督戦の龍驤   作:神原傘

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2009年5月。
龍驤は仲間殺しの仲間殺し、すなわち情報部から離反した部隊を殲滅するよう命じられる。
思考をリンクしている八隻の雪風を率い、深夜に攻め入った先は、精鋭の陽炎型八隻が居を構える魔境だった。
慣れない戦いに苦戦を強いられながらも辿り着いた部隊の筆頭艦、雪風より、龍驤へ不吉な言葉が投げかけられる。
コード・ソロモン。耳欠けの漣が遺した言葉の意味が徐々に明らかとなっていく。

オカルティック・ハードボイルド、第四話。


04 GET9 from jillmax

 二〇〇九年五月。

 寒気は遠く去り、新緑と海風が馥郁と香る季節となっていた。

 ここ最近、ひねもす横須賀海軍工廠で術式弾頭の作成に没頭していた龍驤だったが、叢雲から携帯端末を通じて呼び出された。携帯端末に着信音があった瞬間、彫刻刀を持っていた手元が狂い、ひとつ弾頭を無駄にした。

 地下の廊下は相変わらず季節を失っていて、蛍光灯がぽつりぽつりと灯っている。夏はひやりと冷たく、冬は生ぬるい。

 

「邪魔すんで」

 

 ノックもなしにオフィスの扉を開いた。

 叢雲は既に執務机に着き、瞑想しているかのように目を閉じ、腕を机に寝かせて待っていた。

 普段は常に忙しく指を走らせて何かしらタスクを片づけている叢雲にしては、珍しい所作だった。

 龍驤は執務机の対面にある革張りのソファに座り、胸元からバットを一本抜いてコリブリで火を灯した。口元に持ってきた手からは石鹸の香りがしたが、すぐにバットの酸味がかった強烈な臭いでかき消された。

 

「ほんで。殲滅対象(ターゲット)は?」

 

 例によって、殲滅対象(ターゲット)の情報が記載されたファイル群はガラステーブルに置かれたままである。

 

「今回の殲滅対象(ターゲット)はフォークロア」

「聞かん名前やな」

「陽炎タイプの精鋭八隻からなる、艦政本部第九部の佐世保支部よ。先日、筆頭艦が情報部から離反。情報部(わたし)はこれを認めるわけにはいかない」

 

 仲間殺しの仲間殺し、ということになる。

 特段、驚きはしなかった。

 どのような形であれ機密を知る者が任から外れる際、行き着く先は常に二つしかない。

 秘密裏に暗殺されるか、飼い殺しにされるか。

 龍驤はバットの煙を肺の奥までゆっくりと吸い、溜め、やや分量が減った煙をゆるゆると吐いた。

 

「フォークロア、ていうんはアレか、スナッチャーズみたいなもんか」

「ええ。近接戦闘を得手とする暗殺部隊よ。所属艦は雪風、陽炎、不知火、黒潮、舞風、初風、天津風、谷風、それぞれ一隻ずつ。筆頭艦は雪風ね」

 

 叢雲は立ち上がり、杖をつきながらドアへと向かった。

 

「何や、終わりかいな。いつもの売り口上はどないしたん」

「何を勘違いしているのか知らないけれど、話は終わっていないわ」

 

 叢雲がオフィスの扉を開けた。

 いつの間に待機していたのか、ぞろぞろと八隻の雪風モデルが入ってきて、執務室の壁にずらりと整列した。

 龍驤は目眩にも似た奇妙な視覚の違和感を覚えた。

 入ってきた雪風たち全てが、まるで映像フィルムを重ねて投射したかのように、まったく同じ所作を、時間差で再現して執務室へ入ってきたのだ。

 

「何や、ラッキーガールがぞろぞろと」

 

 叢雲は再び執務机に戻り、杖を立てかけてから両の指を組んで肘をついた。

 

「あなたには、この雪風モデルを八隻与えるわ」

 

 龍驤は眉をひそめた。スナッチャーズとの一件を思い出した。

 

「いつも通り、絨毯爆撃して終わりと違うんか」

「殲滅することに変わりはないわ。けれど、あなたの手口はフォークロアに知られている」

「ほんならウチの出番と違うやろ」

「あなたは司令官(オペレータ)。艦載機の代わりに、シスターズを指揮してもらうわ」

「シスターズ?」

 

 叢雲が、ついっと視線を滑らせて整列した雪風モデルたちへ龍驤の注意を促した。

 

「この子たちのこと。皆、感応者よ」

「感応者、いうたらあれか、互いの思考やら感覚やら共有しとるっちゅう」

「ええ。雪風モデルは『合成艦』の全てが感応機能を持つよう設計されているわ。ほとんどの場合は感応者であることを知らされないけれど。機密指定区分(セキュリティクリアランス)乙一の情報だから」

「この八隻のおチビちゃんたちは感応者ぁて自覚しとるっちゅうことやな」

 

 雪風たちが一糸の乱れも無く、というよりはフレームレスの液晶画面を並べて同じ映像を映しているかのように、ぴったりと同じ動作で敬礼した。

 

「はいっ! 雪風は、雪風ですから!」

 

 龍驤はしばらく言葉を失い、それから怪訝そうに叢雲を見やった。

 

「なあ叢雲。ウチの目か頭がおかしゅうなってないなら、このおチビちゃんたち、変てこや。なんぼ訓練してもこうも動きは揃わんやろ。分身の術か何かか。ニンジャか」

「彼女たちは無電ではない、神秘学(オカルト)的な連絡系統を持っているのよ。エクサビットデータリンク、と言えばあなたにも通じるかしら」

 

 龍驤は、とうとう叢雲の痴呆が始まったのかと半ば本気で疑った。

 

「一万円札にゼロ書き足しても十万円にはならへんぞ?」

「何の話?」

「サバ読むのも無理っちゅうもんがある言うとる」

 

 陰陽師タイプの空母艦娘は往々にして情報工学も通じる。エクサといえば十の十八乗、百京だ。それも、情報のひと塊(パケット)が百京ビットという意味である。秒あたりのトラフィックとなると、もはや想像もつかない。

 

「現実に、この子たちは感覚、知覚、感情、思考といったものを詳細に共有しているわ。そこから概算した結果、単位情報量がエクサビットに相当した。それだけのことなのだけど」

「簡単に言うてくれるなホンマ」

 

 龍驤は素早く情報を整理して、気づいた。

 

「……ちょい待ちや。敵さんのアタマ張ってとる雪風(なにがし)もその感応ネットにアクセスできるのと違うか。枝ァ付けられてそのチビどもが乗っ取ら(ハックさ)れたら面倒(コト)やぞ」

「感応能力は『合成艦』の雪風にのみ与えられた能力よ。敵の雪風は『改造艦』だから、その心配は杞憂ね」

「ほん」

 

 龍驤はひとまず納得し、それから元々の疑問を思い出した。

 

「……待て待て。やっぱウチの出番と違うやろ。おチビちゃんたちだけでやればええこっちゃ」

「あなた、艦載機へ命令を与える際は霊脈を繋いでいるでしょう」

「せやな」

「この子たちは協働作戦を得意としているけれど、意思決定は合議制なのよ。意思を持つ敵となると、合議している暇なんて一瞬も無い。先読みを得意とする司令官(オペレータ)が絶対に必要よ」

 

 八隻の雪風が、まったく同じタイミングとリズムと抑揚で言葉を発した。

 

「うー、めんぼくないです」

 

 だが横並びのため微妙に音波の位相が合わず、龍驤の耳にはエコーがかって聞こえた。

 

「……アタマおかしくなりそうや」

 

 龍驤はバットを灰皿に押し付けて火を消した。

 ちょいちょいと手招きをして八隻の雪風を近寄せた。指先に青い炎を象った霊力を灯し、トントントン、と次々に広めの額を軽くつついた。

 

「ほれ、リンクしたで」

 

 試しに八隻のローカルネットへリクエストを投げ、八隻分の視界を共有してみた。

 どれも龍驤の姿を映しており、それぞれ角度が微妙に異なっていた。八枚の龍驤の立体写真を合成したかのようだった。乗り物酔いめいた気持ち悪さが胃の腑から上がってきて、龍驤は慌ててそれを飲み込んだ。

 これに加えて聴覚や体性感覚といった情報をダイレクトに受け取ったら大変なことになる。

 

「おげ……吐き気するわ。おまはんら、よう平気でいられるな」

 

 八隻の雪風が元気よく、一斉に唱和した。

 

「雪風は雪風ですから!」

 

 やはり音波の位相が微妙にずれていて、わんわんとエコーがかって聞こえた。

 

「声に出すのやめーや。ウチに回す情報はぜーんぶ文字(リテラル)で頼むわ。ヘッダに個体識別番号付けてな。文字コードはUTF-8でな」

 

 八隻が唱和した。

 

「分かりました!」

「せやから声に出すのやめえ言うとるやろ……」

 

 龍驤は頭痛を覚えて額に手を当てた。

 

『おチビちゃんたち、もう出てき。こっからは大人の話や』

『りょーかいしました!』

 

 雪風たちは丁寧なことにエクスクラメーションマークまで付けて元気よく返答し、完璧に歩調を揃えてオフィスから出て行った。

 ドアが完全に閉じられたのを確認してから、龍驤はガラステーブルに置かれていたファイル群に手を伸ばした。

 バットを抜いて火を点け、煙をふかしながら一枚ずつじっくりと目を通し始めた。

 

「驚いたわ」

 

 叢雲がちっとも驚いていない声音で言った。

 

「あなたが書類に目を通すだなんて。心境の変化でもあったのかしら」

「アホぬかせ。人がそうそう変わるかいな。変わったんは状況や。手前だけの問題と違うさかい」

「スナッチャーズとの協働作戦とどこが違うのかしら」

「あのバケモンどもとは事情(コト)がちゃうやろ。ケツも拭けんガキンチョどものお守りせえ、て言いくさりよったんやぞ、ワレ。情報なんぞ幾らあっても足りひんわ」

「あの子たちを侮りすぎているわね。こと、集団戦(チームプレー)において彼女たちの能力は絶大な効果を発揮するわ」

「なんぼ練度が高くても指揮艦が無能やったら差し引きゼロや」

 

 陽炎。製造年は一九九九年、『改造艦』。建造時の年齢は十五歳。横須賀鎮守府中津分所に六年間勤務ののち、二〇〇五年に艦政本部第九部佐世保支部へ転属。近接格闘に秀で、特に西洋剣術を得手とする。身体能力の諸元は別紙参照のこと――

 

「西洋剣術て何や。どこで修得したん」

「英国から騎士剣術の研究家を招聘して指導を受けたのよ」

 

 不知火。製造年は一九九八年、『改造艦』。建造時の年齢は十六歳。舞鶴鎮守府蒲郡分所にて七年間勤務ののち、二〇〇五年に艦政本部第九部佐世保支部へ転属。近接格闘に秀で、特に小太刀の扱いを得手とする。身体能力の諸元は――

