静かな、それは静かな怒気だった。
同じ空間にいるだけで、呼吸が止まる錯覚さえ覚える。
原因は誰かに問わずとも分かっていた。
「――――」
食堂のカウンターの隅。背筋をぴんと張ったまま、目を閉じ、時折思い出したかのように湯呑みの緑茶を啜る壮年の男。
彼の放つ、殺気にも近い刺々とした威圧感が食堂内に張り詰めている。
マスターを含む、この場にいる全員がそれに気を遣っているようで、いつもは和気藹々とした雰囲気の食堂だが、今はどこか殺伐としたものになっていた。
「ところでアンデル先生は艦これ誰が好き?」
「鹿島も捨て難いがやはり愛宕だな」
……訂正しよう、約二名を除いて、という一文を付け足すのを忘れていた。
黒髭とアンデルセンは妙なところで意気投合したのか、食堂ではよく一緒にいるところを見る。
カウンターで大男と子供が並んで座る姿は異様な光景ではあったが、いつしか見慣れてしまったのはいい事なのか悪い事なのか。
「ドレッドノート級にストレートですなぁ」
「生前でもショタになってお姉さんにエッチなイタズラをされたいと思った事は一度や二度ではない。なのにここにいる女どもはどうだ、せっかく俺のような格好の試金石がいるというのに手を出そうともせん」
「そりゃコ◯ン君ならともかくアンタ中身おっさんですもの」
「ロリババアは許されてもその逆は許されん。世知辛い世の中だ」
「拙者は、雪風ちゃん!」
「そうか、哀れだな……む、」
アンデルセンの懐からアラーム音が鳴る。慣れた手つきでスマホを取り出すと、すぐに音を消す。
「休憩もここまでか、仕方ない。ではな黒髭。その嗜好はせめて脳内で留めておけよ」
「あ、拙者もおっきーに用があるんで途中まで一緒に行きますぞ」
「全く、何故死んでまで原稿に追われねばならんのだ」
「がんばれ♡がんばれ♡」
「非力な俺でも銃を使えばお前の脳天を撃ち抜くくらいは出来るんだぞ?」
「そんな事したら拙者死んでしまいますぞ~」
「…………」
意味不明な会話と共に食堂を去って行く二人を、私を含めた何人かが見送る。場の空気を読まないスキルはEXを超えているらしい。
いや、読んだからこその振る舞いやも知れないが真実はわからない。
「失礼、但馬殿」
「……む」
「今日はスタッフが空調を間違えたのかな、やけに蒸す。冷たいものでもどうかね」
我ながらわざとらしいとは思いつつも、それとなく諭す。宗矩は私に一瞬視線を寄越すと軽く一息つき、
「……これは相済まぬ」
と、私の意図を汲み取ってくれたらしく、表情ひとつ変える事なく口にした。
「各々方、趣を乱す不心得者は去る故、どうかご容赦を」
「まあまあ、誰も怒ってないから気にしないのりゅうたん。エミヤ、私にもお茶ちょうだい」
自分が場違いだとでも思ったのだろう、席を立ち帰ろうとする宗矩を、マスターが半ば強引に押し留める。
「カルデアはみんな家族みたいなものだし、何か悩みごとがあるなら言ってよ」
「……お気遣い、痛み入る」
宗矩の隣に座るマスターと、宗矩にも新しいお茶を出す。
柳生宗矩。弱小氏族であった柳生家を幕府お抱えの、実質日本一の剣術家にまで伸し上げた柳生石舟斎を父に持つ、日本有数の剣豪の一人。
その厳つい外見に違わず質実剛健、不言実行を体現したかのような剛の者である。
「で、何があったの? 差し支えなければ相談しあてほしいな」
マスターの言葉に目を閉じ、ひとつ、深く息を吐くと宗矩は語りだした。
「先日、偶然ますたぁ殿の素肌を拝見する機会があり申した」
「あ」
マスターが気まずそうに苦笑しながら視線を逸らす。その一連の流れで、何があったのかは大体想像がついた。
マスターの身体は、そう――傷だらけだ。
肌を晒す必要のある魔術礼装を着るときは簡単な誤認の魔術で隠してはいるが、彼女の白い柔肌には無数の歴戦の傷が刻まれている。
