強くなどなかった。
超然となどしていなかった。
ただ必死で、そう在ろうと繕っていただけだったのだ。かつての自分と同じように。
届かぬ理想を追い求める少女を。
不様にあがき続けるその姿を。
少年は。
やはり美しいと思った。
だから、自分も貫くことにしたのだ。
己の信じる最良を。全体にとって、もっとも価値のある選択を。
それは他人には、少年が己を犠牲にしているように見えたかもしれない。
しかし少年は、単に効率を最重視しただけなのだ。
自分が行動しなければ、別の誰かが不幸になることを知っていた。
その誰かが複数であるなら動くべきだ。
不幸になるのが自分一人なら、その方が幸せの総量は多い筈なのだから。
その判断の基に、少年は何度も泥を被った。
それが、彼自身の嫌う欺瞞であることに目を瞑りながら。
どさり、と音を立ててゴミ捨て場に落ちる。
うず高く積まれたゴミ袋がクッションになったため、衝撃はそれほどでもなかった。代わりにバランスを崩して転げ落ちたが。
ゴミ袋の中身は、幸いにも生ゴミではなく布の端切れやビニール袋などで、それほど不快さは感じずに済んだ。
「あ、ひ、ひいぃぃっ!」
そんな悲鳴を上げて、ライダーのマスターが逃げ出した。
ネオンの光と人混みの気配に我を取り戻したらしい。這って私から距離を取りながら立ち上がり、そのまま大通りへフラフラと駆けていく。
……あの様子では警官に補導されるかもしれないが、そこまでは知ったことではない。なんにしても殺されるよりはマシだろう。
ライダーのマスターはそのまま捨て置くことにする。それより問題はこっちだ。
私はスポーツバッグを肩にかけ直し、ワカメとは反対方向に駆け出した。
バーサーカーは比企谷八幡が抑えている。とはいえ、当たり前だが長くは持つまい。一分稼げれば御の字だろう。その間にわずかでも距離を取る必要がある。
しかしここでも注意しなければならない点があった。
このスポーツバッグには切り札の一つが入っている。比企谷八幡考案の身代わり爆弾人形だ。
戦線からほぼ確実に離脱できる強力な保険ではあるが、当然のごとく万能というわけにはいかない。有効距離が短いのだ。
正確に測ったわけではないが、直線距離で数十メートル程度。少なくとも百メートルには届かなかった筈。だから今回のように外を出歩く時にはわざわざ人形を持ち歩かなければならない。
フィールドによるサポートがあれば射程を拡大することも可能なのだが、こうした遭遇戦ではどうにもならない。ただ、壁やなにやらの影響は受けないため、高低差や障害物を利用すれば単純な数値以上の効果を発揮することはできる。
もっとも今回の場合、そもそも射程外まで逃げる事は時間的に不可能だろう。だからただ全力で逃げればいい。
ビルの隙間でいくつかの角を折れた時のことだった。
唐突にバッグが重くなる。身体強化していなければ取り落としてたところだった。そしてそれからわずかに遅れて背後から爆音が響いた。
どうやらリバースドールは無事に起動したらしい。複数用意できればよかったのだが、材料と製作時間の問題で一つしか作れなかった。そのため動作確認なども行えず、実は少々不安だったのだ。
そして今回で、準備期間中に用意した魔術的な手札は使い切ってしまったことになる。終末の泥はある程度回収したが、さすがにもう使える場面があるとは思えないし。
隠行をかけてから立ち止まる。スポーツバッグを地面に下ろしチャックを開けると、既に見慣れた腐れ眼と目が会った。これ、ビックリ箱か何かにすれば…………いや、駄目か。こんなの子供が見たら間違いなく泣き出す。
スポーツバッグに生えたゾンビ顔に声をかける。
「ご無事で」
「おう。とりあえず開けてくんねえか?出られん」
要求に答えてチャックを下ろそうとして、引っ掛かる。開かない。
「……おい?」
「壊れたみたいですね。大き目の物を選んだつもりでしたが、やはり人が入るには小さかったようです」
「ようですじゃねえよ。なんとかしろよ」
「せっかくですしこのまま運びましょうか?間違ったマスコットキャラみたいで可愛いですよ?」
「間違ったっつってんじゃねえか。つうか肩震わせて笑いこらえてんじゃねえ。ったく、よっ…と」
比企谷八幡が、折り畳むようにしてバッグに収まっていた身体を無理矢理動かす。ブチブチと音を立ててチャックの部分が千切れていった。もうこれは使えなさそうだ。安物だからいいけど。
比企谷八幡は壊れたバッグの奥からノートパソコンを取り出し私に渡してきた。
「……っ、PCを開けろ。操作方法は分かるな?」
「分かりますけど、ご自分でなさった方が……どうなさいました?」
様子がおかしい。表情は変わらないが脂汗を浮かべている。左腕を庇っているように見える。
「……腕、見せて下さい」
「折れてるだけだ。それよりバーサーカー達の様子を探れ。隠れてる間にロッカーの後ろにマイクをねじ込んでおいた。使い魔の方はどうだ?」
「だけって……、大変じゃないですか!すぐに治療しないと!」
リバースドールの発動のタイミング。その設定が、実は結構難しい。
感度を高くしすぎると、日常のちょっとした怪我で反応してしまうし、かといって下げすぎると肝心な時に作動が遅れ、入れ替わるまでに大怪我を負うなんてことにもなりかねない。
今回の設定では、一度に2cm以上皮膚を損傷した場合に効果を発揮するようにしてある。そしてそれは正しく機能した。つまりバーサーカーの攻撃は、リバースドールが発動するまでの、ほんのわずかなタイムラグの間に骨まで達していたということになる。
さすがは最強のサーヴァントといったところか。部位が腕でなければ、致命とはいわずとも結構な惨事になっていた可能性もある。
比企谷八幡は厳しい表情のままで私の申し出を拒絶した。
「向こうを確認する方が先だ。セイバーは消耗してる。今襲われたらヤバい。対策を練る必要がある」
……こんな時でも、こいつは……!
「……使い魔は爆発にやられました。細かい指示をお願いします」
反発しそうになる心を押さえ付けて承諾の旨を返す。
必要な機能は基本的にすぐ使えるように設定してある。だからスリープ状態から復帰するのを待ってクリックするだけでよかった。
マイクが爆発でダメージを受けたのか音割れが酷い。が、それでもどうにか機能はしているようだ。
「……どうやら、バーサーカーのマスターは退くつもりのようです」
「……爆弾が効いたのかね。怪我でもしたか?」
「いえ、そういう様子は感じられませんが」
「……盗聴に感づいてる気配は?」
「それも無いと思います」
「気分屋なのか……?ま、退いてくれるってんならありがたい。衛宮達は遠坂に任せて俺達は離れよう。バーサーカーと鉢合わせるとまずい」
言って立ち上がる。
私はそれを留めようと声をかけた。
「八幡様、それより治療を」
「ああ、頼む。でも移動が先だ」
「……分かりました。急ぎましょう」
その判断は正しい。治療したところで、バーサーカーに捕まってしまえば何にもならないのだから。ここはまだ安全圏にはほど遠い。
とはいえ、いくらなんでも冷静すぎはしないだろうか。そうなるように調整してあるとはいえ、いきすぎな感は否めない。
なんにしても今は逃げるのが先だろうが。
私はノートパソコンと広げた小道具を壊れたバッグに詰め込むと、先を小走りに進む比企谷八幡を追って走り出した。