自己解釈や独自設定が含まれていますのでご注意を。
それは、未だかつて体験した事のない感覚だった。
五体の所在は不確かで、意識だけが水面に揺れるように覚醒と消失をゆらゆらと繰り返し、辛うじて態勢を保っている。
記憶にある筈もないので確固とした事は言えないが、母親の胎内にいた時はこのような状況だったのではないだろうか、と想像する。
その虚ろな意識の中で何かに問われる。
誰か、ではない。
耳もないので声が聞こえる筈もない。意識の内に直接語りかけられているのだ。
「――――」
そうか。
もしかしたらとは心の隅で思っていたが私も皆と同じ道を辿るのか。
ならば迷う事はない。
人生は後悔の連続だ。あの時こうしておけば良かった、なぜあんな事をしたのか、と悔悟の念に駆られた事は片手どころかこの義手を使っても足りない。
あの王でさえそうだったのだ。彼よりも遥かに矮小な私が順風満帆な生を謳歌出来る筈がない。
では、今しばしの夢を。
そんな言葉が脳裏に刻まれる。
五感が戻る感覚を得るのと同時に、私は目を開く。生成されたばかりの眼球に映るのは、靄の掛かった景色。次第に明瞭になっていく視界に現れたのは、
「久し振り。カルデアにようこそ、ベディヴィエール」
いつかの、人の身で円卓と闘い勝利を収めた勇敢な少女だった。
時間経過と共に判然としていく意識と何処か懐かしい五体の感覚が、先程の不思議な体験が夢でないことを語っていた。
どうやら私は英霊の座に着いたらしい。神はまだ、私が我が王の力になれると仰るか。
「――ええ、お久し振りです。どうぞよろしくお願い申し上げます、マスター」
「うん。キャメロットではお疲れ様。ベディヴィエールが最後だよ」
「最後とは?」
「ランスロットにガウェインにトリスタン。獅子王も先に来てるから、良かったら後で会って来たら?」
また円卓の面々と共に戦える――それは何処か面映かった。
好色ながら何処か憎めないランスロット卿、自己の世界に没頭しながらも忠誠に厚く心優しいトリスタン卿、まさに非の打ち所がない騎士の模範たるガウェイン卿に――。
……?
「……モードレッド卿はいないのですか?」
「ああ、モードレッドは前からいるよ。キャメロットではちょっとはしゃぎすぎだったけど、本来はもっといい子だよ……って知ってるよね」
「そうですね」
確かに、彼の地でのモードレッド卿は何処か壊れていた。(とは言え、それはモードレッド卿に限った話ではないが)
我が王を滅ぼした憎むべき騎士ではあるが、若くして円卓に参加したこともありその実力は疑いようがない。その上、元々気性が烈しいとは言え決して自棄に溺れるような人物ではなかった。
……と、そうだ。
「マスター、ひとつだけお願いがあるのですが」
「ものによるけど、なに?」
「私がずっと人の身で旅を続けていた事は、皆には黙っておいていただけますか」
円卓の面々がいる、ということは獅子王でない本来の我が王もいることだろう。不要な気遣いやも知れないが、余計な気負いは少しでも少ない方がいい。
「うん、わかった。じゃあついてきて、カルデアの中を案内するね!」
「――――」
そのあっさりとした対応に、思わず目を見開き、口元が緩む。
何故、と問われるつもりだった。その為の答えも用意していた。
「ここがサーヴァントたちの居住区。ベディヴィエールの部屋は後でドクターが用意してくれるよ」
私個人の偏見だが、我らに足りなかったのは、きっと彼女のような柔軟さ。
王を筆頭とした一枚岩もかつてそうであったように、王という支柱が折れればいとも容易に砕ける。
「ここが私の部屋。男が勝手に入ったら令呪で自害させるから。昨日も黒髭が死んだから気を付けてね」
それが例えどんなに優れた王であれ、だ。
私たちはきっと、完全無欠の王を信頼するがあまり、結束することを疎かにしてしまったのだ。今も、昔も。
「ここが購買。ダヴィンチちゃん、初見の客には吹っかけて来るから騙されないようにね」
その点、彼女は我々サーヴァントと使い魔としてではなく、同じ人間としての目線で戦っている。魔術師として命ずるのではなく、一緒に戦おうと
円卓とカルデアに差があったとするのならば、そこだろう。
私もその中の一人に、なり得るのだろうか。
「ここが食堂。お腹が減ったらここに来れば大抵は……おーい、エミヤーん」
「……変な呼び方をするな、マスター」
と、マスターに呼ばれて厨房から現れたのは、エプロンを着けた体格のいい男性だった。
話の流れと格好からするとここの厨房を任されているようだが……マスターの代わりに戦う為のサーヴァントが、コックを?
