超本気で幻想郷を支配したい二人のおはなし。 作:納豆チーズV
元々、紅魔館は幻想郷に来るより前は西洋の方に建っていた。その頃のフランは一切外に出ようとすることなんてなかったけれど、外にどういうものがあるかは本である程度知ることはできた。
ただ、それはあくまで西洋での外の様子の話に限られる。幻想郷のように、以前は東洋の田舎だったと思われる地域のことなど知る由もなかった。
だから、里に訪れたフランの目にはいろんなものが新鮮に映っていた。西洋の外の話なら何度も本で読んできたが、和風な街並みを描いたそれには一切触れたことがない。紅魔館とはまた違った落ちついた雰囲気の風情らしきものを肌で感じて、こいしを待っていた時のように、そわそわと落ちつきなく辺りを見渡してしまう自分がいた。
「ここが人間の里かぁ……なんか思ってたよりしっかりしてるのね。藁でできた家に住んでるかもとも思ってたんだけど」
「あ、それ面白そうー。今度一緒に作ってみる? 藁の家」
「それなら木材とレンガも用意しないとね」
「へ? なんで?」
「藁じゃ天狗に吹き飛ばされちゃうからよ」
「うーん? 木でもレンガでも変わんないと思うけど……」
「童話の話よ。三匹の子豚っていうね」
夜の人里は当然のように人通りは少ない。妖怪同士の暗黙の了解として人里に住む人間は襲ってはいけないというものがあるが、妖怪が活発化する夜で無警戒にぶらついてなどいれば、なにが起こっても不思議ではなかった。
なにせ里の人間を食べられないルールがある以上、妖怪たちが食べることのできる人間は神隠しで幻想郷に迷い込んできた外の世界の人間に限られる。そして供給の少ないそれに全妖怪がありつけるはずもない。幻想郷での地位が低い低級妖怪に魔が差して、無防備でいる里の人間を食べる可能性など、少し考えれば容易にたどりつける。
その点、フランたち紅魔館の住民は裕福な生活を送っていると言えた。紅魔館には、なにもしなくても継続的に
なにはともあれ、そういう事情もあって、里で誰かとすれ違うことがあっても、それが人間であることは逆に珍しい。人通りがなければ当然のように屋台もなく、やはり食べ歩きなどはできなさそうだ。しかし妖怪でも客は客というスタンスの店はそれなりにあるようで、営業中の札を掲げた店はそこそこ見受けられた。
「わっ。ぷっ……あはは! なにこれ、変な置き物! ねぇこいし、これってなに?」
「んー、これは招き猫だねぇ。にゃんにゃんってあざとく客を呼び寄せるためのものだよ。はい、にゃんにゃん?」
「いやそんな当たり前みたいに猫耳渡されても受け取らないってば。第一こんな往来でつけるもんじゃないでしょそれ」
「そっか、そうだよね……にゃんにゃんするなら人目がないところでこっそりしないと恥ずかしいもんね。気遣いできなくてごめんね」
「ぶっ……つ、つっこまないわよ」
単に猫耳をつけるのが恥ずかしいと言っているのか、それとももっと別のことを暗に指しているのか……きゃー、と軽く頬を赤らませるこいしからは本気か冗談か判別しづらく、ぷいっと顔を背けるのと一緒に言葉を濁した。もしも前者だったならつっこんでもフランが恥をかくだけだ。ここは口を挟まないに限る。
いつもは天真爛漫なこいしに手を引かれてばかりの日々だけれど、今日はフランが彼女を連れ回すことが多かった。あちこちと見て回っては、時にこいしとともに観察し、時にそれがなんなのかとこいしに問いかける。
フランもこいしも、望む望まざるにかかわらず一人でいることが多い妖怪だ。知らない誰かが近くにいるよりも二人だけで回る方が居心地がいいと感じていたのか、営業中の店の中に入ることは意外にもそう多くなかった。
夜の静けさのと比べると二人のはしゃぎようは少しアンバランスに映る。けれど、あるいはそんな浮世離れした独特な雰囲気こそが、その能力や性質によって周囲からはぶられがちな二人だからこその空気と言えるかもしれない。
「それにしても変化って結構すごいんだねぇ。ほんとに翼なくなっちゃってる」
