吐く息が風に流され、音と共に消えていく。
ざわめく森の奥へ、奥へと進むほどに、冷や汗が流れ出る感覚を覚える。
握った剣が段々と重く感じられ、手の中が汗ばみ、握った柄が滑るような感覚がに陥る。
VRゲームがリアルへと近づくほどに陥る問題の中でも、特に問題視されていたものが一つある。
『恐怖』だ。
現実と錯覚するようなゲーム内で、異形の怪物が襲い掛かって来る。
その恐怖に耐えられない人間、と言うのが偶にだがいる。
作り物の存在である、と理解していても尚、リアル過ぎるその造形に恐怖を押しきれず、ゲームを止めた人間の話と言うのも偶にだが聞くこともある。
実際、VR対応ゲームと言うのは、全体的にCEROが高くなっている傾向があり、内容自体は健全なものでもグロ方面でZ指定を受ける物もある。
夕暮れ、逢魔が時。
薄暗い森の奥に潜む怪物。
シチュエーションとしては中々のものがあると思う。
問題は、自分がそれに行く側、だと言うことだが。
まず考えるべきなのは、この森の奥に何がいるか、だ。
「もしかすると…………とんでもない勘違いをしてたかもしれない」
「勘違い?」
ぽつりと呟いた自身の言葉に、疑問を返す。
「俺はてっきり、村長の言っていた村の周辺に出る獣と、ペラムの言っていた山から聞こえる遠吠えが同じものだと思っていた」
だから、山にボスがいると仮定し、先に森でレベリングをしようと思ったのだが。
先ほど山から遠吠えが聞こえた、その直後にかなり距離があるはずの森からも遠吠えのような声が聞こえた。
となると、声の主が二体存在するという可能性が高い。
まさか、の話だが。
蛮狼が複数いる、と言う可能性を自身は考えていなかった。
蛮狼とかボスだろ、なら一匹だろ、と言う考えでやってきていたが、これがもし複数いる、となると大分話は変わって来る。
だがそれだけならば、まだ見に行くことは無かったかもしれない。
最悪負けることになっても様子を見に行こうと思ったのは、別の理由からだ。
「村に近すぎる」
山のほうは草原と森、二つ挟んで村がある。
何か起こるにしても、突然襲われる、ということは余り無いだろうと思っているが。
――――森はそのまま村に繋がっている。
最悪、夜寝ている内に襲撃される、と言う可能性がある。
誰も警戒できないままに村が襲撃され、全滅する、と言う可能性を考えるとここで見過ごすのは大分不味い。
そういう事が本当にあり得てしまうのが『SR』が搭載されたゲームなのだから、警戒するに越したことは無いだろう。
そんな思考の元に、声の主を探しているわけだが。
「…………見つからないな」
「見つからないわね」
夕暮れの森を奥へ、奥へとさ迷うこと早くも三十分近く経つが、未だに声の主は見つからない。
空は徐々に夕暮れから、夜へと移り変わろうとしている。
現実でもそうなように、基本的に夜と昼では出てくるモンスターというのが変わる。LAOではそうだったし、ユグドラもそうだろう。
そして夜の戦闘というのは、昼と全くやり方が異なる。
自身も前作LAOで何度かやったことがあるが、正直、勝手が違い過ぎて力押しで乗り切ったような感じだった。
こんな視界の悪い森の中でさらに夜になったら、どう足掻いても苦戦は免れないだろう。
「…………引き返すべきか?」
この辺りが潮時だろう。
進むにしても指針も手掛かりも無しでは悪戯に迷うだけだ。
ならば安全な内に戻るべきだと考える。
もう一度周囲を見渡す。
薄暗い森の景色は何も変わらない。
この森は一体どこまで広がっているのだろう、と少しだけ考えて。
「キィ!」
耳に届いた短い鳴き声、咄嗟に振り返り。
「いつの間に?!」
目前に猿のようなモンスターが降ってくると同時、咄嗟にバックステップで距離を取り。
剣を抜くと、猿が拳を振り上げるのが同時。
「ホタルっ!」
「
ホタルがするり、と指輪の中に潜りこみ。
「『
魔法を発現し、自身の『素早さ』を強化することで、拳より一瞬だけ早く剣が猿を斬り裂き、その全身を黒い粒子へと変える。
「キィ!」
「キキ!」
「キキキ!」
「キキィ!」
