エイリンの検査は翌日も続いた。よく解らん機械で徹底的に身体を弄り回された。お婿に行けなくなっちゃう。
驚くべきことに彼女らの種族には男が存在していないようで、性器を触られて「これは何?」と聞かれた時には色んな意味で慌てた。ほら、反応しそうになるとか。……いや、既にちょっと反応してしまった。くやしい。
言い訳をするならば、まぁ反動でしょう溜まっていたのでしょう。それこそ桁違いの孤独を味わってからの、美人が性器に触れてくるんだぜ? 我慢しろと云うのは無理でしょうよ。
手袋越しに感じるエイリンの体温は暖かく、ムクリと欲望が鎌首をもたげた。その時の彼女の反応ったら、驚き三割興奮六割、残り若干の恐怖、と云った風に鼻息も荒く、彼女の瞳の奥に狂気を垣間見た。
このまま彼女の興味が男性器に向きっぱなしになりでもしたら、サンプルとして切除されかねん。そんな危惧を抱いた俺はエイリンの気を逸らすべく話し掛けた。
一体それで、どのように種を維持しているのか? 返答は大方予想通り、彼女らは試験管ベイビーだそうな。更に言うと三人は同じ遺伝子から作られたと言う、閑話。
大まかな検査が終わった今はもっぱら問診の時間だった。と言うか、既に問診という名の雑談と化している気がしないでもない。
と言うのも応答の最中、エイリンは言葉と翻訳の差異がある都度、それはどういう意味かと根掘り葉掘り聞いてきて、そこから話が脱線してゆく。クロはどういう生活を送っていたのだとか、どんな文化が存在していたか、などである。
あんまりにもエイリンが聞き上手なもんだから、クロもつい、話に熱が入ってしまう。古い古い記憶を手繰り、彼女が喜びそうな話をする。エイリンはその一言一言に、興味深そうに耳を傾けては、事細かに記録として残している。
それで遣り取りは、クロにも大変有用であった。
彼女らの文明はクロが過ごしていた世界と比べて遥か雲上のレベルだが、それ故にと言うべきか、クロの記憶の中には、彼女らが失って久しい文化も数多く存在していた。
――その一つが娯楽である。
この艦にも娯楽は全く無い、という訳ではない。カードゲームや戦闘のシミュレータなど、あるにはあるものの、その数は少ない。
クロからエイリンに、何故そんなにも娯楽が無いのか聞いた事がある。彼女の返答は、必要ないから、という一言でバッサリと切り捨てられてしまった。
まぁ星間飛行すら可能とする文明である。その精神性は常人たるクロの遥か上にあるのだろうが、それにしてもクロから話を聞き出すエイリンの姿は、娯楽に飢えた女学生のようにも見えた。
では、悠久の暇を何して過ごしているのかと聞けば、大半がコールドスリープしているのだという。目的地を設定すれば後はオモイカネが自動的に最適なルートを航行してくれる。その間、人の手は全く、必要ないそうな。
それを聞いてクロは、ゾッとした。全てを機械に任せるということに、恐怖を覚えないのか?
