扉を開けた瞬間、別世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
身を晒した瞬間に全身を痛い程の冷気と、ちらつく雪が満遍なく包む。自分の吐く息の水分で顔が凍り付く気さえした。
冷凍庫、などという形容すら生易しい。ここはもはや異世界だ。運良く吹雪いてこそいなかったが、その寒さは日本に住んでいた私には未知の領域に他ならない。
眼前に広がるのは闇に覆われた、無限の白銀世界。例外なくその場の色を支配する大量の積雪。
そして、その幻想的とも言える景色に君臨するかのように宙空に鎮座する、巨大な月。
「おう、ここだエミヤ殿」
と、横からの声に視線を遣ると、そこには胡座をかき日本酒の入ったお猪口を傾け、建物に背を預ける侍――佐々木小次郎がいた。
――数時間前。
「失礼、
夕食のラッシュが終わり、酒を求める者がちらほらと現れる時間帯。厨房で食器乾燥機に入った皿を磨いていた私の下にやって来たのは、佐々木小次郎だった。
佐々木小次郎。アサシンのサーヴァント。
かの有名な剣豪、宮本武蔵の終生の好敵手として名を馳せる剣士だが、実のところ彼は佐々木小次郎に似た誰かとして召喚された全くの別人である。
彼とは第五次聖杯戦争においてアサシンのクラスで召喚された、かつての敵でもある――が、私は不思議と彼を憎めなかった。それは風のように飄々とした彼の人柄ゆえだろうか。
何事にも執着せず、その日その日をあるがままに受け入れ過ごす。傍から見たら世捨て人か何かに見えるだろうが、何物にも心を囚われないその生き方は、ある意味羨ましい。元々そういう性格なのか、剣の道をひた進んだ結果の賜物か。
ちなみに小次郎の言う
「その呼び方はやめろ……日本酒かね」
「ああ、手間だが熱めの燗をしてもらえるか?」
「なに、構わんさ。少し待ってろ」
徳利に日本酒を注ぎ、水を張った鍋を火にかける。
小次郎はこうして時々来ては日本酒を頼み、ここで飲まずに持って帰って行く。恐らくは別の場所で一人で飲んでいるのだろう。確かに小次郎がカウンターに座って酒を飲む様はあまり似合わない気もする。
それにひとり酒が絵になる男だ。部屋で一人、お猪口を傾ける様は容易に想像できる。
「何か肴でも作ってやろうか?」
いくら粗食に生きる時代の侍とは言え、つまみも無しに酒だけでは寂しかろう、との気遣いだったが、
「確かにお主の料理はとても旨い、魅力的な提案だ。が……生憎今日は先約があるのでな」
「先約?」
「ああ、今宵は至上の肴の用意がある」
と、ことも無げに返される。
確か小次郎は剣一本に生きていた人物。自ら料理などしなかった筈だ。以前、酒を飲むよりも女を抱くよりも刀を振っている方が楽しいと聞いた事もある。いい意味で生粋の刀馬鹿だ。
ならば肴を何処かで手に入れたか?
剣以外の事に関しては何事も涼やかに受け流す小次郎に、至上とまで言わせる酒の肴。
それはそれで、個人的にも料理人としても興味がある。食うとまでは言わずとも、見てはみたい。
少々熱めにした熱燗を布巾で拭い、お猪口と一緒に盆に乗せて小次郎へと渡す。
と、
「……ふむ。お主も一緒にどうか?」
こちらの考えを見透かされたか、目を細めて薄く笑う小次郎がそんな事を口走った。
「いいのか?」
「無論――だが大の男二人で酒一本、というのもちと寂しいな。追加の酒と、何か身体の温まる肴を用意してもらえるか」
「身体の温まる肴、ね。了解した」
「ああ、場所は建物の外ゆえにな」
「……外だと?」
「拙者は先に行き場所を作っておく。準備が出来次第、参られよ」
という経緯により現在に至る。
「どうだ、エミヤ殿。今宵は満月、しかも此処は低温と山頂の恩恵で月の模様までもが実に、実に良く見える」
「――――」
身を寒さに震わせながら、思わずその光景に見惚れる。
カルデアは超高層地域に建てられた建造物だ。その標高、実に6000メートル。気温は氷点下を遥かに下回り、気圧も低い。だがその代わりに、小次郎の言う通り、ここから見える月は生前いつも見ていた月とは段違いに大きく、きめ細やかな様相で浮いていた。月の模様をここまでくっきりと見るのは、これが初めてかも知れない。