「今日から仲間になるベディヴィエールだよ。こっちはサーヴァント兼みんなのお母さん、エミヤ」
「誰がお母さんだ、誰が」
「だってそうじゃん」
「エミヤ……?」
その名前を聞くなり、既視感が襲う。
あちらは私を歴史上の人物として知っているようだが、私は彼を前から知っている?
「っと、すまない……弓兵のサーヴァント、エミヤだ。貴殿のキャメロットでの活躍と、サー・ベディヴィエールの英雄譚は聞き及んでいる。是非マスターの力になってやってくれ」
その厳つい体格とは相反した、目尻を柔らかくしてどこか幼さを残し笑う仕草に、確信した。
「……む?」
彼も何か思うところがあるのか、私の顔を覗き込み、首を傾げる。
私は覚えている。
私は彼に、生前会ったことがあるのだ。
あれは聖杯戦争が行われる、という噂を聞きつけ日本に向かった時のことだ。
時節は西暦二千年初頭。何としてでも聖剣を王に返還せねば、と妄執に近い執念に駆られていた私は、冬木という日本の都市に辿り着いた。
聖杯戦争とは魔術の粋を集めた大戦だ。その際にはサーヴァントという形で、人の手には余る破格の英霊が召喚されると聞く。
我が主である騎士王は私の愚行により天に召されることが出来なかった。今もこの世界の何処かで形なき概念として彷徨い続けている。そんな王が英霊として召喚されるかどうかは、魔術に疎い私では推し量れない領域ではあるが、それでも――一縷の望みに縋りつくくらいしか、私には手が無かったのだ。
「…………」
千五百年という月日をかけてもあの瞬間から得たものは無きに等しい。自分の足で探すしかない中、円卓に居た頃、手慰み程度にマーリン殿に教えて貰った魔力探知を働かせて街中を探索していると、やがて何の変哲もない一般家庭へと辿り着いた。
日本という国は前提として、狭い。だがその凝縮された量より質、一点をただ愚直なまでに貫き続ける、という国民性を礎とした鉄の精神で、小国でありながら露西亜、中国といった大国に勝利したのは記憶に新しい。その後大敗を喫したものの、ここ五十年での復興と進歩は目を見張るものがある。
サムライ・スピリチュアル、というやつだったか、我々の騎士道と通ずるものがある気がする。
それに、日本は東方神秘の国だ。中でもニンジャという暗殺者集団は、空を飛び口から火を吹き分身までこなすと聞く。日本独自の神秘を頼れば、騎士王を探すことも可能やも知れない――そんなか細い希望を持ちながら門の前で佇んでいると、
「あれ、お客さんか?」
買い物袋を提げた少年に声を掛けられた。
男性としては小柄だが、その衣服の下に隠れた筋肉は、かの時代とは比べ物にならない程に平和になった近代においては珍しく、そこそこに鍛え込んである。
白兵戦において体格は大きい方が有利ではあるが、円卓でも一番体格が小さかったのは誰でもない我が王だ。腕に覚えのある騎士が何人も束になってかかろうが翻弄されていたところを鑑みるに、体格差など勝敗の決定打になるものではない。
「あー、えっと、セイバー……は散歩だし……英語話せそうな遠坂もいないし……」
私のなりを見て、あれこれと模索する少年だった。どうやら外国人である私と意思疎通を図ろうとしているらしい。
日本人はほぼ全員が黒髪黒目だ。そのせいか他の国よりも異国人に対しての反応は顕著と言えよう。
「……あの」
「あ、ああ、すいません。いやソーリー。ええと、アイキャントスピークイングリッシュ……」
「ふふっ」
その滑舌の悪い英語に、思わず頬が緩む。
「すみません。日本語は話せますよ。上手くはないので聞き苦しいやも知れませんが」
「そ、そうですか……いや、上手ですね」
それよりも今、セイバーと言ったか。
聖杯戦争で召喚されるクラスのひとつだ。ならば彼が魔術師で、サーヴァントのマスターである可能性は高い。
まだ確定ではないが、前進したと考えてもいいだろう。
「うちに何か御用ですか?」
「ええ、実は――」
ここは彼の家、か。少し探りを入れてみるか、それとも強引に――。
その瞬間、
「…………!」
ぐう、と。
空気を読まずに周囲に聞こえるほど大きく腹が鳴る。
そう言えば日本に着いてから何も口にしていなかった。恥ずかしくて顔から火を吹きそうな思いだ。
「ははは、腹が減ってるみたいですね」
「か、汗顔の至りです……お恥ずかしいところを……!」
「何の用か知らないけど、立ち話もなんだしとりあえず上がってください。俺は衛宮士郎です」
「シロウ、ですか。素敵な名前だ。私はベディ――ああいえ、ルキウスと申します」
「ルキウスさんね、今から昼飯にしようと思ってたんで、ついでに食べて行ってくださいよ」
「え?」
魔術師の家となれば、それは城と大差ない。ましてや聖杯戦争のさ中だ、素性も確かでない私を家に上げるだけでも到底魔術師とは思えなかった。
魔力探知は誤作動か何かで、彼はただの一般人だったか?
