知らない天井だ。
そんなお約束が思い浮かぶあたり、まだ余裕があったらしい。
アサシンに喉を刺された瞬時に視界が切り替わり、気付けば廊下に仰向けに転がっていた。一拍遅れてどこかから爆音が響く。身代わり人形は正常に機能してくれたらしい。
とりあえず身を起こす。転移の影響かめまいを感じて頭を振ると、傍らで葉山が尻餅を着いているのが目に入った。いきなり現れた俺に驚いたらしい。
見回すが辺りにメディアの姿は無い。はぐれたのか?
「葉山、メディアは?」
「メ、メディアさんならそこの部屋に……いや、それより比企谷、お前今どこから……?」
葉山の視線を追って後ろを見るとドアがあった。
「なんで入らない?」
「メディアさんが外で待つようにと」
身を起こしながら葉山が答える。が、質問しておいてなんだが、葉山が口を開くより早く理由に思い当たってしまっていた。
俺はメディアの側で魔術関連のあれこれを見ている内に、魔力ーーらしき気配のような何かを感じとれるようになっていた。そしてドア越しに感じるそれは、メディアから感じたものと比べてひどく禍々しい印象を受ける。
そう言えばメディアは魔力ではなく呪いと言っていた。なるほど、これから素人を遠ざけようとするのはごく自然な判断だろう。いや、ただの俺の勘違いという可能性もあるが。
「メディア、入るぞ」
「お、おい、いいのか?」
ドア越しに短く告げてノブをひねる。葉山が止めようとするが気にしない。本当にマズイなら念話で制止が入るだろう。
そもそもの話、今の俺たちには選択肢など無いのだ。外に居てもアサシンに殺されるだけなのだから。
そう考えて部屋に入る。
幸いというべきか、瘴気とでも呼ぶべきその気配がいきなり溢れ出てくるようなことはなかった。
部屋はそれなりの広さがあってがらんとした印象を受ける。高級そうなピアノが置いてある以外は、特筆するべきものはなさそうだ。ーーあくまでも部屋そのものには。
メディアは入口からもっとも離れた部屋の隅にうずくまっていた。そこで足下の何かに険しい顔で手をかざしている。
おそらくメディアの言う呪いの影響なのだろう。その周辺だけ奇妙に歪んで見えて、足下のそれが何なのかは分からない。
「メディアさん、何を」
葉山がメディアに不用意に近づく。そしてセリフの途中でまたしても尻餅を着いた。
「し、した……人が、死ん……!」
顔を青ざめさせ、歯の根の合わない様子で何かを呟く葉山。
情けない、とは思わない。メディアの催眠暗示が無ければ俺だって大差なかったはずだ。多分、悲鳴を上げなかったのは驚嘆すべき偉業なのだろう。きっと。
俺は葉山を無視してメディアに近寄る。メディアの足下に横たわるそれは、まさしく人間の死体に見えた。
スーツ姿の女性。おそらくは外国人。髪は短いが美人だ。……どことなく相模に似ているが、ただの偶然だろう、さすがに。
呼吸が止まっているのか、その胸は動いていない。血色は極めて悪くほとんど土色である。とてもではないが生きた人間のものには見えない。
そしてもっとも特筆すべきは、左手が無い。手首から先が欠損している。刃物か何かで切り取られているようだ。ちなみに出血はしていない。というよりすでに止まっているみたいだった。
声をかけて良いのか少し迷ったが、このままではらちが明かないので聞くことにする。
「死んでるのか?」
「いえ。ひどいダメージを受けて仮死状態になっているようです」
「蘇生出来るか?」
「今やってます。怪我はすぐに治せますが、呪いに囚われて時間が凍結しているのでそれを解凍するのに時間がかかります」
「分かった。急いでくれ」
呪いの解凍はメディアの腕を持ってしても簡単ではないらしく、その額には汗が浮かんでいる。アサシンがこの部屋を突き止める前に間に合ってほしいが、期待はしない方がいいだろう。
保険はもう使ってしまった。あまり無茶はしたくないが、そうも言っていられない。武器になりそうな物を探して部屋を見回していると、恐る恐るといった様子で葉山が声をかけてきた。
「ひ、比企谷、頼む、説明してくれ。一体何がどうなってるんだ?」
