着せられる服がないのだから俺としては是非我慢してもらいたいところだった。
今から服を、とは流石にいかない。買いに行こうにも外は大雨だし、今はこの子を外に出す気にはなれない。
どういった理由でこんな姿になってしまったのかわからないのだから、事情を聴かない内に外に出しては保護した意味が全くない。
「…話を聞いてもいいかな?」
少しの間を開けて、少女は小さく頷いた。
小さな声で話し始めた彼女は、時折涙声になりながらもしっかりと話してくれた。
話をまとめるとこうだ。彼女の身体が傷だらけなのは、両親から酷い虐待を受けていたかららしい。夫婦の仲は最悪で、一旦犬にすら鼻で笑われる大喧嘩のあとは必ず父親に呼び出されタバコの火を押し付けられたりと痕の残る攻撃を受け、その父親が外に出ると今度は母親から罵詈雑言を浴びせられ最後には外に放り出されるのだそう。つまり、両親からストレスの捌け口にされていたわけだ。
担任の学校の先生にも相談した。臨時の家庭訪問を受けたのだが、そこでもやはり父親と担任は口論になり暴力沙汰に。
彼女は母親に2階の部屋で軟禁されていたらしいのだが、1階が静かになったと思えば大慌てで両親が外へ出て車で数時間帰ってこなかった。それ以来、先生の姿は見ていない。
その後は、先生に相談した事でまた殴られていた。今度人に話したら殺すと脅されてしまったのだそうだ。それが2週間前。
そして、とうとう母親に包丁を突き付けられ我も忘れ飛び出してきたらしい。
まだ10歳くらいの女の子がこれ程までになるには長い時間を耐えてきたのだろう。
伸びきった髪。肩と腕に切り傷。胴回りの青アザ。太もも、膝、爪先まで赤く腫れている。顔は擦り傷があり歯も何本か無い。
何をどうやったらこうなるんだ。
年端もいかない女の子にここまでする親がいる。いや、親ですらない。人かも怪しい話だ。話を聞いていく中で、腑が煮えくり返るような怒りを覚えた。
ようやく話終わって、長い沈黙と外からの雨音が部屋に響く。腰を上げた俺は、冷蔵庫からオレンジジュースを彼女に差し出した。少女は目線を上げ、俺は小さく頷く。
小さな肩を震わせて声を殺すこの子を親元に帰すわけにはいかない。
手に持ったオレンジジュースをテーブルに置いてそっと彼女を抱き寄せて頭を撫でる。
「帰りたくないなら、この部屋に居たいだけ居ればいい。迷惑とかは考えないでいい。俺を頼れ。」
彼女は少しの間の後で小さく頷いた。
「そう言えば名前言ってないね。俺、羽田健志(はた けんし)。君は?」
「…………志穂。水無志穂(みずな しほ)…です。」
それから彼女との生活が始まった。
学校には行かせられない。探してるであろう両親から教師にも連絡が行ってるはずだ。
だからしばらく部屋から出さないようにした。
このままでは監禁みたいな形になってしまうから、俺の両親と警察官をしている友人に電話で話した。
両親には、もしその子が危なくなったらこっちに預けに来なさい。と打診された。
警察官の友人には、万が一にも俺が悪者になりそうだったら証言してやると言ってくれた。その友人と志穂を電話で話をしてもらい保護である事が間違いないことを確認してもらった。俺は千葉で独立してるから両親も友人も他県にいるが、最も信頼出来る人達だ。いざとなったら頼らせてもらう。
それから何事もなく2ヶ月が過ぎ、7月の真夏に突入した。髪を切って服も揃えた彼女は見違えるほど可愛くなった。一緒に住み始めて判ったことは、元々は明るく活発な女の子。運動が好きで友達と野球をする程の活発さ、と思えば女子とはシール貼りが好きな年相応の女の子。しかし、時折大人っぽい考え方をしたり、いざとなると黙ってしまう気弱な面もある。
出会った頃とは別人の彼女の心の傷は、まだまだ癒えそうにないけど笑顔を見せてくれるようになったのは本当によかったと思った。
そんな彼女がある日、もうすぐ近づく俺の誕生日にご飯を作ると張り切っていた。微笑ましい志穂の頭を撫でながら「頼む」と言った。何も考えず、油断していた俺はこの一言を後悔することになった。