 

「長ドスて。ヤクザか」

「彼女は味方の陽動に乗じて敵を漸減していく役割。無音殺傷に優れるわ」

 

 黒潮。製造年は一九九七年、『改造艦』。建造時の年齢は十四歳。学齢期だったが適性を認められ特例措置にて改造。横須賀鎮守府本部にて八年間勤務ののち、艦政本部第九部佐世保支部へ転属。拳銃の扱いに秀で、マテバ・オートリヴォルヴァーを愛用――

 

「マテバて。また珍しいモン使(つこ)うとるな」

「他の銃も使うわ。あなたと違って銃を主体としたCQCが得意よ」

 

 舞風。製造年は一九九八年、『改造艦』。舞鶴鎮守府本部にて八年間勤務ののち、艦政本部第九部佐世保支部へ転属。近接格闘に秀で、徒手空拳による多対一の殲滅力が特徴。フォークロアにおいてキルレシオトップを誇る。身体能力――

 

「この舞風にゃ、よう当てられへんな」

「というと」

「戦場で老兵を見たら逃げえ、いうありがたい言葉、知っとるか?」

「老いるまで戦場を生き延びた兵は、若年の兵卒により遥かに高い練度を誇る。ゆえに、迂闊に相手取ってはならない」

「せや。最初の一隻(オリジナル)のくせして、まーだ第一線で(たたこ)うとる。誰かさん(・・・・)(ちご)うてな」

「私のことかしら」

「知らんけど。んで、この舞風、得意なんが素手喧嘩(ステゴロ)ときたもんや。鉄と火薬がモノ言わせとるご時世やぞ。アタマのネジ、なんぼか飛んどるのと違うか」

 

 初風。製造年は一九九九年、『改造艦』。建造直後より艦政本部第九部佐世保支部へ配属。電子戦および陰陽道に秀でる。部隊の行動支援を一手に引き受ける。

 

「このツチノコはちょっち面倒やな。電子戦にはともかく、なんで駆逐艦が陰陽道まで修めとんのや。道を間違うとるやろ、色んな意味で」

「その初風は占いが趣味だそうよ」

「知らんし要らんわ、そないな情報……」

 

 天津風。建造年は二〇〇七年、『合成艦』。建造直後より艦政本部第九部佐世保支部へ配属。機関部を二つ持ち、瞬間的な機動力は島風を凌駕する。蹴り技を得手とし、靴に(やいば)を仕込んでいる。フォークロアにおけるキルレシオは舞風に次ぐ二番手。

 

「若いな。こっちのアマツはハリキリ君や。首ィ落とすんは楽やな」

「それはあなたの老兵としての勘?」

「そないに大層なもんと違う。ただのかけ算わり算や。勘、ちゅうのは蓄積された膨大な情報(ビッグデータ)使(つこ)て構築された分類器や。そこにきて、あいにく、ウチにゃ三年の空白期間(ブランク)があるさかいな。勘なんちゅうもんは信じんことにしとる」

 

 谷風。建造年は二〇〇七年、『合成艦』。建造直後より艦政本部第九部佐世保支部へ配属。工作任務を得手とする他、陽動、殿(しんがり)等、作戦内容と状況に応じて多彩な役割を任じる。配属以来、負傷経験無し。

 

「こっちの谷風のんが厄介やな。若いくせして、こないに色々やって負傷無しっちゅうのは運がええのか直感がごっつ冴えとんのか……ともかく乱数や。賽の目がどう転んでも殺せる段取り取らなアカン」

「直感と勘とでは何か違いが?」

「大ありや。勘は分類器て言うたやろ。ハズレを引かすんもできんこたない。せやけど直感は生まれ持ちの才覚や。裏表がそもそも無いてなると、裏の掻きようがあらへん」

「陰陽師タイプの艦娘は興味深いものの見方をするのね」

 

 部下の判断基準くらい把握しておけ、と言いそうになったが、龍驤はその言葉を飲み下して嘆息した。

 

「……ま、ワレとこない長く話すのんも久しぶりやからな」

「そうね。三年と四ヶ月ぶりといったところかしら」

 

 そして雪風。

 最後の殲滅対象(ターゲット)だが、それにしても残りのページが薄すぎやしないか、と思いつつ龍驤は資料をめくった。

 一枚きり、それも一言だけだった。

 該当記録無し。

 龍驤は紙面をひっくり返して裏面も確かめたが、何も書かれていなかった。

 書類をひらひらと振り、龍驤は不機嫌な顔を隠さずに叢雲へ抗議した。

 

「いっちばん重要な情報が抜けとるやないか。どないな算段(つもり)や、ワレ」

「記載の通りよ」

 

 龍驤はバットを挟んでいない左手で顔を覆い、強がりも含めて軽口を叩いた。

 

「おもろいこと言うな。書いてないのに書いてある、て言いよる。禅問答か」

「フォークロアの雪風は、自身に関するあらゆる情報をこの世から抹消したのよ。もはやその雪風は最初からこの世に存在しなかった。そういう扱いになっているわ。私が雪風の行動に気づいた頃には既に半分以上の情報が海軍内部から葬られていたわ。モノもヒトもね。私は他の所属艦の情報まで消去されないように手を回すことで手一杯だった」

 

 情報部の長、それも飾りではなく名実ともに頭脳(ブレイン)として活動している叢雲をして「手一杯」と言わしめる手練れ。

 であればなおのこと、少しでも情報が欲しかった。

 龍驤はすっかり灰になっていたバットを灰皿へ押し付け、恨めしげに叢雲を睨んだ。

 

「ワレがスカウトした(フネ)やろ。記録でのうて記憶でええ。なんぞ覚えとらんのか」

 

 叢雲は口元に拳を当てて少し考えた。

 

「そうね……」

 

 珍しいことだった。叢雲はいつでも淀みなく即答する。知っていることは簡潔に答え、知らないことは知らないと答える。

 

「建造年は一九九五年。出身は呉の海軍工廠。最初の一隻(オリジナル)。それ以外に特筆すべき情報は無いわ。最初の一隻(オリジナル)と言っても、同型艦(いもうと)たちと先天的なスペックに差異は無いことはあなたも知っての通りよ」

「嘘ぬかせ。平々凡々な(フネ)なんぞワレが引き抜くかいな。何かある(・・・・)から雇ったんやろ」

「強いて言うなら、当時現存した雪風モデルの中でも最も経験豊富な者を選んだ、ということになるかしら」

「そら最初の一隻(オリジナル)なら経験も豊富やろな。でのうて、なんでその雪風なんやって訊いとるんや」

「指揮艦に必要な能力は、常に部隊の状況を掌握できること。そのために最後の一隻になるまで沈まないこと。そして雪風は沈まない(・・・・)。それだけのことよ。雪風モデルは元々が優秀だから、選抜にあたって考慮することは経験以外には無いわ」

 

 龍驤は額に手を当てて前髪をくしゃりと掴んだ。

 

「情報部長サンらしからぬ物言いやな。もうちょい思慮深いて思うとった」

 

 言って、しばらく考え込んだ。

 叢雲は特に何も言わず、ただ静かに佇んで龍驤を待っていた。十全に考慮した結果だと言わんばかりだった。

 やがて、フームと龍驤が鼻から息を吹いた。

 

「疑問は晴れたかしら」

「……晴れてない。晴れてないけど、無いもんねだっても詮ないこっちゃ」

 

 叢雲が席を立ち、身を乗り出して執務机に左手を突いた。いつもの口上を述べた。

 

「では、命令するわ。殲滅対象(ターゲット)は艦政本部第九部佐世保支部、情報部から離反した部隊、フォークロア。これを徹底的に殲滅しなさい。栄誉ある海軍の旗に泥を塗る愚か者を、この世から抹消しなさい」

「はいな」

 

 龍驤は額に手を添えたままのろのろと立ち上がり、凝っていた肩をほぐした。

 

「ほな、行ってくるわ」

 

 龍驤は片手を軽く挙げてからオフィスのドアノブへ手を掛けた。

 龍驤の背に叢雲の冷たい声がかかった。

 

「武運を。あなたの行動は常に見ているわ」

 

 ドアを後ろ手で閉めると、いつもの四季を失った暗い廊下。

 叢雲のオフィスは完全防音仕様になっているから、訪れる者のいない廊下に響くのは、蛍光灯の静かな唸り声と、龍驤の体内を巡る血液の音ばかりだった。

 ハン、と龍驤は嗤って音を加えた。

 

「何が栄誉ある旗や。元より血染めなんに足して、反旗まで翻っとるやないか。分かっとるんかクソウサギ」

 

 ひとりごち、龍驤は鉄靴の音を立てて暗い廊下を歩いた。

 

 

【RJ】

 

 

 殲滅作戦は翌々日の深夜に決行されることと相成った。

 『フォークロア』の牙城は、長崎県佐世保市は宇久島(うくじま)平港(たいらこう)に面した小さな二階建てのビルだった。

 黒々とした海面を、九隻の艦娘たちが原速でゆるゆると港へと入り、音もなく上陸した。周囲の光源といえば小さな灯台から発せられる信号と、半分だけ顔を覗かせた月ばかりだった。

 ビルは、照明をことごとく落として、ずんぐりした影になっていた。

 夕刻より冷え込み、薄い霧が宇久島を包んでいた。

 

 (ヒラ)港ショック以来、海軍にとっては不吉な港とされており、荒天に遭遇するなどの緊急時を除いて立ち寄る艦娘は少ない。

 督戦の実行部隊を置くには最適な立地だ。海を行く者は誰しも神に祈り験を担ぐものだが、督戦に限っては霊験をあらたかにしてくれる神がいない。

 夜闇に満ちる薄い霧を、黒い革ジャンの九隻が音も無くすり抜けた。九隻の肩と背には、二条の細い炎に囲われた『勅令』の刺繍。下手な黒より闇に溶け込む、暗い橙色。

 八隻の雪風は革ジャンの前をきっちりと締め、対して龍驤はだらしなく前を開いていた。

 ビルを目前にした龍驤は、雪風たちの感応ネットに文字列(リテラル)を送信した。

 無電は佐世保鎮守府を出たときから封鎖している。内容を暗号化したところで、無電を発している事実は敵に知られてしまう。

 

『ほな、アルファは正面、ブラボーは左手の窓、チャーリーは右手の窓、デルタは裏手。あんじょう頼むでおチビちゃんたち』

『はいっ! 頑張ります!』

 

 二人一組(ツーマンセル)とした八隻の『シスターズ』が四つに別れ、霧の隙間を縫って駆け去った。

 龍驤はビルから少し離れた太い松の木に背を預け、胸元からバットを一本抜いた。コリブリのキックスターターレバーを引き、弾いて火を付けた。

 ふう、と煙を霧へ溶かす。煙草の煙には、魔を払い変化を解く力がある。

 

「……術式の気配はナシ、と。ただの霧やったか」

 

