いくらゲーム内時間は現実の三倍速で進んでいるとは言え。
ゲーム内で二日過ごせば、それは現実で十六時間、一日の大半は終わっているということであり。
いくら現実に近い世界だろうと、この世界で物を食べても、現実の体には何の栄養も行き渡らないし、この世界で寝ても、別に現実の肉体は疲れを癒さない。
まあ、フルダイブ型のハードは基本的に寝転んで使用するので、ある意味眠っているようなものかもしれないが。
合間合間で食事や仮眠などを済ませながら、ゲーム内で四日の時間が経過する。
ここ数日雨が降っていたので、どうかと思っていたが、どうやら今日は晴天晴れのようだった。
「良い、陽の力が強ければ、月の力は弱まる。いざとなれば、アースガルズに赴こうとも思ったが、どうやら面倒かけずに済みそうじゃな」
ヘルが凄まじく忌々し気な表情で、そんなことを言っているのがどうにもアンバランスで、苦笑する。
――――ナグモ、こっちは準備できたわよ。
すでに自身の内側に潜ったホタルが、そんな言葉を呟き。
「…………なら、行こうか。狼退治に」
目前に迫った山を見上げ、そう呟いた。
* * *
ヘル曰く、マーナガルムは、山の頂上にある岩に封印されている…………はずだった。
「…………割れてるな」
「…………じゃのう」
山頂。ここまで来るのに、一度の襲撃も無かったのは、ここ数日でそれが無駄どころかマイナスでしかないと理解したからか。
ヘルがマーナガルムを封印したと言う岩が目前にあるが、見上げるほどに巨大な岩の一部が見事に内側から砕かれ、真っ二つに割られている。
明らかな異常だがその周辺には、何も見当たらない。
山頂にあったのは割れた岩だけ。少し下れば木々などもあるが、岩の周辺だけ草一本生えない不毛の地と化している。
ヘル曰くの呪いの影響だろう、とのこと。
まあそれはさておくとしても。
「マーナガルムはどこに行ったんだ?」
「分からぬ…………封印は解けているとは言え、あやつは呪いでこの山に縛られておる故に、山から抜け出すことは出来ぬはずじゃ。呪いの源である『不死』を捨てるならばそれもまた可能かもしれぬが、今の弱った状態であやつがそれを捨てるとも思えんしな」
ヘルの言葉になるほど、と思いながら、周囲を見渡す。
良い景色だと思う。
こんな状況じゃなければもう少し素直に楽しめたかもしれないのだが。
山を見下ろしてみるが、それらしい物は見えない。
まあそれで見つかるとも思っていなかったが。
さて、と思考を巡らせる。
考えなければならない。
ゲームだから、と思考を止めては真の意味でこの世界を楽しむことはできない。
果たしてマーナガルムはどこに行ったのか。
今一番マーナガルムがしなければならないことは何か。
そう考えれば。
「……………………逃げた、って可能性は?」
「あり得ん…………とは言えんな、正気だった頃は誇り高い男じゃったが、狂った今となってはその誇りも失っておるじゃろうしな」
狼とは狡猾な生き物だ。
弱った獲物を群れで追い詰め、追い立て、狩っていく、獰猛な生き物だ。
故に不利と悟れば逃げる可能性もあるが。
「……………………いや、違うな」
その思考に至った瞬間。
「グルゥゥゥゥ」
「ホタル!」
聞こえた声に、咄嗟に『瞬発力』を強化し、ヘルの腕を引いて飛び退る。
直後。
轟。
爆音が響き、地が破裂したかのように爆ぜる。
一瞬の差で、間一髪回避はできたが、そのとてつもない威力に背筋が凍る。
「グルルゥゥゥ…………ヘル、コロス、クラウ、ウバウ、ムサボル」
そこにいたのは、黒い毛皮の狼だった。
ただし、二足歩行し、丸太のように太い両腕をぶらんと揺らしながら、口からは涎を垂らし、黒の無い真っ白な目でこちらを見つめ、その全長が三メートルを超える化け物を狼と呼ぶならば、だが。
一瞬だったが、先ほどの爆発の原因は見た。
その腕で地面を殴った、それだけだ。
それだけで一メートル近く地面がへこんでいた。
当たれば一撃で耐久力の限界に達するだろう強烈な一撃。
けれど、それだって化け物からすればただ普通に殴っただけ、に過ぎないのだろう。
【BOSSモンスター】《大神蛮狼マーナガルム》【カテゴリーA】
脳内に表示されたその言葉に、出た言葉は、やはり、といったところ。
月神の力が無い、とか。
魔法が使えない、とか。
そんなつまらないこと関係ない、と言わんばかりに。
ただその肉体だけで、こちらの全てを圧倒し、凌駕する真正の化け物がそこにいた。
* * *
「こ、こやつ、どこから出てきた?!」
「上だ、岩の裏に隠れてたんだよ! どうやら
ぎろり、と白い眼が自身たちを完全に標的として捉える。
黒目が無いが、あれは果たして見えているのだろうか。否、見えていようがいまいが、あの正確な一撃を考えればきちんと把握は出来ているのだろう。
「構わん、どうせここで倒せなければ、同じことよ、向こうから来るならば都合も良い」
「だなっ…………行くぞ、ホタル!」
――――行くわよ、ナグモ!
