はてさて、生き残りのための最低限の条件をクリアしたはいいが、依然として絶望的な状況であることは変わらない。
俺とイリヤスフィール。
魔術を知らない者なら、誰が見ても俺が勝つと言うだろう。なんなら卑怯者やらゲス野郎といった罵声と共に、空き缶や石ころが飛んでくるまである。そのくらい体格に差がある。
しかし当の俺は、まったくもって楽観する気にはなれなかった。
この幼女の代わりに熊と戦えと言われれば、おそらくそっちに飛び付く。魔術師とそうでない人間の力には、それほどに差があるのだ。
聖杯戦争が本格化する前に、メディアと模擬戦をしたことがある。その時俺は、メディアに触れるどころか歩かせることすらできなかった。無論、メディアが手加減していての話だ。
ぶっちゃけた話、ただの人間が魔術師に挑むというのは、難易度で言えばFFノーセーブクリアと大差ないだろう。要するに普通に考えれば不可能だ。
しかし俺は知っている。ネオエクスデスをLV7で倒したバカを。オープニングからエンディングまでは五時間だったか。いやこれ関係ねえな。
まあなんだ、厳しいからって諦める理由にはならんさ。やらなきゃならん事をするのに、それが出来るかどうかは関係ない。俺の尊敬するヒーローがそう言ってた。ちなみにギャグパートだったのは秘密。
ナイフを正面に構えたまま、左腕を震わせ筋肉をほぐす。そうしながらイリヤスフィールに声をかけた。
「なあ、砂漠の針って知ってるか?」
「……なにそれ」
「いや、知らんなら別にいい」
セリフの終わりと同時に、倒れこむようにして駆け出した。
実力においてどう逆立ちしても敵わない相手と戦う時、さらにはその相手にどうしても勝ちたい時、どうすればいいと思う?
昔読んだ古いラノベで、主人公が回想の中で師匠から言われたセリフだ。
幼い主人公は分からないと答えた。そんな主人公に、師匠は人の悪い笑みを浮かべてこう教えたんだ。
(イカサマするのさ、だったよな。チャイルドマン先生!)
身を低くし、地を這うような体勢で疾走する。
脚で走っているとは思えないスピード。強化状態の俺は、100m5秒を切る。驚け、亀仙人より速い。
走りながら左腕を振るう。
袖から飛び出したトカレフを見て、イリヤスフィールが失望に近い表情を見せた。
そんなオモチャが通じると思っているのか。
(とでも思ってんだろ)
無論、通じるわけがない。そもそもこれは、BB弾しか撃てない正真正銘のオモチャだ。
左腕を振り上げて銃口を向ける、フリをして銃を頭上へと放り投げた。
イリヤスフィールは反射的にそれを目で追う。そのために、俺の左袖から新たに別の物が転がり出たのを見逃した。
ドッ
重量のある何かが、湿った土を叩く音。その音につられてイリヤスフィールが今度は下を向く。直後、光が爆発した。
暴徒鎮圧用の
雪ノ下を通じて陽乃さんに取り寄せてもらったアイテムの中でも取って置きだ。
閃光に網膜を焼かれ、イリヤスフィールが怯む。
メディアに頼んであらかじめ防御を施しておいた俺は、光の中でも速度を緩めることなく一気に間合いを詰め、その小さな身体の中心目掛けてナイフを突き出す。
迷いは無かった。己れよりも圧倒的に強大な敵が相手だ。迷いを持つ余裕など無い。にも関わらず、その刃が届くことはなかった。
肉抜きされた大振りの刃、そしてそれを持つ右手が、目に見えない、よく分からない力に絡め取られている。
イリヤスフィールの胸の十数㎝手前。その空間で固定されたみたいにビクともしない。
「……随分酷いことするじゃない。眼が悪くなったらどうするのよ?」
そんなセリフと共に右腕、というか手首の辺りに上向きの力が加わり、ゆっくりと持ち上げられる。
「う……お!?」
抵抗するがまったく通じない。肘が伸びきってからも手首は上がり続け、ついには宙吊りにされる形となる。
「いい格好じゃない。ここからどうしようかしら?」
冷笑を浮かべるイリヤスフィールと目が合う。その目を一瞬右に逸らす。それにつられ、イリヤスフィールの視線も反射的に右を向いた。
誰にでも出来る簡単な
めぎしっ
そんな耳障りな音と共に、イリヤスフィールに向けた筈の左腕が奇妙な方向へと捻じ曲がる。
骨がメチャクチャに砕けた腕は力なく垂れ下がり、隠し持っていた催涙スプレーがこぼれ落ちた。
イリヤスフィールは薄笑いを浮かべ、空中にぶら下がる俺へと言葉を投げた。
「同じ手が二度も通じると思う?」
「ああ、思うね」
実際衛宮達を逃がしてるわけだしな。俺は脂汗を浮かべながらもニヤリと笑ってみせた。
肩を揺すって砕けた左腕を動かすと、袖から何かがこぼれ落ちる。
イリヤスフィールがそれに目を向けた瞬間、再び閃光が溢れる。
二つ目のフラッシュグレネード。陽乃さん印のビックリアイテムはこれで打ち止めだ。
イリヤスフィールももう対策しているだろう。だから目潰しの効果は期待できない。それでも注意を引くことはできる。それで充分だ。
効果的な不意討ちとは何か?