エイリンはクスクスと笑った。
「おかしなことを言うのね、クロは。オモイカネはそんなヘマはしないわよ」
……彼女らの科学技術が何処まで達しているのか、クロは知らない。知らないからこそ、オモイカネを信用出来ず、不安を抱くのかもしれない。
しかし彼女らの盲信と言うか、ある種の危機感の薄さは、クロの胸に深々と棘として残った。
「ねぇ。どうしてそんな風に思うの?」
エイリンらの文化に失われ、クロには有るもの。そのもう一つにコレがあった。
――感情である。
おかしな話だと思う。犬猫にすら――植物も見ようによっては――感情があると云うのに、自分より遥かに優れている彼女らには感情が無いと云うのだから。
いや、厳密に言えばエイリン達にも感情はある。イリアが良い例だろう。あれ程感情豊かな人間は、そうそうおるまいて。
言葉の選択が悪かったろうか? 彼女らに無いのは感情そのものではなく、感情を表現する言葉が少なかった。クロでさえ異様を感じ取る程に、である。
根源的な感情、喜怒哀楽は現せても、微細な違いの感情を表現する術を持たない。これもまた、エイリンから言わせれば必要ないと断じられてしまうのかもしれない。
それにしてはエイリンの興味は、文化が不要と廃した筈の感情にこそ、興味が偏重している気がする。
「ねぇ、どうして?」
返答の無いクロに再び問うエイリン。
その声に現実へと引き戻される。
「あ、あぁ。俺がいた世界じゃぁ、人の使う機械が暴走する、なんて創作が山ほどあってな」
「そう……。そんなお話があったのなら、この目で見てみたかったわね」
「んだなー。実物があったら説明も楽なのにな」
「……そう、かもしれないけど。私はアナタの口から聞きたいのよ」
「んん~?」
彼女とは既に、フォーカスを介しての遣り取りは行っていない。
エイリン曰く、「医者と患者は信頼を築くのが大事なのでしょう? なら、アナタの使い慣れた言語を使った方が、距離を縮めるにはベターだと思わない?」だそうな。その為に彼女は、わざわざクロの使う言語――つまりは日本語だが――を覚えたのだから、天才の考える事は解らん。いやホントに。
言葉を介さずとも、高度なコミュニケーションが取れるのに、何を好き好んで、わざわざ原始的なコミュニケーションを行おうとするのか。それしか手段がない、というなら解る。だが、クロは十分にフォーカスを使いこなしており、念話も既に可能である。
だのにエイリンは、口語での遣り取りに拘った。彼女らの文化が切り捨てた無駄なモノの一つだと云うのに。
俺の口から聞きたいという、エイリンの真意が分からず首を捻る。凡夫たるクロには、やはりエイリンの考えは分からなかった。
不意に、会話が途切れ、沈黙が舞い降りた。先に口を開いたのはエイリンだった。
「……ねぇ。あの、手を握る、という行為にはどんな意味があるの?」
「手を……?」
「もうっ。昨日だって帰り際、私とイリアに手を握るよう求めてきたじゃない? アレは何の意味があるの?」
まさかそんな事を聞かれるとは思わず、クロは一瞬考える。
「あー、ありゃただの握手だよ。何っつーのかね、親愛や友好を現す手段っていうか」
「……親愛って何?」
まるで禅問答だ。
俺はそりゃまぁ、永く生きてはいるがそれだけである。生き字引と呼ぶには、些か異なるだろう。だから、哲学に片足突っ込んでる質問には即答出来ずに、ついと考え込んで間を作ってしまう。
「あー……。友好は解るんだよな?」
「ええ。双方の円滑な或いは同盟関係を維持する必要な感情の一つね」
彼女の理解は一々お硬い。まるで辞書と話している気分に陥る。
「その友好をレベルアップしていくと、親愛になる、感じ?」
口にしてから友好の上は友愛? いや、親愛の下が友愛? とか今更思う。
何か違う気がするがどうか許して欲しい。俺だっていっぱいいっぱいなんだよ!
「……ねぇ。それじゃぁ、親愛の、一番上には何があるの?」
「へ?」
「教えて――」
真剣な様子で――そも真剣でない時がないが――、詰め寄ってくるエイリン。
「あー、いや。何だろうな。単純に愛なんじゃね?」
知らんけど。
真剣なエイリンには悪いが段々と、返答が投げやり気味になる。それも仕方ない。宇宙船の中じゃ朝だ夜だの概念は無いが、時間は確実に過ぎているのだ。どれだけの時間、質問攻めにあっているのかは解らないが、クロは体感で半日以上質問攻めにあっているように感じていた。
体力的にではなく、精神的には強い疲労感を感じていた。
エイリンは美人だ、まず間違いなく。そんな彼女に詰め寄られているのも、疲労に拍車を掛けている原因でもあった。
いい加減なことを軽く口にして、後悔する。エイリンが何と返してくるのか、察しがついて。
「じゃぁ、愛って何?」
ほらきた。
愛が何かなんて聞かれて、即答出来る人間がどれだけいる?
