それは1月も半ばを過ぎた頃のことだった。
「やっはろー!」
今日も今日とて由比ヶ浜の元気な声が部室に響き渡る。
「こんにちは、由比ヶ浜さん」
「よう」
俺と雪ノ下もいつも通りに挨拶を返し、いつものように手元の文庫本に視線を落とす。
由比ヶ浜もやはりいつもの席に腰を下ろし、いつものように携帯をいじりだす。そのうち黙っていることに飽きて雪ノ下に話しかけるのだろう。それがこの奉仕部の日常だ。
それが今日は少しだけ違った。
「そうだゆきのん、はいこれ」
唐突に由比ヶ浜がカバンから一冊の本を取り出した。
赤い革の装丁の、古めかしい本。由比ヶ浜の手にあることに凄まじい違和感を感じる。
雪ノ下に目をやると困惑の表情を浮かべている。この本について心当たりのようなものは無いらしい。
「由比ヶ浜さん、これは?」
「この前あたしでも読める本選んでくれたでしょ。だからそのお礼!」
「別にお礼なんて……」
「いいからいいから!ゆきのん難しい本好きでしょ?あのねー、あたしも自分でなんか探してみようかなーって思って古本屋さんで見つけたんだ」
「はぁ……」
思いっきりドヤ顔の由比ヶ浜に、雪ノ下はどう返せばわからないようだ。つうか相変わらず仲良いな、こいつら。
「なぁ、由比ヶ浜」
「なに、ヒッキー?あ、もしかして羨ましい?ダメだよ~、これはゆきのんへのお礼なんだから。で、でも、どうしてもあたしに選んでほしいって言うなら今度一緒に……」
「本好きの一人として言わせてもらうけどな、本好きは難しい本が好きなわけじゃないぞ」
「ほへ?」
「そりゃ難しい方が読みごたえはあるけどな、あくまでも面白いから難しくても読んでいるわけで。ただ難しいだけで面白くない本なんか好きな奴は、多分この世にいないぞ?」
「え、えぇ~~!?」
いや、そこまで驚くようなことか?ちょっと考えりゃ誰でも分かることだと思うが。
もっともちゃんと考えて行動する由比ヶ浜というのも考えにくいけど。……うん、まったくもって想像できん。何コレ悲しい。
「う~。ゴメン、ゆきのん……」
先程までの得意顔からは打って変わってショボくれる由比ヶ浜。そんな由比ヶ浜に、雪ノ下は優しく微笑みかけた。
「気持ちだけで嬉しいわ、由比ヶ浜さん。それに面白いかどうかは読んでみなければ分からないでしょう?あんな廃棄物を組み合わせて出来たような男の言うことなんて気にすることないわ」
「……うん。ありがとゆきのん。ヒッキーの言うことなんか気にしちゃダメだよね」
「友情を深めるのは別にいいんだけど、ナチュラルに俺をディスるのはやめてくれませんか?」
今のある意味由比ヶ浜の方がヒドイよ?雪ノ下はいつも通りだけど。今のがいつも通りとかそっちのがよっぽどヒドイか。
「んで、それなんの本なんだ?」
俺は由比ヶ浜が持ってきた本を観察する。
先にも述べたように、年期の入った赤い革表紙。何か湿ったような質感のそれに、見たことのない文字と真円に囲まれた六芒星、いわゆる魔方陣が金色で描かれている。
ぶっちゃけ気味の悪い本だった。
「……お前ってセンスだけは良い奴だと思ってたんだけどな」
「えー、なんかカッコよくない?」
こんなもん格好良いと思うような奴は材木座くらいだろう。さすがの雪ノ下もこの発言はフォロー出来ないらしく、気まずそうに目を逸らしている。
「……まあ表紙と中身の出来は関係ないしな。て言うかそもそもどこの本なんだこれ?英語じゃないよな?」
「これが英語に見えるのなら中g「えっ!?コレ英語じゃないの!?」……少し遡って勉強し直すことをお奨めするわ」
「おい、途中で変えんな。最後まで言い切れ」
「何の話かしら」
明後日の方を向いたままとぼける雪ノ下。マンガなら口笛でも吹いてるところだろう。ホンット由比ヶ浜には甘いよな、こいつ。
「で、結局何語なんだ?」
「……見たところギリシャ語みたいね。調べながらでないと難しいかもしれないわね」
難しいで済んじゃうんだ。普通なら頑張っても読めないもんだと思うけど。
その後は特に変わったこともなく、ダラダラと他愛ない話を続けて、下校時刻の少し前に部活終了となった。
そして翌日の放課後。
「あの本、読んでみたか?」
雪ノ下に尋ねてみた。何だかんだで興味はある。
「ええ、少しだけね」
「あ、読んでくれたんだ。どうだった?」
プレゼントしただけとはいえ、やはり自分が関わった物のことは気になるのだろう。由比ヶ浜も食いついた。
「そうね……何と言えばいいのかしら。とりあえず、普通の本とは言えないわね」
珍しく歯切れの悪い物言い。というか
「お前らしくもないな。『普通』なんてジャンルの本がこの世にあるとでも思ってんのか?」
「その意見を否定する気はないけれど、そういうことを言っているのではなくて……いわゆる小説などの類いの、書店に普通に出回っている種類の本ではなかったわ」
「? んじゃ、なんなんだ?」
「そうね……。本物の、と言っていいのか分からないけれど、恐らく魔導書、と呼ばれる物だと思うわ」
