ヘル。
確か北欧神話の死者の国を治める女神の名前だったはずだ。
北欧神話などは割とRPGでよくある題材だし、深く調べたことが無くともその名に聞き覚えくらいはある。
問題は。
この世界における、目の前の少女の立ち位置。
大雑把にだが、この世界というものについてここまで集まった情報を整理して考えるならば。
まず世界の数。
恐らく北欧神話からなぞらえて九つ存在すると思われる。
ただしメインとなる世界はこの世界、ミズガルズだろう。
もしかするとストーリーが進めば、他の世界に進出することもあるのかもしれない。
否、存在するなら恐らく行く方法というのもあるのだろう。
少なくとも、アルフヘイムにはもう一度行くことにはなるだろうと思う。
そしてこの世界には、ミズガルズ…………否、プレイヤーから見て、敵と味方が世界単位で区別されている。
アルフヘイムはプレイヤーに『ネイバー』を授ける重要な世界だ、そしてそこに住まう妖精や精霊たち、そしてそれらの王であるフレイはプレイヤーからすれば味方、と区別できる。
そして逆にそれらに敵対している世界も存在する。
中でもムスペルたちの国ムスペルヘイムは敵だろう、プレイヤーの前に固定ボスとして置かれていることから、運営からしてもプレイヤーの敵として存在させているのだろうと予想できる。
問題はここからだ。
目の前の少女は神だ。
モチーフからすれば完全に敵だろうと予想できるのだが、けれどホタルの様子からすると畏怖の対象といった感じで敵、といった様子では無い。
そもそもモチーフがそうだからといって、この世界でもそうだと考えるのは決めつけだ。そんな単純で分かりやすい物語の世界では無く、第二の現実を謳う世界なのだ、ここは。
となれば、元となった設定だけ引き継いだ完全な別人…………別神と考えるべきかもしれない。
そうやって元ネタを抜いて考えると、むしろ敵だとは思えないのが困りものである。
狼たちだけ倒して、自身たちには危害を加えていない点。
ホタルが畏怖してはいるが、決して敵対心を持っていない点。
こうして自身たちの眼前で無防備を晒している点。
ただ本当に信じてしまって良い物か悩む点もある。
そもそもわざわざこちらに名を名乗っているのは、友好の証なのか、それともこれからお前を殺す者の名前だ的意味なのか、どちらとも取れること。
ホタルは目の前の神には畏怖した様子だったが、この神のまき散らす瘴気そのものはかなり忌々しそうな様子だったこと。
無防備を晒しているのは、自身たちごときではどうにもならないと分かっている自信の現れなのではないか、ということ。
敵か、味方か、その区別ができず警戒しきることも、解くことも出来ない中途半端な自身の態度を他所に。
そっと、ヘルが手を伸ばす。
伸ばした先は…………自身の持つ
「…………っ」
咄嗟に飛び退り、ヘルと距離を取る。
そんな自身の様子に、一瞬呆気に取られたように目を丸くし、やがて苦笑する。
「そう警戒するな、ちとその
どうする?
一瞬の思考。ここでさらに警戒を強めるのは、かなり敵対的な行為だろう。
恐らく目の前の少女は、自身よりも遥かに強いのだろう。先ほどの狼の群れを一瞬で屠った力を見れば明らかだ。
だがそれをこちらに向けていないのは、決して敵対的では無いからか。
もし機嫌を損ねれば殺される? それとも仕方ないと理解する? どんな対応をしてくる? 一度様子を見るか? いや、リスクが高い、ならば見せるのか? それしかないか? だがこの剣はあのガルムを殺して手に入れた力だ。恐らく番犬の名を考えれば守っていたのはこの少女。すでに敵対している? 否、目の前の少女はそのことを理解してこの態度、ならば安全か? そうとも限らない?