それこそ、現代に生きる年頃の女の子とは思えない程に、だ。
無理もない。数々の特異点での激戦を、生身でくぐり抜けて来たのだ。
「我ら英霊は消耗品。壊れようが斃れようが一向に構わぬ」
消耗品、か。
魔術に疎い時代に産まれた人間だろうに、彼は英霊召喚システムの何たるかを弁えている。
宗矩の言う通り、サーヴァントは消耗品だ。マスターの代わりに戦い、時には盾となる。消滅したところで次の召喚を待てる、という意味では仮説的に不老不死に近い存在とも言えるかも知れない。
無論、そんな事をマスターに言えば烈火の如く怒り出すだろうが。
「だがますたぁ殿は現世を生きる人間。我らのような亡霊ではない」
「でもさりゅうたん、私が少しでも頑張ればその分、」
「驕るな、小娘」
「――――」
「自惚れるでない、我が主。帥としての素質があるのは認めよう。だが貴殿などかるであの加護が無ければ其処らの村娘と変わらぬ事を忘れるな」
それは、誰もが初めて触れる宗矩の激情であった。
マスターは、確かにただの女の子だ。
特別な魔術の家系に産まれた訳でもない。
隠れた魔術師としての素養があった訳でもない。
マスター候補生としてスカウトされたとはいえ、カルデアに来た時点では魔術の魔の字すら知らない普通の女の子だったのだ。
だからこそ、宗矩は許せないのだろう。
魔術師を志し、自ら望んでこうなったのならばいい。それは本懐の筈であり、自業自得と言い換える事もできる。
だがマスターはそうではないのだ。
「このような女子供が傷つかぬ為に、我々は刀を手にしたのではなかったのか」
その言葉に、若干の共感を覚える。
何の為に剣を握ったのか。
私も、何かの為に弓を手に取り、矢をつがえた。
「御徳川の治世は間違っておったのか」
それは何だったのか、今となっては良く思い出せない。
大切なものは確かにあった。
だが愚かにも全てを救おうと驕った結果、オレは英霊エミヤとなった。
宗矩の持つ湯呑みに亀裂が入る。
「この戦が間違った歴史を糾すと言うのであれば。人の平穏を奪い返す戦いであると言うのであれば――我が主の安寧はいずこにある!」
大きな音と共に湯呑みが割れ、机の上に破片と茶が撒き散らされる。
いつも雑談で溢れている食堂が、水を打ったように静かになった。
「名を馳せた武士であろうと一歩退く程の剣戟と銃声の轟く戦場の中、ますたぁ殿は何故怯えぬ。何故笑っておられる。何故立ち向かおうとする」
その宗矩の問いに答えを出せる者は、きっとここにはいない。
「年端もゆかぬ小娘の成し得る業ではなかろう……!」
ぎり、と歯を食いしばり手を握る音が痛い程静かに響く。
マスターは、こんな世界とは縁もゆかりもない。なのに、世界の為に、なんて重荷をその小さな背中に一人で背負い、笑いながら歯を食いしばって耐えている。
その事自体はカルデアに属する者ならば誰でも知っている。だから、我々もマスターに全幅の信頼を寄せているのだ。
「――確かに、」
マスターは静かに語り出す。
「こんな身体じゃ、もうお嫁には行けないかもね」
「…………」
「でもいいんだ。私じゃなくたって、ちょっと頑張るだけで元の世界に戻るって言うなら、誰だってそうするよ」
それは少し違う。
普通の人間ならば、とっくに再起不能な怪我を負うか精神を病むかしているだろう。
それ程に人理修復の任務は困難だ。その点、マスターは魔術師として大成はしなくとも、英雄に値する人物なのだろう。
宗矩もそれは承知の上なのか、黙ってマスターの口上を聞いている。
「どっちみち誰かがやらなきゃいけない事だもん。それがたまたま私だったってだけ」
「その為に貴女ひとりを犠牲にせよ、と?」
「犠牲だなんて、そんな事思ってないよ」
「では我が主人よ。貴女の幸福はいかに?」
「みんな笑って過ごせる方が絶対いいじゃない」
「――――」
歯を見せてにっこりと笑うマスターを見て、宗矩が目を見開いて絶句していた。