 龍驤が警戒網を巡らせている間に、雪風たちが配置についた。

 

『ほしたら、せえの、で突入や。まず一階を徹底して制圧(クリア)すんで』

『分かりました!』

 

 やや間があった。

 龍驤は首を捻り、試しに共有ネットへキーワードを投げてみた。

 

『せえの』

 

 転瞬、ドアが蹴り開かれる音、窓が破られる音、それぞれ二つずつが同時に鳴り響いた。

 ぱっ、とビルの四方から閃光が放出され、夜霧に拡散していった。

 

「律儀にもほどがあるやろ」

 

 雪風たちの武装は閃光音響手榴弾(スタングレネード)、手甲から突き出た両刃のナイフ、マイクロUZI(ウージ―)。防具として防刃チョッキと防弾ヘルメットを着用している。

 第一報が、アルファと名付けたセルから届けられた。

 

『アルファ、谷風さんと遭遇、交戦に入ります!』

『幸先良いな。接触、押して引かせえ。ブラボー、廊下の両脇で待機。谷風が来るちょい前から弾幕で壁ぇ作りや。それでどう転んでも詰みや。最後っ屁に気ィ付けや』

 

 アルファの報とほとんど同時に、チャーリーと名付けたセルからも交戦の報が届いた。

 

『チャーリー、天津風さんと遭遇、交戦に入ります!』

『軽くジャブ当てて引きや。(やっこ)さん追ってくるさかい、やり過ごしたデルタと挟撃や』

『デルタ、黒潮さんを見つけました! 階段に控えてます!』

『めんどくさ。一丁か二丁か分かるか?』

『一丁です!』

『ほんなら閃光音響手榴弾(はなび)でアタマ引っ込ませて放っとき。アマツを確実に仕留めんのが先や。リヴォルヴァーなら無駄弾は撃てへん』

『りょーかいです!』

 

 この間、わずか一秒。

 敵を分断し一隻対四隻で確実に仕留める。龍驤の定めた作戦方針だ。

 龍驤は脳内イメージに八枚のディスプレイを表示し、雪風たちの視界と文字情報を流していた。雪風たちから得た情報を元に、次々とビル内部の構造をマッピングしていく。

 現実に松の木へ背を預けている龍驤自身の視界や感覚の処理は疎かになるが、やむを得ない。

 命を張っているのは雪風たちなのだ。

 

「……ったく、まーた嚮導艦(きょうどうかん)なんぞするハメになるたあ思うとらんかったわ」

 

 ほんの数ミリ秒だけ、昔を思い出した。

 

 

 

 龍驤は情報部へ転属する三年前まで、とある鎮守府で駆逐艦や軽巡洋艦の嚮導艦を務めていた。そして、彼女が育てあげた有能な(・・・)駆逐艦たちは次々と海底へ沈んだ。

 こんな言葉がある。

 

 優秀な駆逐艦は終戦まで沈まない。

 有能な駆逐艦は進水してすぐ沈む。

 

 駆逐艦の主な役割は、主力艦隊の護衛だ。もちろん水雷戦隊として火力を担う一面もあるが、基本的には戦艦や空母といった主力艦を魚雷や航空攻撃から防衛するための盾であり、使い捨ての馬防柵、あるいは竹束に相当する。

 それならまだ我慢できた。駆逐艦の本望とさえ言えたし、実際、憧れの空母や戦艦を護衛することに熱意を燃やす駆逐艦は多かった。

「私はあの(ひと)のために死ぬ」

 そんな言葉もしばしば聞いた。

 

 

 

「因果なもんや」

 

 その言葉をトリガーに、思考を現実に引き戻した。

 不意打ちの甲斐あってか、ひとまず戦況は有利に進んでいた。

 谷風は正面から突入してきたアルファ二隻に肉薄され、近接戦闘を嫌って後方に飛び退いたところをブラボーが構成した弾幕に突っこむ形になり、蜂の巣となった。詰みの形勢を作られれば、いかな幸運も味方しない。直前、谷風は苦し紛れに数個の手榴弾を放ってきたが、龍驤の忠告に従って警戒していたアルファたちは物陰に飛びこんで爆風を回避した。

 天津風はチャーリー二隻を相手に旋風めいた蹴り技の数々を見舞ってきたが、これに対しチャーリー二隻は手甲のナイフで受け流しつつ後退。デルタはチャーリーを追う天津風をやり過ごしたのち、二階へ通じる階段に控えて機を窺っていた黒潮へ閃光音響手榴弾(スタングレネード)を放ってから天津風の背後に接近。手甲のナイフで二つの心臓(ポンプ)を同時に貫いた。

 

「まず二つ、っと」

 

 龍驤が呟いたそのとき、暗号化された無電がビルから発された。龍驤は即座に暗号の解析にかかったが、すぐに諦めて舌打ちした。数秒かけて得た復号鍵が、もう使えなくなっている。

 

「秒ごとに復号(デコード)(キー)を変えとるな、コレ。小賢しいこっちゃ」

 

 乱数生成器によって暗号鍵が定期的に変更されているということだ。ある乱数を乱数生成器から得た場合、次に得られる乱数は初期値に依存して決まる。すなわち、乱数生成器に与えられた初期値(シード)を知る者にとっては予測可能な数列であり、初期値を知らない者にとっては予測不可能な数列となる。

 無論、乱数列(かぎ)の並びから初期値を予測することは不可能ではないが、初期値と現在値を突き止めた頃には太陽が高く昇っていることだろう。

 

『おチビちゃんたち、敵さん、通信始めたで。暗号化されてて内容は分からへん。連携に気ィ付けや』

『了解しました!』

 

 返事は六隻からしか届かなかった。

 脳内に展開してあった八枚のディスプレイのうち、アルファ二隻の視界が暗転し、沈黙していた。龍驤が暗号解読に気を取られた僅かの間隙に、事態は悪化へと転がり落ちた。

 

「しもた……!」

 

 龍驤は己の失態を呪い、奥歯を砕かんばかりに噛みつつ、シスターズへ警告した。

 

『ブラボー! 来とるで! チャーリーとデルタは黒潮の始末にかかりや!』

 

 同時並行でアルファ二隻のログを漁った。

 谷風が放った手榴弾の爆風を避けるために転がり込んだ直後、一隻が沈黙していた。受け身を取って身を起こしたところ、盆の窪から脳幹にかけてひと刺し。もう一隻も、本人が気づかぬうちに首を落とされていた。ぴりっ、という一瞬の熱さだけが、ログの最後に残されていた。

 龍驤は敵の正体を素早く推測した。

 マッピングデータによれば、二隻が転がりこんだのは狭い給湯室。

 ログに残った痛覚から察するに、得物は刃物。長物は振り回せない。

 となれば。

 

『不知火や。長ドス(こだち)使いて聞いとる。間違うても正面からやり合うなや。足止めに徹して、黒潮の始末がついてからかかりや』

『了解しました!』

 

 相変わらず元気な返事がなされた。

 ブラボー二隻の視界の端に、ゆらり、と影が現れた。右手に一本、だらりと白木柄の小太刀を携えていた。

 ブラボー二隻がUZIを物陰から差し出し、引き金を引いて弾丸をばらまいた。

 不知火はその場でうろうろと奇妙な足踏みをした。

 弾丸はことごとく命中しなかった。ブラボー二隻からは、まるで弾丸が不知火の体を通り抜けているかのように見えた。禹歩(うほ)あるいは反閇(へんばい)と呼ばれる、陰陽道における退魔の歩法である。

 龍驤はビルへ走った。

 

「あいつも陰陽道やと……! どないなっとんねん、あの部隊!」

 

 銃撃が止んだ。

 不知火は重力を無視するかのように、あるいは壁にも天井にも重力が働いているかのように、でたらめな三次元機動でブラボーに迫った。

 危険を察知したブラボーは不知火の凶刃から逃れるべく、ふくらはぎと太腿に溜めを作った。

 龍驤の戦闘論理が告げた。

 

 アカン。

 ウチなら跳んだ先で刺す(・・・・・・・)

 

『止まれッ!』

 

 龍驤は走りつつ、とっさに感応ネットを通じてブラボー二隻の脳幹を拘束し、硬直させた。 ドッ、と鈍い音が、硬直した二隻のうち、一隻の眼前に到達した。

 

「あら。残念」

 

 不知火は、雪風の姿勢から退避先を予測し、天井から一直線に小太刀の先端を降らせた。小太刀は刀身を半ばほどまで床へ埋めていた。

 龍驤が割り込まなければ、狙い違わず一刺しで一隻が屠られ、刀身を抜きつつの突進突きでもう一隻も屠られていた。

 不知火はこともなげに床から小太刀を抜き、床へ伏せるように(たい)を低め、腰だめに小太刀を構えた。

 対するブラボー二隻は、龍驤が脳幹を拘束したために一直線上で硬直していた。べったりと床に貼り付くように伏せた、不知火のシルエットと、その奥で燃える双眸。

 復帰にはコンマ一秒を要する。致命的な隙。

 龍驤はなおビルへ疾走しながら、奥歯を砕かんばかりに歯噛みした。自分はまた何もできないのか(・・・・・・・・・・)

 龍驤の後悔をよそに、不知火の足下が爆ぜた。

 刀身がちらっと月明かりを弾いた直後には、不知火は雪風へ体当たりしていた。

 腰に溜められていた反りの小さい小太刀が、まず最初の狙いであった雪風の心臓(ポンプ)を貫いた。小太刀を握る不知火の拳は雪風の小柄な体躯に半ばまでめりこみ、切っ先から刀身の半ばまでが背から飛び出していた。

 勢いを殺さぬまま不知火は二歩、三歩と突進。硬直が解けかかっていたもう一隻の雪風に到達し、田楽刺しよろしく一本の小太刀で二つの心臓を貫いた。

 龍驤がビルの正面へ辿り着いた頃には、不知火が二隻の雪風から小太刀を抜き取ろうとしていた。

 小柄な体躯に暴力を詰め込んだかのような不知火が、ちらりと龍驤を冷蔑した。

 

「おどれ……!」

 

 龍驤が激高した、そのときだった。

 心臓(ポンプ)を貫かれ、無力化されたはずの雪風が不知火に抱きついた。

 

「捕まえました!」

「なっ……!?」

 

 もう一隻の雪風は不知火の左側面へ潜り込み、制止した右足を軸にして体を回転させつつ背後から右手甲のナイフで心臓(ポンプ)をひと突き。次いで、左手甲のナイフで肋骨を縫い、肺腑を突いてひねり、抉った。

 

「ご、ぶ……」

 

 単純な戦闘能力で比較すれば四隻の雪風が束になっても敵わないであろう不知火が、二隻きりの雪風に敗れた。

 ブラボー二隻が、力を失った不知火の体躯を無造作に床へ落とした。

 龍驤は真っ先にチャーリーとデルタの状態を確認した。

 

『そっちはどないや』

『黒潮さん、引っ込んじゃいました』

 