というか愛なんて漠然とし過ぎた表現ではあるまいか。先の友愛や親愛だって、大別すれば愛に含まれるだろうし。愛という大きな枠組みがあって、そこから色々と博愛だとか派生しているのではなかろうか。
愛とはとどのつまり、好意全般を含むもの。
しかし、エイリンが聞きたい意味とは、多分こんなんじゃない。
「ううーん……」
今度こそクロは言葉に窮した。
頭の隅で、何故に俺がこんな事を考えにゃならんのだと訴える自分を排除し、没頭する。
というか、だ。
「頭の中を読んでくれりゃ楽なのになぁ」
なんて零したのをエイリンは気に入らなかったようだ。
「アナタが、フォーカスの扱いに慣れたせいで読めないのよ、もう」
子供のように拗ねて言う、何というか、意外な彼女の一面を見た気がする。
「ねぇ、誤魔化さないで。愛とはどういう感情なの? アナタの言う、親愛よりも上があるのだと言うなら、興味があるわ」
「……すまん。俺にも、よー分からん」
クロは逃げた。一方で、紛れもない本心でもあった。
そんな彼の様子を察したのだろう。エイリンはこれ以上の追求を諦めたようだった。
「……そう。アナタがそう言うなら、今はいいわ」
今は、という事は、また改めて聞かれるんだろうか。嫌だなぁ、なんてクロが考えていると突如として招かれざる客が乱入してきた。
(やぁやぁクロ! 元気してたかい?)
入ってきた人物も騒がしいシチュエーションも、前と全く変わりない。
「あのなぁ、昨日の今日でどう体調を崩せっちゅうんじゃい」
呆れてクロが答えると、イリアはよく解っていないのか首を傾げた。いや、お前が振った話題だろうと。
「……それで、何の用かしら?」
何故だか機嫌の悪くなったエイリンがイリアを睨みつける。
(おぉ? エイリン、何で喋ってるの?)
「……私の勝手でしょう。そんな事より、要件を言って」
(んー、まぁいっか。そうそう、要件はねー、これこれ。これだよー)
そう言ってイリアが取り出したのは小さな、金属製の輪っかだった。
鋳物のように継ぎ目の一切見当たらないソレは、表面は白くツルリとしており、一見して宇宙船の材質と同じようにも見える。実際はどうなのかクロには検討もつかないが、兎角、見た目だけなら美しいリングだった。
(ハイこれ。クロにプレゼント)
僅かにエイリンの眉が跳ねた。
イリアがクロに、笑顔で金属製の輪――昨日に話した信管付きの首輪――を差し出した時、エイリンは明確に己の中で不快感が生じたのを感じた。ただ、何故そのような感覚を抱いたのか彼女自まるで身解らず、誤魔化すように深い皺を刻んだ眉根を揉み解した。
「何ぞコレ?」
(何って、首輪だよ。クロには分からないのかな? それじゃ、着けてあげるよー)
如何なる原理かは不明だが、リングの一部がポカリと開いた。言って彼女がソイツを首に着けようとしてくる。
(……何で避けるの?)
「いや、なんとなく?」
(なんとなくで避けないでよ、もー)
首輪という響きが嫌なのだろうか、或いはチョーカーと言われていたらこの嫌悪感も薄らいだのか。イリアが首輪を装着しようとしてくる度、クロはそれを避け続けた。
スッ――。サッ――。
ススッ――。サッ、サササッ――。
(……)
「……」
二人の間に、他の者には見えぬだろう火花が散っていた。
間合いを測り機を伺うイリア。スーツに包まれた彼女のしなやかな肉体は、さながら獲物を仕留めんとする肉食獣を連想させた。
対してクロは、その機を見極めんと腰を落とし注意深く観察している。
この下らぬ茶番は何時迄続くのだろう、と見兼ねたエイリンが口を挟む。
――人の部屋で何をしているのだ、と。
その言葉にクロの意識がほんの僅かに逸れた。
(ッ! 隙ありぃ!)