「――貴女は、私が思っていた以上の傑物なのやも知れぬ」
目を閉じ、何か得心がいったのか口元を緩ませる宗矩だった。
マスターの強さは、その何があろうと矛先を歪めない鉄の心だ。
他人の為にどんな困難も厭わない。それこそが英雄たる証なのだろう。
「失礼した。主人に対するとは思えぬ暴言の数々……腹を切る覚悟は出来ております故、どなたか介錯をお願いしたい」
「だめ」
「しかし」
「私の為を思って言ってくれたんでしょ。むしろりゅうたんの本音が聞けて嬉しいよ」
「……では、改めて忠義を尽くします故。この身、如何様にも役立てて下され」
マスターの正面に立ち頭を下げる宗矩。
どうやら丸く収まってくれたらしい。思わず安堵の息が漏れる。
さて、誰かが怪我をしない内に机の上を片付けてしまおう。
「すまぬ、えみや殿」
「気にするな」
「この借りは何かしらの形でお返しいたす」
「相変わらずお固いなぁりゅうたん。いいんだよ、さっきみたいに言いたいことややりたいこと、いくらでも言ってくれて」
「やりたい事、ですか」
「りゅうたん、いっつも張り詰めてるイメージだからさ。たまには息抜きも必要だよ?」
「では……ひとつ、不肖の身ながら、願いが」
「おっ、なになに?」
「かの第六天魔王、織田前右府信長公にお会いしたい。かるであに召喚されていると風の噂に聞いております」
一瞬、机を拭く手が止まってしまった。
マスターも同じ気持ちなのだろう、一瞬、その無垢な笑顔が凍りついていた。
「……理由を聞いてもいい?」
「信長公と言えばその器量にて多くの将軍を差配するまでに身を立てた、将としても帥としても優れた兵法家。この歳になれど、男子として憧れずには居られませぬ。以後英霊として召喚されたとしても、同じ場に呼ばれる事はまずありますまい。この機会を逃しては二度と相対することは叶いませぬ」
「あー……うん、そうだね……うん、わかるー……」
マスターと私が同じことを考えているであろう事が手に取るようにわかった。
宗矩と信長を会わせてはならない。
宗矩の言うことも十分にわかるが、実際の織田信長は――、
「おうエミヤ! 頼んでおったものは出来たかの?」
「茶々もう待ちくたびれたんですけど! けど!」
「 」
と、凄まじいタイミングで食堂にやって来る信長(と茶々)だった。
宗矩が彼女こそかの信長公だと知ればどんな反応を示すのか。興味はあるがあまりにも哀れだ。
しかし絶妙な間の悪さはさすがと言うべきか、炎上芸にも程がある。
「わしらを待たせるとはいい度胸じゃのう、エミヤ?」
「あ、あぁ……悪い。出来ている。連絡するのを忘れていた」
「イケメンじゃなかったら許されないんだから! 茶々は殿下一筋だけどね!」
「惚気るのう茶々、サルは幸せ者よな。はー、あっついあっつい。あてられて燃えそうじゃのー」
「叔母上、炎上しただけに?」
「あっはっはっはっは! それはお前もじゃろ!」
信長と茶々と沖田にアイス食べたいから作れと言われ作ったのだが、宗矩との一件もあってすっかり忘れていた。
もう既に完成品が冷凍庫に入っている。
アイスクリームの作り方はそんなに難しくはない。
卵白を泡立てメレンゲにしたものに卵黄とバニラエッセンス、砂糖、好きなフレーバーを加えて冷凍庫に入れるだけだ。
さすがに店売りの高級アイスクリームには作り方が異なるのか味は劣るが、ハンドミキサーさえあればすぐに出来る上に原料は卵だけで作れる。
「まあよい、とっととよこすがよい」
「可憐な童だ。飴は如何かな」
と、気付くと宗矩が屈んで目線を合わせ、どこからか取り出した黒飴を信長と茶々に渡していた。
「じい様よ、こやつはともかくわしを子供扱いするでないぞ」
「はは、これはすまぬ。お主を見たら孫のことを思い出してしまい、ついな」