 黒潮は四隻との交戦は分が悪いと見て撤退したらしい。主戦場は二階へ移った。

 

『ほんならアマツと谷風の機関部、(バラ)しとき』

『了解しました!』

 

 脳髄や心臓(ポンプ)への損傷は戦闘不能をもたらすが、轟沈(さつがい)には至らない。艦娘を艦娘たらしめているのは機関部であり、ここが健在であれば復元は可能である。

 こつこつと音を立てて、龍驤はブラボー二隻に歩み寄った。

 

「あっ龍驤さん! お疲れ様です!」

 

 心臓(ポンプ)を貫かれたはずの雪風二隻が龍驤へ向き直り、はきはきと言った。

 

「元気やな……なんやキミたち、心臓が左に付いとるとかそういうアレか」

 

 二隻の雪風は首をまったく同じタイミング、同じ角度で傾けた。

 

「心臓は皆さん左ですよ? 雪風もです!」

「せやな。ほんならどういうこっちゃ? キミたち、心臓(ポンプ)貫かれとったやろ」

「いえ、不知火さんの小太刀が、心臓(ポンプ)を避けてくれました!」

「んなアホな」

「でも、雪風は」「雪風ですから」

 

 二隻が間断なく言葉を継いで、そんなことを言った。

 

「ま、無事ならええわ。ラッキーガールやもんな。ほな、この戦艦(しらぬい)はウチが(バラ)しとくさかい、アルファの修復したってや。そこの廊下でくたばっとる」

「了解しました!」

 

 言うなり、ブラボー二隻は駆け去った。

 龍驤は、自分でも覚えのないうちに両手に抜いていた愛銃(トカレフ)を、うつ伏せに倒れた不知火の後頭部と機関部へ照準。トリガーを二度ずつ引き、鉄芯の術式弾頭を叩き込んで殺害した。不知火は痙攣し、すぐに力を失った。

 ふいに、床に伏せた不知火の上着が、ぬめりを帯びた光沢を放った。

 

「……おん?」

 

 龍驤はポケットからペンライトを取り出し、不知火に照射した。

 黒い革ジャン。背には二条の炎に囲われた『勅令』の二文字。

 陽炎タイプが共通して嵌めている手袋もまた、一般の陽炎タイプの白とは異なり、黒。こちらにも二条の炎と『勅令』の二文字。情報部の徽章。

 

「……どういうこっちゃ」

 

 離反したのであれば、情報部の象徴である革ジャンや手袋は真っ先に捨てるのではないか。

 

「まだ情報部所属のつもりやった……?」

 

 龍驤は一階における戦闘の経過を総ざらいした。

 八隻の雪風が上着としてはおっている革ジャンの徽章を視認できたのは、黒潮ただ一隻のみ。

 敵方の無電は未だ、盛んに飛び交っている。襲撃者が情報部の手の者であることは周知されたろう。

 であれば交渉(はなしあい)に応じるか。

 否。

 情報部督戦部隊の方針は常に『腐ったミカンは箱ごと焼き捨てる』だ。

 仮に筆頭艦の雪風が叢雲へ問い合わせたとしても、叢雲は応答しない。必然、艦政本部第九部佐世保支部は自身が『腐ったミカンの箱』と認定されたことを知る。

 情報部に所属する艦娘は、黙って処分されるような行儀の良い連中ではない。

 少なくとも筆頭艦の雪風は、既に事を起こしたのだから。

 

『アルファ二隻、修理完了しました!』

 

 だしぬけに、沈黙していたアルファ二隻の視界が復旧した。再び流入を始めたログを解析し、異常がないことを確認した。

 幸運だったのは、不知火がアルファ二隻の機関部を破壊していなかったことだった。ひとまず無力化し、他の襲撃者を先に片付けるべきと判断したのか。

 再び八隻と一隻の構成に戻った龍驤の部隊は、まず一階の安全確保(クリアリング)を行った。

 

『クリアです!』

『クリア!』

『大丈夫です!』

『いません!』

 

 となれば、二階に潜むのは陽炎、黒潮、舞風、初風、そして筆頭艦の雪風。

 支援役の初風は実力行使には出ないだろうから、黒潮、舞風、陽炎とまず衝突する。

 陽炎の戦術は西洋剣術。

 黒潮の戦術は銃を駆使したCQC。

 舞風の戦術は徒手格闘。

 龍驤は階段の手前に身を寄せ、革ジャンのポケットから手鏡を取って上階の様子を窺った。

 闇が口を開けているばかりだった。月明かりも、あそこまでは届かないらしい。

 舌打ちひとつ。革ジャンのポケットからペンライトを取り、隠れつつ階段の上方を照らした。

 急な階段には折り返しの踊り場が無く、一直線に二階まで続いていた。上った先は丁字路となっており、左右に廊下が伸びていた。

 

『ABCDの順で、複縦陣にて階段を突破。アルファ、チャーリーは階段を出て右。ブラボー、デルタは階段を出て左や。おるのは黒潮、舞風、陽炎』

 

『了解しました!』

 

 八隻からまったく同時に返答があり、ディスプレイに文字列(リテラル)が並んだ。

 

閃光音響手榴弾(はなび)、忘れんなや。待ち伏せされとるからな』

 

 二隻ずつ、複縦陣の形で八隻の雪風(シスターズ)が階段を一段飛ばしで駆けのぼり始めた。

 龍驤は失念していた。

 情報部の督戦部隊が、なべて攻性組織であることを。

 待ち伏せといった消極的な手段など取るはずがないことを。

 

「べろべろばあっ!」

 

 甲高い、楽しげな声が振ってきた。

 影が跳躍した。階段の右手から、向かって正面の壁へ、それから天井へ、すかさず天井を蹴って複縦陣の真ん中へ。

 化け物が、降ってきた。

 

「さ、一緒に踊りましょ!」

 

 掛け声ひとつ。万歳をするかのように、あるいはフィギュアスケーターがフィニッシュを飾るかのように、舞風の両手がかち上げられた。

 先頭のアルファに続いていたブラボー二隻の頭部が、両拳の一撃で爆ぜた(・・・)

 急所を突く一撃などではない。当たれば爆ぜる。運の要素など全く絡まない、暴力の権化。

 文字通り降って湧いた舞風に動じず、チャーリー二隻は即座に手甲のナイフを一閃させた。片方は心臓(ポンプ)を狙って一直線に、もう片方は左右への退路を断つべく横薙ぎに。

 舞風は身をよじらず、身を引くこともせず、傾斜のついた天井へと跳ねた。

 

「どーん!」

 

 天井を蹴り、傾斜角に従ってボールのように階段の上方へ水平に跳んだ。跳躍の勢いを乗せ、数瞬前まで背後にいたアルファ二隻の頭部へ、踵落としを一撃ずつ。やはり爆ぜた(・・・)

 舞風の挙動は奔放でありながら詰め将棋のように的確で、幸運が介入する余地は無かった。

 僅かな間隙を利用してチャーリー二隻が伏せ、デルタ二隻が立ったまま、UZIを構えた。

 

「ここで大きくジャンプ&ターン♪」

 

 舞風は、あろうことか弾幕が構成されるであろう階段へ再突入してきた。奇手に見えて、最適解だった。胸元で腕を×の字に組んでいた。

 伏せていたチャーリー二隻の銃口は、舞風を追えなかった。

 立っていたデルタ二隻はUZIを斉射したが、弾丸は舞風の残影を追うのみだった。

 舞風がぱっと腕を広げ、立っていたデルタ二隻の後頭部へ裏拳を見舞った。爆ぜた。

 伏せていたチャーリー二隻の背でトトンとステップを踏み、くるりと半身を翻した。

 

「もー、狭いと上手く踊れなーい――おおっと?」

 

 チャーリー二隻はとっさに仰向けとなり、姿勢を崩した舞風の胸部へUZIの銃口を照準し、引き金を引いた。

 破裂音が連続して半秒だけ鳴り、マズルフラッシュが階段を黄色に染めた。

 舞風は、胸部に集中した全ての弾丸を手の平で受け止めていた。至近から撃ったことが災いした。

 防弾素材で作られた手袋。

 だとしても、至近からの斉射を受け、中身はぐずぐずになっているはずだが。

 

「いたたた……んもう、ノリが悪いなあ。一緒に踊ろうって言ったじゃない」

 

 舞風は水風船のように膨れた手袋をだらりと下げ、ざらざらと弾頭を落とした。

 無言で突き出された手甲のナイフは鋭く払われた爪先で折られた。勢いそのままに舞風は跳躍。

 

「へーたくそっ!」

 

 からかうような言葉と共に、詰まされた(・・・・・)チャーリー二隻の頭蓋が踏み抜かれた。

 ごそごそと衣擦れの音がしたのち、しゅうしゅうと何か蒸気が漏れるような音が階段から降りてきた。

 舞風が、高速修復剤のアンプルを使って自身を修復したのだ。

 こつん、と階段をひとつ下りる音。

 

「ねー、そこの龍驤さん。一緒に踊ろうよ」

「遠慮しとくわ。バケモンと踊れるほど美女(ええおんな)と違うさかい」

 

 またひとつ、こつん、と階段をひとつ下りる音。

 

「もー、今日はみんなノリが悪いなあ」

「ダンスパーティに来たんと違うさかいな」

 

 減らず口を叩きつつ、龍驤は脳髄を沸騰させて打開策を模索していた。

 八隻の雪風(シスターズ)は全滅した。

 高速修復剤のアンプルは念のためにと思って十六本、ジャケットの内側に持っている。

 問題はあの舞風だ。

 端的に言って、強すぎる。どれだけの修羅場をくぐり抜ければあれほど誤謬のない戦闘論理を構築できるのか。

 

 こつん、とまたひとつ、階段を下りる音。あと五段ほどの距離。

 そも、龍驤は近接格闘を不得手としている。絨毯爆撃で蹂躙したのち、艦娘殺しの特効薬を以て残党を中距離から処理する。そういった作業に特化している。

 異なる戦闘教義(ドクトリン)を要求しろと言う方が無理筋なのだ。

 と、そこまで思考が至り、気づいた。

 八隻の雪風(シスターズ)との霊脈が、まだ途切れていない。

 それはそうだ。頭を潰されたところで、心臓を穿たれたところで、全身の肉と皮がひっくり返ったところで、機関部さえ無事ならば艦娘は死にはしない。

 

 こつん。あと四段。

 龍驤はアルファ二隻のうち一隻の機関部から、身体スペックとコマンド一覧を取得した。

 こつん。あと三段。

 病気平癒の祝詞(プログラム)を組み上げ、八隻の雪風(シスターズ)の脳髄、すなわち主記憶野ではなく、機関部の副次記憶野に叩き込んだ。

 

