「ハッハッハッ!ようやく俺にもツキが向いてきたぞ!」
夫は乱暴に扉を開け放って入ってくると、いつものように酒を煽り始めた。
しかし、今日は常とは異なり料理に文句をつけるようなことも無い。
「この国の王がな、俺のことを気に入ったらしい。娘婿に欲しいとよ。ようやく俺を正しく評価できる奴が現れたってわけだ!」
やめてください。やめてください。
「まあ肝心の娘はえらく生意気だが……ま、そこさえ我慢すりゃ国一つが丸々手に入るんだからな。贅沢は言うもんじゃない」
夫は上機嫌で語り続けていたが、不意に黙り込んだ。
これはあれだ。またしてもろくでもない事を思い着いたサインだ。それを言い出す前兆だ。
「……そういやお前、あのバカ雌に妙になつかれてたな?」
そう言ってにやりと顔を歪める。
これまでに何度も見てきた、誰かを陥れる時に必ず見せる、醜悪な笑み。
「確か炎を糸に変える術を使えただろう。その糸で編んだ布でドレスを作れ。お前からの贈り物ならあの苛つくガキも疑わんだろ」
やめてください。やめてください。
もう意思など残っていないけれど。ただ言いなりになるだけの人形だけど。
そんな私のことを、彼女は友達と呼んでくれたのです。
「あの女が居なくなりゃこの国は俺一人のモンじゃねえか。式さえ済ませちまえばこっちのモンだ!文句を言う奴が出たらお前の首を跳ねりゃ良い。それで仇討ち完了だ。さすが俺、冴えてるぜ!」
カタン。
小さな物音に目を開ける。
時計を見ると午前2時。
こんな時間に起きてしまったというのにまるで眠気を感じない。代わりに身体がダルい。疲れが取れてないらしい。
……戻っちまったな。
原因は分かってる。メディアだ。
メディアを召喚してしばらくの間もこんな感じだった。ここ数日は割と普通に眠れていたのだが。
今日の帰り、トイレに行って戻ってきたら、いきなり豹変していた。
表面的にはいつも通りを取り繕っていたが、俺の眼は誤魔化せない。いや、直前まで本音が見えない事に戸惑っていたのに、ちょっと離れた隙にまた見えるようになっててかなり驚いたけど。
喉が渇いていたのでキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けてMAXコーヒーに手を伸ばし、眠れなくなりそうだと考え直してポカリを取り出す。
……あいつになんかしたっけかな。
自問してみるが答えが出ない。
今日の部活では久々に依頼があった。
心当たりと言えばそれくらいなのだが、それがどう作用してメディアに恨まれる羽目になったのかが皆目解らん。いや、恨みとは若干違う気もするが……。
まあ以前とは違って、負の感情があくまで俺一人に向けられているのが救いと言えば救いか。これなら雪ノ下や由比ヶ浜が巻き添えを喰う確率は低そうだ。
二階に戻ってきて、自分の部屋のドアノブに手をかけ――何とはなしに隣の部屋に目が行く。
ちょっと前まで物置代わりだった部屋。メディアに人間として生活させるようにしてからは彼女の部屋になった。
片付けを手伝うつもりでいたら、メディア一人で30分足らずで終わらせてしまったので驚嘆したのを覚えている。中にあった物が何処へ行ってしまったのか分からないので、多分魔術で何かしたのだとは思うが。
そのメディアの部屋のドアを開ける。俺の部屋と同じで鍵は無い。
特に警戒もせずに踏み込む。
「……閉め忘れてんぞ」
そんな言葉が漏れる。
部屋は無人だった。まあ分かっていたが。
メディアは深夜、家族が眠るのを見計らって街に出掛けている。
俺に不足している魔力をかき集めているのだろう。これは召喚直後から続いているメディアの日課だ。
その際窓から出入りしているのだが、窓が閉まり切っておらず、隙間風が吹き込んでいた。
一つ嘆息して閉めてやる。このままでは部屋が冷えきってしまう。
召喚したその日、メディアにはあまり余計な事はするなと言っておいた。
それは他のマスターやサーヴァントの目に留まる事を恐れてだが、行動しないということは、何の備えも出来ないということでもある。
逆にメディアのように先を見越して行動すれば、準備を進めることは出来るが敵に気付かれる確率が上がる。