その一瞬を見逃すほど、イリアは甘くない。二人の影が交差した後、クロの首にはがっちりとリングが嵌められていた。その、窮屈でも緩くもないリングに指を掛け力を入れるも、あつらえたかのようにピッタリと、指一本の隙間もなく嵌っている。
「ぐえぇぇぇ! 取れん!」
(うんうん。似合ってるよー)
イリアは己の仕事の出来栄えに満足している。コイツでは話にならんと、エイリンに視線で助けを求めるも、彼女は困ったように微笑むだけだった。
「ごめんなさいねクロ。了・/゙/″∃がどうしてもって」
エイリンの口から知らない名前が出てきた。クロは消去法で軍服を羽織った女の姿を思い浮かべる。
しかしどうにも、話の前後が繋がらずに首を傾げていると、イリアが文字通りの爆弾発言をした。
(その首輪には爆弾が着けられてるんだよー! クロがおかしな真似をしたらボカーンだからね!)
イリアはケタケタと声を出して笑っているが、当事者からすれば笑い話ではない。冗談だろ――そう、願ってエイリンに目を向けると、彼女は何とも言えない表情を浮かべるだけで無言を貫いた。
……あぁ、そうか。
クロからすれば窮地を救い出してくれた恩人である。恩人には違いないが、彼女らは――見た目は同じでも――根本的に違う生物なのだと、本当の意味で理解した。
百年の恋も冷める、と云う言葉があろう。勿論クロは、彼女らに色恋の感情を抱いていた訳ではないが、これから先、彼女らに一歩踏み出す可能性は潰えた瞬間であった。エイリンが己の心を自覚しないうちに、ソレは静かに終わりを告げた。
「ねぇ。最後の質問なのだけど、クロは何か不満を感じていないかしら? 私が出来る範囲で口添えてあげるわよ?」
その問いに、クロは遂に念願の時が来たのだと悟った。長々続いていた問診がようやく終わりを迎えることへの歓喜? いいや――。
「――い」
助けられた身で、図々しい願いだとは百も承知。だがこればっかりは、言わずにはいられなかった。
クロの言葉を聞き取れず、エイリンもイリアも首を傾げた。
「メシがマズイ! マズイんだよおぉぉぉぉ!!」
クロは吠えた。ありったけに吠えた。
出された食事は、ドロドロとした少し茶けた色の流動食だった。マズイ、と云うのは言い過ぎかもしれない。だが断じて、美味いものではなかった。
というか無味だった、無臭だった。だがエイリンが云うにはコレ一杯で一日の活動に必要な栄養を摂取出来る、完全栄養食だという。
確かに、皿一杯分の量で不思議と腹も膨れたのだが、心は満たされなかった。
だが彼の魂の慟哭は女性らに伝わらず、エイリンもイリアも、揃って首を傾げる以上の事はなかった。
まさか――。クロの背筋に冷たい物が奔った。
次なるイリアの台詞は、クロを絶望に叩き落とすには十分な破壊力を秘めていた。
(ねぇクロ? マズイって何?)
……HAHAHA! ナイス宇宙人ジョークデスネー!
つい似非外人じみた反応をしてしまうぐらいには、クロには信じ難い現実だった。
ってマジかよ!? 味の概念が無いのか!?
試しに他の、甘い、苦いなどの味を聞いてみても知らないの一辺倒だった。
「マジかー……」
自分らより遥かに優れた科学文明を持つ種族が、味覚を無駄なモノと切り捨てているとは夢にも思わなかった。
思えば、問診時からその兆しはあった。娯楽や感情すら無駄とし効率第一主義の文明が、食事を楽しむなんて真似をする筈が無かったのだ。
「マジかー……」
あまりの衝撃に二度呟いてしまう。その目は遠く、過去の憧憬を見ているようだった。
それに興味を抱いたのは、当然エイリンだ。
「クロ? どういうことなの?」
さりとてクロは何と表現したものか、言葉に詰まった。
味覚とは感覚である。それをどの様にして、解らない相手に言葉だけで伝えられようか? そこまで考えて、クロはハッとした。
……俺が作りゃいいんじゃね?
彼は料理を専業としている職では無かった。だが、味を解せぬ彼女らよりかは万倍マシであろう。
百聞は一見に如かず。説明する手間も省けるし、何よりまともな食べ物にありつける。
クロは期待を込めてエイリンに尋ねた。更なる絶望に叩き落されるとも知らずに。
「なぁエイリン。この船にはどんな食料があるんだ?」
「食料って……。昨日クロに出したモノ以外には無いけど」
「ンンン!? ノオォォォォォォ――――!!」
クロのバラ色の未来は早くも閉ざされた。
絶望のあまり床に突っ伏すクロ。
彼が気落ちする理由が解らず、宇宙人たちは互いに顔を見合わせた。理由は解らずとも、只事ではない事は察する事が出来たので、彼に声を掛けるのが戸惑われたのだ。
「あんまり、あんまりだろちくしょぉ……」
(げ、元気だしてよクロ!)