里を散歩しながら、興味津々と言った様子でフランの背後に回り、じっとその背中を覗き込むこいし。
人間の里に入るにあたってフランはすでに変化の術を行使していた。変化と言っても誰かに化けているわけではなく、例によって妖怪としての特徴を隠しているに過ぎない。
見た目は完全に一〇歳程度の人間の子ども。とは言え、こんな夜中にフランのような子どもが出歩いているはずもないので、妖かしものの気配を感じ取る素質のない普通の人間でも、一発で妖怪だと見破ることができる。
今回の変化の役割は紅魔館を出る際にも考えた通り、悪魔であることを隠す意味合いが強かった。悪魔は人間や妖怪を問わず嫌われやすい。そんな態度を表に出せばどうなるかわかったものではないので表面上は慕われることが多いが、なんにせよいらぬトラブルを招く必要はないだろう。
見えなくしたフランの翼をついぞ見つけられなかったこいしが肩を落とし、小さくため息をついた。
「フランの翼、虹みたいにきらきらしてて好きだったんだけどなぁ」
「……そんなの、次に会った時にでもいくらだって見せてやるわよ。だからそんな沈んだ顔しないの」
照れている自覚はある。それがばれないよう、にやけそうになる表情筋を必死に抑えつけながら、こいしと顔を合わせる。そして、励ますために彼女の額をつんっと突いた。
ここ最近はよく頭突きやでこぴんを食らうことが多いからだろう。こいしは半ば反射的に自分の額に手を当てていた。
ぱちぱちと目を瞬かせた彼女は、くすり、と優しく口元を緩める。
「じゃあじゃあ。フラン、フランも私の目、触ってみる?」
「目?」
とことこと至近距離まで歩み寄ってきた彼女と見つめ合う。その輝かな瞳には呆けたフランの顔が映っている。
「目って、もしかして……」
「うん。顔についてる方じゃなくて、こっちの閉じてるやつ」
いつもこいしの胸の少し前でふよふよと浮いている、体の端々から伸びた触肢と繋がった第三の目の上に、彼女はそっと手を置いた。
「フランの羽はあとでいっぱい触らせてもらうつもりだからね。でも私だけじゃいろいろ不公平でしょ? だからフランも私のこれ、好きなだけ触ってみていいよ」
「や、でも……それ、こいしの妖怪としての特徴そのものでしょ? 大事なものなんじゃないの?」
「んー、私にとっては別に大事でもなんでもないけどね。でも、私だって誰にでも触らせてるわけじゃないんだよ? フランだから触らせてあげるの。フランだから、こんなことも何気なく言えるのよ」
「私だから?」
なんの警戒心もない無垢な笑顔が、フランの心を揺さぶってくる。
なんとはなしに、自分の右の手のひらを見下ろしてしまっていた。
そしてそれに問いかけてみる。こいしの目を壊したいか? と。
こいしと出会う前ならいざしらず、今はもちろん、壊したくないと感じる。こいしを傷つけたくない、彼女の隣にいたい。一緒に笑い合いたい。
でも、フランはこれまでなにかを壊すことしか知らなかった。それ以外のことを知ろうともしなかった。だから同時に、思ってしまう。
壊したくない。だけど、ふとした拍子に壊してしまうかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。
触れたいと思う。撫でてみたいとさえ願う。こいしの目は、ぷにぷにしていてやわらかそうで、触れてみたらきっと気持ちのいい感触がしそうだ。撫でたらきっとくすぐったがるだろう彼女をからかってみたい。
けれど、なにかを壊すことしか知らないこの手では、ただそっと触れることでさえ、その対象を無価値な残骸へと変えてしまうのではないか、と。こいしを泣かせてしまうのではないか。それが、たまらなく恐ろしい。
こいしが好きだから、気に入っているからこそ、どうしても彼女に触れようとする勇気がでなかった。
こいしはきっと、フランを信じてくれている。フランだってこいしを信じている。だけどフランはどうしても、自分を信じるということだけはできないでいた。