 こつん。あと二段。

 八隻の雪風(シスターズ)の機関部に宿る艦霊が、副次記憶野に叩き込まれた祝詞を読み、承諾(じっこう)した。

 階段に累々と伏していた頭部欠損(・・・・)の雪風たちが一斉に、革ジャンのポケットに右手を突っこんで高速修復剤のアンプルを握った。そのまま生地越しにアンプルの針を腹の動脈へと突き込んだ。

 

 こつん。

 舞風の吐息が、背後で持ち上がった大勢の気配に振り向いた。

 

「えっ――」

 

 最後尾にいたデルタの二隻が舞風の足首へ腕を絡ませた。

 続くチャーリーの二隻が跳躍して腕に絡みつき、鉄棒の後方支持回転よろしくぎゅるりと宙返りし、脱臼させた。

 ブラボーの二隻は腰を据え、UZIを舞風の眼に照準していた。半秒だけマズルフラッシュが瞬き、身動きが取れなくなった舞風へ銃撃が浴びせられた。

 舞風は咄嗟に首を縮め、顎を突き出し、額を傾けることでこの銃撃を受け流した。四十発の鉛玉は舞風の額を削るに留まったが、代わりに脳髄を存分に揺らして意識を朦朧とさせた。

 その隙にアルファの二隻が跳躍し、手甲のナイフを深々と舞風の心臓(ポンプ)へ突き込んだ。左右のどちらに心臓があっても確実に動きを停止させられるように、左右の胸へ平等に。

 龍驤は油断しなかった。

 獅子(ライオン)は、心臓を撃ち抜かれてもなお百メートルは走るという。

 この舞風がそう(・・)でない保証は無い。

 

「すまなんだな。踊るんは苦手なんや」

 

 言いつつ、龍驤は舞風の背と後頭部に術式弾頭を二発ずつ撃ち込んだ。

 艦本式ボイラーを接続すべき機関部は、背の真ん中より少し下に存在する。皮膚を抉った術式弾頭が舞風の機関部へ衝突し、宿っていた艦霊を分霊元へと還した。

 体のどこに撃ち込んでも、弾頭に刻まれた術式は機関部まで浸食して艦霊を強制的に分霊元へと還すが、この舞風には僅かな時間差さえ与えたくなかった。

 肉体的にも霊的にも沈黙した舞風の体が力を失って崩れ落ち、雪風たちもまた折り重なってべしゃりと倒れた。身を寄せ合うハムスターのようだった。

 

「コラ、キミたちな――」

 

 龍驤が苦笑しつつかがみ、雪風たちに手を貸そうとしたそのときだった。

 頭上に衝撃波。視界の上端にはマズルフラッシュ。ミリ秒遅れて銃撃音。

 

「――っと」

 

 龍驤は反射的にマズルフラッシュが瞬いた箇所へ銃撃を返しつつ身を翻し、階段の陰へ隠れた。

 舞風と共に崩れ落ちた雪風たちは、運良く(・・・)黒潮が放った銃弾から逃れた。

 龍驤はそれにあやかった形になる。

 

「ほーん。なるほどな」

 

 運が介入できる要素であれば、この雪風たちは負傷を免れる。

 自然科学的な見地からは説明不可能なことだが、神秘学(オカルト)的な見地からすれば自明のことだ。雪風モデルの艦娘は皆、そういう運命に生まれついている。

 雪風たちが体勢を立て直した。全員が口を引き結んでかがみ、龍驤に射線を譲っていた。

 龍驤は再び階上へ銃撃を加えて黒潮を引っこませ、弾倉を入れ替えた。

 

『行くで。今度(こんだ)ぁこっちのターンや。ちいと細工してな』

 

 龍驤は予定していた戦術行動にひとつだけ修正を加え、八隻の雪風(シスターズ)のネットワークへ通達した。八隻の雪風は異議を唱えることもせず、元気よく返答した。

 

『はいっ! 頑張ります!』

 

 ひと呼吸だけ置いて、文字列(リテラル)ではなく音声(ことば)八隻の雪風(シスターズ)へ命じた。

 

「せえのっ!」

 

 ABCDの順に単縦陣で再突入。丁字路の左右へ閃光音響手榴弾(スタングレネード)を放る。百万カンデラもの強烈な閃光と、半径十五メートル以内に百七十デシベルもの爆音を生ずるその手榴弾はーー

 カキン、という金属バットで硬球を打ったかのような音が、いささか間の抜けた調子で階段に届いた。

 左右それぞれから、投げ入れたはずの閃光音響手榴弾が打ち返された。左手の黒潮はおそらくマテバの銃身で、右手に潜んでいると思われる陽炎はおそらく西洋剣術に関する武具で。

 

「せやろな」

 

 信管に設定した秒数は最短の一秒。投げ入れてから既に〇.五秒が経過。

 絶妙なことに、閃光音響手榴弾はちょうど階段を上りきった先にぽとんと落ちていた。

 駆け上がって投げ返すのでは間に合わない。

 背を向ければ閃光はやりすごせるが、耳を塞いでも大音響は手の平を貫通して三半規管をシェイクし、機能不全に陥れる。敵はその隙に襲いかかってくる。

 ゆえに、雪風たちは龍驤の指示により、投げ入れた閃光音響手榴弾のセーフティレバーを外さなかった。

 雪風たちは爆発が起こるであろう(・・・・・・・・・・)タイミングで左右の廊下へ突入。

 打ち返された衝撃でセーフティレバーが運悪く(・・・)外れる公算は低かった。何せ雪風モデルが意図したことなのだから。

 冷たい風が階段を駆け、左右の廊下へ吹き込んでいく。

 

 

 

 

 廊下の左手に潜んでいた黒潮は弾き返した閃光音響手榴弾の轟音に備え、内側に開け放った部屋の扉に隠れ、耳を塞いでいた。爆発の直後に反撃を開始する算段だった。

 そこへ、ぬっ、と雪風たちが姿を現した。手甲のナイフを、既に耳の付け根にまで引き絞っていた。

 

(デコイ)かいな!」

 

 黒潮は驚愕しながらも、とっさに部屋の内側へ飛び退いて発砲。

 だが、黒潮の愛銃であるマテバ・オートリヴォルバーの欠点は、僅かに照準が外れただけで弾道が大きく逸れることである。

 ろくに狙いも付けないまま撃った弾丸は、天井に到達してモルタルの欠片を振らせた。

 黒潮は跳び足を継いで壁際へ到達。マテバを手放し、両腰のホルスターに吊った自動拳銃を引き抜いた。

 ベレッタM93R。九ミリパラベラム弾を三点バーストで発射できるユニークな軍用拳銃。加えて、弾頭には艦娘殺しの術式が刻まれている。

 

「ウチは」

 

 ブラボー二隻が突進、それぞれが手甲のナイフを首根と水月へ突き出した。

 

「マテバが」

 

 黒潮はわずかに身をよじり、二隻の隙間に潜り込み(ダッキング)しつつ腕を交差させて発砲。ブラボー二隻の横っ腹に三つの穴が空いた。

 

「好きなんやけど」

 

 黒潮が弧を描くように前方へ跳躍。一瞬遅れ、ドア付近でUZIを腰だめに構えていたデルタ二隻がフルオート射撃。銃弾は空を切り、鉄格子がかけられたガラス窓を撃ち抜いた。

 

「な!」

 

 デルタ二隻の頭上へ逆しまに躍り上がった黒潮はすかさず発砲。

 三発ずつの九ミリパラベラム術式弾頭はデルタ二隻の肩口へ命中。デルタ二隻はUZIを取り落としたが、弾頭は内臓を食い荒らした挙句、運良く(・・・)脇腹へと抜けた。

 デルタ二隻の背後へ着地した黒潮は、またも腕を交差させて前方へと潜り込み(ダッキング)。銃口はデルタ二隻の眼球を狙っていた。

 デルタ二隻のうち一隻が黒潮の足を払い、強引に照準を逸らした。

 

「ちいっ」

 

 黒潮は舌打ちひとつ。宙で仰向けになりつつ腕を伸ばしてトリガーを引き絞り、二隻の横っ腹に三発ずつ術式弾頭をぶち込んだ。

 発砲の反動を利用し、黒潮は背を丸めて床を転がり受け身を取った。ちょうど部屋の中央で跳ね起き、右の銃口をドアへ、左の銃口を窓へ向け、即座に発砲。バララッ、と弾丸が水平にばらまかれた。狙いは肺から心臓にかけて。

 だが、一合ずつやりあった雪風たちは既に黒潮の戦術を見抜き、射線から逃れていた。

 

「ありゃ。もうバレたんか」

 

 黒潮が愛用しているのはマテバ・オートリヴォルバーに間違いないが、クロスレンジでの銃術《ガン=カタ》が彼女の本領である。

 

「っちゅうか、術式弾頭なんぼも貰っとるのになんで動けるんや、おまはんら。ゾンビか」

 

 雪風たちは答えなかった。

 黒潮が撃った術式弾頭はことごとくが雪風へ深手を負わせていたが、弾頭は柔らかな部位を食い荒らした末に貫通しており、十分な呪術効果を発揮できていなかった。

 深手を負ってなお、四隻の雪風は黒潮の包囲を解かなかった。感応ネットを通じ、手甲のナイフをいかに突き刺すか協議を始めた。

 誰が第一の囮になるか、誰が第二の囮になるか、誰が拘束するか、誰が止めを刺すか。

 共感ネットでは膨大な情報が処理され、黒潮を『詰み』に追い込む手順が探索された。

 無言でにじり寄る雪風たちに不気味な気配を感じたのか、黒潮は眉をひそめて軽口を叩いた。

 

「なんや齧歯(げっし)類、まだやるんか。痛いの我慢してもええことないで」

 

 術式弾頭がいっこうに効果を発揮しないことを黒潮は訝しみ、様子見に徹してしまった。

 致命的な猶予だった。

 雪風たちによる、黒潮を『詰み』に至らせるまでの探索が終了した。

 

 最初の雪風が手甲のナイフで顔面を隠しつつ突進。

 黒潮は上方へ跳躍し、天井へ着地(・・)して発砲。突進してきた雪風の後頭部へ左右併せて六発の鉛玉を撃ち込んだ。ことごとくが肉を食い破って貫通した。

 

 次の雪風は、既に天井の黒潮へ向かって跳躍していた。手甲のナイフを横薙ぎに一閃。

 黒潮は天井を蹴り、紙一重でナイフをかわしつつ二隻目の雪風を撃墜。これも弾頭が肉を食い破り貫通した。

 

 三隻目の雪風は、着地の猶予を与えなかった。

 いかに艦娘といえど、足場のない空中にいる間は運動方向を変えられない。

 三隻目の雪風が黒潮の腹に組み付き、肘を水月へ潜り込ませてそのまま地面に落下した。

 

「がっーー」

 

 肘がめり込み、仰向けに落ちた黒潮が息を吐いた。

 息を吐ききった瞬間は、人間も艦娘も等しく無防備となる。

 

