東方超解釈   作:触手の朔良

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プロローグ
女難の始まり


「もし? そこのお方、少しよろしいでしょうか?」

 

 深夜。喉の渇きを覚え男は目覚めた。

 意識も今一つ覚醒しきっておらず、ふらりふらり。覚束ない足取りで台所に向かい冷蔵庫を開けるも、見事にすっからかんだ。水、という気分でも無かったのだが、仕方なくコップ片手に蛇口を捻るも何の変化もない。

「……?」

 蛇口は既に、些かの抵抗も感じさせぬ勢いで回っている。だのに水が出てくる気配は一向に無い。男は目の前の現象に首を傾げ、「あ」と小さく声を漏らした。

 そう言えば、今晩から明朝に掛けてまで断水を行うとか回覧板に載っていたような……。

 イマイチ確証は得られないものの――何せ回覧板なんて、目を滑らせる程度だ――、だとすれば目の前の現象も納得である。

 男は嘆息した。

 この乾きを無視して寝直すという選択肢もあるにはあるが、すっかりと目が冴えてしまいそんな気は微塵も起きない。

 ちら、と壁掛けの時計に目をやる。短針は二と三の中間を指し、何とも中途半端な時間に目が覚めてしまったものだと更に嘆く。

 起きるには早く寝る気にもなれない。とすれば、である。乾きを癒そうと考えるのも道理である。

「……コンビニ、行くか」

 身体は未だ泥中にあるかの様に重く、男はノロノロとした動作で寝間着の上からジャンパーを羽織り、踵の潰れたシューズを履く。

 玄関を開けると温度差からひゅるりと部屋の中へと、一度切りの風が吹く。

「……さぶ」

 暦の上では八月とはいえ、夜になればそれなりに冷える。

 ――外行きの格好に着替えるか?

 その、肌寒さに男は後悔したものの、ものぐさが祟り結局はそのまま部屋を出た。

 男が住んでいるのは、二階建ての全八部屋からなる小さなアパートだった。彼の部屋は丁度二階の一番奥、階段から尤も遠い位置にあった。隣人を気遣う必要性が一つ減ると、住まいを探していた当時の彼は深く考えず喜び勇んで入居したものだった。

 だが、時折この階段までの短い道のりがとても面倒臭いものに感じた。距離にすれば十メートルもないというのに。普段は全く以てそんな風には思わないのだが、本当に時折、この階段へと向かう行為そのものが億劫で仕方なかった。

 そう、感じる時感じない時。「一体何が違うのだろう?」益体もない事を考えながら、他の住人を起こさぬようにゆっくりと歩を進める。

 カツンカツン。

 靴底が鉄製の階段を踏み鳴らし、金属音が夜の暗闇に吸い込まれる。

 面倒くさい階段を降りきると、変哲のない団地が彼を出迎えた。両脇を塀に囲まれた路地をウネウネと進み、一路目的地のコンビニを目指す。

 

「ありがとーございしゃー」

 やる気の無い挨拶を背に、男はコンビニの自動ドアをくぐった。

 手提げたビニール袋からは数本のペットボトルとスナック菓子。朝食用の弁当が詰まっている。

 一歩二歩。歩いた所で足元から伸びる影を見、彼は何ともなしに振り返る。

 二十四時間消える事のない明かりは、夜の闇に於いて異質に感ぜられ、彼はぶるりと震えた。

 少し、風に当たりすぎたか。

 そう思った彼は行きよりも少しばかし足を早め帰路に着く。

 妙に品揃えが悪かったな、だとか。深夜の店員は男しか務められないのだろうか、だとか妙ちきりんな事を考えながら。

 そんな折であった――。

 

「もし? そこのお方、少しよろしいでしょうか?」

 

 何処からともなく声が聞こえた。

 一瞬足を止め辺りを伺うも、声の主は見当たらず、気のせいという事にして男は帰ろうと――。

 

「えぇ、そう。アナタです」

「んあ?」

 そも自分に向けられた物だとは微塵も思ってなかった故、その言葉は完璧に彼の不意を突いた形となり、自然と口から変な言葉が漏れた。

 もう一度、くまなく周囲に目をやると、通り過ぎたビルとビルの隙間から白い腕が伸びているのが目に入った。。

 ちょいちょい、と彼を誘うように手招くそれに、内心は面倒になってきたという気持ちで一杯になっていた。

 ……何も見なかった、聞かなかった事にして帰ってしまおうか?

