負けることに関しては自分こそが最強と。
しかしそんなことはない筈なのだ。
彼は問題に直面した時、誰もが選ぶ、もっとも簡単で、確実で、安全なその手段だけは採らなかった。
見て見ぬ振りをする。
その選択だけは、決して選ぶ事はなかったのだから。
ならばそれは、強さと呼んでも良いのではないのだろうか。
少年にとって不幸だったのは、少年が自分で思っているよりもずっと強かったということだろう。
そのために少年は、関わる者達を見捨てることができなかったのだから。
彼の妹によれば少年は捻デレなのだという。
だから、少年自身が認めることはけしてないのだろう。それでも。
彼の強さの、その根底にあるものは。
きっと、優しさと呼ばれるものなのだ。
「……八幡様、逃げませんか?」
私のその言葉にも、比企谷八幡は微動だにしなかった。
体を森へと向けたまま首だけを捻り、肩越しに私へといつもの腐った視線を向けている。
これはある種の賭けだった。
比企谷八幡は何かを覚悟している。時間稼ぎとやらにどのような手段を用いるつもりかは分からないが、なんにしても生き延びられる可能性は高くない筈だ。
この男の本性を見極める機会は、おそらくこれが最後になる。
「人数が減れば追跡をかわすのも容易になります。私達だけなら逃げ切れると思います」
これは本当だった。
アインツベルンの技量は相当だが、私とてキャスターのサーヴァントだ。侵入の際にトラップの癖は見切っている。全てをかわすのも不可能ではない。
「……衛宮達を囮にしてか」
「はい」
「お前が抜けたら作戦はどうなる」
「大丈夫ですよ、きっと。セイバーも復活しましたし、凛様も切り札を持ってきてるみたいですから」
この切り札というのが中々強力だった。上手く決まれば本当にサーヴァントでも倒せるだろう。
「それじゃ足りないからこんな素人の作戦に乗ったんだろうが」
「それに士郎様にも固有結界がありますし」
「将来的に使えるようになるかもしれないってだけだろ。何の足しにもならん」
「追い詰められて才能が開花するかもしれませんよ?ほら、士郎様のこと前に主人公って言ってたじゃないですか」
「あるわけねえだろんなもん、ラノベじゃあるまいし。現実じゃ、策も無しに追い詰められたらそこで終わりだ」
「そうとも限りませんけどね、魔術が絡むと特に」
窮地に陥ることで集中力が極限まで高まり、それまで出来なかったことがいきなり出来るようになるというのは、実は結構ある。
集中力が重要な魔術では、その傾向は特に高い。無論、そうならない可能性の方が遥かに高いが。
「それに良いじゃないですか、それでも。どの道最後には倒さなければならない相手なんですから。ここで潰し合ってもらいましょう」
「……その後はどうする。お前じゃバーサーカーに対処できないだろう」
「アインツベルンのマスターは衛宮士郎に拘泥しています。彼さえ手に入れてしまえば満足しますよ。そのまま聖杯戦争から降りてしまう可能性もあるでしょう」
そこで、会話が途切れた。そのまましばし見詰め合う。
睨み合い、ではない。
比企谷八幡の視線に微かに含まれる感情を感じ取り、つい激昂しそうになるがどうにか平静を装って続ける。
「ねぇ、そうしましょう?セイバーが倒れ、バーサーカーが去れば、残りはランサー一人。私と八幡様なら倒せますよ、きっと」
ランサーの正体は既に判っている。強敵ではあるが、相性という点においてはバーサーカーほど悲惨ではない。
私と比企谷八幡がきっちり策を練れば、決して勝てない相手ではないだろう。
「そうなればどんな望みも思いのままですよ?別に大それた事に使う必要なんてありません。小さな願いを少しずつ叶えていけば、それこそ一生遊んで暮らすくらいわけない筈です」
比企谷八幡は聖杯を要らないと言っていた。それはおそらく本心だろうが、だからと言って丸きりの無欲ということにはなるまい。
実際この男は無欲という言葉にはほど遠い。ただ並以上の幸福を求めないというだけだ。
「ですから……逃げましょう、ね?所詮は他人じゃないですか。八幡様が犠牲になる必要なんてありません。小町様だって悲しみます。もし、私と逃げて下さるのなら……」
ここで一度言葉を切る。私にとってもそれなりの覚悟を要するセリフだから。
「……私と逃げて下さるなら、今度こそ、八幡様に忠誠を誓っても構いません」
私はそれまでのやや軽い調子を引っ込め、真剣な面持ちでそう告げた。
この言葉は本気だった。この男がこの状況で自分を優先してくれるのであれば、私はこの先を奴隷として過ごしても、なんなら比企谷八幡を逃がすための捨て駒として使われても構わない。
さあ、どう出る、比企谷八幡?