……………………
「雪ノ下。少し休め」
「何故かしら。心配されることをここまで不愉快に思ったのは生まれて初めてだわ」
「なあ雪ノ下、お前自分が今何を言ったか理解してるか?材木座と同レベルのことを口走ったんだぞ?」
「……それ以上侮辱するなら後悔だけでは済まさないわよ」
雪ノ下の瞳の奥に本気の殺意が見て取れた。だがここで退くわけにもいかない。
色々文句を言ってはいるが、俺はこの奉仕部を気に入っているのだ。雪ノ下が壊れていくのを黙って見過ごすことは出来ない。
「なあ雪ノ下。俺にとってお前も由比ヶ浜も、もう欠かすことのできないものなんだ。頼むから自分を大事にしてくれ」
「……っ!ひ、比企谷くん、何を勘違いしているのか分からないけれど、私はこの本が何だったのかを答えただけよ?別にこの本に感化されたとか、そんな事実はどこにも無いわ。……だから、そういう不意打ちはやめてちょうだい……」
雪ノ下は、怒りの為にか真っ赤になってそう答えた。
なんだ、この歳になって中二病を発症したわけじゃないのか。最後の方はよく聞き取れなかったけど、とにかく良かった。ところで何で由比ヶ浜まで怒ってるんだ?
ゴホン、と何かを誤魔化すように咳払いをしてから、雪ノ下は本の説明に戻った。
「いい?この本には悪魔の召喚法や魔術の理論なんかが書いてあるのよ。それもかなり本格的なものが。分類的には恐らく学術書になるのでしょうけど……」
こんなものを学問に含めたくはないわねと、雪ノ下は呆れを含んだ声音で付け加えた。
まあ、雪ノ下には合わんよな。翻訳の労力を払ってまで読みたいとは思わないはずだ。そんな物、俺だって食指は動かない。そういう設定を用いた物語ならともかく。
が、興味を持っちゃったバカがいた。
「やってみたい!」
由比ヶ浜がなんか眼をキラキラさせてた。
「……えーと、由比ヶ浜さん、何を?」
雪ノ下がこめかみを指で押さえて尋ねる。
「悪魔召喚とか面白そうじゃん!あたしそういうのやったことないの!」
「大多数の人間はやったことないと思うぞ」
「えー、いいじゃん。なんか魔方陣とか書いてベントラーベントラーって踊るんでしょ?」
「お前小町より酷いこと言ってんぞ」
ねえねえやろうよゆきのんと雪ノ下にまとわりつく。雪ノ下は難色を示しているが……こりゃ落ちるな。
「……仕方ないわね。明日から準備を始めて週末にやりましょう。今日の帰りに必要そうな物を買いに行きましょうか」
「やったー!」
ああ、やっぱり。
無駄だと知りつつも、一応は確認を取る。
「オイ、いいのか?」
「……仕方ないでしょう?由比ヶ浜さんはああなったら聞かないんだから」
いや、単にお前が由比ヶ浜に特別甘いだけだと思うが。
「ねえゆきのん、必要な物って何があるの?」
「とりあえずは魔方陣を書く為の塗料かしら。片付けのことを考えて落とし易いものがいいわね。後、ロウソクが何本か……」
「ホームセンターで揃うかな?」
女の子二人で買い物の相談、と言うには色気がなさすぎる。
こんなアホなことで時間使って、自分が受験生だって分かってんのかね。
「ほらヒッキーもちゃんと話聞いて!ヒッキー荷物持ちだかんね!」
「ヘイヘイ……」
まあ、楽しそうだしいいか。
後にして思えば。
この時、強引にでも却下しておくべきだったのかもしれない。
それから特に何事もなく週末になり、儀式の時がやってきた。
部室はスペースを空ける為に机と椅子が後部に片付けられ、床には数日かけてコツコツ描いた魔方陣。
二人は、魔法使いのコスプレでも披露してくれるのか、と思っていたらそんなこともなく。
あちこちに立てられたロウソクに火を灯して、後は呪文を唱えるだけ。ちなみにそれは雪ノ下の役目だ。なにしろあの本を読めるのが雪ノ下だけだし。
「……それじゃあ、始めるわよ」
雪ノ下が雰囲気たっぷりに告げる。別に意識してやったわけではなく、元々そういう空気を纏っていたというだけだが。
俺と由比ヶ浜は、邪魔にならないように隅の方でしゃがみこんでいる。
「残念だったな、自分でやれなくて」
「え?なんで?楽しいよ?」
無理をしている風でもなく、にこにこしながらそう答える。
要するにこいつは、儀式がやりたかったわけではなく、単に何か変わったことがしたかっただけなのだろう。
そういう意味ではこの儀式は、既に成功していると言っても良いだろう。
「告げる――」
雪ノ下もそれは分かっているのか、特に気負うこともなく淡々と、しかし雰囲気を壊すことなく呪文を唱え始めた。
「――告げる。
汝の身は我が下に、我が運命は汝の剣にーー」
おお、なんかすげぇ。由比ヶ浜も息を飲んで見入っている。
「ーー聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うなら応えよ――」
カタン――
どこかで、そんな音がした。
「――誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者――」
轟!