風流だとか粋、などという言葉ですら安っぽく感じる。純粋に自然の神秘に魅入っていた。
ああ。確かに、これ以上の酒の肴はあるまい。非常に寒いのを除けば、極上の月見だ。
「出来ればマスターも呼びたかったのだがな、未成年ゆえ酒が飲めん上にこの環境は少々厳しかろうな」
「ふっ、あのマスターがこんな寒い所に自ら来る訳がなかろう」
「はは、違いあるまいよ……む、それがお主の拵えた肴か」
「ああ」
小次郎の横に腰を下ろし、追加の熱燗二本と、持って来た土鍋を置く。
「鍋か。この極寒の中うってつけではあるが、凍る前に食いきれるか……」
「いや、残念ながら鍋料理じゃない。土鍋が一番冷めにくいのでね」
小次郎に箸を渡し、土鍋の蓋を開ける。
凄まじい冷気の中、香りと共に湯気が立ち込める。土鍋の保温能力と来る直前まで温めていた料理は、確かに温かさを感じさせてくれた。
「む、これは……豆腐か?」
「ああ。揚げ豆腐に生姜と醤油をベースにしたあんかけを掛けたものだ。豆腐は嫌いかね?」
「真逆、大好物だ。入手のし易さ、老若男女問わぬ味、滋養面、飯はおろか酒にも合う柔軟さ、豆腐こそ庶民のご馳走よ」
「それは重畳だ。味付けも日本酒に合うよう辛めにしてある」
「何から何まで有難い。ではいただこうか」
箸ですっと豆腐を切り分け、口に運ぶ。
「むっ、あふ、はは、熱くて美味いな……んっ」
熱々の豆腐を咀嚼し、きゅっと熱燗を煽るその所作は、日本の侍、ということもあってか非常に様になっていた。さて、流石に身体も冷えて来たことだし、私も冷める前にいただこうか。
「熱っ……んっ……ふう」
豆腐は冷奴にしても勿論美味いが、真髄は身体を温めるところにある、と私は思っている。鍋に付き物の食材である豆腐は、ろくに噛まずとも飲み込むことが出来るため、熱々の温度をそのままに食道を通り胃に降りることで身体を芯から温めるのだ。
加えて生姜を多めに使用することにより血行を良くした上で、辛味も補える。我ながら寒い中で食う酒のつまみとしては最適解と言えるのではないだろうか。
「身が凍る程の寒さの中、この世のものとは思えん程に見事な満月を観ながら、美味い酒と肴で身体の裡より温める」
お猪口を持ち月を見上げる小次郎の横顔は、今まで見た事がない程に満ち足りて見えた。
「――たまらんなぁ。これ以上のものなど、例え聖杯であろうともおいそれとは出せまいよ」
小次郎は聖杯に願う望みがない、といつかマスターに言ったそうだ。
彼にとってはこの月のように、当たり前にそこにあるものこそ真に得難く美しく。
「礼を言うよ。カルデアで観る月がこれ程美しいとは知らなかった」
「なに、礼を言うのは美味い料理を馳走になった拙者の方よ。どうしてもと言うのならば拙者ではなくあの月に言え」
それゆえに、人理修復に応じた理由も単純明快。
誰かに言われた訳でもない。ただそうしたいだけ。かつて自分が生きていたこの美しい世界を護りたい、と。
強さとは、極論を言ってしまえば命を賭けられるかどうかの覚悟の量。死ぬ覚悟のない者は、誰も殺せない。
自ら好んで死地へと赴き、他人には嘲笑と共に皮肉を飛ばし、酒を飲んではまた刀を振るう。その厭世とも取れる小次郎の雲のごとき飄々とした態度は、何も最初から全てを諦めている訳ではない。
きっと自らの命を、他のものの為に常に張っている証拠だ。
「人も景色も時代と共に移ろい行くが――
名もなき極東の剣士は、今日もこの美しい世界を眺めながら、世界を護れるだけの肚を決めるのだ。
「……おっと、拙者とした事が」
「?」
「どうだ、お主も一献」
と、楽しそうに徳利の口をこちらに向ける小次郎。
「……ふっ、貰おうか」
普段は酒は飲まないが、こんな状況で断るのはあまりにも興が削がれる。そうだろう?
小次郎の酌を受け、酒を飲み干す。
「御見事」
「では返杯だ」
「戴こう」
真冬に口数も少ない者同士、極上の月見酒。たまには悪くない。
久し振りに飲んだ酒が身体中を巡り、酩酊とはまた違う心地良い高揚感が包む。
今日だけは不思議と酔う気がしない。
酒が尽きるまで、束の間の風情を楽しむとしよう。