―――――――夢を見る。
繋がった、細い、細い回路から血液が流れるように、手が届くはずもない、遠い世界の記憶を見る。それは懐かしくも儚い、悲劇の始まりとも言える、
思い出す必要さえなく、
浸れるほど多くもない、
ただ過去としてある
――――もう。今更変える事の出来ない、決定してしまった契約の重い楔。
一面の雪景色の中でそいつは笑っていた。大量の、赤い花弁を散らしたかのような、真っ赤に染まった体を横たえて。
声も挙げずにただ笑っている。
痛みに呻く事なく当たり前のように笑っている。
駄々っ子の言い分を聞き入れるかのように穏やかに笑っている。
どんな理由があって、そんな怪我をしてまで、そうやって笑っていられるのかは判らない。只管そいつは、真綿をちらつかせる灰褐色の空を見上げて、笑っているのだ。ともすれば、気が狂ったかのようにも見えるその表情に、どうしてか気が気ではなかった。
けれどいつしかその笑みは力を失くし、光が宿っていた瞳も何も映さなくなった。ああ、死ぬのかと。オレはそう思いながら、そいつを見ていた。
それから幾何もしないうちに、どこにそんな体力が残っていたのかは知らないが、そいつは体を起こして歩き始める。紫に変色した唇に、力のない笑みを浮かべて。腹部には大きな穴が開いていた。何かで刺し貫いたかのような、大きな穴が。
そこから滴り落ちていた血は寒さ故か凍り、運よくそいつの命を繋ぎ止めていた。だがそれも長くはもたない。結局、そいつは真綿のような真白の絨毯の上に倒れ伏した。
――――どうしてそうなったのかは判らない。
いや、そんな状況だったからこそ、そうなったのかもしれない。兎に角、酷い有り様だった。倒れ伏した体は、底なしの飢えを凌ごうと群がった狼に牙を突きたてられ、こそぎ落とすように肉を貪られていた。
息をしているのもおかしいほどボロボロになってようやく、そいつは死を迎えようとしていた。どうしようもない結末。今まさに命が尽きようとしていた時、そいつは。
『契約しよう。我が身の"記憶"を捧げる。その報酬を、ここに貰い受けたい』
世界などという得体の知れないモノと契約した。
――――死に瀕して漸く、初めからそうしておけば良かったのだと気が付いたかのように。
そいつは、英雄という、都合のいい存在になったのだ。
気付けば、狼たちに貪られ傷ついた体は全て癒えていた。
それからそいつは、決して多くはないけれど確かに人を救って行った。非人道的なこともしてきたが、それでも、救われた人々は確かにそいつに感謝していた。しかし、英雄という地位にこそあれ、そいつは一度も英雄とは呼ばれなかった。救われた者たちが、世界に切り捨てられる筈の存在だったこともある。
だが、もとより、そいつの目的は英雄になる事ではなかったのだ。ただ、英雄になるのはあくまでも過程で、その先にある
だからだろう、速やかに、終わりはやって来た。何かを為すたびに徐々に記憶を削られていきながら、"原初の願い"すら思い出せなくなっても、まるで意に介さず走り続けるそいつが、世界は目障りになったのだ。
そいつは自分の器も、実力も弁えている。己が為そうとする事の無謀さも理解していた。救う事が出来た存在を思うたび、取り溢してしまった命があることに後悔して。真逆の路を行く
それでも、己が救うべきモノのためにしたことだと。自分は決して、間違ってはいないのだと。だからこそ、どんな形であれ、救えた者に幸あれと願い続けた。
けれど、悲しいかな。数多の救済の結果こそあれ、"原初の願い"を忘れたそいつは、どうしたって歪んでいた。
ただ只管に
そいつは結局。契約通り、20余年の歳月を経て、
――――その場所に辿り着く。
そいつにはあれこれと手を尽くしてくれる