そんな効果音が付きそうな風が、突如室内に吹き荒れる。
「な、なんだ!?」
思わず立ち上がった俺の頭のすぐ横の壁に、ズガン!と何かが叩き付けられる。
「……は?」
見れば椅子が壁に突き刺さっていた。
「おわーーーーっ!?」
部室内を渦巻く風に乗って、後ろに押し込めていた机や椅子が乱舞していた。つかなんだこりゃあっ!?
「きゃあー!?なになになにーー!?」
由比ヶ浜は頭を抱えてうずくまっている。多分それで正解だ。
「由比ヶ浜!そのままじっとしてろ!」
俺は一声叫ぶと身を低くして部室の中央、雪ノ下の方に向かって踏み出す。
雪ノ下はこの状況にも関わらず、いまだに呪文を唱え続けていた。つーかなんか魔方陣が光ってね?
「オイ!雪ノ下、止めろ!中止だ!」
理屈やなにやらは分からんが、この現象の原因は儀式以外に考えられない。
「雪ノ下!止めろって――!?」
止める気配のない雪ノ下の、肩を掴んで振り向かせようとするがびくともしない。
力を込めて抵抗されたというより、その位置に固定されている物を動かそうとしたときのような感触。
雪ノ下の顔を覗き込むと、恐怖にひきつった表情で目に涙を浮かべながら、それでも呪文を唱え続けている。……これ、もしかしなくても、オカルト系のマンガとかでたまに見る、『身体が勝手に動いちゃう』状態なんじゃ?
雪ノ下が目だけで俺を見る。その瞳が明確に言葉を投げかけてきた。『助けて』と。
即座に決断する。
「後で訴えるとか言うなよ!」
雪ノ下の腰に手を廻し、バックドロップの要領で思い切り引っこ抜く。
ガクン、と一瞬の抵抗の後、驚くほどあっけなく雪ノ下の身体が浮き上がり、勢いがつきすぎて二人して後ろに倒れこんだ。
「ってぇ……、オイ、大丈夫か雪ノ下」
「え、えぇ。助かっ……!?」
セリフの途中で雪ノ下が絶句する。驚愕に見開かれた雪ノ下の視線を追っていくと――
「――マジかよ」
例の魔導書――もう本物でいいだろ――が、先程までとまったく同じ位置で、つまりは宙に浮いたままで、激しくページをはためかせていた。
「このヤロ……!」
「比企谷くん!何する気!?」
「叩き落とす!」
この状況がなんなのか。はっきり言って皆目見当がつかない。
だがこれだけは確実に言える。ほっといたらヤバい!
俺は立ち上がり、右手を振り上げ、思い切り魔導書に叩き付けた。瞬間、
「痛っ!?」
魔導書から放電のような光が走り、鋭い痛みが走った。何故か左手の甲に。
魔導書は意外にも簡単に吹き飛び、一度だけバウンドしてから床に落ちて――同時に暴風も収まった。
「何……だったの?」
雪ノ下が呆然と呟く。俺が聞きてえよそんなもん。
とりあえず手を貸す。
「立てるか?」
「え、ええ。ありがとう」
「怪我は?」
「大丈夫……だと思う」
ふう、ようやく人心地ついたぜ。
余裕が出来たところで由比ヶ浜にも気を向ける。
「由比ヶ浜、大丈夫か?」
……返事が無い。ただの屍のようだ。
じゃなくて!
「オイ!由比ヶ浜!?」
慌てて振り向くと、由比ヶ浜は元の位置で呆然と座りこんでいた。
……脅かすなよこのヤロウ。お約束がシャレになってなかったぞ、今の。
「……起きてんだったら返事くらいしろよ。おい、目ェ覚ませ」
いまだに呆けたままの由比ヶ浜の頬をペチペチしてやろうと近付くと、ようやく由比ヶ浜が反応を示した。
「ヒ、ヒッキー……あれ……」
由比ヶ浜は、震える声と指である方を指した。
雪ノ下も同じ方を見て固まっていた。
そこに有る物を見て、俺達が何をしていたのかを思い出した。
それは、悪魔召喚の為の魔方陣。
その中心に立つ、俺でも、雪ノ下でも、由比ヶ浜でもない『誰か』が口を開いた。
「――あなたが、私のマスターですか?」