ぐるぐると思考を回すが、けれど分かっていることは一つだけだ。
目の前の少女はその気になれば、いつでも自身を殺せるということ。
「…………分かった」
結論は従う、だった。
結局どちらにしてもリスクはあるが、敵対すれば確実に死ぬのは分かっているのだから、まだこちらのほうが安全な選択だと判断した。
そうして自分からヘルの元へと歩き、長剣を差し出す。
「うむ」
一つヘルが頷き、長剣を手に取る。
ヘルが触れた瞬間、その紅い刀身が一瞬光る。
「…………ほう」
僅かに驚いたように、ヘルが目を見開き。
「…………く、くく」
押し殺したかのように笑う。
笑い、その手の長剣の刀身へと触れる。
「なるほど、それが主の選択か」
その刃に指を押し当て、引く。
「っ」
その指から滲み出る紅に、その痛みを想像してしまい、思わず顔を歪めるが、当の本人は何が楽しいのか笑みを浮かべたまま滴り出る血をその刀身へと押し当て。
すっと、刃の根から切っ先まで、真横に、その血を擦り付けるかのように指を引いた。
「…………くく、主よ」
気づけば、ヘルがこちらへと視線を向け、自身を呼ぶ。
一瞬それが自身を呼んだのだと気づけず反応が遅れるが、すぐにはっとなり。
「な、何だ」
それだけを返すのがやっとだった。
「そう身構えるな…………ただ一つ頼みがあってな」
頼み、その言葉に思わず身構える。
身構えるな、などととてもではないが不可能な話だ。一体どんな無理難題がその口から飛び出してくるのか、こちらはもう戦々恐々である。
そんな自身の緊張を他所に、ヘルが気楽に口を開く。
「これの中身、妾に返してもらいたい」
告げる言葉の意味が理解できず首を傾げる。
そんな自身の様子を察してか、ヘルが少しだけ視線をさ迷わせながら思考し。
「この剣の大本となった番犬は、妾の物でな…………その力がこの剣には宿っているのだが、それを妾に返してほしい」
その言葉に、僅かながら理解が及ぶ。
恐らくゲーム的に言えば、ここで首肯すれば性能が劣化する、ということなのだろう。
欠落するのはアビリティの類、ということになるのだろうが。
「分かった」
一瞬の迷いも無く頷く。
さすがに即答には驚いたのか、ヘルが目を丸くし。
「くっ…………はは、そうか。ならば、返してもらうぞ」
にぃ、と口元を歪めながらその長剣に手をかざして。
ぞわり、と背筋が震える感覚。
それが瘴気とはまた違う物であると理解したのは、完全に感覚的な物からだ。
五感とはまた違う、ホタルと感覚を共有しているが故の感覚。
それが魔力の奔流なのだと気づいたのは、ホタルと同調していたお蔭だろう。
長剣に溜まっていた魔力が塗られた血へと吸い寄せられ、多量の魔力を吸い込んだ血はそのまま自立しているかのようにぐねぐねと動き出し、そのままヘルの元へと飛び出し、その手の中へと集まり、ぐねぐねと蠢いている。
「――――『
ぽつり、とヘルが告げる、同時に。
ぐねぐねと蠢いていた血がぼこり、と膨れ上がる。
膨れ上がり、膨れ上がり、膨れ上がり、徐々に形を作って行く。
そうして。
「グルルルルルルルゥゥ」
その名を、自身は知っている。
「…………ガルム」
先ほど命がけで倒したばかりの怪物が、目の前の少女の指先から滴る血液から生まれ出たという事実に、思考が止まる。
そしてそんな自身を他所に、ヘルの目の前に番犬が
それを当然といった様子で見ていたヘルが番犬に顔に触れ。
「しばし留守にする故、汝はここを守っておれ」
呟いたヘルの言葉に、ガルムがぐるぅ、と唸る。
それが首肯の言葉のように聞こえたのは、果たして自身の錯覚だろうか。
その光景をただ呆然と見ていた自身へと、ヘルが視線を向け。
「いつまで呆けておる…………森の外に案内せよ」
呆れたような様子で、そう告げる。
同時、その言葉で思考が再び巡り始め。
「いや、待て、待ってくれ…………どういうことだ?!」
恐らくヘルの中では順序立てて事が起こっているのだろうが、こちらからしたら全く意味が分からない。
説明を求める自身に、ヘルが一つため息を吐き。
「主、察しが悪いのう…………主の長剣から力を返してもらった代わりに、妾はこの場所から動くことができるようになった。故に、先ほどからずっとこちらを見ている性悪狼を叩きのめすのに力を貸してやると言っている」
「こっちを見ている…………? それに性悪狼って」
何のことか分からない、という自身の言葉に、ヘルがまた一つため息。
「主、何のためにここに来た…………
「待て、待て?! 何のことだ、本当に」
「本当に知らずにここに来たのか?」
知識の差と認識の食い違いが酷すぎることに、ようやくヘルも気づく。
「お主ら、何のためにここに来たのだ?」