そうして、周囲から聞こえてくる同様のモンスターの声に、完全に潮時だと悟り。
「ホタル」
――――了解。
短い言葉のやり取りの後、魔法を発動させ『速度』を最大まで強化し、森から逃げ出す。
試し打ちに近い使い方だったのもあるが、それでも大分魔力を消費してしまったと思う。
これで明日の朝にどれだけ回復しているのか、それもまた今後に関わってくるだけに、なるべく早く回復して欲しいと願いながら。
来るときはたっぷり二時間近く歩いた森を、ものの十五分足らずで抜け出す。
『強化』の魔法の効力の高さを実感しながらも、基本連発ができない魔法なだけに、慣れ過ぎるのも不味いかな、と思う。
そのまま村に帰った時には、すでにたっぷりと日が暮れて、空は薄闇に覆われていた。
夕方と呼べる時間はすでに過ぎ、夜がやってきていた。
村に入り、村長の家へと向かう。
相変わらず番犬に吠えられながら村長を待ち、これからの予定をホタルと二人、あーでもないこーでもない、としばらく相談していると、ようやく待ち望んでいた人物がやってくる。
「よっ、待たせちまったな冒険者さん、昼にも来てたらしいけど、何かあったか?」
尋ねる村長の言葉に、ペラムが聞いた遠吠えの話を知っているかどうかを聞いてみる。
「ああ、そのことか…………一応聞いてはいるが、あの山に山犬か狼かは知らんが、新しく住み着いただけの話じゃないのか?」
首を傾げる村長に、今日の夕方山のほうから聞こえた遠吠えと、そしてその直後に森から聞こえた遠吠えの話をすると、村長が僅かに目を細める。
「森から遠吠えが聞こえた…………? あの森にそう言うのは居ないはずだが」
少しだけ考える素振りを見せた村長が、やがて一つ頷き、こちらを見やる。
「冒険者さん、明日俺と森の調査に行ってくれないかい?」
勿論依頼料は別途払う、と告げる村長に。
「いや、依頼料より、拠点だな。どこか屋根のあるところを貸して欲しい」
どう考えたってこんな漁村に宿屋なんてあるはずも無く、今朝寝かされていた倉庫だって、別に自身の物ではない、と言うか倉庫と言う時点で誰も住んではいないだろうが、利用はされていることは明白だろうし、いつまで借りれるかは分からない。
「依頼料の代わりに、最初に受けた依頼が完了するまでの宿と、後は食料が欲しい」
面倒な話だが、前作もそうだったように、ユグドラには『空腹』と言う概念がある。
空腹になると現実でもそうだが、酷く気力が削がれる。しかも、現実と同じように空腹状態が続くと『餓死』することもある。
因みに『水分』が枯渇すると『
前作もそうだったが、こういう街との交流の少なそうな村に、貨幣というのは余り無い。
恐らく行商なども存在するだろうから、全く無い、というわけではないのだろうが、基本的に行商相手に売買する程度にしか持っていないことが多い。
だから、こういう村で報酬を要求する時、現金よりも現物のほうが色をつけてくれることが多い。
さすがは『SR』だ、ファンタジー世界なのに現実的過ぎる世知辛さである。
まあ多少の打算はあったが、それでも結局、金をもらってもこの村で使えるところなんて無いだろうから、現物支給のほうが助かるのは事実。
現に村長も、自身の提案に僅かに安堵の様子を見せ、頷く。
「分かった、今使ってる倉庫は滅多に使われないから、そのまま使ってくれて良い。食料もうちから都合しよう」
その言葉に、頷き、取りあえず全ては明日の話、と今日は帰ることにする。
現代のように街中に電線が通って、家の中が夜でも明るい世界じゃないのだ。
基本夕方を過ぎれば寝る支度を始めて夜、日が完全に落ちれば寝てしまう。
まあこれは都会ならまた話も違うのかもしれないが…………いや、どうなのだろう、ユグドラの世界の科学力とか文明レベルがいまいち不透明なのでもしかしたら街でも同じような状況かもしれない。
倉庫に帰ると、鎧などの防具を外し、帯剣も解いて一か所にまとめておく。
「明日は森の調査か…………」
「日が昇ったら行くって言ってたし、早く寝たら?」
確かに、ゲーム内での感覚とは言え今日一日でそれなりに『疲労』もしているため、かなり眠気を感じる。