「え、えぇ。アナタが食事に関して不満を抱いているのは分かったから。……その、どうすればいいのか解らないけど」
エイリンが小さく零した余計な呟きは、クロを更なる絶望の淵へと追いやった。
感情に乏しい彼女らにすら、目に見えるほどの負の感情。
その原因に対しての無理解故に、解決策を導き出せずにいた。
(うーん、うーん。……そうだ!)
イリアがパッと表情を明るくした。普段のエイリンであれば、面倒な事を思いついたのだろうと厄介にしか感じなかったろうが、今は藁にも縋る思いでイリアに託す。
(ねぇねぇクロ! シミュレータに興味無いっ!?)
ピクリと、男の肩が跳ねた。
その反応に手応えを感じたイリアは畳み掛けるように言葉を続ける。
(うんうん。戦闘機の動きを再現したヤツなんだけどね、良かったらやってみない?)
イリアの説得の傍ら、エイリンは規則を思い出していた。
……特に部外者にやらせてはいけない、という項目も無かったので問題無かろう。というか、そのような自体を想定して無かったのだろうが。
兎角、これでクロの気が晴れるなら是非もない。エイリンは事の顛末を見守った。
戦闘機、シミュレータ。何とも男心をくすぐる言葉ではあるまいか。
昔であれば空想の産物でしか無かったそれが、触れるとなってはクロの興味を惹かない訳が無かった。
「……やる」
(うん。それじゃぁ早速やりに行こうかー!)
完璧に気が紛れた様子では無いものの、クロはイリアの誘いに乗った。
(早く早く!)
ノロノロと動きの遅いクロ。見兼ねたイリアは彼の背を押した。
その細腕からは想像のつかぬ怪力に、クロは為す術無く部屋を追い出されてしまう。
部屋を退出する二人を見守り、エイリンはようやく深く息を吐けた。
(オモイカネ。モニター対象クロ)
『了解しました。個体名クロのモニターをオン』
我が忠実なる制御システムは、指示をその通りに実行する。エイリンの眼前に艦内を映したモニターが宙に現れた。
その画面はクロを中心に沿えた場面が映っている。場所は、エイリンの部屋の前だ。
当たり前か。ついさっき、イリアに連れられて出ていったばかりなのだから。
エイリンの耳にザザァっと、ほとんどノイズの音が拾われる。モニターのクロの立つ部分に指を添え、ピンチアウトすると画面がズームされた。それにつれ、鮮明な音を拾うようになった。
やろうと思えば皺の数どころか毛穴までバッチリ見えるぐらいズーム出来るが、その必要は――クロのことなら何でも知りたいと思うが――今はない。丁度彼とイリアがモニターの半分を占拠するぐらいの大きさで止めておく。
「――おい。あんま押すなよ」
クロはぶっきらぼうに言い放つが、言葉ほど彼は嫌がっていない事をエイリンは知っていた。
イリアに反省した様子は見られず、笑っているようだ。ようだ――というのも、フォーカスの遣り取りは映像で拾えないから、イリアの反応から会話の内容を推察する他無かった。
その光景を目にし、エイリンの胸中には複雑な感情が渦巻いていた。
クロを観察出来ているという事実。
クロの横に自分以外の人物がいる事実。
その二つがせめぎ合い――という事はこれらは相反する感情なのかしら?――、エイリンは何とも言えぬ表情を浮かべる。その感情を正体を突き止めようとするも、結局の所彼女らはその感情を表現する術が無かった。
ただ、クロを見ていると動悸が早まる。彼がいないとつい、いる筈もないのに視線を彷徨せてしまう。冷静になって考えれば、こうしていつ如何なる時でも監視出来るというのに、ふとした拍子に視線は彼の姿を求めているようだ。