同調したホタルから返事に、応と答え。
「『
「一発目ェ!」
『脚力』『瞬発力』『筋力』『長剣硬度』をほんの一秒だけ強化する。
僅か一秒、だが。
「うらああああああああああ!!!」
一発のみ、とはいえ、ほとんど自身の全力の一撃。
振り切った一閃を黒狼へと放たれ。
「グルアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
がちん、とその牙が長剣を止め、噛み付いた長剣ごと自身の体を宙へと浮かび上がらせる。
「んなっ」
驚愕の一瞬。
だが、その時にはすでに黒狼の両腕が振り上げられ。
「『強化』!」
咄嗟に発動した魔法で『硬度』『頑丈』『強度』を強化し。
振り下ろされた一撃に軽々と体が吹き飛び、地面を二度、三度跳ね、背後の岩に激突する。
「ぐっ…………がっ…………」
体の中のあらゆる空気が吐き出され、呼吸が止まる。衝撃で息が吸えない。
一瞬の意識の空白。
「かひゅっ」
僅かな呼吸。けれどそれだけでも意識が戻る。
けれど次の瞬間、目の前に黒狼の拳が迫ってきていて。
「『強化』!」
咄嗟に強化した脚力で、体を跳ねさせ、紙一重で拳の一撃を躱す。
直後、先ほどまで背にしてた岩に黒狼の拳が突き刺さり。
どごん、と直径五メートルはあったはずの封印に使われた岩が、一瞬で砕け散り、礫を飛散させる。
「ぐっ」
咄嗟に片目を閉じ。
直後。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
脳の髄まで揺さぶられるような咆哮に、意識が飛びかける。
「ぐ…………がああああああああああああああああああ!!!」
意識を繋げようと絶叫しながら、空中で長剣を構え。
「らあああああああああああああああああああああああああああ!!!」
――――『強化』!
『筋力』『重量』『硬度』など威力に関わるだろうあらゆる数値を強化した一撃が黒狼を捉え。
「グルウウウ」
その両腕を交差させ、黒狼が一撃を防ぐ。
だがさすがに効きはしたらしい、黒狼が僅かに顔を歪め、一瞬だが腕が震える。
だが、それでも、手傷、といったレベルのものでしかない。
「分かってたが」
強い。
ただ純粋に、速くて、力強くて、硬い。
仕掛けも無く、というか、仕掛けも全て取り払った素の能力がこちらを圧倒してくる。
この長剣ガルムも、前に使っていた村長にもらった剣よりかなり硬度や重量があり、威力もかなり高いことが分かるが、そこに魔法を乗せた全力の一撃でも、相手のガードを崩すことはできないらしい。
というか最初に歯で噛み付かれたのはさすがに驚いた。
相手の行動直後などを狙わないとあれで反撃される可能性が高い。
あの強烈な攻撃も魔法で咄嗟に防ぎはしたが、それでも意識が飛ぶほどの衝撃だ。何度も食らって良い物ではない。
それより何より。
「は、や…………過ぎる!」
十メートル近い距離が、刹那に縮められるふざけた脚力が厄介過ぎる。
こちらが魔法で全力強化して、二メートル半から三メートル弱といった距離が精々にも拘らず、その三倍以上の距離を一瞬で縮めてくる。
ガルム戦で速度には慣れた気がしていたが、この怪物はまさしく別格だ。
「まだか…………ヘル」
視線を外せば次の瞬間には目の前にいるような怪物故に、見やることはできないが。
「クソがっ」
吐き捨てた次の瞬間、黒狼の姿が掻き消える。
「『強化』」
『動体視力』と『反射神経』を強化し、高速で移動する黒狼の姿を捉えると同時に、迎撃態勢を取る。
「『
黒狼が突きだした拳に、カウンターを合わせるように強化した剣を突き出す。