 そんな邪な考えが彼の脳裏に過ぎった時、「あの? すいません……?」何時まで経っても反応が無い事に不安を覚えたのだろう。先程よりも弱気な声が隙間から発せられた。

 声から察するに、若い女性のようだ。

「ちょっとぉ~? ……もしもーし?」

 怪しいセールスかその類かとも疑ったが、女相手なら最悪なんとかなるだろうと踏んだ男は、髪を掻きむしりながら隙間に近寄った。

 というか姿の見えない相手なれども、涙声で訴えられると流石に良心が苛まれたのだ。

 近寄るにつれ徐々にビルの影から現れたのは、頭まですっぽりとフードを被った、多分女の子がいた。少女の目の前には小さなテーブルと水晶が置かれており、見るからに怪しさ満点である。

 早速己の選択に後悔している男に、少女は語りかける。

「ふっふっふ。ようやく来たわね」

 最初の厳かな口調は消え、何というか、子供っぽい喋りになっている事を彼女自身気付いているのだろうか?

 ……いや、いないのだろうな。

 兎も角彼女は男が戻ってきた事に――フードで表情を隠されて尚解るぐらい――満足そうに頷く。

「あー? 宗教の勧誘ならお断りなんだが?」

「ちょっ! 違うわよ! そんな怪しいヤツらと一緒にしないでっ!」

 厄介そうな事は早々切り上げるに限る。

 先んじて男が牽制すると、心外だと言わんばかり少女はプリプリと怒りを露わにする。

 しかし、少女の背は男の胸元にも届かない。座っている事を差しいて引いても、頭二つ分は小さいのではなかろうか? そんなちみっこい、おそらく年下の少女に凄まれても怖くも何ともない。どころか、ともすれば頬が緩んでしまうまである。

 ――一緒じゃないのか?

 その言葉を口にしていたら、益々面倒な事になっていたろう。寸での所で呑み込んだ自分を褒めてやりたい。

「何の用だ? 出来れば手短に頼みたいんだが」

「うっ……。ノリが悪いわねぇ。分かったわよぅ……」

 少女は恨みがましい目――再三言うがフードに隠れ、顔は見えないのだが、少女は全身から分かりやすく感情を表現していた――を向けてきた。

 男からすれば堪ったものではない。知らんがな、と一笑に切り捨てないだけ有難く思って欲しい。

 少女はコホンと一つ咳払い。居住まいを正し男と真正面から相対する。空気が張り詰め、打って変わった真剣な様子に、釣られて男も背筋を伸ばす。

 ゴクリと生唾を飲んだのはどちらか。

 フードの裾を押し退けるように、ゆっくりと少女の腕が上がり、ズビシと男の鼻先に指が突き付けられた――!

「ズバリ! アナタ、女難の相が出ているわっ!!」

「帰るわ」

「あーん待ってー!」

 くるりと体を翻す男の腰に少女はしがみつく。その大胆さも然ることながら、テーブルから乗り出し男にしがみつくその速度に彼はギョッとした。というか出会ったばかりの男に抱きつくか普通!?

「えぇい、離せ! 離さんか!」

「もーちょっと……! ちょっとだけ! ちょっとだけでいいから付き合って! ね、ね!?」

 どんなに怪しかろう胡散臭かろうと、相手は女である。実力に訴える事も出来ず、彼は身体を左右に揺すった。吊られて少女も左右に揺れる。されど腰に回された腕は緩むどころか更に力を増していった。

 一体何が彼女をここまで必死にさせるのか。

 男は気付かれぬよう小さく嘆息し、大人しく両手を上げた。少女は抵抗が無くなったのを不思議に思いゆっくりと顔を上げると、両手を上げる男の姿が目に入った。状況が理解出来ずきょとんとした表情を見せてくる。

 ローブなら、先に揺さぶられたせいですっかり外れてしまったよ。

「分ぁーった。分かりましたよ。降参、降参します」

 そう、男の口から聞いた瞬間、少女の顔がぱぁっと笑顔に染まる。

「ふふーん。そうそう。最初からそうやって殊勝な態度を取ってればいいのよ」

「やっぱ帰っていい?」

「あーん! ごめんなさい嘘です帰らないでー!」

 鼻高々な少女の態度にイラっとするなと言う方が難しい。男が帰る素振りを見せると、少女はすかさず抱きつき行動を阻害してきた。

 チッと男は一つ舌を打つ。

「あーもー。話進まんから。何だよ何の用だよ」

「ええっと、ちょっと待ってね」

 このままでは話が何処までも脱線していきそうだ。

仕方なく男の方から先を促すと、少女はいそいそとフードを被り直し、テーブルに座り直す。そしてコホンと一つ咳払いをして、ゆっくりと腕を上げ――。

 ……ん? これってデジャヴュじゃね?