私のカードはこれで全てだ。
お前はもう戦わなくても良い。元々こんなところへ来てしまったことが間違いなのだ。日常に帰れるなら帰るべきだ。
理由は与えた。メリットも示した。逃げ道も作った。
後は言葉にするだけだ。それだけでお前は、あの暖かい場所へ帰れる。帰してみせる。
だから言え。逃げると。死にたくないと。そうすればわ
「準備を進めろ。見落としの無いようにな」
比企谷八幡は、それだけ言って視線を前に戻した。
「……なんでよ」
怒りに声が震えているのが自分でも分かった。
「あんな作戦が上手くいくと思ってるの?そんなわけ無いでしょうが!いいえ、それ以前の問題よ!作戦の成功失敗に関わりなくあなたは死ぬ!そのくらい分かっているでしょう!?」
感情を抑え切れず声を荒げてしまう。
バーサーカーに気付かれるかもしれない。
遠坂凛達にも聞こえているだろう。
まずいのは分かっている。しかし止まれない。
「時間稼ぎ?ただの人間に何が出来る!ああ、お前は優秀だ。だがそれだけだ!今までだって私の魔術があってどうにか切り抜けてきただけだろうが!」
そう。作戦は比企谷八幡が時間を作ることが前提となっている。
だがそもそも無理なのだ。ただの人間が、バーサーカーを相手に時間稼ぎなど出来るわけがない。
「分かっているだろう!?お前が生き残る道は逃げることだけだ!なのに何故戦おうとする!?」
一息に吐き出し、息を荒げる。
比企谷八幡は、正面を向いたままで答える。
「……あいつらは、多分この先必要になる。失うわけには」
「建前はもういいと言っている!」
もうたくさんだ!
「この先必要になる!?お前の目的は何だ!生き残ることだろうが!やつらを生かす為に貴様が死んでどうする!?貴様の言っていることはバラバラだ!」
思えば初めからそうだった。
この男の言うことは、筋が通っているようで微妙にチグハグだった。ほんの少しずつだが目的から外れているのだ。
「そう、そうよ。なんで令呪を使わなかったわけ?あんたなら思いついていた筈でしょう?そんな目的、すぐに達成できたって。その最後の令呪で」
「やめろ」
そうだ。私が思いつくのだ。この男が考えなかったわけがない。この命令ならば、確実に、安全に聖杯戦争から降りることができる。
令呪とサーヴァントを、まとめて片付けることができる。
「最後の令呪で、私に死ねって命令すればよかったじゃない!」
「やめろ!」
二人の叫びが重なり、沈黙が降りる。
分かっている。この男は、その命令をしなかったのではない。できなかったのだ。それは分かっている。
そして私は、それが気に入らないのだ。
「……ねえ、なんで?なんでそうしなかったの?私を憐れんだわけ?」
頑なにこちらを向こうとしない比企谷八幡の背中に、卑屈な笑みを投げかける。顔に水気を感じた。雨でも降ってきたか?
「ふざけるな!貴様が、よりにもよって貴様如きが、この私を憐れむだと!?貴様など……、貴様など……!」
一息に言ってしまいたいのに、上手く言葉が出ない。爆発して壊れた感情に塞き止められてしまう。それでも無理矢理に吐き出すと、思った以上に大きな声が出た。
「貴様など、私と同類の癖に!」
それが悔しかった。
ああ、そうだ。私が気に入らないのは、結局これに尽きる。
人の振りをして過ごしていた頃、私は夢という形で比企谷八幡の過去を垣間見た。
それなりに壮絶だった。この男とならば解り合えるかもしれない。そんなことを思いさえした。
私ほど悲惨ではないとは言え、そんなことは当人にとって何の救いにもならない。あんなものは人の受ける扱いではない。
私達には世界を憎む資格がある。復讐する権利がある。
彼が聖杯を手にして破滅を望むのであれば、自分の願いを差し置いてでも叶えてやろう。そう思った。それなのに。
お前は何故憎まない!?何故恨まない!?