「もうっ、いつまで迷ってるのよー。勝手にやっちゃうからね、えい!」
「あ、ちょ」
割と真剣に悩んでいたのに、こいしはそんなことどこ吹く風とばかりに、フランの右手を勝手に取っては自分の第三の目に押し当ててきた。
ぷにぃ、と、想像よりもさらにやわらかい独特の感触が手のひらを通して伝わってくる。
「どう? どう?」
「……なんか、いい」
さきほどまで怖がっていたことも忘れ、無意識にぷにぷにと少し指を動かしてしまっていた。
こいしが、むずがゆそうに唇を震わせる。でもなにも文句は言わず、むしろ「それだけでいいの?」と言わんばかりに小首をかしげていた。彼女はきっと、後日フランの翼を文字通り好きなだけ堪能するつもりだろうから、控えめすぎるフランの手つきが逆に不思議に思えるのだろう。
壊してしまうかもしれないという恐怖はあった。それでも、もう触れてしまっている。その事実がフランの好奇心の枷を外し、恐る恐るながら、今度は意識的に手を動かしてみた。
「ん、ぅん……なんか、意外だなぁ」
「意外? なにが?」
「もうちょっと乱暴にやってくるかと思ってた。ほら、最近フランって頭突きにはまってるみたいだから」
「はまってはないけどね。っていうか、乱暴にやってくると思ってたのに触る許可出したの?」
「フランならいいかなーって」
「無防備すぎるわ。もし……もし、私がこいしを傷つけるのもいとわなかったら、どうしてたのよ」
「あはは、その冗談はあんまり面白くないよー。フランが私を傷つけるわけないじゃん。フランは私のこと大好きだもんね! ツンデレなだけで!」
「ツンデレじゃないし、傷つけない云々の前にそもそも今日すでに頭突き一回してるんだけど」
「細かいことは気にしないの! そんなんじゃ大きくなれないよ!」
「そりゃまぁ大きくはなれないけど……妖怪だし。なりたいけどね、大きく」
「胸の話?」
「身長の話っ」
そろそろいいかな、とこいしの第三の目から手を離した。ぺたぺたと文字通り触れていただけだったから、なぜか逆にこいしの方が不満そうにしている。
今はまだこれだけでいい。今回は、フランが自分から触れたわけではない。恐怖を取り払うことをこいしに手伝ってもらったのだから。
それに、あんまりやりすぎると後日翼をいじられる時が怖いというのもある。こちょこちょなんてされたら目も当てられない。今のうちに多少の逃げ道を作っておいて損はしないはずだ。
「あ、フランフラン、ちょっと背中向けてくれる?」
「背中? さっきも見たと思うけど、別に今は翼出してないわよ」
「いいからいいから。見ーせーてー」
はいはい、とくるりと回る。なにをする気なのかと思っていたら、がばっ、とこいしに覆いかぶさられた。
たたらを踏みつつも、どうにか転ばないよう立て直す。
顔を横に向ければ、目と鼻の先にこいしの顔があった。えへへ、と照れくさそうに笑っている。
「えっと、これは……?」
「おんぶ、かな!」
それは知ってる。
「これまでは羽が邪魔でこういうことしにくかったから。それにしてもフラン、全然平気そう。フランって意外と力持ちだよね」
「まぁ、吸血鬼だし」
「そういえば牙も隠してるんだっけ? でも普通に八重歯見えてるよ? そんなんで大丈夫なの?」
「そ、そんな近くで口元見つめないでよっ。一応これでも小さくしてるのよ。ほんとは触れただけでぷすって穴が空いちゃうくらい鋭いんだから」
「へー。けどフランって誰かの血を吸ってるところとか見たことないなぁ。いつも食事とかどうしてるのよ」
「どうしてるもなにも、普段食べてるご飯とかケーキとかに血とかいろいろ混ざってるのよ。咲夜が作ってくれてるんだけどね。そもそも私、誰かから直接吸ったことなんてないし」
「吸血鬼なのに? 変な話ー。あ、じゃあじゃあ、それなら私がフランの初めての人になってあげよっか? 私、フランが相手なら抵抗とかしないよ?」
「ぶ……お前の血を吸うかどうかはともかくとして、初めてがどうとかいう言い方はやめて」