「ズバリ! 女難の相が出ているわ!」

 鼻先に、指を付けられた。

「……」

「女~難の~相が~――」

「分ぁーったっつーの」

「アイタ!」

 無反応を貫き通していると、突き付けられた指先がぐるぐると動き始めた。催眠にでも掛けようかというその動きにイラっとした男は、思わず少女の脳天目掛けてチョップを振り下ろしてしまった。ズビシ。擬音が綺麗に聞こえるほど華麗に決まり、少女は頭部を抑え涙目に蹲る。

「あいたー……。信じられない、女子高生に手を上げるなんて……」

 なんと、彼女は女子高生だという新情報が明らかになった。至極どうでもいい。

 というか、こんな夜中に女子高生が一人、何をやっているのだと疑問が湧き上がるも、少女の言動、行動を見て「あぁ」と彼は直ぐ様自分の考えを否定した。

 今までの短いやり取りですら解る。彼女のような人間は、とても常識に当て嵌められるような存在ではないと。

「はぁ~……。それで? 天下の女子高生様が占いの真似事か? こんな時間に?」

「真似事じゃないわ! 本物よ!」

「ハッ! 本物ならなおさらどうしてだよ」

 男の中で既に警戒心は失せていた。だが、疑心だけはシコリのように残っている。

 鼻で笑い、見下すように問い詰めると、彼女は腕を組み「そんなの――」と一拍置いて当然のように言い放つ。

「趣味よ!」

 むふー、と鼻息荒く自信満々に告げる少女。そのように断言されてしまっては、彼には言葉を失う他に術がない。

「えぇ、趣味よ。趣味なのよ。あ、でも占いに関しては本当よ? 私にはね、他人とは違う不思議な能力があるんだからっ。超能力ってヤツよ」

「だからそう、人を指差すのをやめーって」

 少女は腰を上げ、ズビシと鼻先に指を突き付け見事なドヤ顔を作る。三度突き付けられた指を払うと同時、少女は「あれ? 何で今日会ったばかりの人にこんな事話してるのかしら?」と不思議そうに首を傾げていた。その意見は男にしても同意である。何せ道端で急に呼び止められたかと思えば、女難だ何だと難癖を付けられるのだ。全く訳が分からない。

「あ、そうよ! そんな事じゃなくて女難よ! 女難の相なのよ!」

 むむむと自分の言動に唸ったかと思えば今度はハッとして、突如興奮し机をバンバンと叩く。打撃音はビルの壁に反射し想像よりも遥かに甲高く響いた。時間が時間なので、男が非難がましい視線を送ると、少女も直ぐに察したのか、耳まで赤くして俯いてしまった。

 これまた話に時間が掛かりそうだ。

「その女難の相だが、俺にも心当たりがあるぞ」

 嘆息しながら男がそう言うと、少女の反応は顕著だった。その瞳は期待に輝いている。キラキラとではない。爛々と、ある。

「でしょでしょ!? いやぁ~、やっぱり、って言うか? さっすが私、って言うか?」

 くふくふ、と気味悪く笑い身体をクネらせる様ははっきり言って気色悪い。

 自らの身体を掻き抱く少女に、男は今までのお返しとばかりに指差してやった。その意味が分からず彼女は頭に疑問符を浮かべている。

 男は一度自分を指し、更に指先を翻して少女を指す。それでも少女は小首を傾げるので更にもう一度、今度は少女もそれに倣って同じ動きをした。

「現在進行系で女難にあってる」

 最初少女は意味を理解していなかったようだ。

 二人の間に沈黙の天使が舞い降りた数秒後。

 ようやっと理解したの少女の顔が、瞬間湯沸かし器もかくやと言う勢いで真っ赤に染まる。

「え!? その、ちょっ……、私っ!?」

 ワタワタと慌てる動きはまるで小動物を思わせ可愛いという感想が浮かぶ。

 そう、可愛いのだ。

 ローブが脱げていたのは僅かな間に過ぎない。だが、その少しの時間でも彼女の顔は印象に残るぐらいに魅力的に写った。

 二房に纏められた栗色の髪。縁の厚い眼鏡は一見野暮ったい印象を相手に与えるも、その下に隠された瞳はまんまるで、若干年齢よりも幼く見える顔立ちだが、十分に可愛いと言えるだろう。