少し迷う、が……まぁ、ここまできて何も分からないままってのもあんまりだよな。
「……昼間の話、覚えてるか?」
「あ、ああ……まさか、あれ、本当なのか?」
「残念ながら本当だ。詳しい事を話している時間はさすがに無いが、とりあえずあの黒い奴らは敵で、このままいけば全員殺されるってことだけ覚えとけ」
「……あの倒れてた人は何だ?蘇生させるとか言ってたけど、あの人を起こせば助かるのか?」
「わからん」
「わからんって……」
「俺たちは今、追い詰められている。この状況を覆せるカードは手札に無い。あとはもうドローカードに期待するしかねえんだ」
遊戯王なら意思の力で望み通りのカードを引き寄せられるんだけどな。
現実逃避も兼ねて、そんな益体もないことを考える。分の悪すぎる賭けではあるが、他に手の打ちようがない。
とりあえず、あの女性が何者で、起こしたところでどうなるかは意識して思考から締め出す。代わりにほんの少しでも時間を稼ぐ方法を探していると、ふと視線を感じた。葉山だ。
「……なんだよ?」
先ほどまでの、怯えと恐怖に支配されていたそれとは異なる眼に、つい聞いてしまった。
葉山はどこか言いにくそうに質問してくる。
「お前は、どうしてそんなに冷静なんだ……?」
「メディアにそういう魔術をかけさせている」
そのままを答えると、葉山は虚を突かれたように目をしばたたかせた。
「……そうなのか?」
「ああ」
「そうか……そうか」
葉山はそう、何かに納得したように何度も頷いた。……え、何こいつ?今ので何をどう納得したの?
「なぁ、その魔術、俺にもかけてもらえないか?」
「メディアは今、手が離せない。今は無理だ」
「そうか……」
それが出来れば葉山を戦力に数える事も出来たんだけどな。
素人が戦闘の役に立たないのは弱いからではない。パニックを起こすからだ。むしろ下手に大きな力を持った奴に暴走されると、足を引っ張られて余計に被害が大きくなる。逆にパニックさえ起こさなければ、弱い奴にでも使い所はあるのだ。
もっとも今の状況では、どちらにせよ焼け石に水ではある。……それでも無いよりはマシってのが泣けてくるな。
「葉山」
俺は懐から最後のフラッシュグレネードを取り出して、ピンを抜いた。そして呆気に取られている葉山にしっかりと握らせる。
手榴弾という武器は、ピンを抜いただけでは起爆しない。ピンはあくまでレバーを押さえるための物で、このレバーさえ放さなければ爆発することはない。
「お、おい……?」
「いいか葉山、俺が合図したらこれをあそこの入り口に向かって思い切り投げ付けろ」
「俺に、戦えっていうのか……?」
「投げるだけでいい。後は俺がやる。一手だけ手伝ってくれ」
実際それだけでもありがたい。猫の手も借りたいってのはこういう状況なんだろう。違うか、違うな。
葉山はゴクリと喉を鳴らすと、俺を見据えて重々しく口を開いた。
「なんとか、できるのか……?」
「やるしかねえだけだ」
出てきたのは肯定でも否定でもない言葉。しかしそこに拒絶の意思は感じない。
俺はそれを承諾と見なし、武器として使えそうな物に手をかけた。
「……変わらないんだな、呆れるくらいに……」
背後から聞こえたその呟きの意味は、俺には解らなかった。
戦闘準備と言ってもできることなどタカが知れている。
その少ない準備を済ませてしまえば、後は敵が現れるのを待って神経を研ぎ澄ますくらいしかすることがない。
幸い、いや、不幸にもだな。アサシンがこの部屋を突き止めるのには大した時間はかからなかった。
ダンッ!という音とともに内開きのドアがわずかに開く。アサシンが扉を蹴り開けようとして失敗したのだ。
扉の前には玄関ホールでも見かけたくそ重い花瓶が二つ並べて置いてあり、扉の稼働を邪魔している。
無論、こんな物で侵入を阻めるはずもなく、再びの衝撃音が響く。蝶番が弾け、扉が花瓶ごと内側に傾いた。
「葉「うおぉぉぉぉっ!」
俺が声を発するよりも早く、葉山がこれ以上はないという完璧なタイミングでフラッシュグレネードを投げる。