 そこへ、予定通り四隻目の雪風が襲来した。

 低い姿勢で、黒潮の顔をまたぐように通り過ぎた。手甲のナイフがさぱっと喉笛を掻き切った。

 黒潮はなおもベレッタM93Rの銃口で四隻目の雪風を追った。

 だが、革ジャンに刺繍された二条の炎と『勅令』の二文字が、ふっとかき消えた。

 四隻目の雪風が、その場で後方へとんぼ返りを打ったのだ。

 仰向けになった黒潮の顔へ、両手の拳から着地した。

 揃えられた手甲のナイフは、黒潮の眉間と口蓋へ、深々と突き刺さった。

 四隻目は反動をつけて着地。両手を高々と、体操選手のように掲げた。

 

「詰みました!」

 

 四隻の雪風が、声を揃えて楽しげに言った。

 

 

 

 

 一方、右手の廊下の奥には、陽炎が立っていた。

 廊下はほの暗く、陽炎が背に負う窓から半月の月明かりが差し込むばかりだった。

 左手には、直径三十センチほどの浅い皿のような円盾(えんじゅん)。紋章は片目。

 右手には、柄を極端に短く切り詰めた槍のような両刃の短剣を握っていた。

 円盾で視界を遮っていたが、爆発が発生しないと知るや、左右の足下をすり抜けてアキレス腱を切ろうとしていた二隻の雪風たちへ、掬うように右手の短剣を一閃。

 

「甘いっ!」

 

 後背へ振り下ろした短剣が、踵に迫っていたアルファ二隻のナイフをほぼ同時に弾いた。

 正面から襲いかかったチャーリー二隻の雪風たちも気配を悟られ、円盾の叩きつけ(バッシュ)で跳ね返された。彼女たちは手甲のナイフを失っているため、組み付き(グラップ)による手足の封鎖を狙っていた。

 援護射撃の機会を窺っていた龍驤だったが、あまりに不自然な組み合わせの、あまりに自然な噛み合いぶりに驚き、呆れて銃口を下げてしまった。

 陽炎の立ち回りは異常だった。短剣にも円盾にも『(けい)』が通っていた。挙動の小ささに反して、一撃一撃が必殺の威力で発されていた。

 すなわち、得物は西洋剣術のそれだが、戦闘論理は東洋武術のそれ。

 

「デタラメや」

 

 舞風も大概だったが、この陽炎もまた化け物だった。

 雪をはらんで吹き付ける寒風のごとくまとわりつく四隻の雪風を相手にしながら、陽炎は左の円盾と右手の短剣を巧みに操り、ことごとく雪風の攻撃を弾き返していた。

 『勁』を通す、というのは換言すれば運動エネルギーの最適化に他ならない。あちらからこちらへ運動エネルギーをロスなく通す。原理的にはニュートンの揺り籠、並べた振り子の両端がカチカチと行き来する遊具と同じ事象だ。

 だが、人体の運動機構は複雑極まりない。単振動を繰り返す振り子とはワケが違う。自他の運動エネルギーを常に己の都合に最適化する技術を体得した者は、過去の高名な武術家を挙げたとしても片手で足りるし、それらことごとくがヒトであることをやめている(・・・・・・・・・・・・・)

 先の舞風を戦艦の暴力を小さな体躯に詰め込んだ仁王に例えるなら、この陽炎はあらゆる攻撃を捌き、隙あらば隻手にて音声(こうげき)を放つ千手観音といったところ。

 

 龍驤は試しに一発、雪風に当たらないよう撃ってみた。

 陽炎は龍驤には見向きもせず、流れるように短剣をひるがえし柄頭で弾丸を止めた(・・・)。弾丸の運動エネルギーがそっくり奪われ、より鋭く振るわれた短剣が雪風の革ジャンを切り裂いた。背骨を切り開かれなかったのは、ひとえに雪風モデルに共通する幸運が味方したためだった。

 龍驤が放った弾丸は、重力を思い出したかのようにぽとりと落ちた。

 

「ウッソやろ」

 

 あの陽炎の刃圏(はけん)では、あらゆる運動エネルギーが陽炎という機構(メカニズム)を通じて変換され、使われてしまう。

 ただでさえ攻防一体の兵装であることに加え、挙動全てに『勁』を通す外法を修めた敵。

 突破しうる手法は二つ。

 陽炎という機構のキャパシティを遙かに超える運動エネルギーをぶつけるか、あるいは陽炎というニュートンの揺り籠に狂いを生じさせるか。

 

「外法には外法や」

 

 龍驤は後者を選択した。二丁の愛銃(トカレフ)をホルスターに収め、懐に呑んでいた匕首(あいくち)を右手に握り、左手を添えて腰にくっつけた。

 無造作に陽炎へ駆け寄り、腰をぶつけるかのように匕首の先端を陽炎の腹部へ。

 当然、陽炎はこれを盾で受ける。両手で腰だめに構える持ち方は、差し違えてでも敵に刃を届ける捨て身の一撃となる。

 盾で受けられることは想定済み。龍驤は匕首の刀身に刻んだ艦娘殺しの術式を起動。盾、腕、背骨を経由して機関部へ術式を侵入させる算段だった。

 どこかで術式の侵蝕が途切れるにせよ、一瞬だけ陽炎の『勁』の巡りは鈍る。

 

「あちちっ!」

 

 だが、悲鳴を上げたのは龍驤の方だった。脳髄と機関部に、熱した焼きごてを当てられたような激痛が一瞬だけ巡った。おさげに結った両脇の髪のうち、片方のゴムが弾け、ほどけた。

 体当たりの衝撃は盾に吸われ、瞬時に返された。挙動としては、手首を返しただけ。それだけで龍驤は冗談みたいにふっ飛んだ。

 龍驤は宙で転身して両脚と左手で着地。陽炎は何事もなかったかのように、雪風たちを再び相手取り始めた。

 右手に持った匕首は、刀身がぐにゃぐにゃに曲がり、刻まれた術式の溝は溶解して跡形もなかった。術式の起動に使った霊力も奪われていた。

 

「あんの盾っ、攻性防壁かいな……!」

 

 害意を持つ呪術の霊脈を逆探し、操り主に反撃する性質を持つ防壁のことだ。龍驤は髪を結うゴムの飾りに身代わりの形代を織り込んでおいたため、たかだか激痛で済んだ。

 

『詰みました!』

 

 だしぬけに、黒潮と戦闘していた雪風たちから鎮圧成功の報が入った。

 

『詳細!』

 

 裏の視界に八面あるディスプレイのうち、右下二面と左上二面にログが大量に流れた。近接銃術に秀でており、術式弾頭を使用していたとのことだった。

 不知火も陰陽道の歩法、反閇を修めていた。

 舞風のデタラメな膂力も、術式強化(エンチャント)によるものだとすれば合点がいく。

 この陽炎も攻性防壁を盾に仕込んでいる。

 不意打ちで殺害できた谷風と天津風を除いて、遭遇した陽炎型全てが陰陽道に関わる事物を運用していることになる。

 

「どこの凄腕やホンマ」

 

 龍驤を凌ぐ陰陽道の遣い手が背後にいる。他者の道具をあつらえ、加えて術法を門外漢へ伝授するほどの達人だ。

 陰陽道に通じるという初風か。否。経験が浅すぎる。彼女は伝授された側だ。

 

『ブラボー、デルタ、そっち側のクリアリングは任せたで。ツチノコ(はつかぜ)見つけたらしばいたれ』

『りょーかいです!』

 

 眼前では無数の剣戟が、未だに続いていた。布陣と挙動に既視感を覚えた龍驤は、陽炎と刃を交えている雪風たちに問い合わせた。

 

『アルファ、チャーリー、どないや。詰ませられるか』

『千日手ですっ!』

『やっぱりか。ほんなら一旦引きい。あいつ、動かへんつもりや』

 

 ぱっと雪風たちが飛び退き、距離を置いた。

 

「ねえアンタたちさ、いい加減、帰ってくれない?」

 

 開口一番、陽炎が言った。両手をだらりと下げた自然体。

 

「クソウサギがそれでええっちゅうんならな」

「なるほど。無理な相談だったわ」

 

 陽炎は、やはり動かない。

 龍驤は霊力をわずかに込めた爪先で、コツコツと苛立たしげに床を叩きながら陽炎へ問うた。

 

「おどれら、なんで離反したんや」

「変なこと訊くのね。わたし(あなた)たちに理由が必要なの?」

 

 霊力が込められた爪先は、なおも床を叩いた。

 

「なんもかんも、腑に落ちひんことだらけやさかいな」

「私たちは雪がそうすると決めたからこうしているだけ。まあ……私と雪の二隻だけになっちゃったみたいだけど」

 

 気づけば、しきりに発されていた無電が途絶えていた。初風を仕留めたか。

 

「ま、どうでもいいか。火の粉が降りかかるなら、火の元を絶たなきゃね。九隻、いっぺんにかかってきてもいいわよ。手加減できなくなっちゃうけど」

「大層な自信や。言うて、大口叩くだけの実力やさかい、ぐうの音も出えへんけど」

「あっそ。それで、どうするのかしーー」

 

 陽炎の言葉を遮り、龍驤はおどろおどろしい声音で低く宣言した。

 

黄泉比良坂(よもつひらさか)

 

 カツン、と鳴らした踵から霊力を放出し、龍驤は術式を起動した。

 お喋りで時間を稼いでいる間に爪先から放出した微量の霊力が、陽炎が立つ廊下の壁面、床、天井に、術式の回路を刻んでいた。僅かな振動でもほころびを生じてしまう脆弱な回路だったが、陽炎が不動であったこと、雪風たちがじっと待機していたことが幸いした。

 術式回路により実現されたのは、現世(うつしよ)から幽世(かくりよ)へ通じる隧道(トンネル)状の結界。

 

「嘘……ッ!」

 

 陽炎が慌てて跳び退り、結界を抜けて龍驤たちから距離を置いた。

 致命的な間違いだった。

 結界を抜けた陽炎の姿が希薄になった。半透明の、幽霊のようだった。

 

「あっ、あれっ……!?」

 

 古来、冥界へ通じる道は、暗い隧道(トンネル)であり、隧道を抜けた者はこの世ならざる者となる。

 龍驤はガツンと強く踵を踏み、結界を構成していた術式へ強めの霊力を通した。術式回路が飽和した霊力に耐えられず、崩壊した。

 冥界への隧道が閉ざされ、陽炎という存在が現世から切り離された。

 半透明になっていた陽炎が、ふっと姿を消した。

 

「昔っから足癖、悪くてな。おイタばかりしよんねや」

 

 龍驤は胸元からバットを一本抜き、コリブリで火を点けた。ぷう、と細く煙を吐き、陽炎がいた空間に満たした。

 念には念を。結界を構成していた術式回路を、煙草の煙で祓い清める。

 四隻の雪風たちが揃って鼻をつまんだ。

 

「龍驤さん、くさいです」

「堪忍や」

 