ぐさり、と初めて長剣が黒狼の皮膚を突き破る感覚。
拳に剣が突き刺さり、その肉を削り、勢いで逸れていく。
「グルアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!?」
黒狼が絶叫し、バックステップする。
二度、三度と後退すればそれだけで十メートル以上の間が開く。
やはり、速度じゃどうやっても敵わない。
ならば。
「ふんっ」
両足を広げ、スタンスを大きく取る。
腰を落とし、剣を構える。
足を広げているので移動はできなくなる、だが元々速度で敵わない相手に足を使ってもそれほど効果は無いだろう。
ならば、相手の攻撃の瞬間を狙って攻撃を返す、それが最も効果的だろうことは今の一撃が証明している。
「…………一瞬たりとも気が抜けないな、こりゃあ」
黒狼との睨みあい。
一瞬で気を抜けば、その瞬間にあの牙が自身の喉笛に食らいつくのだろう。
まともに受ければ死ぬ、威力が高すぎて受け流すことも出来ない。
ならば、最大強化で押し返す。相手の速度をそのまま相手を殺すための武器に変える。
速度も無い、硬さも無い、威力も無い、無い物ばかりの自身だからこそ、使える物は全て使って戦わなければならない。
直後、二度目の攻防。
「『強化』」
地を這うように疾走する黒狼の鋭利な牙を、振りかぶった剣を頭ごと叩き落とすように、振り落とした一撃。けれど直前で方向転換した黒狼が回避し、代わりに拳の一撃を放つ。
強化された『動体視力』で首の皮一枚でそれを避けながら、その顔面にエルボーを叩きこむ。
とは言ってもまともにやったって分厚い顔の毛皮に阻まれるだけだ。
だから、鼻先を狙って潰すように肘打ちを叩きこむ。
「グルアアアアアアア!」
さすがに怪物とは言え、鼻の先など鍛えることなどできなかったか、鼻頭を抑えながら絶叫する。
仰け反った一瞬、怪物にこちらの姿は映っていない。
最大の好機が到来する。
「『
振り上げる一撃。下顎を直撃した
「…………行けるっ」
その姿に、確証を得て、さらなら一撃を叩きこもうとして。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
真正面から放たれた咆哮を喰らい。
ぶつん、と意識が途絶えた。
* * *
不味い。
少女、ホタルがそう思った時にはすでに遅かった。
轟という黒狼の咆哮。
自身の契約者の意識が途絶えたことを、感じ取る。
――――ナグモっ!!!
悲鳴染みた声をあげながら、少女が少年の名を呼び。
「グルゥゥゥ」
力無く、地面に倒れ伏す少年の体を見て、黒狼が唸る。
――――起きて、起きろ、起きなさい! ナグモ!!!
必死に呼びかけるホタルの声に、けれど少年は声を返さない。
黒狼が拳を振り上げる。
――――ナグモっ! ナグモっ!!
少年の名を呼ぶ、呼ぶ、呼ぶ。
けれど少年は起きない。
起きない。
起きずに。
「グルアアアアアアアアアア!!!
振り下ろされた拳が少年の頭部を捉え。
ぐちゃり、と水音が響き。
―――――――――っ。
声すら出せないままに、少女、ホタルの意識も消えていく。
まるで潰れたトマトを彷彿とさせるその光景に、黒狼がにぃ、と嗤い。
「『
もう一人の少女の声が場に響いた。
* * *
意識が戻る。
と同時に、全身に降りかかる血に何事かと一瞬考えて。
「ホタル!!!」
その一瞬こそが、怪物を殺すためさの最大の隙だった。
――――ああもう、この大馬鹿!!!
ぱちり、と手の中で
「ヘルっ!」
叫ぶ声に。
「うむ」
短く返って来る声に。
「『
ハティーから受け取った切り札を切った。