野球部からもスカウトがあったという豪速球が、寸分違わず扉の隙間に滑り込んだ。わずかに覗いた白い仮面に直撃したのは望外の幸運と言えるだろう。バウンドしたグレネードが空中で炸裂した。
眩い閃光が収まり、ほとんど間を置かずにアサシンたちが活動を再開する。やはり対応されている。が、一度見せた手で数秒稼げたなら上等だろう。その間に俺は投擲体勢に入っている。
踏み込んだアサシンが俺に視線を向けーー固まる。今の俺の姿はサーヴァントから見ても十分に異様だったらしい。
「おおぉるぁぁぁぁぁぁっ!!」
ぶちぶちと、限界を超えて酷使された筋繊維が千切れるような幻聴を聞きながら、俺は『抱え上げたグランドピアノ』を思い切り投げつけた。
この大質量を受け止める事はできないらしく、先頭のアサシンが慌てて横っ飛びに避ける。しかし入り口付近にはそもそも躱すためのスペースが存在せず、後続のアサシンを二人ほど押し潰しつつグランドピアノが入り口を塞いだ。これでまた少し時間を稼げる。
メディアの身体強化をもってしてもピアノはキツかった。ヘロヘロに震える腕に活を入れ、入り込んだアサシンに備える。
アサシンは受け身を取って素早く起き上がると瞬時に間合いを詰めてきた。頼むからちょっとは動揺してくれ。
突き出される短剣を警棒で弾き、脚を狙って蹴りを放つ。逆に足首を踏み抜かれたがブーツのおかげでダメージにはならない。
踏まれた脚をそのまま振り上げる。アサシンはバランスを崩して後ろに下がるが転倒には至らない。それでもわずかに開いた間合いを利用して、左手に握り込んでいた物を床に叩き着けた。
パァン!
百円ライターの安っぽい容器が砕け、内容されたガスが破裂する。光すら出ない小さな爆発ではあったが、派手な破裂音にアサシンが一瞬身を固くした。
その隙を突いてタックルをかける。肩がみぞおちに突き刺さり、浮いた顎に頭突きを見舞う。そしてアサシンの持つ短剣に手を伸ばし
ブスッ
鈍い感触。一拍遅れて鋭い激痛が二の腕を襲う。
左腕を刺されていた。しかしこれは想定内。痛みを無視してアサシンの腕をへし折り、細い身体を弾き飛ばす。
身体能力そのものはこっちが上だ。組み合えば勝つに決まってる。
左腕に残った短剣を引き抜き倒れたアサシンに止めを
「ーーかーーっ」
唐突に全身から力が抜け、為す術もなく倒れ伏す。指一本、どころか悪態すら出せない。
毒があることは知っていた。それでも短剣を奪って振り下ろすくらいはできると考えていたのだが、完全に当てが外れた。ここまで一瞬で動けなくなる代物だったのかよーー!
ドスッ
「ーーっ」
鈍い痛みが腹部を走る。アサシンが蹴りを入れてきたのだ。
さっさと止めを刺すべきだろうに。自分の事だというのに無関心にそう思った。
アサシンたちにも個体差があるらしい。こいつは激昂しやすいタイプなのか、動けない俺を何度も蹴りつけてきた。
時間にして数秒ほどで冷静さを取り戻したのか、落ちた短剣に手を伸ばしーー
「うああぁぁぁぁぁぁっ!!」
突然の雄叫び。
バギャン!!という音を残してアサシンが真横に吹き飛ぶ。
「はあ……!はあ……!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして。
脚は内股で震えて。
それでも、壊れたピアノの椅子を手に。
葉山隼人がそこに居た。
(バカやろう……!)
こいつに何ができるわけでもない。
無駄な足掻き。それ以外の何物でもない。
こいつは俺と違って完全に素のまま、身体強化も催眠暗示の加護も無いのだから。
だというのに、葉山はアサシンに向かって身構える。
葉山は恐怖に歯を鳴らし、腰は引け、手は震えて今にも得物を取り落としそうだ。
ひどく頼りなく、限りなく情けなく、例えようもなく不様だった。
その姿はまるで、何の力も無いくせに大切な何かのために強大な敵に立ち向かう、少年漫画の主人公のようでーー
ーーああ、ちくしょう。
やっぱかっけぇなあ、こいつ。
怖い怖い怖い怖い怖いーーーー!
ゆっくりと起き上がる黒尽くめから吹き付けてくる、凄まじい怒気に身が竦む。
思わず飛び出してしまったことに後悔するが、今さら引っ込みもつかない。比企谷はなんでこんなのと戦えるんだ!?