絶対に許さない。そんな馬鹿なことを言いながら、この男はその実誰も憎んでなどいなかった。あまつさえ、恨むべき相手に救いの手を差し伸べてすらいる。
何故そんなことができる?
権利と義務は表裏一体だ。お前は、私と同じ最底辺の人間の筈だ。世界に復讐しなければならない筈だ。なのに何故それを望まない?
これでは、私だけがあまりにも惨めではないか……!
「何が違う。私とお前は何が違う!貴様は何だ!?答えろ、比企谷八幡!貴様は何の為に戦っている!?」
比企谷八幡は、あくまでも背を向けたままだった。そのままで深くため息を吐くと、一言だけ呟くように言った。
「……依頼、されたからな」
……依頼?何の話だ?
私が疑問符を浮かべたのを気配で察したか、さらに言葉を続ける。
「何だ、雪ノ下から聞いてないのか?ったく、たまに抜けてるよな、あいつも」
雪ノ下雪乃だと?何故今さらそんな名前が出てくる?
「飢えた者に魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教える。それが奉仕部の理念なんだとよ。俺は入部させられた時に言われたんだけどな」
だからこいつは何を言っている!?
「依頼は『なりたい』だったからな。理念に抵触してない以上、突っぱねるわけにもいかねえんだよ。過程がどうあれ、引き受けた以上仕事はこなすさ」
「『なりたい』?さっきから何だ!一体誰からどんな依頼を受けた!?」
「お前が言ったんだよ」
その言葉に、固まる。
私の依頼だと?私がいつ、何になりたいと言ったというのだ?
比企谷八幡はやはり背を向けたまま。そのままで、左手で後ろ頭をボリボリと掻いている。
不意に思い出す。
この仕種は、学生として過ごしていた頃に気付いたこの男の癖だった。何か照れくさい事があった時、この男はこうやって誤魔化そうとするのだ。
「だからまぁ、その手伝いくらいはしてやる」
それで終わり、らしい。
わけが分からない。一体何を言いたかった?
ただ、嘘をついているわけではないことは直感的に分かった。
この男は、思いの他嘘を嫌う。こういう場面では意外なほど不器用な人間なのだ。
考える。
私に覚えはないが、この男は私の依頼で戦っているらしい。ならばその依頼とはなんだ?それらしい会話など一度も……
「!?」
いや、あった。一度だけ。たった一度だけ、この男の前で『なりたい』と言ったことが、言わされたことがある。
だけど本当にそうなのか?あんなものを依頼と呼ぶのか?
「……お前が小町の名前とか出すから、わが家の飯が恋しくなっちまったじゃねえか」
沈黙を誤魔化すように、比企谷八幡がぼやく。左手で頭を掻きながら。
「だからまぁ、さっさと終わらせて帰ろうぜ」
私は崩れて膝をつく。自分の胸を抱いて涙を堪えようとするが止まらない。
帰ろう。
その言葉で分かってしまった。いや、本当はもっと前から気付いていたのかもしれない。ただ私が認めなかっただけだ。信じなかっただけだ。
あの日。私が召喚されたあの日に、無理矢理言わされたあの言葉。
『幸せになりたい』
この人はずっと、その、たった一言のために戦ってくれていたのだ。
比企谷八幡は言葉を続ける。左手で頭を掻きながら。
「……また、野菜炒め作ってくれよ。今度はベシャベシャじゃないやつな」
「はい…………!」
あくまでも背を向けたまま。私の涙を見ないように。
その然り気無い優しさに、また涙が溢れる。
「小町もお前に料理教えるの楽しそうだったからな。また付き合ってやってくれ」
「はい…………!」
思えばセイバー達を護ろうとしているのも、聖杯戦争ではなく、私に必要だからだと考えているのかもしれない。
もうちょっと考えて欲しい。どう考えてもあなたの方が重要ではないか。
生き残ろう。絶対に。
そう決意する。
それとほぼ同時だった。
「茶番は終わった?」
唐突にかけられたその言葉に、私は涙を拭って立ち上がる。
「退屈な劇を見せられて、眠くなっちゃったわ」
そう言って、霧深い森から白い少女が姿を現す。
形ある『死』を引き連れて。
「それじゃあ、狩りを始めさせてもらうわね?」