最悪だ。
3月14日の昼下がり。俺は喫茶店ポアロの扉を開けてからそう悟ったが、遅かった。
なぜ、ここに、この人が。
その場に予想外の人物がいたことに驚きを隠せない。
一瞬の間が空いて、ここの店員である安室さんが俺に気づき、笑顔を向ける。
「いらっしゃい、コナン君!」
つい先ほどまで揉めていた相手に向けられた殺気は、一体どこへいったのか。
「こんにちは、安室さん。……と、赤井さん」
「ああ、ボウヤじゃないか。偶然だな」
俺と目を合わせ、これは驚いた、とでも言いたげな表情を見せる赤井さん。それはこっちの台詞だよ、という言葉を必死に飲み込む。この人は、今の極めて危険な状況を理解していないのだろうか、口調は比較的穏やかだ。
「今日はここのサンドイッチを食べに来たんだ。ボウヤも一緒にどうかな」
「あ、うん。じゃあボクも……」
そこで、すかさず安室さんが俺たちの間に割って入り、
「だから、さっきからあなたに出すサンドイッチは無いと言ってるじゃないですか!それから、むやみにコナン君に話しかけないでくださいよ。あなたは子供に悪影響を与えかねないんですから」
赤井さんのどんな言葉が俺に悪い影響を及ぼすのだろう。少しばかり顔を出したその無駄な興味を、一旦、頭の端に追いやった。この人たちの揉め事だけには巻き込めれたくない、その一心で、安室さんを止めにかかる。
「まあまあ、落ち着いてよ安室さん。ボク、2人に渡したい物があるんだ」
「渡したい物?」「僕たちに?」と、俺に向き直る2人。安室さんが赤井さんに殴りかかるのは、なんとか阻止できたようだ。
「うん、この間のバレンタインのお返しだよ」
せっかく2人がいるんだから、ここでまとめて渡してしまおう。なかなかいい案だと思っていたが、この時はまだ俺のその行動が、本日2回目の揉め事の種になるとは予想できなかった。
手に下げていた紙袋からお菓子が入った2つの包みを出し、それぞれに手渡す。
「こっちが安室さんで、こっちが赤井さん。はい、どうぞ」
「ほう、ボウヤからのお返しか。嬉しいな」
「わあ、ありがとうコナン君。……ところで……」
やばい。この3文字が、瞬時に俺の頭を駆け抜けた。
一度はにこりと俺に笑いかけた安室さんが、手元の包みを眺める赤井さんに、再び殺意たっぷりの視線を向けていたからだ。
「赤井……なぜ、あなたもそれを貰っているんですか」
「なぜって……。俺が一か月前、ボウヤにチョコをあげたからじゃないのか?これは“お返し”なんだろう?」
「それは本当なのか、コナン君!?」
「う、うん……」かなり焦った様子で問う安室さんに、こちらも若干冷や汗をかきながらうなずいた。
もう俺には巻き込まれるルートしか残っていないのかと、絶望しかける。
「僕と赤井、どっちのチョコがおいしかった?」
目の前に迫る残念なイケメンが、続けて俺に質問を投げかけた。
この場合での最良の答えを探そうとするが、これがなかなか難しい。
「ええと……」
助けを求めようと赤井さんを見やると、呑気にコーヒーを飲んでいた。この一大事に何をやっているんだ、あの人は。仕方が無いので、事を荒げないような言葉を選ぶ。
「どっちもすごくおいしかったよ!安室さんも赤井さんも、本当にありがとう!」
とびきりの笑顔を付け加えて礼を言うと、残念なイケメンこと安室さんは心なしか嬉しそうに、
「赤井と同等なのは悔しいけど……コナン君に免じて、今日は赤井にもサンドイッチを出してあげます」
とりあえずこの場を収めることができて、ほっとする。
店の奥へ向かう安室さんを見ると同時に改めて店内を見渡せば、俺たちの他に客はいなかった。顔見知りであるバイトの梓さんもいないようだ。ポアロにしては珍しいが、今思えば、店内にいるのが俺たちだけでよかった。