「なんで?」
「なんでも、よ」
一向にこいしが降りようとしないので、しかたなく背負いながら里を歩き進む。すぐ横でこいしの髪が耳をくすぐってきて、少しだけこそばゆい。
こいしにしては特に暴れることもなく妙におとなしかったので、もしかしたら寝ているんじゃないかと何度か彼女の顔に目を向ければ、そのたびにこいしと目線が合う。彼女は特に眠そうと言ったこともなく、どうしたの? と言わんばかりにこてんと首を傾げていた。
「……こいし、今日はありがとね」
「なにが?」
「私と一緒にここに来てくれたこと。私に振り回されてくれたこと。気、遣ってくれてたんでしょ?」
いつもならふらふらと落ちつきがないこいしが、今日ばかりは珍しくフランのペースに付き合ってくれていた。
フランのお礼の言葉。だけどこいしは要領を得ないように、小難しい顔で小首を傾げていた。
「気なんか遣ってなんてないよ。フランと一緒にいるのに面白くないわけないもん。むしろフランがいつもより楽しんでたおかげで私もおんなじような気持ちになれたわ。いつもよりずっとずっと楽しかった。もちろん、いつもがつまんないってわけじゃないけどね」
「そっか。こいしもちゃんと楽しんでくれてたのね。よかったわ……本当に」
今日が特別な日だと感じていたのは自分だけじゃない。それがわかっただけで、フランはもう満足だった。
そんなフランにこいしは目を瞬かせた後、わずかに口元を緩める。
「フランってやっぱり、ツンデレさんだよねぇ」
「……それ今関係ある?」
「あるわよー。だって今、絶賛のデレ期じゃない。いっつもツンツンしてるのに、今日は妙に開放的って言うか。だから今日は一段と楽しかったのかもしれないねぇ。そんなありのままのフランと一緒にいられたから」
えへへ、と。ツンデレじゃないと言い返したかったのに、そんな気持ちのいい笑顔を浮かべられては、反論することはできなかった。
ツンデレ、か。
本当は不本意で、今すぐにでも否定したい。だけど、今だけはそれでもいいと思えた。今だけは、こいしを好いている自分の素直な心持ちでいたかった。
「こいし、これ」
こいしを降ろし、懐から、一つの包みを取り出す。それは今日人里を回っていた際に、立ち寄った数少ない店のうちの一つで、こいしにばれないようこっそり買っていたものだった。
こいしは手渡された包みを見下ろし、はっとしたように目を瞬かせた。
「もしかして犬耳!?」
「そんなの売ってるわけないでしょ。とりあえずこれあげる。開けてみて?」
「うーん、なんだろ……」
こいしが包みを開ける。それに入っていたのは、花の飾りがあしらえられたアクセサリーだった。
こいしはそれを広げると、少し意表を突かれたかのように目を見開いた。
「……これ、首輪かな? やっぱりフランってそういう趣味が」
「チョーカーよ。知らないの? 首に巻くアクササリー」
「あはは、冗談よ冗談。もちろん知ってるわ。でも、なんでこんなのを私に? 私が猫耳上げるって言ったから、そのお返しとか?」
「そんなわけないでしょ。や、でも、猫耳のお返しじゃないけど、お返しと言えばお返しかしらね」
少し借りるわね、とこいしが持っているチョーカーを貸してもらう。そして、こいしの首にそれをつけてあげながら、フランは話を続けた。
「こいしと会ってから、いろんなことが変わったから。明日が来ることが楽しみになったり、すれ違ってたお姉さまと仲直りしたり、外に出られるようになったり。咲夜と話すことが多くなったり、美鈴をからかうようになったり、パチュリーとちょっと仲良くなったり……こいしと出会わなかったら、きっとそんなこともなかった。今もたぶん、あの窓際で外の景色をずっと眺めてただけだったと思う」
「私と会って変わったから、私のおかげなの?」
「そう。だからね、ずっとお礼を言いたかったのよ。でもほら、そういうのって普段言うのはちょっと恥ずかしいし……だから、必ず今日伝えるんだって、変化の練習を始めた時からずっと決めてたの」