 じきに、残りの四隻も追いついた。八隻分のログをざっと検分し、戦闘行動に支障がないことを確認した。感応ネットに呼びかけた。

 

『どら、仕上げや。ここのお偉いさんの顔、拝みに行くで』

『はいっ』

 

 目指すは廊下の奥。冥界に消えた陽炎が通すまいとしていた角部屋。

 龍驤は扉に五指の先で触れ、霊力を通して構造を探った。

 少なくとも、壁と扉に異常物は無い。

 

『アルファ、ブリーチや』

『はいっ!』

 

 UZIが火を噴き、ドアノブ横の錠前と蝶番を破壊(ブリーチ)した。

 龍驤はホルスターから二丁の愛銃(トカレフ)を抜き、扉を蹴倒して踏み入った。

 殺風景な部屋だった。唯一の家具である重厚な執務机の端に、窓からの月明かりが差していた。

 

「あーあ、来ちゃいましたか」

 

 舌っ足らずな、甲高い子供の声。

 窓から月明かりが差す中で、一隻の雪風モデルが執務机に行儀悪く腰掛けていた。更に行儀の悪いことに、右足を机の天板に乗せてくつろいでいた。

 龍驤は背後に続いていた八隻の雪風(シスターズ)に指示を与え、執務机を取り囲ませた。

 

「おどれ、いまなんどきか分かるか?」

「あたしがこれから殺される、と言いたいんですよね」

 

 督戦に所属していただけあって話が早い。

 

「ほんなら死ぬ前に答えてもらおか、ハムスター。どうソロバン弾いたら情報部(うち)から足抜け、なんて勘定になったんや。そないなことして、追っ手がかからんはずないやろ」

 

 んー、と鼻声で唸り、雪風は首を傾げた。じきに右手を軽く持ち上げてにやにやと笑った。

 

「まあ簡潔に言うと、生き残るためです。あたしは沈む(しぬ)わけにはいきませんので」

 

 龍驤は目を細め、低い声音で宣告した。

 

「楽に死ぬんか、歯ァと爪オシャカにしてから死ぬんか、いま選べ」

 

 雪風は自身を取り囲む妹たちを見やり、ふふんと鼻で笑った。

 

「そう言う割に、随分と用心深いんですね。たかが駆逐艦一隻を九隻で取り囲んでおいて、まだ手を出さないなんて」

 

 龍驤は答えず、キリ、と音を立てて愛銃(トカレフ)の引き金を絞った。

 八隻の雪風(シスターズ)は龍驤の指示通り、呪術的な意味を持ちえない無秩序な配置で筆頭艦の雪風を取り囲んでいた。

 この雪風モデルに関する記録は皆無。つい先日、海軍内部から完全に消去された。

 一方、叢雲の記憶によれば、何の変哲もないただの雪風モデルであり、強いて挙げるならば最初の一隻(オリジナル)ということくらい。

 

 おかしいのだ。

 あの叢雲(・・・・)が特筆すべき情報を持たないと判断しているのであれば、この雪風には海軍内部の記録をわざわざ抹消して回るだけの動機がない。むしろ海軍を敵に回すという割に合わない対価を支払うだけだ。

 

「……椅子に縛りつけや。歯医者ごっこや」

 

 龍驤が顎をしゃくった。

 取り囲んでいた雪風たちのうち一隻が、背後に歩み寄って筆頭艦の雪風の腕をねじり上げた。

 

触りましたね(・・・・・・)

 

 ふいに、八隻の雪風(シスターズ)が構成する感応ネットへの接続数が、一隻増えた。

 異物をいち早く検知した龍驤は脊髄反射的に接続を遮断。

 だが、遅かった。

 闇より黒い八匹の蛇がのたうった。八隻の雪風(シスターズ)へ伸びていた霊脈の残滓を貪りながら、龍驤の眼球を貫いて網膜へ到達した。

 

「あぐっ!」

 

 何本もの太い針で眼底を穿たれたような激痛に悲鳴を上げ、龍驤は両目蓋を押さえて膝を着いた。

 筆頭艦の雪風が優しい声音で告げた。

 

「おかえりなさい、妹たち(シスターズ)。ずっとローカルネットに押し込められて寂しかったでしょう。さ、みんなのもとへお戻りなさい」

 

 龍驤は痛みを堪えて目蓋を開いた。

 暗闇のままだった。

 霊力で視力を水増ししようとして、慄然とした。

 眼球が存在しない(・・・・・・・・)

 物理的な損傷を受けたわけではない。眼球という概念が食われたのだ。

 身構えたが、無意味だった。

 小さな手に腕を取られて背に回され、愛銃(トカレフ)を奪われた。龍驤が作戦前に懸念した通り、八隻の雪風(シスターズ)が乗っ取られ、支配権を奪われたのだ。

 

「あんのクソウサギ……『改造艦』は感応ネットの機能を持たへんて聞いとったけどな」

「普通はそうです。あたしは任務で殺害した『合成艦』の脳を移植しましたから」

「わざわざスプーンで脳みそ(すく)って取っ替えたんか。酔狂なこっちゃ」

「あたしに関する情報を抹消するためには必要な措置でした。海軍に関する情報は全て、ユキカゼネットワークで処理されていますから」

 

 情報工学に詳しい龍驤でさえも聞いたことのない単語と技術だった。艦政本部第九部に所属している龍驤には機密情報触接権限(セキュリティクリアランスレベル)乙が割当てられており、彼女が知り得ない情報は存在しない。

 但し、存在が秘匿されている情報、甲指定の情報は例外である。

 

「どいつもこいつも甲一の機密をホイホイ喋くりよってからに……ほんで、何やそのユキカゼネットワークっちゅうんは。交換日記か何かか」

「あえて言うなら椅子取りゲームですね。雪風モデルが統計的にありえない被弾率の低さを誇る、先天的な仕組みです。雪風モデルは因果律の偏在機構を持っているんですよ。一万隻につき一隻、『不幸艦』の雪風を選定して、被弾した事実を『不幸艦』に押しつけるんです」

 

 日本には現在、数百万人の提督が存在する。そして雪風モデルはその優秀さゆえに、ほとんどの提督に所有されている。

 

「脳みそ繋いで数百万台規模の分散コンピューティングか。そら大層な仕組みや……ッ!」

 

 腕がねじ上げられ、肩が軋んだ。龍驤は息を止めて痛みを堪え、続けた。

 

「……ほんで、肝心の質問に答えてもろてないんやけどな。なんで足抜けしたんかっちゅうアレや」

「先ほども言いましたよ。生き残るためです。いいように使われて用が済んだら処分される、なんてまっぴらですから」

 

 眼球の概念が再構築され、徐々に視界が戻ってきた。うっすらと、七つの影が見えた。うち四つは龍驤の正面に立ち、それらの後方に三つがあった。残りの二つは龍驤を拘束している。

 

「おどれ、筆頭艦務めとったのに分かってへんのか。情報部は墓場や。所属したが最後、お天道サマは二度と拝まれへん」

 

 後方にいる三つの影のうち、真ん中から声が届いた。

 

「あなたこそ気づいていないんですか? あたしたちが殺害した艦娘の共通事項に」

 

 龍驤は即答した。

 

「重大な軍規違反。それ以外にあるっちゅうんか」

 

 くすくすと、真ん中の影が笑って身を震わせた。

 

「情報部が殲滅した組織における軍規違反の内容は様々です。ですが、あらゆるケースにおいて、主犯は精神に異常をきたした『改造艦』の艦娘なんですよ」

「だから何やっちゅうねん」

「情報部が殲滅した組織、およびこれから殲滅対象となりそうな組織。それらの情報は全て、機密指定区分《セキュリティレベル》乙一指定でありながら甲一のタグも付いていました」

「けったいな話やな」

 

 いかにも語りたがりそうな声音だったので、尋ねてやった。

 

「で、何や、そのタグて」

「識別名称をコード・ソロモンといいます」

「耳欠けの漣も、何ぞほざいとったな。クソウサギは知らへんて言うとったけど」

「それはそうですよ。だって、そのタグを付与しているのは他でもない、情報部の叢雲なんですから」

 

 雪風の言に不整合は無い。甲一指定である以上、そのタグは存在自体が秘匿される。尋ねられた所で、叢雲は知らぬ存ぜぬと答えるのが妥当だ。

 

「クソウサギがその何ちゃらてタグを付けて回ったっちゅう証拠なんぞあるんか」

「明確な証拠はありませんが、確信しています。だって、情報部(あたしたち)の情報にもコード・ソロモンのタグが付いているんですから」

 

 龍驤は口をつぐんだ。情報を整理するためだった。

 雪風はというと、龍驤の沈黙を驚愕と捉えたらしく、得意げな口調で語った。

 

「コード・ソロモンというタグが何を意味するのか、何のために付けられているのか、突き止めることはできませんでした。甲一指定ですらないんです。おそらく、ごく一部の者だけが知り、内心に留めていることです」

 

 龍驤は気のない返事を返しつつ、まだ思考を整理していた。雪風の弁舌が鬱陶しいとまで思った。

 

「ご大層な陰謀論やな」

「何とでも。でも、これだけは確かですよ。あたしたちはいずれ、飼い主である情報部に殺される」

 

 龍驤はなおも、雪風からもたらされた情報を吟味していた。

 やがて、あらゆる観点から、この雪風の言は真実であろうと考慮に値しないと結論した。

 ハン、と龍驤は鼻で笑った。

 視界もほぼ戻っており、にやにやと笑う筆頭艦の雪風の表情まで見えるようになった。取り巻きの八隻の雪風(シスターズ)は、無表情でUZIを龍驤へ向けていた。

 

「おどれ、情報部に殺される、て言うたな。そないなこと、当たり前田のクラッカーやろ」

「当たり前……ですか」

「軍規違反を犯すモンがおらんようになったらウチらは不要になる。機密を知るモンが任から外れるてなったら、行き着く先は二つや。暗殺か、飼い殺しか。今更それが何やっちゅうねん。海で沈むのと陸で解体(バラ)されるのと、何がどう違うんや」

 

 雪風は長々と息を吐いた。

 

「……そうですね。艦娘であれば(・・・・・・)、そう考えるんでしょうね」

 

 ようやく、龍驤は気づいた。

 雪風モデルは皆、自身を指して『雪風』と呼ぶ。滅多に一人称代名詞を用いることがない。

 だが、この艦政本部第九部佐世保支部の筆頭艦である雪風は、これまで一度も自身を指して『雪風』とは呼んでいない。

 

「……おどれ、何者(なにもん)や」

「あたしは須藤単葉(すどうひとは)です」

 

 龍驤はいっとき言葉を失った。

 呆れ、首を横に傾けた。

 

「いや、誰やねん」

「この体が雪風になる前の、ヒトだった頃の名前ですよ」

「アホぬかせ」

 