「いえ……そこまでしていただく訳には。ただでさえ初対面でしょうに」
「構わないですよ。一人で食うのも味気ないし、それに」
「?」
「ルキウスさんは悪人には見えない。不逞の輩が家の前で腹鳴らしてるとは思えないですしね」
「は、はは…………そう、ですね」
もはや私に反論の余地も気力も残されてはいなかった。あれよあれよと言われるがままに家の中へと通され、日本独特の文化が反映されている和室へと案内される。
紅茶と茶菓子を出されて待つ中、考える。
魔力の反応は微弱ではあるが確かに今もある。だが見る限りは何ら変哲もない一般家庭だ。小さな家が多い日本においては立派な一軒家、と言っても差し支えない。魔術師の工房は秘匿すべきものだ、とマーリン殿に聞いたことがある。その為、魔術師ではない私が見分けられるようなものではないのだが……。
と、シロウが二人分の膳を抱え、立ち込める芳しい香りと共に襖を開けて入ってくる。
「お待たせ、チョップスティック使えます?」
「はい、大丈夫です」
私の前に並べられたのは、厚切りの肉を焼いたものと、ライスにミソスープだった。本音を言えば先程の痴態を見せた時点で逃げ出したいくらいだったが、三大欲求のひとつである空腹に対し、人間の身体が抗うことを許さなかった。
それに何より、ジューシーに焼けた肉と炭水化物の組み合わせは犯罪的だ。
食という点において豊かではなかった時代に生きていた私は、基本的に食に関しては卑しい。その上旅の過程においても何度も餓死の危機を経験している。食べられる時に食べておくのは旅においては必須とも言える。
その私が、このような魅力的な食事を眼前に並べられて抗うことなど出来る筈もなかった。
「感謝します、シロウ。見ず知らずの私にここまでの施しをしていただけるとは」
「いいんですよ、うちには腹ペコが多いから慣れてますので」
「いただきます」
「いただきます」
日本の作法に倣い、両の掌を合わせる。
肉はいい。野菜も好きだが、肉は力の源となる。円卓に居た頃の肉と言えば保存の為に塩漬けにし、焦げるまで焼いたものばかりだったが、それでも肉はご馳走だった。
シロウの好意によるその肉を咀嚼する、と。
「これは……!」
「どうだいルキウスさん。昨日の残り物で悪いけれど、うちの食いしん坊たちにも好評だったんだ」
「……っ」
そっと箸を置く。きっと今の私は、苦虫を噛み潰したような表情をしているのだろう。
「? 口に合わなかったですか?」
歯嚙みをする私を見て、心配そうに眉をひそめるシロウだった。
違うんです、シロウ。
「こ……このような高価なお肉はいただけません!」
「へっ?」
「この蕩けるような舌触り、嚙み切る感触さえ不確かな柔らかさ、芳醇な肉の旨味……どこを取っても一級品の高級肉……! そんなものを通り掛かりの私が口にするなんて恐れ多く――」
「ふっ……あっはっはっはっは!」
「し、シロウ?」
目を見開いた表情から一転、箸を転がさんばかりの勢いで笑うシロウだった。
「いやすいません、変な事に気を遣う人だなぁと思いまして」
「い、いやしかし」
「残念ながらそんな高い肉買う余裕はウチにはありませんよ。それはただのグレインフェッドのオージービーフです」
オージービーフとはオーストラリア産の牛肉の総称だ。その生産量による誰でも購入が容易な値段と、厳格な検疫による安全性から世界で最も多くの量を食されている牛肉である。大まかにグレインフェッドとグラスフェッドの二種類あり、簡略すると前者が脂肪分が多くステーキなどに向き、後者が赤身が多くシチューやカレーといった煮物に向く。
だが、しかし、だ。
「馬鹿な……私もオージービーフは口にした事がありますが、これ程の旨味は……」
オージービーフはその大量生産ゆえに高級肉ではない。大量生産にはコストの削減が必ずついて回るため、上級の肉に比べると質が下がるのは避けられない事態だ。それでも私が王と共に戦っていた頃に比べれば雲泥の差だ。それゆえ私も近代に入ってからの旅の過程で多く口にして来た肉なのだが、これ程に美味であるオージービーフなど出会った事がない。