いつものいかつい表情を僅かにではあるが綻ばせ、二人の相手をしていた。あの様子を見ると、どうやら宗矩は見かけによらず子供好きらしい。
そこに、お盆に自家製アイスクリームを乗せて持って行ってやる。
「ほら、待たせた詫びに三段にしてやったぞ」
「わーい!」
「マスターも食べるだろう?」
「もっちろん!」
「やっぱり暑い日はアイスクリームだよネ!」
「あいすくりいむ?」
紫色の球状の塊を見て、宗矩が興味深そうに眉根を寄せる。
「ああ、乳糖と卵液を甘く味付けして冷やした氷菓子だ。今回は風味付けに甘藷を使っている。貴方もいかがかね」
「氷菓子か。成る程面白い」
「じい様、見たところ日ノ本の侍じゃな。食べてみい、びっくりするぞ。この匙で掬って食うのもよいが、やはり通は直接かじったりなめたりするのがオススメじゃ」
「おい、余所見をしていると、」
言うが遅いか、
「あっ」
宗矩に構っていたせいで気が疎かになっていた結果だ。信長の持つコーンの先端に盛ってあった三連アイスが、ぽて、と小さな音を立てて地面へと吸い込まれていった。
「わしの! わしのアイスがぁぁぁぁぁぁぁぁ! あーあああーあああぁぁぁぁぁ!」
「叔母上ったらおっちょこちょいー」
「泣くでない、童よ」
「泣いてないモン!」
言いながら目の端に涙を浮かべ、憤る信長だった。
恐怖の為政者として語られる第六天魔王も、実際はこんなものである。余計に宗矩に真実を伝える訳には行かなくなった。
さて、どうしたものか。
「私のを食べるがよい」
「うむ……ありがとうよじい様。ところでお主、誰じゃ?」
「柳生宗矩と申す」
「やぎう……柳生……おお、思い出した! いつもマッチーの尻にくっついておったやつじゃな!」
「まっち……?」
「松永じゃ松永」
「松永久秀公の事か。それは生憎私ではなく、父上だな」
「あやつは出来るやつだったんじゃがのう、取り扱いを間違えてしもうた。是非もなかったとはいえ、苦労したじゃろ。すまんの」
「久秀公の事を知っているとは、その時代の産まれかな」
「うむ! 生まれも何もわしは、」
「但馬殿! 貴方も是非ひと口食べてみてくれ!」
「む」
「紅芋味だからきっと緑茶が合うよね! 私とっておきの玉露淹れてくる!」
「あー! ノッブずるい! なに私を差し置いて先にアイス食べてるんですか!」
「なんじゃ沖田、生きとったんかお前」
私とマスターの妨害、そして沖田の乱入によりなんとか事なきを得ることができたようだ。
「あ、柳生のおじい様。はじめましてー、幕末の超新星、沖田さんです!」
「なにが超新星じゃうつけ」
「うむ、冷えておる上に甘い……この老体には勿体無い程の代物」
いずれはばれる事かも知れないが、宗矩の純な憧れを無碍にする事もあるまい。
それに信長も普段はこうだが、いざとなればその名に相応しい働きもする。
人は見かけには拠らない。信長や沖田がそうであるし、マスターだってそうだ。
「但馬殿。先ほどのマスターの話だが」
「…………」
「彼女は他人の為ならば何があろうと足を止めない類の英傑だ。だが彼女は一人では何も出来ないに等しい。それを我々が水も漏らさぬよう守り、時には一振りの刀として役に立てばいい」
「……そうですな」
マスターがサーヴァントを従える魔術師として相応しくないのは本人も百も承知だ。
だから彼女は、サーヴァント達を一人の人間として接する。
一人では力が足りない為、助力を必要とする。
そんなただの人間が、愚鈍にもひたむきに前を向く姿に、我々も惹かれるのだ。
「お茶お待たせ、エミヤも飲むよね?」
「ああ、いただこう」
「口の中がかつてない程に甘い……かたじけない、ますたぁ殿」
英雄が皆、個体として強い訳ではない。
どんな過去の英雄よりも弱く、その弱さを誰よりも自認するが故に強い。
それが、藤丸立香というひとりの人間を、カルデアのマスターたらしめているものなのだろう。