 髪と同じ色の瞳が、驚愕に彩られている。

 少女はこういう事にはからっきしなのか、先程まで自信満々に反り返っていた背は丸まり、顔は俯いてピクリとも動かない。その姿はネジの切れた人形を連想させた。

 無意識の内に、男の顔が綻ぶ。

 ――からかわれた。そう、彼女は感じたのだろう。羞恥に染まっていた頬が、今度は憤怒に染まってゆく。

 非道い誤解である。しかしまぁ、その誤解を解く労力と手間、そして得られる結果を天秤に掛け、面倒になった男は素知らぬ振りして平然と話を進めた。

「それで? お前さんが言うには、女難の相とやらが俺に出ているってことか?」

「アナタねぇ……」

 男の無神経さ、図太さに少女は呆れ返る。すっかり毒気が抜かれたようで、深い溜め息を吐いた。

「はぁ~……。こんな人なら呼び止めるんじゃなかったわ……。ん、まぁ仕方ないわね。」

 彼女も彼女で、初対面を相手に随分と失礼な物言いである。

「私がアナタを呼び止めたのは、アナタが今まで見てきた中で一番酷い、女難の相が出ていたからよ」

「ほう」

 少女の目つきは鋭い。そこに若干の非難の色が残っているのは、先の応酬の尾を引いているからなのかもしれない。しかし、それだけでは説明が足りぬほどの、真剣な色を帯びていた。

 言われて彼は考え込む。

 女難、女難ねぇ?