できた。手を離せば、ラナンキュラスの花の飾りをあしらえたチョーカーを身につけたこいしが、そこにいた。
「もちろんこんなもので全部返せるなんて思ってないけどね。私が今ここにいるのは、全部こいしのおかげだから。今日はただ、私の気持ちを知ってほしかったの。こいしと一緒にいるのが楽しい、これからも一緒にいたい。それが私の本心なんだって」
こいしはフランが語る間、なにも口を挟まず、じっとフランを見据え続けていた。
そして、フランが気持ちを伝え終えてしばらくすると、ふっとこいしの顔が少し下を向く。らしくもなく、まるでちょっと落ち込んだかのように。
「えっと、ね……それは、私のおかげなんかじゃないわ。フランが頑張ったから、その今があるのよ。私はきっとなんにも関係なんてない、誰にとっても意味なんてない……私は最初からそういう存在、無意識の妖怪なんだから」
「はぁ? なにそれ」
「もしかしたら、フランと一緒にいるのだって気まぐれの一つに過ぎないかもしれないわ。本当はなんにも思ってないかもしれない。フランと一緒にいるのが飽きちゃったら、もうフランのとこに行くことだってなくなっちゃうかもしれない。だって全部無意識なんだから。私自身にさえ、自分がなにをしたいのかもわかんないことだって……」
こいしがこういう弱音をはくのは初めてのことだった。彼女はフランの前ではいつも快活に、天真爛漫に振舞っていたから。
眉を落とし、フランと視線を合わせない。自分の奥深くに感情を押し隠そうとしているかのように、震えた声で言葉が続く。
「フランはさ、もしかして、それでもこんな私と一緒にいたいって思ってくれるの? 一緒にいて楽しいって思ってくれるの? だとしたら、それってどうして?」
「どうしてって……あのねぇ」
こいしの言い草になんだかむっとして、気づけば、フランは少し乱暴にこいしの頬を両手で包み込んでいた。
半ば無理矢理視線を合わせさせる。その両の瞳の奥さえ見通せそうな至近距離で彼女の瞳に見えたものは、困惑と、若干の恐怖、そして虚無。いつもの彼女の眼に映る無尽蔵の明るさとはまるで程遠い。
フランにはこいしの気持ちはわからない。当たり前のことだ。フランはずっと自分だけの世界で生きてきた。だから同情も慰めもかけられない。フランにできることはただ、自分の気持ちを伝えることだけ。
「友達だもん。当たり前でしょ? 友達と一緒にいたいって思うのは」
「友達……?」
「こいしにとっては、そうじゃなかったの? これまでいっぱい一緒に遊んできたのに。私はずっとそう思ってたのに……」
「……友達。そっか、友達……友達かぁ……私の、初めての……」
すっ、と目を閉じて、こいしは首に巻かれたチョーカーにしばらく手を添えていた。
ラナンキュラスの飾りに、その指先が触れる。
次第に彼女の口元が緩んでいった。そっと手が伸ばされて、こいしの手がフランのそれに触れては絡み合う。やがて、ぎゅぅっ、とその手が強く握られた。
くさいセリフかもしれないけれど、フランには、それがお互いに抱いている絆の証明のように思えた。
かつてレミリアが初めてフランと結んでくれた
もう二度と、この運命と軌跡を忘れることなどないだろう。たとえこいしの能力がどのようにこいしの姿や記憶を押し隠す力を持とうとも、フランが彼女を忘却することはありえない。だって、もうすでにフランの奥底に根付いてしまっている。これを壊すというのなら、この右手でフランごとすべてをなくしてしまう以外に方法などない。
「ねぇ、フラン……」
「ん。なに?」
こいしがわずかに潤んだ瞳を細める。いつもとは少し違った、どこか切なげで、けれど少し嬉しそうな微笑み。
「やっぱり、いいかもしれないわ。あの時は断っちゃったけど、なんだかんだ私もフランのことが大好きになっちゃってたみたい。だから、ね」
フランを誘うかのように、囁くような声で続きの言葉を口にする。
「フランなら、いいわ。フランが相手なら私も我慢できると思う。フランの