一から説明しろ、言外にそう告げるヘルに、一度だけ先ほどから動かない村長へと視線をやる。
生きてはいる、ただあの瘴気がかなり悪かったのか、ペラム共々気を失って動かない。
ホタルやヘルが何も言わないということは、恐らく時間が経てば目を覚ますのだろうが、さすがにこのまま、というのは不味いだろう。
「…………説明はする、が一度村に帰らせてもらっていいか?」
そんな自身の提案にヘルが数瞬思考し。
「良い、妾も森の外が今どうなっているのか知る必要がある、案内せよ」
ヘルが頷いたので、村長とペラム、二人を担ぎ。
「ホタル」
――――分かった。
最後の魔力を使って『強化』の魔法を使用する。
二人の人間を運ぶための『筋力』の強化と、担いだまま村まで歩くために『持久力』を強化し、道中を道のりを歩いていく。
幸いヘルのお蔭か道中でモンスターに襲われることも無く、村へとかなりのペースを進んでいた。
「つまり、この者らの村は森の傍にあり、その森に不審な獣の足跡を見つけたため、お主がその調査のために森にやってき、そこで番犬の声を聞いてこの者らと共に森の奥にやってきた、そういう事だな?」
ここまでに至る経緯を説明するとざっくりとまとめたヘルに、ああ、と頷く。
そうして自身が頷くと、ヘルが少しだけ考え込んだような風で顔を下げ、数秒ほどしてこちらへと視線を寄越す。
「恐らくだが主の目的は、妾と大きく合致する。その足跡の主は、マーナガルムの眷属たちであろう」
「さっきも言ってたが、そのマーナガルムってのは?」
どこかで聞いたような名前だが…………確か狼か何かの名前だったはずだ。
ただここまでの間で一度も出てきていない名前が唐突に出てきただけに、首を傾げる。
「マーナガルムはかつてこの辺りに住んでいた最強の
狼人族…………確か『ビースト』の中の一種族だったか、キャラクリの時にⅨが言っていた気がする。
一瞬プレイヤーなのかと思ったが、よく考えれば五つの種族は総称して『ヒト』種であり、『ヒト』種はこのミズガルズ中に存在しているのだから、プレイヤー以外の『ヒト』も多くいるのだろう。
「やつはかつて妾に不死の体を求めた」
自身が思考をしている間にも、ヘルの話は続いている。
「死なず朽ちぬ体。肉体こそを武器とする狼人として、それ以上の物はないとやつは考えた。そしてこと不死の体などというもの、妾以外に与えることができるものが居ないとも」
不死、それは確かに魅力なのかもしれない。
自身のような普通の人間からしたら想像もできないが、けれど死なないのではなく、死ねないというのは、生命体として確実に齟齬が出るだろうことは簡単に予想できる。
「妾はやつの得ていた月の加護の上に、不死の肉体を与えた。思えばそれが間違いであった」
「ちょっと聞きたいんだけど」
独り語るヘルの言葉に、思わず口を挟む。
何だ? とこちらを見るヘルに、沸いた疑問を口にする。
「そもそも何でヘルはマーナガルムを不死にしたんだ? 不死にしてくれ、分かった、なんて流れ不自然じゃないか?」
「…………ああ、そのことか」
その疑問に、ヘルが僅かに目を細める。
不機嫌にさせたか、という一瞬の不安がよぎったが、どうやらそうでも無いらしい。
代わりにその瞳に映っていたのは、悲しみの色だった。
「当時戦いがあったのだ…………古い古い話。神と人、精霊と巨人、世界の全てを巻き込んだ戦いが。当時『ヒト』は妾たち神の陣営にあった。故に『ヒト』から不死の勇者を産み出すことができれば、神たちにとっても大きな力となるだろうと思ったのだ」
そうして告げられた言葉は紛れも無い、
「だがやつは不死の力に溺れた。月の加護で肉体を強め、不死の肉体で命を尽きぬ物とした。だがな、やはり真っ当な生命が不死など得るものではないのだ…………やつは狂った。発狂し、『ヒト』であることを捨て『大神』へと至ったのだ」
「狼?」
「大神だ…………つまり、神になったのじゃ」
「神って…………人間が神になる? なれる?」
「
きっぱりと、ヘルが断言した。
「
主が知っているような者ならば…………とヘルが繋げ。
「妖精王フレイ…………あれもまた『ネイバー』より成った
その口から出た聞いた名前に、自身と、そしてホタルも驚愕する。
「だがな、同じ亜神族でも違うのだよ。
例えば、とヘルが続ける。
「妖精王は比較的にまともな部類ではあるが、やはり根は亜神族。あれは『ヒト』と『ネイバー』を繋げることを全てとし、それのためだけに生きる半ば機械と化しておる」
最も、普段はそうとは見えないかもしれんがな、と告げるヘルの言葉に、絶句する。
「マーナガルムはその中でも最も狂った思考に成った…………やつは自らが至上の存在となるべく、禁忌に牙を剥いた」
つまり。
「神族…………太陽への叛逆じゃ」