 人生を振り返ってみるも、特に思い当たる節は無い。その余りの的外れっぷりに、男の喉が鳴った。

「そんなものがあるなら、少しはあやかりたいもんだ」

「ちょっと! ふざけないの! ……本当にひどいんだからね、アナタ」

「……そんなにか?」

 彼が皮肉げに口を歪めると、自称超能力者は強く彼を責めた。

 その声音は紛れもなく本気で、信じていなかった彼の心に「まさか」、と思わせる十分な迫力があった。

「いい? 仮に――アナタの女難の程度を、とりあえず百とするわ。次に私が見てきた中で二番目のヤツを同じ基準に当て嵌めると――一にも満たないのよ」

「――」

 ビシと少女は指を立てる。その姿に、男は絶句するしかない。

 いやいやいや。流石に大袈裟に過ぎるだろう、と。

 こうまで人を騙そうという気概が見られないと、いっそ清々しさすら覚える。

 だが、彼女はじぃっと男から視線を外さず、表情も崩さない。しばし二人の視線が絡み、無言の一時が流れた。

「……マジで?」

「マジもマジ。大マジよ」

 一縷の望みを込めて聞き返す。その声は思いのほか小さく、彼自身驚いたほどだ。

 少女の目は、マジだ。本気と書いて大マジだった。

 男は愕然とした。最初にあった猜疑心など今や欠片もなく、目の前の少女の言葉を信じてしまっている。

「という訳でね。あまりの物珍しさについ声を掛けちゃったのよ」

「なるほどなぁ。それで、俺はどうしたらいいんだ?」

「え?」

 少女は「何を言ってるんだコイツは?」という表情をした。

 男も「何を言ってるんだコイツは?」という表情を返した。

「……いや。フツー占いってのは悪い結果が出たら、どうすればいいーとか。こうすればいいよーとか、言ったりすると思うんだが?」

 その台詞に少女は苦虫を噛み潰したような顔をした。気まずい沈黙が舞い降りる。

「おい……」

「さ~て。そろそろ帰ろうかしらね~」

 少女はわざとらしく口笛を吹き――唇からはひゅうひゅうと情けない音しか聞こえない――、決して男とは視線を合わせようとせず、いそいそと占い道具を片付け始めた。

「ちょっと待て! 人を不安にさせるだけさせておいて、ハイ終わりなんて事は許されんぞ!」

「きゃっ! やめっ、腕掴まないでよ! 人呼ぶわよ!」

「シャレにならんからやめーや!」

「大体、占って欲しいならそれなりの対価ってもんがあるでしょ!? 教えてあげたのだって善意からなんだし!」

「む」

 確かに。彼女の言葉にも一理ある。

 抵抗する少女の腕を解放し、男は財布を取り出した。

「ほら、これでいいだろ」

「……小学生の小遣いかっ!」

 男は五百円玉を少女に握らせた。どうやら不服なようで、少女は硬貨を地面に叩きつけた。何と罰当たりなヤツめ。

「チッ。ケチなやつ」

「どっちがよ!?」

 悪態を吐きつつ、不承不承紫式部を取り出してやる。

「ほら。これでいいか」

「これまた随分と古いお札ねぇ……。もう一声って言いたい所だけど、まぁいいわ。珍しいし。それじゃ、水晶の正面に立ってくれる?」

 指示通り、男が正面へと移動するのを見計らい、少女は水晶に手を翳す。

 目を瞑り、ボソボソと何事か呟くも、正確な音は聞き取れない。

「おぉ――」男が感嘆の声を上げる。如何なるトリックか、水晶がぼんやりと紫の光を放ち始めた。

「見える、見えるわよ……。アナタの運命がっ」

 胎動するかのように明滅を繰り返す光は、徐々にその明るさを増してゆく。そして一際強く光を放った瞬間、少女はくわと目を見開き気炎を吐いた。

「さぁ、水晶よ! 彼の者の運命を写しなさい――!」

 刹那、一面を光が包んだ。男はその眩しさの目を細め手でひさしを作るも、視界の全てが真っ白く意味の無い行動であった。

 一瞬だったのか、はたまた長い間だったのか。現実離れした光景に、男の時間の感覚が狂う。そしてやおら光の波が引くと、水晶に手を翳したままの少女がいた。確かな手応えを感じ、少女はニヤリと口角を吊り上げる。