振り上げた拳は行き場を失い、懐から出した拳銃の弾も尽きていた。立ち上がるだけの余力は無く、背中から豪快に倒れ伏す。炎々と燃える空の下、己が救えなかった者たちの怨嗟の声を幻聴しながら、それでも、そいつは願い続けた。
ひたり、ひたり、と確実に歩み寄ってくる死の気配に怖気づくでもなく、清々しいほどの笑みすら浮かべて。全てを
……けれど、それも終わりだ。辿り着いたのは剣の丘。錆びた鋼の丘で、歩み寄るソレの持つ双剣に貫かれて、そいつの願いは終わりを告げた。
――――果たしてそれは、正しく願いが叶ったと言えるのだろうか。
夥しい血の色に染まり、
死後の契約はなく、使い潰すだけの駒として利用していた世界は、ただ、そいつが消えるのを待っていた。これで目障りな存在はなくなったと、どこぞの世界から入り込んだ
――――けれど、ソイツは違った。
ソイツは自覚した。
兎にも角にも、擦り切れていた/擦り切れ始めていたはずの記憶の中から、その存在を弾き出していた。何の因果か、それとも偶然を装った必然か。感慨もなく、事切れたそいつを見つめていたはずの目に光が宿る。そして。
『ぉ、じき……―――?』
絶望の籠った声を、一滴の涙を、溢した。
思い出す事もないほど昔の、
思い出そうとするほど遠ざかっていく、
思い出す事さえ出来なくなった、
古の記憶。
ソイツは、自身の中に確かに息づいていた
薄々感づいてはいたが、彼が死んだという明確な事実を知ったのは、魔術の師である同級の彼女と
摩耗しきっていたはずだった。思い出す事もなかったはずだった。だからこそ世界はソイツにそいつの始末を任せたのだ。万に一つ、思い出したとして、より一層の絶望に堕ちたソイツが御しやすくなるのであれば、都合が良かったのだ。
――――それが間違いだとは思わずに。
ソイツの腕の中には、一本の槍がある。そいつの人生その物ともいうべき、無銘の紅い槍が。それを楔のように地に突き立て、ソイツは茜色の空を仰ぎ見た。
――――慟哭が響く。
そして、ソイツの"願い"は聞き届けられる。
『――――この
『――――この声の主が、神であれ、悪魔であれ、感謝しよう。……永遠とは言わない、ただの一瞬でも構わない……っ!この人に、私が――オレが奪ってしまった人生の続きを与えて欲しい……!!』
まさしく、"奇蹟"が起きたのだ。だからこそ、そいつは今、存在している。
― ― ― ― ―
(side : Lancer)
「――――まじか」
意識の覚醒と共に、そんな呟きが溢れ落ちた。とんでもないものを見てしまった、あれは
『その辺は心配いらないよ。どれだけ体が冷たくて、心音が聞き取りづらくても、確かに彼は生きている。青年の願いに合わせて、そういう風に私が手を加えたからね。少なくとも、この聖戦が終わるまでは死ぬ事はないだろう』
「――――――――っ」
思考を読まれたような返答に、体が強張る。マスターのものではない、陽気な声が聞こえた方に視線をやれば、フードを目深に被った魔術師らしい風体のヤツがいた。未だ眠りの淵から目覚めぬマスターを起こさぬよう、慎重に身を起こして魔術師を睨む。宙に浮かんだ状態で胡坐を掻いた魔術師の周りには、色とりどりの花が咲き乱れている。
「テメェ、何者だ」
声を押し殺して問う。魔術師は唯一見える口許に柔らかな笑みを浮かべて。
『通りすがりの魔術師のお兄さんだよ。ちょっとばかり、
首を傾げ、手に持つ杖を揺らしながら、そう言った。
『本当は幾つか質問を受け付けてあげたいところだけれど、彼が目覚めてしまうまで時間がないからね。今回は私の話だけを聞いてもらおう』
こほん、と咳ばらいを一つ。そうして、魔術師はオレの事などお構いなしに喋り始めた。
『君が見たものは
言葉の先は紡がれず、魔術師の姿は煙のように消えていく。それは、オレの胸に、一つの暗雲を呼び込んだ。