にこちゃんがμ’sに入るお話です。
部室を出た後、僕はそのまま家に帰ったが、姉さんたちは希先輩に呼び止められていた。おそらく、にこちゃんの過去の話を希先輩が話したのだろう。
あのときにこちゃんに帰れと言われてそのまま帰ったのは、僕の弱さだろうか。にこちゃんのその哀しい過去を受け止められるくらいの大きさと強さがあれば、もっと違う、例えば、あの場で説得できたとか、そういう結果もあったのだろうか。
そして家に着くと、今日の夕食当番である僕はエプロンを着て台所に立った。今日は冷蔵庫にあるもので野菜炒めを作った。
ちょうど料理が完成したところで姉さんが帰ってきた。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
それだけ言うと、一緒に料理を机に運び席に着く。
「…………」
「…………」
食事中、僕と姉さんはだまったままだった。たぶん、にこちゃんのことを話したいが、なんといえば良いのか分からないのだろう。
姉さんはにこちゃんの話を聞いてどう思ったのだろう。可哀想だとか、気の毒だとか、そんな風に思っただろうか。だとしたら、少し嫌だな。にこちゃんはこう、なんて言うか……もっと強い人だ。そんな哀れみなんて必要ない、頑丈な人間だ。そんなにこちゃんのことを、少なくとも姉さんには分かって欲しいと思った。
夕食を食べ終わった後、最初に口を開いたのは姉さんだった。
「優羽、にこ先輩のことですが」
「うん」
「μ’sに入ってもらおうと思います」
「うん……え?」
僕は姉さんの言葉が予想外過ぎて思わず聞き返してしまった。
「それってどういうこと?」
「ですから、にこ先輩をμ’sの一員として引き入れるのです。にこ先輩と私たちは、よく考えるとやりたいことは同じなはず。なら、一緒にやればいいでしょう」
「それは……そうかもしれないけど……」
「けど……?」
「そんなの、うまくいくかなあ……」
「それなら大丈夫です。だって私たちには——」
——穂乃果がいますから。
姉さんは何かを思いだすように言った。なにを思い出しているのかはわからないが、きっとそれは姉さんの穂乃果さんとのいつかの思い出だろう。姉さんはにこちゃんと似てるところがあるから……きっとそういうことだろう。
「それで、具体的にはどうするの?」
「それはですね——」
○ ○ ○
μ’sたちが来て翌日、学校の授業なんて頭に入ってこなかった。
まったく、図々しいったらありゃしないわ。いきなり部室に乗り込んで来たと思ったら、部に入れてくださいですって? ふん、誰が入れてやるかっつの。
部室の前に着いたところで、二人の生徒にすれ違った。
——ああ、こいつらか。
にこが一年生の頃、一緒にこの部で活動していた人だった。すれ違いざま、にこはなんとも言えない気持ちになった。自分を一人残して去っていったことに対する恨みや憎しみ、そしてそうさせてしまった申し訳なさ……そして、すれ違ってもまるで他人のように通り過ぎていく彼女たちへの寂しさ。それらの全てが一度ににこの中を駆け巡る。ああ、やっぱり……。
そうして今日も部室のドアを開ける。それでもこの部は、この部室だけはにこのもの。ここだけは誰にも侵攻されないん——
「「お疲れ様でーす!」」
「!」
電気がついて現れたのは、μ’sのメンバーだった。
「お茶です、部長!」
「部長!?」
「今年の予算表になります、部長!」
「なっ……」
「ぶ、部長、参考にオススメの曲貸して?」
「なら迷わずこの伝伝伝を……」
「あー! それは——」
「まあまあ、ところで次の曲の相談をしたいのですが、部長!」
「部長!」「部長!」「部長!」
彼女たちは次々と部の予定などについて尋ねてくる。
「……こんなことで押し切れるなんて思ってるの?」
にこはあくまで冷たく、呆れたように言う。
しかし高坂穂乃果は、ここまで突き放そうとしているにもかかわらず、おおらかな口調で話す。
「押し切る? ……私はただ、相談しているだけです。音乃木坂アイドル研究部の七人が歌う、次の曲を」
彼女は——高坂穂乃果は、まっすぐとにこの目を見ていた。いや、彼女だけではない。見回してみると、μ’sの全員が高坂穂乃果と同様、まっすぐとこちらを見ている。その瞳たちに何か感じたのだろうか、にこは自分の感情が変わっていくのを感じる。ああ、この感じ……にこはあの時と、あの、アイドル研究部を立ち上げた時と同じような、いいや違う、もっと素敵で、可能性に満ちた気持ちになる。今度こそ、今度こそは、もしかしたら……。
……ああ、やっぱりにこは最初から期待していたのかもしれない。この子たちの可能性に、そして高坂穂乃果という希望に。
にこは閉じていた瞼をゆっくりと開けて言う。
「…………厳しいわよ」
「……! 分かってます、アイドルへの道が厳しいことくらい!」
「……まあ、これからビシバシ指導していってあげるから、覚悟しなさいよね」
「「はい!」」
「……ところで、優羽」
「? どうしたの、にこちゃん?」
「あんたもこれからここで一緒にやっていくのよね?」
「そのつもりだけど、どうかしたの?」
「いや、なんでもないわ」