俺の誕生日の前日、俺が仕事に出ている間に商店街まで一人で買い物に出てしまった。
午後7時。出来るだけ早く帰って志穂と夕飯を食べようと材料を買って帰ってみると、志穂がいない。
いつも使う買い物袋がないことで近所に買い物に出たことがわかった。
どうしようもない焦燥にかられ部屋を飛び出し志穂を探した。
商店街の肉屋のオヤジに聞いてみたら、やはり一悶着あったらしい。母親らしき女性が金切声を上げながら女の子を無理矢理連れて行く騒動があったそうだ。
急いで志穂に聞いていた住所に走った。
志穂の家はまさか、俺の家から10分くらいの隣町の一軒家だった。ただ、閑静な住宅街に似つかわしくない怒声と悲鳴が外まで響いていた。
その家の玄関を全力で開き走る。
「志穂っ!!」
志穂を見つけた時、彼女は父親に馬乗りにされ首を絞められていた。
声をあげる間もなく俺は父親らしき男の顔に回し蹴りお見舞いする。
ぶっ飛んだ父親は呻き声をあげながら俺たちを見た。
母親は父親にであろう暴行を受け腫れ上がった顔から意識があるかわからない。
「なんだ、貴様。不法侵入じゃないか。」
「そういうあんたは傷害に殺人未遂だろ。……大丈夫か志穂?」
「う、うん。頭痛いけど……大丈夫。」
酸素欠乏症か。逃げられそうにない。
よく見るとリビングだった場所は皿やコップが割れてテレビに穴が空きカーテンが破れて壁に穴が空いている。
小綺麗な廃屋。
一体どんな生活をしていたのか知りたくもない。
俺は父親と対峙することを決め、ポケットの携帯を志穂に渡す。
「志穂、この携帯電話で警察を呼ぶんだ。番号わかるか?」
「わかる。すぐ、かける!」
「させんぞ!俺の所有物に手を出しやがって。殺してやる!」
「やってみやがれ屑野郎。喧嘩ならお手のもんだぜ」
十数分後、到着した警察が見た光景は、母親は意識不明で仰向けに倒れ父親は腹を抱えてうずくまり嘔吐していた。
俺は拳を腫れさせ、顔を殴られ瞼が切れていた。
真っ先に俺を取り押さえようとする警察に志穂が止めてくれたが相手にされず、そのまま床に引きずり倒される。
「そいつが娘を拐おうとやったんです!」
あぁ、これは俺が悪者にされるやつだな。
そう思った瞬間。
『…だろうが! お前の監視がちゃんと! なって! ないからっ!! あぁぁっ!?』
『いっ! ぐぃっ! がっ!! ………。』
『このっクソが! …お前も、ふざけやがってクソガキがぁぁあっ!!』
その場の全員が止まった。
志穂の方から父親の怒声と母親の悲鳴が聴こえてきた。振り向くと、そこには父親の携帯電話を持つ志穂が居た。
「お母さんが殴られてる間にムービーボタンを押して逃げるふりしてソファーの下に隠したの。」
父親は凍り付き、警察は俺を力なく離して父親に事情を話すよう迫った。俺は志穂の元へ行き抱き締めた。
「恐かったろ。…もう大丈夫だ」
「……来るって思ってたもん。だから……恐く、恐くなんて……ぐすっ…うあぁ……」
それからは志穂は大泣き、父親は最後まで俺が娘を妻をの一点張りだったが、
「二度と現れないで。」
この志穂の一言で沈黙して警察に連行されて行った。
精神不安定での行動は認められたが、志穂の証言とムービーが証拠になり傷害罪と殺人未遂罪で簡単に懲役が決定した。
母親はそのまま精神病院に入院。どうやら不倫をしていたらしい母親はその男にも捨てられたらしい。
それから一ヶ月。
俺と志穂は元の生活に戻った。
朝、二人で起きて朝食を食べて学校に送ってから会社へ行き、志穂が買い物をして俺が帰り二人で夕食を食べる。そんな普通の生活が幸せに感じる。何より、志穂が笑顔であることが今の俺にとって一番の幸せだ。
ここは俺の部屋。ワンルームのアパートだ。6畳半しかないこの部屋で毎日目的もなく仕事して寝ての生活をしていた26歳の独身男。
保護とは言え、部屋に女の子を連れ込んで俺の人生を変えてくれた少女のために、俺の人生を使っても良いと思えた。
俺は志穂のために生きて行く。
これからも。