少し迷って、赤井さんの向かいの席に座る。
「どうしたんだボウヤ、やけに疲れているように見えるが」
「赤井さんのおかげでね……」
「俺の?」
まるで心当たりがないとでも言うように、首を傾げる赤井さん。この空気の読めなさでよくFBIに入れたものだ、と逆に感心してしまう。だが、わざとそう演じているという可能性も捨てがたい。
「赤井さんはさ……もしかして今の状況、楽しんでたりする?」
すると赤井さんはひとつ間を置いて考える素振りを見せ、
「仮にそうだったとして、俺に何のメリットがあるというんだ?」
質問を質問で返すのは反則だ。そう思う反面、確かに赤井さんにとってメリットはないと納得している自分がいた。赤井さんに対して尋常じゃないほど殺意のこもった絡み方をする安室さんは、面白いというより面倒だ。では、やはりこの人は単に空気が読めないのか、もしくは全く気にしていないだけということになる。
重ねて赤井さんが何か言おうとしたのか口を開きかけた時、安室さんがサンドイッチの乗った皿を持って、店の奥から出てきた。
「お待たせしました」
俺たちの前にそれぞれ皿を置き、安室さんは俺に笑いかけ言った。赤井さんとは目を合わせようともしないまま。さっきのことで気が鎮まったと思っていたが、まだ敵意むき出しなのは一目瞭然だ。
それでも赤井さんは気にしていないようで「そうだ、忘れていた」と、傍らの鞄から何かを取り出す。見ると、リボンでラッピングされた細長い箱だった。
「これは俺から君へのお返しだよ、安室くん」
瞬間、安室さんの体が固まる。
「は……?」
「一か月前に君に貰ったプレゼントの“お返し”だよ。もしかして忘れたのか?」
「あ、あれはたまたまここに来たあなたに、たまたまその日出来上がった試作品のチョコを試食してもらっただけで!!ぷ、プレゼントな訳ないじゃないですか!!」
目の前の箱を受け取ろうともせずに、なぜかあたふたとまくし立てる安室さん。
果たして俺はこの場に必要なのだろうか。早く帰りたい、というのが今いちばんの願いだ。
「そうか、喜んでくれると思ったんだがな……」
赤井さんはどことなく寂しそうな面持ちで、箱を鞄に仕舞おうとする。
やっとこの訳のわからない面倒ごとが繰り返される空間から解放される。そう安堵した数秒後、どこまでも大人気なくて素直じゃない安室さんが口を開いた。
「だからって要らないとは言ってません!……仕方ないから貰っておきます」
「そうか?無理しなくていいんだぞ」
「む、無理なんてしてないですよ!」
「ならいいんだが」と差し出された手に“お返し”を置く赤井さんは、今回ばかりはこの状況を楽しんでいるように見えた。
なんだかんだ言って嬉しそうな安室さんと、これはうまいとサンドイッチをパクつく赤井さん。この2人を見ているといつも思う。本当はこの人たち仲良いだろ、と。
赤井さんと一緒にポアロを出た時には、もう空はオレンジ色に染まっていた。
ひとつ、気になることを聞いてみる。
「安室さんへの“お返し”って、何だったの?」
すると歩き去ろうとする赤井さんはこちらを振り向かないまま、
「それはボウヤにも教えられないな。ヒントは、俺と安室くんに所縁のある酒だよ」
答えは極めて簡単だった。この人なら、そんな地雷を踏むようなことでもやりかねない。懲りないなあ、まったく。そう呟いた俺の声は、もう随分と遠くを歩く赤井さんには聞こえていないだろう。
疲労を露わにしながら毛利探偵事務所に続く階段を上る。これからは、あの2人の面倒臭い揉め事に巻き込まれないよう祈るばかりだ。