一歩ずつ、威嚇するように黒尽くめが寄ってくる。その恐怖に耐え切れずこちらから飛び出してしまう。
「うわあああああっ!?」
狙いも何もない。ただでたらめに椅子の残骸を振り回す。
攻撃はそもそも届いてすらおらず、黒尽くめは目の前にきた椅子を片手で払った。軽く触れただけにしか見えなかったのに、上体が大きく振り回されて体勢が崩れる。
「げぶっ!?」
黒尽くめの膝がみぞおちにめり込む。
「……っ、げぇ……!」
昼に食ったサンドイッチを吐き戻しつつ膝を着く。たった一撃でもう動けない。
黒尽くめは俺の髪を掴み、今度は顔面に膝蹴りを入れてきた。
「……かっ、げほっ」
痛みに床に転がってのたうち回る。血の混じった胃液を吐き出すと、吐瀉物の中に白い欠片が見えた。歯が折れたらしい。
黒尽くめは俺の頭を踏み着けると、ギリギリと体重をかけてきた。
痛い痛い痛い割れる痛いちくしょう何で痛い!
なんだよこれ!?なんで俺がこんな目に会ってんだよ!
俺はただ、行方不明の雪ノ下さんを探して、その途中で比企谷に会って、そうだ比企谷だよ、あいつに会ったせいで全部おかしくなったんじゃないか!
涙に滲んだ視界で、比企谷を睨む。比企谷はまだ動けないのかピクリともしない。
ちくしょう、呑気に寝てんじゃねえよ!お前俺より強いんだろ!?さっさと助けろよ!
あいつのことはずっと気に入らなかった。
いきなり現れて、俺にできないことを平然とやってのけるあいつが、どうしても受け入れられなかった。
さっきは魔術に助けられていると聞いて、同じ条件なら俺だって負けないとも思った。だけどすぐにそうではないと思い知らされた。
やるしかないからやるだけ。
あいつはそう言って黒尽くめに立ち向かった。
その言葉は以前にも聞いたことがあった。
あいつはきっと、どんな時でもあいつのままなんだろう。だから魔術なんか無くても戦ったはずだ。
俺はそれが、たまらなく羨ましく、どうしようもなく妬ましい。
ああそうだ。俺は、ずっとあいつに嫉妬してたんだ。
どんな時でも冷静で、不可能なんか何もなくて、誰でも救ってしまうすごい奴。
そんな比企谷を、この黒尽くめは殺そうとしている。
「ふっ!ざっ!けんっ!なぁっ!!」
膨れ上がった怒りで痛みと恐怖を塗り潰し、黒尽くめの脚に噛み付く。どうやって踏みつけから抜け出したのかは分からない。というかどうでもいい。
黒尽くめはガシガシと俺の頭を蹴るが、絶対に放してなんかやらない。
ふざけるなよクソ野郎!お前らみたいな奴に比企谷を、俺達を殺す権利なんかあるものかよ!
ガスッ!と、強烈な一撃が頬に入り、引き剥がされてしまう。ちくしょうっ!
黒尽くめはさらに俺の腹を蹴り上げた。俺は吹き飛んでごろごろと転がり、比企谷の隣で止まった。もう本当に動けない。
ガシャンッ!
いきなり響いた音に視線を動かすと、窓を破って他の黒尽くめが入ってくるところだった。表から回り込んできたらしい。
さらに入り口からもピアノが退けられ、敵が入ってくる。
(終わりかよ、クソったれ……!)
諦めが心を支配する。
何かを想う間もなく黒尽くめの一人が俺達に歩み寄り、短剣を振り上げーー
グシャ
そんな水っぽい音とともに、黒尽くめが崩れ落ちる。目の錯覚か、その黒尽くめには首から上が無いように見えた。
「ありがとうございます、隼人様。おかげで間に合いました」
いつの間にかメディアさんが、俺の身体を起こして支えてくれている。
ざわりと、黒尽くめたちの間から動揺の気配が伝わってきた。
気がつけば、俺達と黒尽くめとの間には、スーツ姿の女性が立ちはだかっていた。
そのスーツ姿の背中が、無機質に呟く。
「ーー状況がよく分かりませんが、とりあえず脅威度の高い相手から排除しましょうか」