なぜそんなことを確認したのかは分からない。しかし、その返事を聞いて自分がほっとしたことだけははっきりと分かった。
ともあれこうして、にこはμ’sの一員として、そしてアイドル研究部の部長として、前に進むことを決めたのであった。
○ ○ ○
それから二週間くらい経ったある日の放課後、僕はいつものように部室に来ていた。にこちゃんもまだ来ておらず、僕が一番乗りだった。
さて、今日は何をしようかな、と考えながらイスに座ると、勢いよくドアが開いた。
「大変大変、大変ですぅ! ……って、あれ? 優羽くん一人?」
「そうだけど……どうかしたの?」
「あっ、そうそう! とにかく大変なんだよ!」
「ま、まあとりあえず落ち着こうよ」
興奮状態にある小泉さんをひとまずなだめて、深呼吸させた。
「すぅー、はぁー、すぅー、はぁー……ああ、だめだ! 落ち着いてなんかいられないよ! ラブライブ……ラブライブだよ!」
「ラブライブ……? なにそれ」
「はい、ラブライブというのはですね——」
小泉さんが説明を始めようとしたそのとき、
「あれ、二人とももう来てたんだ」
「こんにちは」
と、ドアが開き、穂乃果さんや姉さんたちがみんな集まった。
「みなさん、大変ですよ!」
振り向くなり、小泉さんは僕の時と同じように興奮して言った。
「あらら、どうしたの花陽ちゃん?」
「——ラブライブです!」
○ ○ ○
全員が席に座ると、小泉さんはもう一度、改めて言った。
「いいですか? ラブライブというのは……」
小泉さんが話す中、ちらりとにこちゃんの方を見ると、しっかりと集中して話を聞いていた。
……よかった、これでにこちゃんもμ’sの一員になれたんだ。
にこにことにこちゃんの方を眺めていると、ふとにこちゃんと目が合う。
「なによ」と言っているかのように睨まれたので、僕も「なんでもないよ、よかったね」という微笑みを返した。
「ちょっと優羽くん、聞いてる!?」
「え? あ、う、うん、ごめんごめん」
「まったくもう……」
なんだか小泉さん、いつもとは人が違うみたいだ。まあこっちの小泉さんも新鮮で良いかもしれないな。
「それで、結局ラブライブってなんなの?」
「はい、ラブライブというのはつまりはスクールアイドルの全国大会、スクールアイドルにとっての甲子園のようなものなのです!」
「な、なるほど」
「はわあ〜、チケット取れるでしょうか……」
「え?」
と、穂乃果さんが少し驚いたような顔で言った。
「なーんだ、てっきり私たちも出場目指して頑張ろーって言うのかと思ったよー」
すると小泉さんはまたまたオーバーリアクションで後ずさりしながら、
「ぴええ!? そ、そんな、私たちが出場だなんて、恐れ多いです……」
しかし、意外にもことりさんが言う。
「でも、せっかくなんだし、目指してみてもいいんじゃないかな?」
姉さんも、
「そうですね。やってみるだけやってみればいいのではないでしょうか」
と、ことりさんの意見を推す。
「で、でも、私たちの今の人気じゃ……」
「なっ、こ、これは……!」
突然、にこちゃんがパソコンの前で立ち上がって言った。
「どうしたの、にこちゃん?」
そう言ってみんなでパソコンを覗くと、そこにはスクールアイドルの公式サイト内のμ’sの動画のページが表示されていた。ここにはその動画へのコメントや、現在のスクールアイドルのランキングなども載せられている。
と、そのランキングのところで僕は、僕たちは目を止める。
「こ、この順位は……」
「前よりもずっと……」
「上がってるにゃ!」
そう、にこちゃんが驚くのも無理もないような順位に、μ’sはランクインしていたのだ。
それを見た穂乃果さんも言う。
「すごいや! これでラブライブ出場も夢じゃないかも!」
「そうだね、穂乃果ちゃん!」
「ふっふーん、にこが入ったおかげね!」
にこちゃんがいつものように冗談交じりに言うが、あながち間違いではないかもしれない。
コメントを見てみると、「みんなかわいい!」「新しい動画すごくいいです!」など、たくさんのコメントがあって、多くの人がμ’sのことを知ってくれていることが分かった。
これなら本当にラブライブも目指せるかも……。
するとそのとき、西木野さんが言った。
「でも、出場するには学校の許可がいるんじゃない?」
「あ……学校の許可ってことは……」
「生徒会長……か……」
そうだ。学校の許可を得るには、生徒会を通して話さなければならない。ということは、あの生徒会長に話さなければならないということであって……。
「じゃあ、生徒会長のところに行って……」
「どう考えても無理よ」
「『学校の許可? 認められないわぁ』って言うに決まってるにゃ」
「じゃあ、どうすれば……」
穂乃果さんをはじめ、みんなで悩んでいると、また西木野さんが、
「理事長に直接言ってみればいいんじゃない? 幸い、親族もいることだし」
と言って小鳥さんの方を見た。
「確かに、直接理事長に掛け合ってはいけないという規則があるわけではありませんし……」
「そうか、その手があったね!」
そういうわけで、僕たちは理事長に直接話をつけるため、理事長室の前に来たのであった。