ただ、現代日本人として、お風呂にも入らずに眠ると言う行為に相当な抵抗を感じるのが問題だ。
「はあ…………? バカなこと言ってないでさっさと寝なさいよ」
けれど目の前のネイバーの少女には理解できない感性だったらしい、まあそもそもネイバーにはそういう習慣が無いのかもしれない、というかネイバーって寝るのだろうか。
「契約してアンタと同調してるから、今の私は寝ないとダメになってるわね」
契約にはそういうデメリットもあるのか。
「不便よね、『ヒト』って」
「俺からすれば、眠れないって、かなり辛そうに思えるけどね」
「なんで? ずっと起きてるだけのことじゃない、アンタ起きてることが辛いの?」
それがずっと続くことにはきっと耐えられないだろう、という内心の言葉を押し殺し、苦笑して誤魔化す。
本当に、ゲーム内キャラだなんて信じられないくらいに自己がある。
少しだけ逡巡もあったが、けれど結局押し寄せる眠気に勝てず、布団に潜りこむ。
「私も寝ようかしら」
そう呟きながらホタルが自身の付けた指輪に触れて。
「それじゃ、おやすみ、ナグモ」
久々に名前を呼ばれた気がする。そんなことを考えた一瞬のうちにホタルが指輪に溶けていった。
「…………俺も寝るか」
横になれば蓄積していた『疲労』が一気に噴き出してきたかのように、あっという間に睡魔が襲ってきて。
五分もしないうちに、意識が暗転していった。
* * *
VR内における睡眠とは、実は現実と同じ効果を発揮する。
まあ脳を休めている時間、という意味では確かに同じなのだが、ここで問題になるのはゲーム内で体感時間が変更されている場合だ。
例えば今やっているユグドラならば現実の三倍速でゲーム内時間が進んでいくが、じゃあユグドラ内で八時間寝るのと、現実で八時間寝るのが同じか、と言われると答えは全く違う。
VR内で八時間睡眠を取ったとしても、それは現実時間に換算すると三時間にも満たないのだ。
当然だが体感時間、というのは起きている時の感覚であるため、眠っている時の体感時間を操作しても、殆ど意味が無い。
そのため――――。
「…………眠い」
VR内で睡眠をすると、経過時間と体感時間に大きな誤差が出てしまう。
体感時間の倍率を高くしているゲームほどこの症状というのは大きい。
「なによ、あれだけ寝たのにまだ眠いの?」
ホタルが横で呆れたように言ってくるが、体感的には睡眠時間三時間である。
現実での肉体は疲れていないとは言え、感覚的には現実で朝から晩まで走り回ったような『疲労』を感じていたのに睡眠時間三時間である、それは眠気も残るというものだ。
ただゲーム的にはたっぷり睡眠した、と言う処理がされるため『疲労』感などは残っていない。
時差呆けしたような眠気だけが自分の中に残っているだけの話だ。
倉庫から出て、浜辺のほうへと歩く。
そのまま海水を掬って。
「からっ」
僅かに口に含めば、感じる塩気に一気に目が覚める。
結局この感覚も、昨日の『眠気』を現実の体が『覚えている』だけであり、ゲーム内アバターのパラメーター的には『健康』と言う判断になるのだ。
だったら、刺激を与えて強制的に『切り替える』ことで眠りかけた意識にもう起きている、この体には眠気は存在しない、と伝えて目を覚まさせることができる。
空を見上げれば、今日は生憎の空模様のようだった。
雨、とまではいかないが、雲が多く、太陽は完全に隠れてしまっている。
「…………嫌な雰囲気だなあ」
どうにも一波乱ありそうな空模様に、この先の調査にまで暗雲がかかっているように感じ、そんな思考を口内の海水と共に吐き捨てた。
現状の仮拠点となっている倉庫に戻り、昨日と同じように防具一式を装備し、剣を腰に差す。
村の入り口が村長との待ち合わせ場所だ。
「ホタル」
ふわりふわりと室内に浮かぶ妖精の少女に声をかければ、すぐにこちらへと飛んできて肩に座る。
昨日一日ですっかり慣れてしまった少女の定位置に、苦笑しながら扉を開き。
「さて…………行こうか」
森の調査のため、歩きだした。