「……は?」
……どうやら、いつの間にかいつものこいしに戻っていたようだ。
こいしの瞳の奥に、さきほどまで見えていた負の感情はもう存在していなかった。落ち込んでいた様子などすでに欠片もなく、毎度のごとく、頭のネジが飛んだ思考回路がフル回転している。
「まだ痛みを快感として覚えるなんてできないけど、フランのためだもの。私、フランの要望に目一杯応えられるよう精一杯頑張るわ。だからね、フランも……」
いや私のためって……。
割と真剣な顔で理解不能なことをのたまいつつ、すっ、と。フランがこいしにチョーカーをプレゼントした時のように、こいしがあれをフランに手渡してくる。
「フランも、猫耳つけてくれる?」
「……なんて?」
「猫耳つけて? お願い? 今なら猫耳こいしちゃんのお持ち帰り権利つきだよ?」
「……お前はほんとに……」
本当に、まるでぶれない。うるうると瞳を潤ませているところから見るに、案外本気で言っていそうな部分がまた……。
……でも、それでこそ古明地こいしという一人の少女だとも言えるのかもしれない。
はぁ、とため息をつきつつ、しかたがない、と。そんな笑みも一緒に浮かんでしまった。
そう、しかたがない。だってフランは、そんなわけがわからないこいしのことが気に入ってしまったのだから。
だからフランはこいしと同じように、自分もまたいつも通りに振る舞うことにした。
猫耳を押しつけようとしてくるこいしの手をしっしっと払おうとする。受け取るつもりはない、つける気もない。そう言おうとして。けれどこいしが持つ猫耳に偶然目が留まってしまって、ふと、払おうとした手が止まってしまった。
……いやでも、こいしのお持ち帰り権利……猫耳のこいしかぁ。ちょっとだけ見てみたい気も……。
「って、ダメダメ! これじゃこいしと考えてることなんにも変わんないじゃない!」
「え、急にどうしたの?」
急に叫び出したせいでこいしが不思議そうにしていたが、直前の思考のせいか、そんな彼女が猫耳をつけている光景を幻視してしまい、ぶんぶんと首を横に振った。
こいしに感化されすぎたのか、それともこれまで表に出てこなかっただけで、フランには元々そういう趣向があったのか。できれば前者であってほしい。切実にそう思う。
どうにか煩悩を振り払い切ると、フランは気味に恨みがましくこいしに視線を向ける。
しかしフランが一人冷静さを取り戻そうとしている間に、こいしはどうやら行動を次に移していたらしい。いつの間にか帽子を外し、手に持っていた猫耳を自分が身につけており、フランがこいしを見た時には、すでに彼女がポーズを取った後だった。
こいしが、くいくい、と招き猫のように手首を動かす。
「にゃー。にゃんにゃんっ。どう、どう? こんな感じかな?」
「……あ、結構いいかも……」
……思わず口にしてしまった後に自分がなにを言ったのかを思い出し、頭を抱える。割と重症だったらしい。
こいしは「でしょでしょ!」とフランに褒められて非常に機嫌がよさそうだ。勢いのまま尻尾を取り出して、背中の方の服をめくって身につけようとし始める。
「ちょ、ちょっとちょっと! こんな往来でそういうことしちゃダメだってば!」
「なんで? 誰もいないよ? っていうかどうせフラン以外は誰も私なんて見えないし」
「そういう問題じゃないって! あーもうっ、とにかくつけるならこっち! 路地裏にでも行くわよ!」
「つけるのはいいんだねぇ」
こいしの手を引いていく。今日はこうしてフランが手を引くことの方が多い。やはり知らず知らずのうちに、こいしから影響を受けてしまっているのだろう。
自分が変わっていく感覚というものは恐ろしくもある。だけどそんな恐怖がどうでもよくなるくらい、こいしと過ごす日々はかけがえがなく、楽しいものだから。
どうかこの絆の証明がこの先もずっと、はるか未来まで続きますように。
少しだけ目を瞑り、心の底から。繋いだ手から伝わってくる温もりを胸に、空に浮かぶ月や星々に願い事を託した。