 だが、彼女の予想に反する事態が起こった

「へ?」

 ピキ――。

 ……嫌な音が響く。

 耳を澄まさなければ聞き逃してしまうぐらいにか細い音だ。

 空耳か? そう、男が思っている最中に、同様の音が連続で響いた。

 ピキ、ピキピキ――。

 空耳などととぼけていることは不可能であった。目の前の水晶に、目に見える程の亀裂が入る。その亀裂は徐々に大きさを増し、遂に水晶は真っ二つに割ってしまった。

「……」

「……」

 沈黙が、少女を責め立てているかのような沈黙が。

「さ、帰りましょうかね」

「おおぉい!? ちょっと待て!!」

 何事も無かったかのように片付けを再開する少女に、反射的にツッコミを入れてしまう。

「どうなってんだよ! どういうことだよ!」

「そ、そんなの私が知りたいわよ! こんな風になるのなんて、初めてなんだからっ。というか弁償! 弁償してよ! この水晶、高かったんだからねっ」

「おぉう……」

 男が必死に詰め寄るも、少女はそれ以上に声を荒げ反論した。一転して立場が逆になる。

 よく見ると彼女の眼尻には涙が浮かび、その圧力に屈した男の腰が一歩引ける。

「あっ! 今頷いたわよね! そうよね!? 」

 ハイお金、と言わんばかりに差し伸べられた手。男は、その小さな掌と少女の顔を交互に見やり、諦めたように溜め息を吐いた。

「毎度あり~」

 結局、先程の二千円と合わせて、占めて総額七千円の出費である。そう言えば、最初に渡した五百円玉もちゃっかり回収されてるからプラス五百円か。

 何でコンビニに行こうとしただけで、こんな目に合わにゃならんのだと、彼は内心愚痴を零す。

「……やっぱり、悪徳商法じゃねぇのか」

「む。まだ言うのね。本当だって言ってるのに」

 この際彼女の能力が本当かどうかなど些細な事。不安を煽られ、金を毟られる。男からすれば、それ以外の何物でもないのだから。

 しかし少女は詐欺扱いされたのが気に入らないのか、唇を尖らせている。そして名案を思いついたとばかりに表情を変えた。

「そうだわ。私ばかり貰うのもなんだし。はい、コレ」

「……何だ? 水晶の欠片じゃねぇか」

 少女から手渡されたのは、掌に収まるぐらいの、小さなガラス片だ。一部に丸みを残した形状から、男は先の水晶だと判断したが、少女は頭を振る。

「ただの水晶じゃないわ。それはオカルトボールと呼ばれる、願いの叶う水晶の欠片よ。今は何の力も無いけどね」

「じゃぁゴミじゃん……」

 オカルトボールの欠片を指に挟みまじまじと、あらゆる角度から眺めてみるも、そんな大層な物には見えない。

 横の少女が、「コレだから素人は……」とアメリカンテイストばりに肩を竦めている様子がムカつく。

 男は欠片を乱暴にポケットとへしまい、少女に背を向けた。

「んじゃま、俺ぁもう行くわ」

「あれ、帰っちゃうの? これから私の、オカルトボールを巡った武勇伝が――」

 そこまで喋り、少女は唐突に口をつぐみ「口止めされているんだった」と苦い顔でぼやいた。

 なんじゃそりゃ、と男は苦笑し振り返る。

「お前さんも、あんま親に心配掛けるもんじゃねーぞ?」

「何よ偉そうに。――あ、そうそう。私の名前は宇佐見菫子。天才超能力者よ。まぁ、また占って欲しくなったらここに来なさい。月一ぐらいでやってるから」

 ――それじゃぁね。

 少女――菫子がローブを翻すと、男は驚きに目を見張った。何せ先程まで存在していたテーブルと散乱した水晶が跡形もなく消えているのだから。

 超能力者なんて、眉唾だと思っていたが案外彼女は本物なのかもしれない。

 菫子は既にこちらへの関心を失ったのだろう。只の一度も振り返ることなく、夜のビル街へと姿を消していった。

 何故かその姿を最後まで見送って、彼はボソリと呟いたそうな。

「月一じゃ会う方が難しいだろうよ……」

 全く、その通りである。

 男は自分で言って可笑しかったのか、ククと喉を鳴らして笑い、ようやくして帰路へ着くことが出来た。

 飲み物一つ買いに出たつもりが、とんだ騒動である。

 彼は家に辿り着くと、折角買ったペットボトルの蓋も開けずにそのまま布団へダイブした。そしてシーツに埋もれた顔を少しずらし、横目に時計を見ると三時を回ったばかりである。

 菫子という少女があまりに強烈で、やけに長く感じたものだが、それ程時間は経っていなかったらしい。

 男は口角を吊り上げ、枕に顔を埋める。

 何にせよ、偶にならこんな出来事も日常の良い刺激である。そんな事を思いながら、男の意識はゆっくりと眠りに落ちた。

 

 

 そして次に彼が目を覚ました時――。

『本当に大切な物は失ってから解る』などという言葉は時代を問わず国を問わず、掃いて捨てるほどある。何て陳腐な言葉なのだろう、と思う一方で真理だとも、思わずにはいられない。

 ――日常は粉々に消え去っていた。

 目の前に広がる光景に呆然とする男。一言で云うなら死の世界。そう、表現するのが一番しっくりとくるだろう風景。

 空は分厚い黒雲に覆われ、陽の光を悉く遮っている。だのに彼が世界を認識出来たのは、絶え間なく轟く青紫の稲光が周囲を照らし上げていたからだ。

 ストロボのように照らされた大地は赤く、灼熱の溶岩がそこかしこから吹き出し、幾つもの大河を成していた。それらが冷えて形成されたと思われる黒岩は無数のスポンジ状の穴が空き、固まって尚熱く、立っているだけでも汗が吹き出す。

 ひゅうひゅう、とやけに耳に付く音は己の呼吸音だった。その度に灼けた空気が肺を焦がし、不快さに顔を歪める。だとも呼吸を止めるのは死と同義である。彼は出来る限り浅く、呼吸を最小限に留めるよう努めた。

 変に丸みを帯びた黒岩が、幾重にも層になった大地の更に遠くへ目をやるも、何処までも何処までも、それこそ世界の果てまでも同じ光景が広がっていた。

 生命は勿論、人工物も何一つ見当たらない、原初の世界。

 地獄――。そんな単語が、不意に彼の脳裏へと浮かび、こびり付いて消えなかった。

「ハ――ハハっ」

 自然と喉から乾いた笑いが漏れる。ただそれだけに付随した呼吸でさえ、彼の腔内から水分を奪い、全身からは止めどもなく冷や汗が溢れ出した。

「ああ、そうか。こりゃ夢か。ああ、何だ夢か夢だよ夢に決まってんだろ……!」

 ならばと彼は横たわった。

 煎餅みたいに潰れた愛用の布団――は当たり前のように存在せず、剥き出しの岩肌がそこにはあった。決して寝るに適した場所ではないのは重々承知だが、彼はそこへと寝そべる。岩の下から伝わる熱は、とても夢幻の類には感ぜられなかったが、彼は無理矢理にでも目を瞑りひたすら念じた。額に脂汗を浮かばせながらも、早く覚めろ、覚めろ、と。

 

 

 ――彼の夢が覚める事は、二度となかった。

 

 


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