「ああ、それはナンプラーに三日くらい漬け込んだ後ヨーグルトを擦り込んで更に冷蔵庫で一週間。食べる時にタマネギと一緒に炒めると驚くほど柔らかく熟成するんですよ」
「そんな技法があるのですか……」
「だから遠慮せずに食べて下さい。高級な食材もいいけど、工夫して美味いものを作った方が達成感もありますし――それに」
シロウはそのまだ幼さの残る顔で、目尻を柔らかくして微笑む。
「作った料理をおいしいって言われるのは、料理人にとって一番の誉れですから」
その表情は、果てのない長い旅で凍てついた私の心を絆すには充分な温かさだった。
そこまで言われてしまっては、もはや私のチョップスティックを止めるものはない。
「美味しい! とても美味ですシロウ!」
「それは良かった。それでルキウスさん、何か用って――」
と、
「シロウ、お客様ですか?」
「セイバー?」
「っ……」
聞き覚えのある声と共に襖が開き、反射で咄嗟に身を隠す。
「何やらいい匂いがするのですが、まさか私に隠れてご馳走を食べていたりしていませんか?」
「昼ご飯だよ……昨日の残り物だけどセイバーも食べるか?」
入って来たのは、紛うことなき我が王。
アーサー王、なの、だが、
「昨日のお肉ですか! あれは素晴らしいご馳走でした……余っていると言うのならば是非とも今度こそ、余すことなくいただきましょう!」
「全部はダメだぞ。遠坂や桜も食べるんだから」
「むう……致し方ありませんね。ではご飯を大盛りでお願いします」
「はいはい」
「ふふ、楽しみです」
気配を消し、物陰から一連の流れを見て、驚愕の念を隠せなかった。
あのような無垢な表情で笑う王は、初めて見る。
いつ如何なる時でも完璧な王であろうとしていた王は、例え独りであってもその姿勢を崩そうとはしなかった。
「……あ、そうだ、ルキウスさ――あれ?」
「どうかしましたか、シロウ?」
「いや、さっきまで……」
王に見つかる前に、シロウの家を後にする。
彼は、私が仕えた我が王であることに違いはないが、私の知る王ではない。
きっと、私の知る結末とは別の道を歩んだ王――私が聖剣を返すべき王では、ない。
それに、だ。
「御健勝を、我が王」
聖杯戦争は七騎のサーヴァントを最後の一人まで争わせるバトルロイヤルだ。サーヴァントの現界、その期間は大して長くはない。
王の貴重な康寧の時を、私などの出現で邪魔をするなど許される筈もない。
短くはあっても、どうか、良き夢を。
「サー、何処かで会った事があるか?」
と、目を閉じて束の間の記憶に揺れていると、彼の言葉で意識は現世へと引き戻される。
そうか。目の前の立派な佇まいをした英霊は、あの時の彼か。
あの当時は何処にでもいそうな少年だったが、恐らくは王と共に聖杯戦争を闘ったことで、魔術師として大成したのだろう。
「いえ、ないと思いますよ?」
とは言え、カルデアによる
騎士王が英霊として喚び出される歴史もあれば。
獅子王として歪んだ正道を歩む歴史もある。
唯一変わらないのは、騎士王もエミヤシロウも、『確かに在った』という一点。
「そう……だよな。円卓の騎士と出会う機会など聖杯戦争くらいしか考えられん……気のせいか。すまない」
未来の展開は無限で、結末も同様だ。
だがどんな道程を辿り、どんな結末へと至ったとしても、人の本質は余程のことがない限り変わりはしない。
「そうだ、せっかく食堂に来たんだし、何か食べて行く?」
「ここのサーヴァント達も日常的に利用している。遠慮はいらんぞ」
「ではお言葉に甘えましょうか」
「何がいいかね? 材料さえあれば何でも作ろう」
「そうですね……では、焼肉定食を」
「あ、じゃあ私もついでにもらおうかな」
「焼肉定食か。いいタイミングだ。今ちょうど肉を漬け込んでいたところでな……ナンプラーやパイナップルと一緒に漬け込んで冷蔵庫で放置しておくと、安い肉でも熟成して驚くほど旨くなるんだ」
「へー、さすがだね」
思わず口元が緩む。
ああ、そうだ。
「食事の前にひとつ、貴方に言いたいことが」
「? なんだ?」
あの時言い忘れていた事があった。
銀色の左手のひらと、生身である右手のひらを合わせる。
美味しい食事と、我が王へ安寧の一時を与えてくれたことに感謝の意を込めて。
「――ご馳走様でした」