 艦娘となった時点で自我が艦娘のそれに書き換えられ、元々の人格は消失する。性格も、記憶も、名前も、一切が溶解され、艦娘という鋳型に流し込まれて新たな形を得る。

 加えて、『改造艦』の前身に関する情報は一切が徹底的に破棄される。

 ヒトだった頃の名前や記憶など、どんな艦娘にも存在しない。

 龍驤の思考を見透かして、筆頭艦の雪風がけらけらと笑った。憎悪に満ちた哄笑だった。

 

「と、思ってるんですね。そんなわけないじゃないですか」

「そんなわけないわけがあるかボケ。世迷い言も大概にせえや」

「言ったじゃないですか。あたしは『合成艦』の脳を移植したって」

 

 龍驤は目を剥き、口を半開きにした。

 

「おどれ、まさか……」

「あはっ、あははははははははははははははははははっ! いひひひひひひひひひひ!」

 

 雪風はけらけらとけたたましく哄笑を上げてから、ひいひいと肩で息をしながら答えた。

 

「ええ、ええ。脳の全部をそっくり移植したんです!」

 

 ユキカゼネットワークへのアクセスに必要な部分(モジュール)だけの移植だと、龍驤は思い込んでいた。

 

「おどれ、すり替え(スナッチし)たまっさらな雪風の脳に憑依して乗っ取ったな」

 

 消失するはずの人格が怨霊と化し、かつて雪風だった艦娘に憑いて回っていたのだ。

 

「そういうことです。雪風の人格に『アクセスモジュールを移植すれば情報収集が効率的になる』と囁いて、わざと間違った手順を教えたんです。自我が定着していると憑依もままなりませんから」

「晴れておどれは艦娘の体にヒトの心を取り戻したと。ほんで、殺されるのんはまっぴらや、言うてトンズラかますわけやな」

「はい。だって理不尽じゃないですか。あたしは人々を守るため、志願して艦娘になったんです。なのに深海棲艦じゃなくて、仲間である艦娘を殺して回った挙句、不要になったら処分されるだなんて、理不尽にもほどがあるじゃないですか。だからあたしは、ユキカゼネットワークを使ってあたしの情報を消し去って、あたしに関わった人物も艦娘も消し去って、自由の身になるんです」

 

 この佐世保支部に所属する艦娘が全滅することまで計画に織り込んでいたらしい。情報を消して回るのであれば、可能な限り足が付かないように立ち回る。それを、わざと叢雲に勘づかせて佐世保支部そのものを消し去ろうとした。

 龍驤は力なく嘆息して、かぶりを振った。

 

「ホンマ、分かっとらんな、おどれ」

「……何がですか」

 

 ハ、と龍驤は短く声を漏らした。バットをふかしたくなったが、あいにく両腕はねじ上げられたままだ。

 

「おどれもウチも艦娘や。艤装着けて砲弾ぶっ放して電探やら無電やら操るようなヒトなんぞおるかいなドアホ。なんぼ理屈こねたかて、艦娘は兵器や。作動不良の兵器なんぞに、廃棄処分以外の末路なんぞあるか」

 

 得意げに語っていた雪風の表情が、醜く歪んだ。瞳には憎悪が宿っていた。

 

「ッ……! あなたは、真実を知ってなお、そんなことを言うんですか!」

「真実? おどれに都合のいい言説やろ。ホンマにあるのは事実だけや。おどれは軍規を犯した。せやから処分する。それだけのことや」

「あたしの処分が事実、ですか。この状況でよくそんな減らず口が叩けますね」

「ウチがタダでモノ言うタチに見えるか? そろそろやぞ(・・・・・・)。歯ァ食いしばらんと舌噛むで」

 

 筆頭艦の雪風が眉をひそめた。

 

「強がりも程々にーー」

 

 ハ、と龍驤はまたも短く声を漏らした。

 

「さてはおどれ、あのクソウサギの性根の腐りっぷり知らんな? おどれが陽炎にくれてやった攻性防壁あったやろ。似たようなモン、クソウサギが使わんとでも思うか?」

 

 ハッとして、筆頭艦の雪風が両の眼を剥いた。

 その瞬間。

 龍驤の言葉をトリガーに設定していたかのような完璧なタイミングで、八隻の雪風(シスターズ)に仕込まれていた遅効性の攻性防壁が発動した。

 最初の一隻(オリジナル)である雪風、あるいは須藤単葉という少女の霊魂、その深部へ密かに潜り込んでいた蛇が、飢えた腹を満たすために脳髄を食い荒らし始めた。

 

「あああああああああああぁっ!」

 

 筆頭艦の雪風が机から転げ落ち、激痛のあまりのたうち回った。

 拘束を解かれた龍驤は、肩をほぐしながら無様に床を転がる筆頭艦の雪風を見下ろした。

 

「ダボが。映画でも観て勉強しときや。調子に乗ったドグサレから死ぬんがお約束や」

 

 龍驤は八隻の雪風(シスターズ)が持っていた愛銃(トカレフ)を受け取った。筆頭艦の雪風を睨んだまま、動作に問題が無いことを手探りで確かめた。

 放っておいてもこの雪風は死に至るが、龍驤は確実を期すため、愛銃(トカレフ)に装填された術式弾頭へ霊力を込めた。

 薄い胸板を踏みつけると、筆頭艦の雪風は抱えた頭をぶんぶんと振った。足もばたばたと暴れ、照準を難しくした。

 

「この、ちったあ大人しくーー」

 

 だしぬけに。

 

 ぴたり、と筆頭艦の雪風が動きを止めた。

 八隻の雪風(シスターズ)も、半秒遅れてぴたりと動きを止めた。

 

 クハ、と筆頭艦の雪風が頭を抱えたまま嗤った。

 八隻の雪風(シスターズ)も、半秒遅れでまったく同じ表情になり、クハ、と嗤った。

 

 直後。

 その場にいた九隻の雪風の頭部と機関部が、揃ってボンと爆ぜた。

 

「な……」

 

 脳髄の欠片と肉片と脳漿と血液が、暗い室内にまんべんなく爆散した。

 あの雪風は一瞬で八隻(シスターズ)の支配権限を奪取し、自らの複製を強引に転写。攻性防壁が全隻に牙を剥くように仕向けたのだ。

 雪風だったものが爆ぜた諸々を全身に浴びせられた龍驤は、しばらく呆然としていた。

 やがて怒りも露わに、筆頭艦だった雪風、あるいは須藤単葉という名の少女の遺骸を蹴り飛ばした。

 

「こ、の……! アホバカマヌケスカタンタコボケカス!」

 

 蹴り飛ばすだけでは足らず、何度も鉄靴で踏みつけて打擲(ちょうちゃく)した。

 愛銃(トカレフ)に装填された術式弾頭の全弾を、無意味と知りながら腹へ撃ち込んだ。

 

「死ぬなら一隻(ひとり)で死にさらせ、このダボが!」

 

 息は荒く、華奢な肩が上下した。

 唇を噛んだ。ばたばたと倒れ伏した九隻の雪風だったものを、ひとつひとつ見た。

 

「……クソが」

 

 バットを胸元から抜いたが、血糊と脳漿の混ざり物でぐっしょりと濡れていた。握り潰し、ポケットへ乱暴に突っ込んだ。代わりに携帯端末を取り出した。

 

「艦政本部第九部」

 

 いつもと変わらない叢雲の氷のような声が、怒りに火照った耳を幾分か冷ました。

 

「ウチや。ケリついたで」

「ええ。シスターズは全滅したのね」

 

 叢雲は淡々と冷徹に状況を確認した。

 冷め始めていた耳がまた火照り、龍驤が叫び散らした。

 

「ドアホ! 攻勢防壁仕込むんやったら道連れ対策もせえへんと片手落ちやろが!」

「声を落としてくれるかしら。シスターズはあの雪風を閉じ込めるための鳥籠よ」

 

 鳥籠、と聞いて龍驤は愕然とした。携帯端末を取り落としそうになった。

 

「……何やと」

「あれが感応ネットにアクセスできることは、海軍の情報網に侵入したことから明らかだったから」

「最初から、そのつもりやったんか。アレがユキカゼネットワークとかいうモンにアクセスできるから、おチビちゃんたちを蛸壺扱いか」

「ええ。ユキカゼネットワークへ人格を逃がされたら厄介だったから。あの八隻はそれぞれ、八卦の方角に対応した結界よ。どこに逃げても袋小路。まさか全隻が道連れにされるとは思っていなかったけれど」

 

 龍驤は携帯端末を床へ叩きつけたくなる衝動を堪え、怒声に転化した。

 

「ほんなら先に言えや! なんぼでもやりようあったわドアホ!」

「言ったらあなたは行動を変える。やりようがあった、といまあなたが言ったように。あるいはあなたが失敗して敵の手に落ち、口を割った場合、あの雪風はシスターズに接触しなくなる。どちらも望ましくない事態よ」

 

 叢雲はあくまで冷ややかに未来を予測し、確実に離反者を葬る手筈を整えていた。

 いつものことだ。叢雲は、三年前と四ヶ月前に初めて会ったときから何も変わらない。

 

「……もう、ウチに共同作戦なんぞさせるな。どうにもヘタクソやさかい、あたら使い潰すことになる。艦娘かてタダと違うさかい。情報部に打ち出の小槌なんぞあらへんやろ」

「承諾しかねるわ。想定より損耗は多かったけれど、あなたは今回も仕事を完遂した。あなたの任務に情報部の懐事情を考慮することは含まれていないわ」

「さよか。せいぜい五月雨はんとブッキーはんに叱られへんことや」

「それも無用の心配よ。では、掃除屋を向かわせるわ。あなたは速やかに退去なさい」

 

 言って、叢雲は通話を切った。

 静かな室内だった。嗅覚はもはや麻痺して、濃い血糊の臭いも、饐えたような脳漿の臭いも、分からなくなってしまっていた。

 

「ーーふっ!」

 

 龍驤は携帯端末を全力で床へ叩きつけた。先ほどねじり上げられた肩が痛んだ。

 携帯端末の画面が割れ、筐体が折れた。鉄の踵でめちゃくちゃに踏み潰し、艦娘の膂力をもってばらばらにした。踏みつけ、足を上げるたび、にちゃ、と不快な音がした。

 じきに、これ以上は不可能というところまで粉砕されたガラスとプラスチックとアルミニウムが、床に厚く塗られた血液その他と混じりあって馴染んだ。

 龍驤は部屋を出た。

 左手、廊下の突き当たりにある窓を蹴破ると、ひょいと飛び出て地面へ着地した。

 霧はいっそう濃く立ちこめ、中天に差しかかった半月の輪郭を失わせていた。

 海まで歩くと、全身にこびりついて乾き始めた脳髄の欠片と血液と脳漿が、肘や腋といった服が擦れる部位で粘つき、不快な音と感触をもたらした。

 

「……服、新調せんとな」

 

 海に飛びこんで洗い落としたかったが、残念ながら健康な艦娘は海に沈むことができない。

 せめて、バットを吸いたかった。

 


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