重要なのはどこで線引きするかだが、俺にはそれを判断する為の知識が全く無かった。
だから隠れると決めたと同時にそれを徹底するように命じたのだが、メディアはそれに背いた。
それ自体は別に良い。
尻尾を掴ませない為に一切行動しないか、見付からないように水面下で行動するか。
どちらが正解かなんて結果以外で語ることはできない。
大体仕掛けやらなんやらで散々メディアに魔術を使わせてきたし、俺だって魔術を使わなかっただけで情報収集はしていたのだ。
本当に徹底するなら、それすらするべきではなかった筈だ。メディアを責める権利など無い。
部屋をぐるりと見回す。
机もベッドも無い。
親父は揃えてやると言っていたのだが、長く居座るわけではないからだろう。メディアはそれを辞退した。
代わりに折り畳み式のテーブルと布団。それに丸っこいぬいぐるみがいくつか。この前のゲーセンでクレーンゲームをしてたから、その景品だろう。
机の上には黒猫がプリントされたマグカップに、俺のVitaちゃん。どこ行ったのかと思ってたらこいつの仕業か。それからペタペタと貼られた、何枚かのプリクラ。
プリクラの中のメディアは笑っていた。
由比ヶ浜と一緒に、あるいは三浦や海老名さんや葉山や戸部と一緒に。雪ノ下と一緒に写っているものもあった。雪ノ下一人だけムスッとしてるのが、なんと言うか、らしい。
ここだけ見ればすっかりリア充だ。実際、メディアもこの生活を気に入っていた筈だ。
俺は聖杯戦争に関して、雪ノ下相手には結構色々頼み事をしていたが、由比ヶ浜にはほとんど何も言ってない。
それは信頼云々の話ではなく、受け持つ役割と適性の問題だ。
この一年足らずで、俺も雪ノ下も確かに変わった。外から見て分からなくても、自分が認めたくなくても、それでもだ。
そしてそれは間違いなく由比ヶ浜の影響だろう。
だから、今度もそれを由比ヶ浜に期待した。由比ヶ浜なら黒く染まった魔女の心を融かすことができるかも知れないと思った。
それは上手くいっていた筈なのだ。
俺が一番懸念していたのは、遭遇するかどうか分からない敵マスターではなく、メディアに殺される可能性だった。だけどそれは、由比ヶ浜のお陰でほとんど霧散したと考えている。
俺は人の善意というものが理解できない。
つまり、俺が行動を読めないということは、その相手が善意で行動しているということだ。
だからメディアの考えが読めなくなったときも、戸惑いはしても心配はしていなかった。だというのに……。
また溜め息が出る。
何が原因かは分からないが、俺はメディアの機嫌を損ねてしまったらしい。
振り出しに戻った、というわけではない。
メディアの悪感情は俺一人に向いている。だが、俺と関わりのある人間に塁が及ばないとは限らない。
また、メディアは俺の家族に対して特別な接し方をしていたように思える。
小町だけに対してだったなら、単なるゆるゆりだろうと気に留めなかっただろうが、親父やお袋に対しても結構気を許していた。小町に特別甘かったのは間違いないが。
これは推測だが、メディアは『家族』というものに特別な憧れがあるのかも知れない。だから暗示の影響とは言え、初めから『家族』として接してきた相手になついたのではないだろうか。
ところが今のメディアは小町にさえも心を閉ざしているように見える。全体で見れば振り出しどころかマイナスとすら言えるかもしれない。
「……もう、限界かもな」
メディアは沈着冷静を装っているがかなりの激情家だ。今の状態が続けば、遠からずでかいヘマを犯すだろう。そうなれば、もう日常を演じることは出来なくなるだろう。
覚悟を決めておくべきかもしれない。いや、実を言えば覚悟ならもう出来てる。あとは決意だけだ。
もう一度嘆息する。そろそろ寝るか。
時計を見ると既に3時を回っていた。一時間以上も考え込んでいたらしい。
後一時間もしない内にメディアも帰ってくるだろう。それまでに、せめて寝たふりくらいはしておかなければ。
ひしひしと、なんでもない日々が遠ざかる気配を感じながら、俺は静かにドアを閉じた。