背後からの攻撃?否。視界外からの攻撃?否だ。
それらは間違いではないが本質を捉えてはいない。不意討ちというものは、意識の外から放たれるから有効なのだ。
相手がまったく予想してない攻撃であれば、正面からでも不意討ちは成立する。予測してないロングフックの前には、幕の内一歩ですら一撃でマットに沈むのだ。
俺は右手の、宙吊りにされて動きを封じられている右手の親指を押し込む。
バチンッ
硬いバネの弾ける音がした。
スペツナズナイフ。
ソ連の特殊部隊、スペツナズが使用していたと言われるナイフで、バネ仕掛けで刃を射出することができるという、中二心をくすぐりまくる逸品である。
実際にスペツナズで使用されていたかどうかは実は怪しいらしいが、『バネで刃が飛び出すナイフ』という代物は実在している。ちなみに日本では法律違反になるらしい。
俺の入手したこれは、おそらくそうした都市伝説の類いを聞いて複製されたバッタもんだろう。
重心がおかしいのか微妙に取り回しが悪いし、肝心のスプリングが弱いのだろう、射程にいたっては3mもない。
だが、俺は元々素人だ。道具の良し悪しが勝敗に影響するような相手ならば、そもそも殺し合いになどなりはしない。
だから、俺が聖杯戦争で直接戦闘を行うことになった場合、重要なのはいかにして不意を突くか。その一点に絞られる。
その意味で、スペツナズナイフというのはうってつけの武器と言える。
そして今、俺はその武器を、最高の状態で使っていた。
敵は勝利を確信した直後に足下へと注意を引き付けられ、頭上から、それも拘束した筈の右手から、致命の刃が放たれて――
「――へぇ、こんなオモチャもあるんだ?中々面白いわね」
それは結局、イリヤスフィールへと届くことはなかった。
「……っそ、たれがぁ……!」
放たれた刃は、イリヤスフィールの額の数㎝手前で、空中に静止していた。
「下品な言葉使いね。嫌だわ」
イリヤスフィールのそんなセリフに合わせるようにして、柄の無いナイフがふわりと彼女の周りを浮遊する。
判っていた。届かないことは。
1%の可能性。そんなものに賭けて上手くいくのはフィクションだけだ。
現実で挑戦したりすれば、普通に負けるに決まっているのだ。
ギチリ
手首を吊り上げていた力が強まり、その手に残されていたナイフの柄が落ちる。
「手品はもうネタ切れ?なら、今度はわたしの番よね?」
そう言って、白い少女は嘲笑う。
ネズミを前にした猫のように。
奇跡とは、それを信ずる者にのみ訪れる。
比企谷八幡の危機回避能力の高さは不信に依るところが大きい。
彼は何も信じない。
善意も。幸運も。偶然も。
無論彼一人では何もできない。だから誰かを頼る必要がある。
そのため、譲歩として必要以上に疑わないことを選択した。
フィクションの物語の中には、『疑わない』ことを『信じる』ことの上位互換のように扱っている作品もある。が、それは本来逆なのだ。本物の信頼というものは、疑念の先にあるものなのだから。
比企谷八幡は信じない。
他人も。友愛も。運命も。自分自身ですらも。
信じなかったからこそ、死と隣り合わせの日々を、死線に触れることなく越えてくることができた。
しかしそれもここまでだ。ここから先は、疑わないだけでは足りない。
信じることのできない比企谷八幡の、限界だった。
奇跡とは、それを信ずる者にのみ訪れる。
無論奇蹟とは、信じただけで起こせるほど安いものではない。
最後の最期まで奇跡を信じ続け、結局何も起きないまま命を落とす者の方が遥かに多い。
しかし、それでも奇跡を起こすのは、必ずそれを信じ抜いた者だけなのだ。
奇跡とは、それを信ずる者にのみ訪れる。
すなわち、奇跡を信じぬ比企谷八幡が、奇跡を引き起こすことは、
無い。