クロの言葉を耳にすると、脳の処理能力が低下する。まるで霞が掛かったように地に足が着いていないような、ふわりふわりとした感覚に陥る。正常な判断を下す事すら困難で、変なことを口走っていないか、彼が去った後、逐一チェックし直しているぐらいだ。幸いとも言うべきか、録画の中の自分は、幾度からしくない行動をしているが未だ決定的なミスを犯していなかった。
何故、そんなにミスを恐れるのか。いや、彼の前でミスをするのを恐れるのか、彼女の頭脳は答えを導き出せなかった。同族に賞賛された頭脳も、酷く惨めに思える。一方で彼のことだから仕方ない、と非常に非合理的な答えで満足しようとしている自分がいる。
このように、天才の名を欲しいままにしていたエイリンが、クロに関わると著しくパフォーマンスが落ちるのだ。だが、不思議な事に作業の効率は上昇している。
彼の為を思えば、見たことも聞いたこともない言語を――このような辺境の、未開惑星の言語など役にも立たない――一日で解読し覚えることは、流石のエイリンでも不可能であると思えたが。異常なほどに高まったモチベーションが可能にさせたのは、本人も驚いたぐらいだ。
一方でクロが側にいないと、胸を圧迫されるような感覚に襲われる。自分以外の誰かがいると、更に顕著となって明確な不快感を覚えた。この感情の正体は何なのだろうか?
後で、クロに聞かなければ。クロはきっとこの正体を知っている筈だ。
だのに今日、彼は愛の正体を誤魔化した。知っている筈なのに、何故?
彼を困らせたくなくて、断念したものの、いつかは彼の口から愛を教えてほしい。
(――もっと、もっと教えて。アナタのことを、私に教えて)
意味のない行為だと、エイリンの理性は答える。そんな事は百も承知だ。
だが、エイリンは画面のクロに手を伸ばし、それは何ものにも触れる事なくホログラフモニターを突き抜けた。そこに、彼の体温はない。彼の息遣いはない。ただ、モニターが発する極々微弱な電磁波がエイリンの掌に微かな違和感を与えるのみであった。
エイリンが思索に没している間、ようやく彼らに動きがあった。
「お、おいっ――!」
彼の慌てた声に現実へ引き戻される。
画面に目をやると、丁度イリアがクロの手を繋ぎ引っ張ってゆく所だった。
瞬間、エイリンの胸中にドス黒い何かが渦巻き視界も真っ赤に染まった。無意識に一番近くにあった物を手に取り、画面に向けて思い切り投げつけていた。それは虚しくモニターを突き抜け、――一瞬の波紋を作るも――反対側の壁にぶつかり、ガシャンと音を立てて壊れた。
『異常を感知。ご無事ですか、エイリン博士?』
機械音声が響く。職務に忠実なオモイカネが、プログラム通りの応答でエイリンに呼び掛ける。
自分が設計したソレも今はひたすらに神経を逆撫でた。
『十秒間の未回答を確認。マニュアルに則りアンドロイドを「五月蝿いわね!!」――回答を確認』
『エイリン博士の体温及び脈拍及び血圧の上昇を確認。極度の興奮状態と認めます。三十%の確率で未知の病気の「黙りなさいって言っているのよ!!」可能性。』
融通の効かなさにエイリンは苛立ち、叫んだ。
(オモイカネ! 個体名エイリンの常設記録をオフになさい!)
『エイリン博士。常設記録を切る事は推奨されて「いいからやりなさい!」――了解。個体名、エイリンの常時監視をオフに移行。尚この機能は緊急回避の為一時間後に自動でオンになります』
機械音声の言葉を最後に、エイリンの部屋から一切の明かりが一斉に切れた。最低限の機能を残し。
今迄エイリンは、オモイカネを五月蝿いとも煩わしいとも思ったことは、ただの一度も無かった。何せ開発者の、一人なのだから。自分の理想を体現したシステムに。どうして文句があろうか。
だが、今日始めて、オモイカネを邪魔だと思った。
そして未だ胸中に渦巻く感情の正体も、処理の仕方も解らず、エイリンは椅子に持たれかけ静かに目を閉じた。
非常に難産でしたまる。